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2020年7月

2020年7月12日 (日)

「八本目の槍」読破/一頻り 零した 途轍 綻ばせた

  

今日は令和2年7月12日。

  

この本を読みました。

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「八本目の槍」(今村翔吾著/新潮社)

  

八本目の槍とは、石田三成(佐吉)のことでした。

石田三成が、1000年後まで見通せるような知恵者として

描かれていました。

ちょっと持ち上げすぎだと思う程でした。

  

やっぱり歴史物は面白い。

社会科教師。

この歴史物の面白さを伝えることができる立場に

今いるんだよなあ。

伝えたい。

教師はお節介なんだよなあ。

  

  

この小説では、漢字が気になりました。

 

 現に皆が順に名乗り、一頻り話した後、殿下はぽつんと零した

(196p)

  

アンダーラインを引いたところには、ふりがながなく、

読めませんでした。

調べました。

「一頻り」は「ひとしきり」でした。

「零した」は「こぼした」でした。

 

「零」は「レイ」「ゼロ」と読みますが、

「こぼす」という意味があるのですね。

雨冠なので、水に関わる意味はあるだろうなとは予想しました。

  

  

 米に換算すすれば実に二千五百万石。途轍も無い額であり、喉か

ら手が出るほど家康が欲するのも理解出来る。

(364p)

  

そうか「とてつ」は漢字で書くと「途轍」なんだ。

語源が気になります。

語源由来辞典によると・・・

「轍」は「わだち」です。

「途」は「道」を表します。

転じて「途轍」は「筋道」「道理」の意味になります。

そして「途轍もない」は「常識では考えられない」「並外れた」

という意味になるわけです。

「とてつもない」が構造的に理解できました。

  

  

小説の最後はこの一文。

 

 市松は雲一つ無い蒼天を仰いで口を綻ばせた

(394p)

  

「綻ばせた」は「ほころばせた」と読むのかなと思って調べたら、

正解でした。

「綻」は「ほころびる」「破れる」意味があるそうです。

この漢字を使った熟語がありました。

有名です。

「破綻(はたん)」

なるほどです。

「タン」と読むのは抵抗があります。

「定」の字につられて「テイ」とよみたくなります。

  

  

以上です。

2020年7月 6日 (月)

記事「オンラインの方が学びやすい子も」「BG~身辺警護人」

  

今日は令和2年7月6日。

   

2020年7月5日朝日新聞朝刊から、

ほっておけない記事を2つ載せます。

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 「この休校で、先生たちはオンライン学習の威力をまざまざと見

せつけられたのではないか」

 香川大学教育学部付属坂出小学校長でもある、坂井聡・同大教授

は、そう語った。不登校の子や教室では発言できなかった子が、オ

ンラインになったことで、学習意欲が非常に高まる例が各地で見ら

れたからだ。(中略)   

 ほかの児童生徒の目を気にしなくて済むという面もあるが、特別

支援教育が専門の坂井教授は、特に自閉症スペクトラムの傾向があ

る子は、オンラインの方が集中してできる特性があるという。端末

の限られた所から、文字情報や音声で自分への指示が明確に伝わる。

発表用ソフトなどを画面で共有すれば、視覚的な情報で学習内容が

頭に入りやすい。周囲の雑音や動きを邪魔されず集中できる。こう

したことから、聴覚過敏の子や、耳で聞くより目で読んだり見たり

した方が記憶しやすいタイプの子にも効果が上がりやすいという。

  

 

よく理解できる文章です。

不登校の子に変化を起こすことができる可能性が私には魅力です。

坂井教授のお話を4年前に聴いています

ここでも道草 東京での研修あれこれ15.ICT まず特別支援教育(2016年8月23日投稿)

 

同じ記事の中に、もうひとかた、お話を聴いた人が登場していました。

井上賞子先生です。

この休校期間中にさらに進んだことをやられたようです。

すこしでも追いつきたいのに、置いて行かれます。

ここでも道草 20190809報告1 これぞ”特別支援” 井上賞子先生(2019年8月11日投稿)  

  

テレビ朝日のドラマ「BG~身辺警護人~」が面白くて、

毎週見ています。そのドランに関する記事。

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手を組むシーンが注目です。

 

