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2020年7月

2020年7月23日 (木)

「豊橋空襲」⑤ 豊橋空襲の犠牲者の数は1031人。

  

今日は令和2年7月23日。

  

前記事に引き続き、

「令和に語り継ぐ豊橋空襲」(岩瀬彰利著/人間社)より。

  

豊橋空襲で亡くなった人の数について、

岩瀬さんは次のように書いています。

   

 さて、6月19日から20日にかけてあった豊橋空襲では、人的

被害は死者624人、重傷者229人、軽傷者117人にもなりま

した。罹災者は6万8502人で、罹災世帯は1万6009世帯に

もおよびました。昭和15(1940)年の国勢調査における豊橋

市の人口は14万2716人、世帯数は2万8024世帯だったの

で、市民の約48%、世帯でみると約57%が空襲の被害にあった

のです。建物被害は、全焼全壊が109棟もあり、市街地の約70

%が消失したといわれています。

 また、空襲後の6月29日には、劣悪な環境によって赤痢が発生

し、またたく間に広がっていきました。赤痢患者数は1459人に

のぼり、そのうち367人もの人が亡くなったのでした。これらは、

空襲関連死と位置づけられます。

 昭和20(1945)年にあった小規模空襲で亡くなった人は

40人、豊橋空襲の直接被害で亡くなった人は624人、関連死と

して367人、あわせて1031人が犠牲になりました。

(123p)

  

6月19日・20日の豊橋空襲のの直接被害で

亡くなった人だけでない1031人という数こそ、

豊橋空襲の被害者の数であると、この本を読んで思いました。

そうでなければ、忘れられてしまう歴史が出てきてしまいます。

 

  

以上で、「令和に語り継ぐ豊橋空襲」からの引用を終えます。

「豊橋空襲」④ 龍拈寺の山門のみが残った

   

今日は令和2年7月23日。

  

前記事に引き続き、

「令和に語り継ぐ豊橋空襲」(岩瀬彰利著/人間社)より。

  

この本では、昭和20年6月19日~20日の豊橋空襲の、

各地の被害状況が詳細に書いてあります。

  

龍拈寺(りゅうねんじ)は、本堂などが焼けましたが、山門のみ残

りました。

(103p)

  

この一文は、以前の記事を思い出させてくれました。

出張のついでに、少し豊橋の街を散歩していて、

偶然、龍拈寺に行きつきました。☟  

ここでも道草 次はしっかり見たい龍拈寺の歴史(2018年8月16日投稿)

山門には再び訪問して、じっくり見ています。

いい機会なので、その時の写真を、ここに載せます。

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「吉田山」と書いてありました。

  

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「山門のみが残りました」

つまりこの周囲は、焼け野原だったわけです。

  

  

つづく

  

「豊橋空襲」③ 再び豊橋が空襲された理由

   

今日は令和2年7月23日。

  

前記事に引き続き、

「令和に語り継ぐ豊橋空襲」(岩瀬彰利著/人間社)より。

  

(昭和20年)6月19~20日の豊橋空襲後には、米軍は豊橋海

軍航空基地や豊橋陸軍飛行場を何度も攻撃しました。このため、海

軍は、陸上攻撃機などを石川県にある小松海軍航空基地などへ避難

させています。この豊橋海軍航空基地への攻撃は、7月30日で終

わりました。おそらく、米軍は8月7日の豊川海軍工廠への爆撃を

成功させるため、脅威となる航空機の基地をねらったものと思われ

ます。

 8月になると、豊橋をねらった攻撃は終わったようで、記録にの

こっていません。

(47p)

  

  

そうか、米軍は豊川海軍工廠への爆撃に備えて、

このような作戦を行っていたのですね。

このことも初めて知りました。

小規模な空襲を調べていくと、見えてきました。

  

  

