「豊橋空襲」② 「軍都」と呼ばれた豊橋の歴史
今日は令和2年7月22日。
前記事に引き続き、
「令和に語り継ぐ豊橋空襲」(岩瀬彰利著/人間社)より。
(日露戦争後)陸軍は軍備増強の必要性を感じて師団(鎮台を改
組したもの)を4つ増設しました。師団とは、戦闘・補給・管理・
衛生などあらゆる機能をもった部隊をひとまとめにした陸軍の基本
作戦部隊のことです。ふつうは1個の師団に1~2万人の兵隊がい
ました。陸軍は4つのうちひとつの師団を東海道沿いに増設しよう
と考えたのです。そのことを知った当時の豊橋では、街の発展のた
め、大口喜六市長をはじめとして全市をあげて熱心に誘致活動をお
こないました。
(16p)
豊橋にはこのような歴史があったのですね。
熱心な誘致活動の結果、明治40(1907)年3月に、
師団の設置場所が豊橋に決まります。
師団名は「第十五師団」
師団が置かれたことによって、豊橋には多くの軍人が移住するこ
とになりました。師団付近には軍に物資や食料をおさめる商店や旅
館ができ、軍関係の施設や企業が進出して、街には軍人が多くみか
けられるようになったのです。事実、市の人口をみると、明治39
(1906)年には3万7635人でしたが、明治41(1908)
年には5万227人と、1万人以上も増えています。豊橋の経済は、
第十五師団のおかげで活性化し、軍への依存度が高くなっていった
のでした。こうして、豊橋は「軍都」と呼ばれるようになりました
が、そのシンボルが「第十五師団」だったのです。
(18p)
太平洋戦争時、私の父親の兄が、豊橋に兵隊としていました。
2人は長野県出身者です。
伯父は、「軍都豊橋」の歴史上の1人でした。
もうだいぶ前に亡くなっており、残念ながら
話を聞くことはできません。
昭和18(1943)年11月になると、海軍は豊川海軍工廠を
守るために御津町(現豊川市)の大恩寺山、三上町(現豊川市)と
石巻村(現豊橋市)の境にあった権現山に高角砲(高射砲の海軍で
の呼称)を置いて、敵機を迎え撃つ陣地を築きました。
(31p)
大恩寺山は、ずっと以前写真に撮っています。
※ここでも道草 海軍工廠跡地見学5/屋上からの見学/曳光弾(2011年8月8月10日投稿)
豊川海軍工廠跡地に建っていた名古屋大学太陽地球環境研究所の
本館屋上から撮ったもの。
この山の上をたくさんのB29が飛行し、
こちらに迫ってきたと想像して、
9年前に写真を撮りました。
つづく
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