同じテレビ朝日のドラマ「科捜研の女」がマンネリのためか

かつてのように面白さが伝わってこなくなりました。

新しい設定の「BG~身辺警護人」はその新しさで、

私を弾きつけます。

  

  

もう眠い!寝るぞ。

2020年7月 5日 (日)

2冊読み終えました「白い馬」「LOW LIFE」

   

今日は令和2年7月5日。

  

今日は2冊の本を読み終えました。

読破というよりは、絵を見たという感じの2冊です。

 

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「白い馬」(東山魁夷/絵 松本猛/文・構成 講談社)

  

この本を見るきっかけは、この記事に書いたことです。

ここでも道草 「生きるぼくら」① 東山魁夷「緑響く」(2020年5月24日投稿)

画集のような本です。

表紙の絵「緑響く」は、部屋にずっと飾っておいても、

見飽きない絵だと思います。

この本は図書館で借りたのではなく、購入しました。

しばらくは見えるところに、この本を立てかけておこうと思います。

 

 

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「LOW  LIFE」(大嶋宏和著/GOT)

 

マンガ本です。

表紙に描かれた人たちが主人公の8つのストーリーと、

マンガ評論家の解説つきの本です。

 

「歩(ほ)っこりハイキング」というストーリーの

解説がよかったです。

  

 この作品は本書の中でも他の曖昧なストーリーと違い、明確な構

造で作られている。それはよく物語の基本とされる「行って帰って

くる」構成だ。主人公のおじさんは、退屈な日常から抜け出そうと

ハイキングツアーに参加し、充実した時間を過ごして帰ってくる。

ただし基本的な物語なら、その「行って帰ってくる」冒険の中で何

か報酬を得たり、成長したり、学んだりして戻って来るのだが、こ

のおじさんは本当に「行って帰って来た」だけだ。ラストで奥さん

に向かっていかにツアーが充実したかを語っているが、実際山頂で

の彼は退屈そうに時間を持て余してした。きっとおじさんは明日か

らもまたヒマそうに自転車を走らせているのだろう。

 ドラマがあったのは彼以外のツアー参加者で、帰りのバスで談笑

する彼らの輪に、何もしなかった主人公は入ることができない。何

かに期待したって望むものが手に入るとは限らない、人生なんてそ

んなものだ、と作者が言っているようなシーンだ。このテーマは彼

の他の作品でも繰り返し出てくるもので、このおじさんとツアー参

加者達の対比を描くために「行って帰ってくる」構造を使ったのだ

ろう。  

  

 

なるほど。

解説を読んで、そこまで考えた構成の作品なんだと気がつきました。

「人生そんなものだ」

だから、無理せず気楽にいこうと読み解きたい。

  

この解説が気になった方は、ぜひこの本を手に入れて、

見てみてください。

 

作者のデビュー本。

ほっておけない作者です。

  

  

  

天声人語「ヘビににらまれたカエル」

 

今日は令和2年7月5日。

  

昨日の「天声人語」がよかったです。

ここに書き写します。

2020年7月4日朝日新聞朝刊より。

  

 俗に「ヘビににらまれたカエル」と言う。恐怖で身がすくみ動け

なくなることを指す。絶体絶命の哀れなカエルが浮かぶ。だが最新

の研究によれば、実はあの不動の姿勢こそ最善の防御策だという▼

動物学者の西浦望(にしうらのぞみ)博士(33)は、シマヘビと

トノサマガエルの駆け引きを屋内外で撮影した。解析してわかった

のは、カエルが先手をとって跳躍すると、空中では進路を変えられ

ないため、ヘビに動きを読まれるおそれが高くなること。ヘビがし

びれを切らして攻撃に出るのを忍耐強く待っていたらしい▼捕まえ

る側にとっても、先手は必ずしも上策ではなかった。ヘビは折り曲

げた体をバネのように伸ばして突進する。もし最初の攻撃が空振り

すると、再攻撃の前にまた体を曲げる時間が要る。その間に、田や

川、池など水場に逃げられるリスクが高まるそうだ▼研究には300

時間以上を要した。在籍していた京都大周辺のほか、滋賀や三重、

徳島でもカメラを回した。不審者かと思った住民が木刀を手に迫っ

てきたこともあったという▼ふいに浮かんだのは、昭和の大横綱双

葉山の立ち合いである。後手をとるかに見せて優位に立つ「後の先

(ごのさき)」を理想とした。だれに教わったわけでもないのに、

カエルたちが双葉山顔負けの知略を備えていたのは驚きである▼カ

エルの鳴き声が列島に響く季節である。研究に触れ、どうしてもヘ

ビよりカエルの方を応援したくなる。古池や蛙(かわず)逃げ切れ

水の音!?