 米軍は、豊橋を爆撃するために作戦を立てていました。その概要

は「戦術作戦任務報告」にくわしく書かれています。作戦番号は№

210で、報告のなかの「目標の重要性」には、「名古屋南東のの

位置30マイルにある豊橋は、近年軍事的重要性が大きくなった。

1939年にこの街は大きな海軍工廠をつくり、そこでは航空機の

機銃やマシンガンをつくっていることが報告されている。また、豊

橋は軍の武器庫やその他の産業を持っており、東海道線沿線の主要

に位置している。以前はシルクの街、陸軍学校の街であった」とい

うことが書かれていました。

 ここからわかるように、米軍にとって豊橋は、海軍工廠があり、

これがたいへん脅威だったということです。この海軍工廠とは、豊

川海軍工廠のことであり、米軍は、豊川と豊橋を同じ街とみていた

といえます。豊橋の評価はというと「シルクの街、陸軍学校の街」

といっているように、陸軍基地(予備士官学校)も目標にされまし

たが、戦略的に重要視されてはいませんでした。このように「軍都」

だから空襲を受けたというのは間違いといえます。

 この「戦術作戦任務報告」には、「Target(目標)」は「Toyo

hashi Urban Area(豊橋市街地)」と書かれています。そして、

爆撃目標の中心として、当時の広小路5丁目にあった丸物百貨店付

近に印(爆撃中心地)がつけられた写真が載っています。このあた

りが、戦前の豊橋市でもっともにぎわっていた場所でした。街を効

果的に焼きつくすために、当時の繁華街が目標として選ばれたので

した。繰り返しますが、豊橋空襲は軍施設をねらって計画されたも

のではなかったのです。

(59p)

Epson382 (58p)  

興味深いことが書いてあります。

豊橋市と豊川市がおなじ街と見ていたことです。

同じ街であれば、豊川海軍工廠の労働者がたくさん住んでいると

考えたことと思います。

だから、人がたくさん住んでいる繁華街を目標点にしたのでは

ないでしょうか。

※参考:ここでも道草 今日の新聞記事より/豊橋が空襲された理由(2020年5月6日投稿)

  

丸物百貨店は、戦後に豊橋駅前にできて

私も子どもの頃に何度も行った覚えがあります。

「広小路」などの地名も、およその位置が浮かびます。

地元だからこそ、記述が理解できるなあと思います。

2020年7月22日 (水)

「豊橋空襲」② 「軍都」と呼ばれた豊橋の歴史

   

今日は令和2年7月22日。

  

前記事に引き続き、

「令和に語り継ぐ豊橋空襲」(岩瀬彰利著/人間社)より。

  

 (日露戦争後)陸軍は軍備増強の必要性を感じて師団(鎮台を改

組したもの)を4つ増設しました。師団とは、戦闘・補給・管理・

衛生などあらゆる機能をもった部隊をひとまとめにした陸軍の基本

作戦部隊のことです。ふつうは1個の師団に1~2万人の兵隊がい

ました。陸軍は4つのうちひとつの師団を東海道沿いに増設しよう

と考えたのです。そのことを知った当時の豊橋では、街の発展のた

め、大口喜六市長をはじめとして全市をあげて熱心に誘致活動をお

こないました。

(16p)

  

豊橋にはこのような歴史があったのですね。

熱心な誘致活動の結果、明治40(1907)年3月に、

師団の設置場所が豊橋に決まります。

師団名は「第十五師団」

  

 師団が置かれたことによって、豊橋には多くの軍人が移住するこ

とになりました。師団付近には軍に物資や食料をおさめる商店や旅

館ができ、軍関係の施設や企業が進出して、街には軍人が多くみか

けられるようになったのです。事実、市の人口をみると、明治39

(1906)年には3万7635人でしたが、明治41(1908)

年には5万227人と、1万人以上も増えています。豊橋の経済は、

第十五師団のおかげで活性化し、軍への依存度が高くなっていった

のでした。こうして、豊橋は「軍都」と呼ばれるようになりました

が、そのシンボルが「第十五師団」だったのです。

(18p)

