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2020年7月23日 (木)

「豊橋空襲」③ 再び豊橋が空襲された理由

   

今日は令和2年7月23日。

  

前記事に引き続き、

「令和に語り継ぐ豊橋空襲」(岩瀬彰利著/人間社)より。

  

(昭和20年)6月19~20日の豊橋空襲後には、米軍は豊橋海

軍航空基地や豊橋陸軍飛行場を何度も攻撃しました。このため、海

軍は、陸上攻撃機などを石川県にある小松海軍航空基地などへ避難

させています。この豊橋海軍航空基地への攻撃は、7月30日で終

わりました。おそらく、米軍は8月7日の豊川海軍工廠への爆撃を

成功させるため、脅威となる航空機の基地をねらったものと思われ

ます。

 8月になると、豊橋をねらった攻撃は終わったようで、記録にの

こっていません。

(47p)

  

  

そうか、米軍は豊川海軍工廠への爆撃に備えて、

このような作戦を行っていたのですね。

このことも初めて知りました。

小規模な空襲を調べていくと、見えてきました。

  

  

 米軍は、豊橋を爆撃するために作戦を立てていました。その概要

は「戦術作戦任務報告」にくわしく書かれています。作戦番号は№

210で、報告のなかの「目標の重要性」には、「名古屋南東のの

位置30マイルにある豊橋は、近年軍事的重要性が大きくなった。

1939年にこの街は大きな海軍工廠をつくり、そこでは航空機の

機銃やマシンガンをつくっていることが報告されている。また、豊

橋は軍の武器庫やその他の産業を持っており、東海道線沿線の主要

に位置している。以前はシルクの街、陸軍学校の街であった」とい

うことが書かれていました。

 ここからわかるように、米軍にとって豊橋は、海軍工廠があり、

これがたいへん脅威だったということです。この海軍工廠とは、豊

川海軍工廠のことであり、米軍は、豊川と豊橋を同じ街とみていた

といえます。豊橋の評価はというと「シルクの街、陸軍学校の街」

といっているように、陸軍基地(予備士官学校)も目標にされまし

たが、戦略的に重要視されてはいませんでした。このように「軍都」

だから空襲を受けたというのは間違いといえます。

 この「戦術作戦任務報告」には、「Target(目標)」は「Toyo

hashi Urban Area(豊橋市街地)」と書かれています。そして、

爆撃目標の中心として、当時の広小路5丁目にあった丸物百貨店付

近に印(爆撃中心地)がつけられた写真が載っています。このあた

りが、戦前の豊橋市でもっともにぎわっていた場所でした。街を効

果的に焼きつくすために、当時の繁華街が目標として選ばれたので

した。繰り返しますが、豊橋空襲は軍施設をねらって計画されたも

のではなかったのです。

(59p)

Epson382 (58p)  

興味深いことが書いてあります。

豊橋市と豊川市がおなじ街と見ていたことです。

同じ街であれば、豊川海軍工廠の労働者がたくさん住んでいると

考えたことと思います。

だから、人がたくさん住んでいる繁華街を目標点にしたのでは

ないでしょうか。

※参考:ここでも道草 今日の新聞記事より/豊橋が空襲された理由(2020年5月6日投稿)

  

丸物百貨店は、戦後に豊橋駅前にできて

私も子どもの頃に何度も行った覚えがあります。

「広小路」などの地名も、およその位置が浮かびます。

地元だからこそ、記述が理解できるなあと思います。

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