  

「ヘビににらまれたカエル」の新解釈になるほどと思いました。

カエルの手法と双葉山をつなげるところが愉快でした。

やっぱり知識豊富だと、いろいろつながって面白いことになりそう。

そんなことを思った「天声人語」でした。

  

「目くじら社会の人間関係」④ 「いろいろな人がいてもよい」

  

今日は令和2年7月5日。

  

前記事に引き続き、

「目くじら社会の人間関係」(佐藤直樹著/講談社+α新書)

から引用していきます。

  

  

 もともと「世間」は1000年以上の歴史を持つが、そこでは行

動の基準として、西欧にあるような神に対する「罪」の意識は希薄

で、「世間」に対する「恥」の意識のほうがきわめて強い。

 すなわち、「世間」には「呪術(じゅじゅつ)性」のルールがあ

り、そこでの原理は多神教であるが、神が数限りなくいるために、

一つの神が行動の基準となることはない。そのために「世間」への

「恥」の意識が行動の基準となる。

(65~66p)

  

「恥」というのは、確かに行動の基準の

一つになってきたと思います。

こうやって分析する人がいるのですね。

  

  

う~ん、結露を急ぎます。

 

 ニッポンが「目くじら社会」になったのは、近代に新たに生成さ

れた「きびしい世間」が、1990年代末になって復活・強化され

たためである。とすれば、この「目くじら社会」に対抗しうる原理

は、近代以前にあった「渡る世間に鬼はなし」であろう。

 生き心地がよく、風通しのよい「やさしい世間」の復権。これが

喫緊の課題である。

 最後に本書の結論として、そのために一人一人ができることを、

箇条書きにまとめておこう。

  

①「いろんな人がいてもよい」と考える。「みんな同じ」とは考え

ず、個人を生かすということである。

②「なんであいつだけが」と考えない。他人との身分差をねたまず

に、「他人は他人。自分は自分」と考えるということである。

③「つき合い残業」をやめよう。職場で「共感過剰シンドローム」

に陥って、過労死しないようにということである。

④「お返し」はほどほどに。お中元・お歳暮、香典返し、返信メー

ルなど、お互いに過剰な心理的負担にならないようにということで

ある。

⑤あまり「聖地」とか「前世」とか「パワー・スポット」にこだわ

らない。こだわらなくとも、不幸になったり、世の終わりが来たり

はしないということである。

⑥「いえ」意識にとらわれない。「いえ」は差別の根源であるし、

子どもに対する「親の責任」をあまり過剰に考えるなということで

ある。

(202~203p)

  

特に①②はしっかり頭に置いておきたい。

いろいろな人がいるのがあたりまえだということ。

ねたんでいるようなときは正常な状態ではないこと。

  

  

以上で「目くじら社会の人間関係」からの引用を終えます。

次の本を読み始めます。

「目くじら社会の人間関係」③ 何か突き抜けた杭になってみたいな

   

今日は令和2年7月5日。

  

前記事に引き続き、

「目くじら社会の人間関係」(佐藤直樹著/講談社+α新書)

から引用していきます。

  

 日本では「出る杭は打たれる」のかもしれない。しかし「出すぎ

た杭は打たれない」という言葉もある。いま必要なのは、この「出

過ぎた杭」になる勇気である。

(61p)

    

これは最近、この動画で同じ答えを聞きました。


YouTube: イチロー、「結婚はギャンブル」「嫌われるの⼤好きです」名言連発でみんなの悩みを解決! SMBC日興証券「おしえて!イチロー先生」

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自分のやってきたことで、突き抜けたことってあるかな。

思い浮かびません。

これからでもいいので、何か突き抜けることをやってみたいなあ。

  

  