  

太平洋戦争時、私の父親の兄が、豊橋に兵隊としていました。

2人は長野県出身者です。

伯父は、「軍都豊橋」の歴史上の1人でした。

もうだいぶ前に亡くなっており、残念ながら

話を聞くことはできません。

  

  

 昭和18(1943)年11月になると、海軍は豊川海軍工廠を

守るために御津町(現豊川市)の大恩寺山、三上町(現豊川市)と

石巻村(現豊橋市)の境にあった権現山に高角砲(高射砲の海軍で

の呼称)を置いて、敵機を迎え撃つ陣地を築きました。

(31p)

  

大恩寺山は、ずっと以前写真に撮っています。

ここでも道草 海軍工廠跡地見学5/屋上からの見学/曳光弾(2011年8月8月10日投稿)

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豊川海軍工廠跡地に建っていた名古屋大学太陽地球環境研究所の

本館屋上から撮ったもの。

この山の上をたくさんのB29が飛行し、

こちらに迫ってきたと想像して、

9年前に写真を撮りました。

  

  

つづく

「豊橋空襲」① 小規模といえども亡くなった人がいた

   

今日は令和2年7月22日。

  

この本を読みました。

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「令和に語り継ぐ豊橋空襲」(岩瀬彰利著/人間社)

  

太平洋戦争でアメリカ軍の空襲を受けた都市はたくさんあります。

全てについて知ることは不可能だと思っています。

せめて地元の豊川海軍工廠への空襲と、

豊橋空襲はできるだけ知ろうと動いてきたし、

目の前の児童生徒には伝えてきました。

このブログでも、何度か書いてきました。

   

豊橋空襲について、この本でまたいい勉強ができました。  

  

「豊橋空襲」というと、すぐに思い浮かぶのは

昭和20年6月19日から20日にかけての空襲を思い浮かべます。

しかし、豊橋はそれ以前にも、それ以後にも

「小規模な空襲」を受けていました。

この本では、6月19日・20日の「豊橋空襲」以前の

小規模な空襲が12回紹介されていました。

そのうちの1回を引用します。

  

【4月30日の空襲】

 山田町、南栄町にあった空襲で、死者は8人、被災世帯は43世

帯でした。この日の米軍は7つの作戦を同時におこなっていて、作

戦を同時におこなっていて、作戦任務第126号以外はすべて九州

への攻撃でした。第21爆撃機集団の作戦任務第126号は、立川

陸軍航空工廠と浜松市が目標で、第73・313航空団の106機

が出撃しました。浜松へ向かったB29爆撃機のうち、第313航

空団の5機が豊橋を攻撃しました。10時43分にはじまり47分

に終了という、4分間の攻撃でした。近くには元第十五師団の陸軍

予備士官学校や兵器廠があったので、そこをねらったものと思われ

ます。

(42p)

  

この本で初めて知った豊橋への空襲です。

たった4分間の空襲でしたが、8人の方が亡くなっています。

亡くなった本人、関係者にとっては、

小規模といえども一大事の空襲です。

まさか自分がここで命を落とすとは思わなかったと思います。

無念だったと思います。

この本で書き記されてよかったと思います。

少なくとも私は知ることができました。

少しは無念さを共感できます。

    

6月19日・20日の「豊橋空襲」以後の小規模の空襲として

昭和20年8月14日の空襲について書かれていました。

  

 終戦前日の8月14日には、田原駅を出発した名鉄渥美線(現豊

橋鉄道渥美線)の列車が豊島あたりで銃撃され、乗客ら15人が亡

くなりました。

(43p)

  

この空襲については、以前記事にしました。

その一つ。☟

ここでも道草 渥美線電車機銃掃射 聞き取り調査を始めたきっかけ(2015年6月28日投稿)

