次はしっかり見たい龍拈寺の歴史
今日は8月16日。
8月9日は、午後から豊橋市に出張でした。
電車で行って、駅からしばらく歩きました。
早めの電車に乗っていったので、
酷暑でしたが、まっすぐに目的地に向かわず、
少々道草をしました。
↑ 暑さのせいでしょうか、通りの名前の白い文字が
フニャフニャになっていました。
まともなのがありました↓
「大手町観音通り」
この通りには、龍拈寺(りゅうねんじ)があり、
その観音堂があります。
この通りの名前は、ここからついたのでしょう。
龍拈寺を調べていたら、けっこう興味深い歴史があり、
建物があることがわかりました。
まずは場所を地図で示します。
龍拈寺では、桶狭間の戦いの後、惨劇がありました。
Wikipedia 龍拈寺から引用します。
海道一の弓取りと謳われた今川義元は
桶狭間の戦い(永禄3年、1560年)で横死し、
部下であった松平元康(清康の孫)は自立した。
これに怒った跡継ぎの今川氏真は吉田城代
これを永禄4年(1561年)、当寺院口で処刑を行った。
一説には串刺しと言う。埋葬されたのは寺から離れた中野新田で、
後に十三本塚(処刑された人数は11~14名と説が分かれる)と
名づけられたという。
ただし、その十三本塚の場所は異説が多く特定が難しい。
松平元康=徳川家康
この惨劇は有名ですが、龍拈寺で行われたのですね。
昨年の大河ドラマ「おんな城主直虎」の第10話で、
今川氏真が、人質の処刑を命じる場面はありました。
でも、処刑のシーンはなかったと思います。
龍拈寺の山門にも歴史がありました。
同じく、Wikipediaから引用します。
8月9日は、反対の方(観音堂の方)から、
この山門を見ていました。
しかし、江戸時代から残る寺唯一の遺構だとは思わずに、
漫然と見ていました。
次回はじっくり見たい。
参考:東三河を歩こう 龍拈寺
※山門についての説明板の写真があります。
参考:ここでも道草 6月20日 豊橋大空襲があった日(2008年6月22日投稿)
:ここでも道草 6月20日豊橋空襲があった日 その2(2011年6月20日投稿)
※以前、豊橋空襲について書いたことがあります。
山門を見に行ったら、また豊橋空襲のことを書きたいですね。
いつでもどこからでも機会があったら勉強が始まります。
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