 要するにニッポンという国は、第6章で詳しく触れるように、先

進工業国のうちで犯罪率は非常に低いが、自殺率は高いし、ギャン

ブル依存症も非常に多いのだ。きわめて治安がよく安全な国なのだ

が、おそらく人々のかかえるストレスは半端ではない。半端でない

から、ギャンブルに走ったり、自殺に追い込まれたりする。

(63p)

  

その第6章からの引用です。☟

 

 現在、日本では年間2万2000人の自殺者がいる。

 この数は殺人事件で死ぬ人間の数(年間約300人)よりも、交

通事故で死ぬ人間の数(年間約4000人)よりも、はるかに多い。

まさに後期近代に突入した「再埋め込み」の時代といえる1998

年に、自殺者数が3万人を超え、それが2011年まで続いた。少

し減っているとはいえ、日本の自殺率は、先進国のうちで最悪であ

る。(中略)

 ところが犯罪率を国際比較すると、まったく逆の結果となる。

(中略)

 先進国に限らず、日本はおそらく世界で一番安全で治安が良い国

である。

 つまり日本は、危害のベクトルが、他人ではなく自分に向いてい

る。要するに、他人を殺す代わりに自分を殺す。アメリカなどはま

ったく逆で、自分を殺す代わりに他人を殺す。危害のベクトルが他

人に向かうのである。

(193~194p)

  

  

 日本人は家庭で親から、「他人に迷惑をかけない人間になれ」と

いわれて育つ。これは「他人とは違う個性的な人間になれ」といわ

れて育つ西欧社会の家庭とは、まるで違う。

「他人に迷惑をかけない」ということは、法律に違反するような犯

罪行為をするなという意味ではない。犯罪行為にいたる以前の、「

世間」のルールを遵守せよという意味である。西欧社会においては、

「世間」が存在しないから、日本では「世間」のルールに反するよ

うな行為であっても抑止されない。ところが日本では、「世間」の

ルールに反する行為は強く抑制される。

 きわめて強い自己コントロールが働くのだ。

(194p) 

  

  

危害のベクトルが自分自身に向くというのは、

確かにそうだと思います。

それは日本独特のものなのですね。

自殺者の多さには驚きます。

どうにかしなければいけないことだと思います。

  

自分のことを客観視できる状況にしてあげるのがいいのですが、

心療内科に積極的に行って、

客観視できるまでの時間をかせぐのがいいと思います。

私は今回うまくいきました。

  

  

つづく

2020年7月 4日 (土)

「目くじら社会の人間関係」② 「他人は他人、自分は自分」が苦手な日本人

 

今日は令和2年7月4日。

  

前日の記事に引き続き、

「目くじら社会の人間関係」(佐藤直樹著/講談社+α新書)

から引用していきます。

  

 さらに「世間」では、前にも説明したように、「みんな同じ」と

いう「人間平等主義」のルールと、「身分制」という上下関係のル

ールとの間に「ねじれ」がある。つまり、「みんな同じ」と心のな

かでは思っているのだが、厳然と「身分」という上下関係の序列が

存在するという現実の間の矛盾である。そのために、強い「ねたみ」

意識が生まれる。

 実は、この強固で執拗な「ねたみ」意識は、日本独特のものであ

る。

(58p)

  

最後の一文が印象に残りました。

「ねたみ」に関する文章を他にも引用してみます。

  

 この強い「ねたみ」意識は、「世間」の人々の日常的な相互監視

に結びついている。「世間」を騒がすような事件や不祥事が起きた

ときに、その報道を見て、自分にはとりあえず何の関係もないのに、

「迷惑をかけられた」と思い込み、わざわざ行政にチクったり、職

場に抗議電話をかけたり、ネットで叩いたりする人間がかなりいる。

「世間」には、お節介な人が多すぎるのである。

 私が徹頭徹尾、卑怯だと思うのは、こうした人々のほとんどが匿

名であることだ。「世間」のウチは「顔見知り」の実名の世界だが、

そのソトは「赤の他人」や「ヨソ者」の匿名の世界である。

 いったん匿名の世界に入ると、日本人は「旅の恥はかき捨て」状

態となり、「世間」のウチでは考えられないほど傍若無人にふるま

う。日本人は、この意味で「世間」のウチとソトで二重人格者にな

る。ネット上での特定個人への匿名のバッシングで、聞くに堪えな

いような言葉があふれるのは、そのせいである。

(69p)

   