もう5年前のこと。

その頃発掘された空襲でした。

  

つづく

  

 

2020年7月19日 (日)

「ぶどうの木」②/この子のためになんでもしてあげたいと思う台詞

   

今日は令和2年7月19日。

  

前記事に引き続き、

「ぶどうの木 10人の”わが子”とすごした、里親18年の記録」

(坂本洋子著/幻冬舎)より。

  

  

坂本さんの最初の里子、純平君について書かれた文章です。

  

 苦しむために生まれてきたような純平の人生を間近に見せられて、

自分たち人間には到底届かない領分というものがあるのだというこ

とを感じたのです。

 一生懸命に努力をすれば人生は何とかなると思ってきた私たちは、

純平の死がきかっけに、決してそれだけではないことを知ったので

した。

(215p)

  

「一生懸命に努力をすれば人生は何とかなる」を

否定する死だったのですね。

日々、今を充実させないといけないということでしょう。

  

  

 凶暴な言動が出ないときには、別人のようにホロリとする言葉を

口にします。

「僕はこの家で幸せになりたいんだよ」

 拓也のその台詞(せりふ)を、何度か聞きました、いったいそん

な健気(けなげ)な呟(つぶや)きを聞いてしまえば、やはりこの

子のためになんでもしてあげたいという思いにかられるのも事実。

(224p)

  

これもあるなあ。

なかなか落ち着かない児童生徒であっても、

時々こちらのやる気を刺激する台詞を呟いたり、

行動をしたりするのです。わかるなあ。

  

  

 いったん子育てを途中放棄したかたちになりましたが、秀樹が幼

い頃には、それは手をかけて育てていたようです。かわいがられて

幼少期を過ごしたことが、お預かりした私にはとてもよくわかった

のです。

 曇っていた宝石が磨いたらたちまち輝いてくるように、精神面や

生活面での伸びには目を見張るものがありました。知的な遅れはあ

るけれども、とんかく素直で、里親が愛情をかけることですくすく

育っていける素地があったのです。

 逆に乳幼児期から親に見放された子が抱える心の大きな穴は、私

たちがどこまで手をかけても埋め尽くせません。里親がいくら奮闘

努力しても、限界というものがあるのです。

(230~231p)

   

坂本さんの体験からも、乳幼児期のトラウマの改善は難しいのです。

  

  

 貴之が事件を起こした時にも、何人かでそのことを追究しました

が、事実はいまひとつはっきりしませんでした。それを取り繕って

嘘をついているというより、それが夢の中で起きたことなのか実際

に自分がやったことなのか、自分でもわからないのです。

 人は、小さい頃からの母親とのきめ細かな接触によって、事実と

そうでないものとを区別できるようになるのだと思います。

(240p) 

 

嘘をつく児童生徒をどうみるか。

嘘をつくことはもちろん悪いことですが、

それを叱るだけではなく、そのバックグラウンドまで考慮すること。

叱りながら、いつも「なぜ?」と思っていたら、

いつか正解に行きつけるのだったらいいなと思います。

駄目なものは駄目とは簡単に言い切れない自分です。

  

  

「お母さんはあなたのこと大好きよ」

「お母さん、私のこと好き?」

「もちろんよ、大好きだよ」

「ほんと?」

 こんな時の子どもの瞳は、それは輝いています。実の親子のよう

に”言わなくてもわかる”という部分が多くない私たち親と子は、お

互いの思いをきちんと言葉で表現しなければ伝わらないのです。そ

れはまた、私が叱った時にでも、揺るがない信頼感や安心感を培う

ための、私からのメッセージでもあります。

「私はあなたを好きなんだよ」

「私はあなたを愛してるんだよ」

「私はあなたが大事なんだよ」

 いつも口に出して具体的に伝えておかなければ、子どもたちに真

意が通じないことがあるのです。

(245p)

  

私が「特別な社会科」をめざしている理由のひとつでもあります。

人数的には少ない人数の授業ですが、

毎時間手を抜かず精一杯の授業をすることで、

生徒に信頼感をもってもらいたいと思っています。

 

 

以上です。

 

「ぶどうの木」①/トラウマがどのように影響するのか、改善策は?