 日本の宝くじの高額当選者は、場合によっては「身内」にも、当

選したことを明かさない。明らかになったとたんに、「なんであい

つだけが」と考える「世間」からのねたみを受けるからだ。

 明かしたとたんに、「奢れよ」くらいは当然のこととして、返す

つもりのない借金を申し込まれるだろう。ねたまれるのはメンド―

だから、本人もなかなか断りきれない。そうなることが火を見るよ

り明らかだから、当選したことがゼッタイに明かさないのだ。

 こうなるのは、「人間平等主義」があるために、「世間」の人々

は高額当選者に対して「不平等」だと考えるからである。

 (中略)

 これがアメリカだと、ニコニコ顔の宝くじの高額当選者が堂々、

実名と顔出しでメディアの取材に応じているのはよく見る。

 (中略)

 これは、アメリカ社会には、少なくとも宝くじの高額当選者に対

する「ねたみ」意識は存在しないことを意味している。理由は明確。

「他人は他人。自分は自分」と思っているからだ。

 つまり、アメリカの人間関係は社会から構成されていて、日本に

あるような「人間平等主義」や「身分制」というルールを持つ「世

間」が存在しないのである。

(106~107p)

  

  

「身分制」について書かれている文章をもう一つ引用します。

  

 「世間」のなかに、年上・年下、先輩・後輩、格上・格下など、

無数の上下関係のルールがあるということ。日本人は、自分が存

在するその場その場の状況に応じて、この上下関係のどこに自分

が属しているかを常に意識している。

 (中略)

 では、西欧社会にはこうした「身分制」は存在しないのか?

 たとえば、英語の一人称と二人称の単数形はIとYOUだけで

ある。(中略)だが、日本語の一人称、二人称は、「俺」「私」

「あちき」「我が輩」「あなた」「君」「てめえ」「お前」など、

数限りなくある。

 これらの言葉は一つ一つニュアンスが異なる。つまり上下関係

を前提としている。日本でこれらの使い分けをしなければならな

いのは、その都度形成される人的関係において、相手がどんな「

身分」なのかで言葉遣いを変える必要があるからである。

(31~32p)

  

たくさん引用しましたが、

結局「他人は他人、自分は自分」という発想が日本人には苦手。

目立たないように「みんなと一緒」になることに気を使い、

それなのに現実には上下関係のどの位置に

自分がいるか意識しなくてはなりません。平等ではないのです。

厄介な暗黙のルールです。

そんなしがらみの中で、自分よりも出世する人を見たり、

宝くじを当てた人を知ったり、きれいな奥さんをもらったりると、

「他人は他人、自分は自分」とは思えずに、

「ねたみ」の感情が出てしまうのでしょう。

  

  

昨日も書きましたが、日本は生き辛い国に思えてきました。

つづく

「一人ひとりの自己実現を教育の目標」とする できるかな?

  

今日は令和2年7月4日。

  

2020年7月3日朝日新聞朝刊に、

「新型コロナ オンライン 学べるもの 耕論」

という記事で、3人の方の意見が載っていました。

その中から、鈴木大裕さんの意見。☟

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 重視されているのは、受験をゴールととらえた「お勉強」ばかり。

そんな教育に疑問を抱き、12年前に公立中の教員を辞め、研究者

の道を歩みました。

  

 僕は最初、教育で多くの人が学校のありがたさに気付いたことは、

教育のあり方を根本から見直すチャンスだと期待していました。子

どもたちが待ち望んだのは、友達と会うことだったり、学校行事だ

ったり、部活動だったり、授業以外のことが多かったのではないで

しょうか。「学校は授業だけじゃない」。そんな当たり前のことを

大切にする教育に変わるきっかけになるのではないか、と。

  

 学校から授業だけを抽出してしまえば、教育は商品化し、合理化

が進みます。受験勉強も、オンライン学習も、特化してやってきた

塾や民間企業の方がノウハウがあります。効率化を突き詰める中で

学校は存在意義を失い、「塾のカリスマ教師の授業をオンラインで

一斉配信すればいい」という意見もでてくるでしょう。

  

 学校の目的が「点数」になったとたんに、子ども一人ひとりの違

いは序列化され、競争社会にのみ込まれてしまいます。そうではな

く、多様な幸福の形を示し、一人ひとりの自己実現を教育の目標と

とらえる。それが「勝ち組」「負け組」という社会から脱却する道

なのではないでしょうか。

  