  

今日は令和2年7月19日。

  

この本を読みました。

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「ぶどうの木 10人の”わが子”とすごした、里親18年の記録」

(坂本洋子著/幻冬舎)

  

坂本洋子さんについては、新聞記事で知りました。

ここでも道草 フロントランナー 18人の子を育んだ「かあか」 その1(2020年6月28日投稿)

ここでも道草 フロントランナー 18人の子を育んだ「かあか」 その2(2020年6月28日投稿)

実の親と暮らせない子どもを育てて35年の坂本洋子さんのことを

もっと知りたくて、この本を読みました。

2003年1月発刊の本です。

坂本さんの為してきたことの中間発表となります。

  

 もちろん、障害児を預かるということに対し、最初は不安があり

ました。けれど、実際に育ててみると、純平のような難しい問題も

起こりません。

 どうやら知的に遅れのある子は、里親家庭に入るのが小さい年齢

であればあるほど伸びていくようです。年齢が低ければ低いほど、

家庭での生活次第で、持ち前の才能や感性を飛躍的に開花させるこ

とができるのだ・・・それが私たちの実感でした。

(139p)

  

特別支援学級担任9年目ですが、坂本さんの実感は、

きっとそうだろうなと思います。

  

  

 私たちは、里子だからこそ海外旅行をして見聞を広げさせたいと

いう考え方です。係累がないからこそ、広い世界を見せることで、

逆にどこでも生きていけるという自由があるのだと知らせたい。自

分の存在を常にマイナスにとらえるのではなく、それを逆手にとっ

てプラスに生きていってほしい。人と違うと悲しまないで、悲しむ

人の心が自分ならわかると、そっと手を差しのべる人になってほし

いと思っているのです。

 また、子どもたちが友人同士の会話の中で、ちょっとだけ自慢で

きることを、ひとつずつ増やしてやりたいという思いもあります。

(146p)

  

海外旅行の体験を、他に自慢できるものとする考え方は、

引きこもり支援の石川清さんと同じだと思います。

賛成です。

それ以外でも、特別支援学級での体験は、

通常学級では体験できない「特別」なものになってほしいと

かねがね思っています。

私が教えている社会科は、毎時間「特別な社会科」をめざしています。

  

  

 ある精神医学の先生の話が甦ったものです。先生曰く、純平は大

人であれば”境界性人格障害”を疑ってもいいような傾向があるのだ

ということでした。乳幼児期に受けたトラウマが原因で、感情が不

安定で他人を攻撃することが多く、対人関係を形成する過程で問題

を起こす少年が世の中にはたくさんいるそうです。そういう少年た

ちは、たとえば社会の無理解に悩むようになると、自らの意志に抗

(あらが)えず、何かのきっかけで鬱積を爆発させてしまうのでは

ないでしょうか。

(187p)

  

乳幼児期に受けたトラウマが、

子どもたちにどのような影響を及ぼすのか。

改善するためには、どうしたらいいのか。

日々悩んでいること。

ヒントになる文章には過敏になります。

  

  

小さい頃から癇が強くて、キーキー言っていました。トラブルが絶

えない反面、人の気持ちがよくわかり、優しい一面を持っていまし

た。

(195p)

   

純平君への弔辞の文章の一部です。

私も実感したことがあることです。  

  

  

つづく

 

2020年7月18日 (土)

「ひきこもり支援」大事な3か条

  

今日は令和2年7月18日。

  

7月7日にNHK放映「クローズアップ現代」

引きこもり支援のことをやると知って待ちかまえていましたが、

何らかの理由で延期になりました。

いつ放映されるのかなと気にしていたら、

7月16日に放映されました。

  