  

私は現在特別支援学級の担任です。

もちろん生徒は進学を考えていて、そのための学習は必要です。

しかし、幸いにも少人数であるために、

通常学級よりも一人ひとりを見ることができます。

声をかけること、雑談することも多くできます。

何が得意で、何が苦手なのかを、より理解できると思います。

生徒を序列化せずに、並列にして見ることができます。

  

その気になれば、一人ひとりの生徒のために、

いろいろな手を尽くせます。

それは効率的ではないと思います。

一人ひとりの反応がダイレクトにわかるからです。

反応によって手を変えて行けば、

生徒の数だけ指導が違ってきます。

たいへんです。

  

  

今、私はいい立場にいます。

その気になれば、

「一人ひとりの自己実現」に少しでも近づけるかもしれません。

自分の能力が伴えば。

   

   

鈴木さんの記事を読んで、こんなことを考えました。

  

2020年7月 3日 (金)

「目くじら社会の人間関係」① 日本人は「空気を読む」ことを要求されている

 

きょうは令和2年7月3日。

  

この本を読みました。

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「目くじら社会の人間関係」(佐藤直樹著/講談社+α新書) 

  

引用したい文章がたくさん。

  

 つまり近代以降の「世間」がやっかいなのは、比較的明瞭だった

「共同体の掟」とは異なり、またそのルールが法律のように明文化

されているわけではないから、「みんな」という、きわめてフワッ

とした不安定な基準に依拠しなければならなくなった点である。

 滝川(一廣)さんはいう。近代の「世間」においては〈「ここま

でなら規範に触れない」という安全域が不明確で、これが心理的な

負荷性を高め〉ており、〈「安全域」の客観的な基準ラインがない

ため、たえず互いにまわりの様子を窺い合いチェックし合うことで

心理的な安全感を得るほかない〉と。

 日本人がつねに「世間」の「空気を読む」ことを要求されるのは、

現在の「世間」の基準ラインがどうなっているのかを、その都度、

確認しておかなければならないからである。

(22p)

  

この本を読んでみて、いかに今の日本が生きづらい状況に

なっているのか見えてきました。

よく59年も生きてきたなと思います。

(4回も休職したけど)

心は疲れるよなあ。

  

  

 つまり、お中元のようなモノにせよ、モノとはいえないメールに

せよ、贈与を受けることは、それだけで心理的負担を伴う。これを

日本人は「義理」と呼ぶ。その心理的負担から逃れるためには、た

だちに「お返し」をするしかない。「お返し」によってのみ、やっ

とその心理的負担から解放されるのだ。メールのやり取りなどの贈

答行為が、往々にして「やめられない、止まらない」状態になるの

は、このためなのである。

(28~29p)

  

この局面では、それほど心の負担は感じていないかなと思います。

  

  

う~ん、今晩はここまで。

  

2020年7月 1日 (水)

新型コロナウイルス「世界の死者50万人」

  

今日は令和2年7月1日。

  

新しい月の始まり。

今年は1カ月生徒と向き合います。

夏休みは8月1日からです。

きっと痩せると思います。

暑いし、きっと頑張っちゃうと思うから。

ほどほどに・・・とは思っているんだけどなあ。

  

  

2020年6月30日朝日新聞朝刊一面です。☟

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記事本文は一部省略です。

でも3つのグラフを見たらわかります。

世界で見たら、新型コロナウイルスは終息していません。

増え続けています。

 

私の地元市では、感染者は今のところ数人です。

油断してしまいます。

100年前のスペイン風邪第1波のようです。

 

第2波で死者は急増します。

  

何か備えねばと思うのですが、何ができるのだろう。

明日は、社会科の授業で、

最近書いてきたスペイン風邪のことを教えようと思います。

100年前の歴史が今に活かせるかもしれません。

  

2020年7月1日朝日新聞夕刊でこの記事を見つけました。☟

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カレル・チャペック。

「白い病」

 

9月に刊行されたら、きっと読むだろうなあ。

勉強を始めたら止まらない。

あと2カ月後。

世界は、日本は、わが市はどうなっているのだろう?

私はどうなっているのだろう。

  

  

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