勉強になった30分間でした。

 

芦沢茂喜さんの言われることが印象に残りました。

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この3か条は素晴らしいと思います。

「一定のリズムで訪問」

「正論を言わない」

「ゴールを求めない」

石川清さんの番組を見たり、本を読んだことで知った原則と

同じだと思いました。

ここでも道草 「ひきこもり支援 石川清」① 「肝心のものをくれてないんだ」(2020年3月8日投稿)

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この発想も、石川清さんは語っていました。

ここでも道草 「ひきこもり支援 石川清」② 共に過ごした時間が信頼を生む(2020年3月9日投稿)

  

  

今の自分は、引きこもり支援の先輩の考えを参考にさせてもらって、

不登校生徒さんところに通っています。

  

  

石川清さんのことを知ったのは、休職中のこと。

最近、休職中にやったことが、生活指導でも教科指導でも生きています。

休職中の辛い時に、止まらずに何かやっていた自分に感謝です。

 

 

『蒲団』(田山花袋)は私小説のパイオニア

 

今日は令和2年7月18日。

  

今日の朝日新聞朝刊の記事です。☟

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田山花袋の「蒲団」は高校生の時に出合いました。

今も通っている地元の図書館(耐震工事はされたけど、

ほぼ高校生の頃と変わらない)に、その頃はもっと通っていました。

何を思ったか明治・大正時代ごろの小説を

次々に借りて読んでいました。

その中で、最も、今でも覚えているのが「蒲団」です。

「私小説」というジャンルもこの小説で知りました。

高校生の自分には、ドキッとする内容だったからかもしれません。

すっかり内容は忘れてしまいましたが、

ドロドロしたイメージが残っています。

  

今回の記事を読んで、

客観的に「蒲団」のことを知ることができました。

 

 『蒲団』は中年のさえない作家が、弟子入りしてきた女学生に恋

をし、彼女に恋人がいると知ると嫉妬に狂い、破門にした上でまだ

未練を残すという、なんだかとても情けない小説だ。

 しかし、当時の人々は驚いた。藤村が『破戒』を書き、被差別部

落問題というとてつもなく深い社会問題をも小説にできることを証

明したのと同様に、中年男の嫉妬という、とてつもなく矮小な事柄

さえも、やはり小説になるのだということを花袋は明らかにした。

明治近代文学は、また一つ、自由の幅を広げた。

  

そのような位置づけだったのですね。

高校生の時に読んで以来、40年以上読んでいませんが、

読んでみようかな。

 

2020年7月15日 (水)

「おとぎカンパニー」読破/王様の耳はパンの耳

   

今日は令和2年7月15日。

  

この本を読みました。

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「おとぎカンパニー」(田丸雅智著/光文社)

  

ショートショートというと、

星新一さんや筒井康隆さんを思い出します。

大学生だった頃、電車の中で文庫本で読んでいた記憶があります。

  

田丸さんは、若手のショートショート作家。

面白く読みました。

印象に残ったのは、たとえば

「大沢の耳」(王様の耳はロバの耳)という話。

きっと田丸さんは、「大沢の耳はパンの耳」という

フレーズが浮かんだと思います。

それをふくらまして話にしてしまったのだと思います。

この自由さがいいなあ。

普段の生活で、難題に直面して、

もうこの手しかないと考えてしまうと、

うまくいかないと行き詰ってしまいます。

私のようなうつ病経験者は、

積極的に自ら自分を行き詰らせてしまいます。 

 

この小説のように、当たり前だった物語の

別バーションを読むと、

世の中、必ずしもよくある展開になるとは限らないと思いました。

頭の重しになっている難題だって、

実はそれは考えようによっては、「難題」ところか「チャンス」に

なるかもしれません。

  

 

偏った考え方だけでなく、発想を広げて生きていきたい。

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