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2015年9月

2015年9月23日 (水)

ついに「みんなの学校」を見ることができました

 

今日は9月23日。

  

近所の施設で上映会があったので、

映画「みんなの学校」を見てきました。

予告編です。

  

春休みに名古屋市で上映会があったのですが、

いろいろあって行けませんでした。

ラッキーなことに、近所で自主上映会が行われ、

交通費ほぼ0円で見に行くことができました。

  

  

映画「みんなの学校」HPの文章を引用しつつ、感想を書いてみます。

映画「みんなの学校」HP

  

大空小学校がめざすのは、「不登校ゼロ」。

ここでは、特別支援教育の対象となる発達障害がある子も、

自分の気持ちをうまくコントロールできない子も、

みん な同じ教室で学びます。

ふつうの公立小学校ですが、開校から6年間、児童と教職員だけでなく、

保護者や地域の人もいっしょになって、

誰もが通い続けることができる学校を作りあげてきました。

すぐに教室を飛び出してしまう子も、つい友達に暴力をふるってしまう子も、

みんなで見守ります。あるとき、「あの子が行くなら大空には行きたくない」と

噂される子が入学しました。

「じゃあ、そんな子はどこへ行くの? そんな子が安心して来られるのが地域の学校のはず」

と木村泰子校長。やがて彼は、この学び舎で居場所をみつけ、春には卒業式を迎えます。

いまでは、他の学校へ通えなくなった子が次々と大空小学校に転校してくるようになりました。  

  

他の学校へ通えなくなった子まで転校してくる学校!

ここに通っていたら、教師は力がつくだろうなあ。

学級にいろいろな先生が関わっていたと思います。

担任王国ではなくて、いろいろな先生が子どもたちに関わっている感じでした。

校長先生もかかわっています。

映画を見ていて不思議に思い調べたら、

校長先生は1年と6年の体育を担当しているそうです。

6年には特に重度の発達障害の子がいます。

その子たちを含めて、運動会には全員リレーでした。

障害のある子に伴走して走る子がいました。

これもありだなと思いました。

1人では走れない子に伴走がついてリードしてあげるのはいい。

1人でできることだけが立派ではなくて、

寄り添いが必要な子には、他の子が寄り添ってあげるのがいいです。

どうやって寄り添ったらいいか、寄り添われたらどうしたらいいか、

両者にとって大事な体験になると思います。

  

  

このとりくみは、支援が必要な児童のためだけのものではありません。

経験の浅い先生をベテランの先生たちが見守る。

子供たちのどんな状態も、それぞれの個性だと捉える。

そのことが、周りの子供たちはもちろん、地域にとっても

「自分とは違う隣人」が抱える問題を一人ひとり思いやる力を培っています。

映画は、日々生まれかわるように育っていく子供たちの奇跡の瞬間、

ともに歩む教職員や保護者たちの苦悩、戸惑い、よろこび・・・。

そのすべてを絶妙な近さから、ありのままに映していきます。

そもそも学びとは何でしょう? そして、あるべき公教育の姿とは?

大空小学校には、そのヒントが溢れています。

みなさんも、映画館で「学校参観」してみませんか?

  

 

「絶妙な近さ」だと思います。

きっとたくさんカメラを回しているので、

子どもたちや教師にとって、カメラは空気のようになっているのでしょう。

カメラがすぐ近くにあるのに、映る人たちは普通にやりとりしています。

  

  

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校長先生は木村泰子先生。2006年の開校時から大空小学校の校長先生。

子どもと格闘の日々。

木村校長先生がある子に話をします。

その子は大人を蹴ったのです。

思いが十分に伝わったのか、半信半疑状態。

その大人にあやまりに行かせたが、

付き添った先生によるとあまりいい顔をしていなかったとのこと。

でも大人の人が両手を差し伸べたら、握手をしていたとのこと。

そうかあと渋い顔の木村校長先生。

しかし、しばらくしてその大人の人から校長先生に電話が入ります。

握手した時に、その子が修学旅行のお土産の「まがたま」をくれたとのこと。

もらっていいですよねという確かめの電話でした。

校長先生が話した時も、思いが伝わったかどうか半信半疑。

あやまりに行った時にもいい顔をしていなかったのに、

お詫びの品物を渡していたことを知った木村校長先生は叫びます。

「わかりにくいやっちゃなあ!」

その顔はとてもうれしそう。

こういうことってあります。子どもってやっぱり不器用なんです。

共感した場面でした。

  

 

暴力をふるった子にも校長先生が話をします。

なかなか暴力が止まらない子。

しかしその子が、手紙を持って校長室にやってきました。

「僕はもう全体に暴力はふるわない 暴言ははかない」

という宣言が書いてありました。

校長先生は言います。

「その一瞬は子どもは本当に考えています。

一瞬一瞬、その時は子どもは本当にそう考えます。

でも点なんです。

それらの点をどうつなげていくかだね」

そう見るのですね。なるほど。

  

セイシロウくんのお母さんの発言も心に残りました。

前に通っていた小学校では特別支援学級に在籍し、

校内で2時間くらいいるのが限界の子どもでした。

大空小学校では、一日います。

お母さんは次のようなことを言います。

「筆箱を開けて、鉛筆の芯が減っているのを見るとうれしくなります」

「かばんの中がくちゃくちゃになっていると、自分で入れたんだと思い、

これまたうれしくなります」(前の小学校では、先生たち身のまわりの人が入れてくれた)

「上靴が汚れているのもうれしいです。よく活動しているんだと想像できて」

 

学校で、子どもがたくさん活動することが、お母さんにとっては幸せなんだ。

これは高校野球をやっている息子の練習着が汚れていると、

「今日は頑張ったな」と思う自分なので、よくわかる気持ちです。

活動した証をたくさん保護者に伝えないとね。

  

「自分とは違う人間がいることを理解して人と付き合う」

と映画を見ながら、メモをしました。

「自分ができることは他の人もできるとは限らない」

「そういうことをわかって動きなさい」

校長先生がそう言って注意していたと思います。

  

「障害のある子とずっと一緒にいると、周りの子どもたちが変わる」

そんなメモもしました。

 

”障害やその子が抱える状況”を付き合っていく中で知って、

周りの子たちが適切な行動ができるようになってくる。

  

大空小学校では、そんな理想をめざして頑張っています。

私も頑張ろう。

 

  

今日はスコットランド戦/魚のようなスイカ

  

今日は9月23日。

  

ラグビーW杯。

「プロフェッショナル 仕事の流儀」でヘッドコーチの

エディ・ジョーンズさんのことを知ってから、関心をもつようになりました。

※参考:ここでも道草 見城徹さん、エディ・ジョーンズさんの記事(2015年5月4日投稿)

初戦で南アフリカを撃破。すごいすごい!

今日はスコットランド戦です。

にわかラグビーファンとして応援したいです。

  

  

話は変わって、スイカの話。

先日台所でスイカを切っていた奥さんが

「魚みたい!」と叫びました。

のぞきに行って、なるほどと思いました。

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スイカが大すきな私ですが、もう終わりが近い。

秋ですよ、もう。

  

例外の本「汚名~第二十六代沖縄縣知事 泉守紀」

 

今日は9月23日。

  

連休中にじっくり繰り返して見ている番組があります。

2本。

2015年6月14日放映の「NHKスペシャル 沖縄戦全記録」

8月20日放映の「英雄たちの選択 ”命どぅ宝” 沖縄県知事

島田叡(あきら)からの伝言」です。3回通り見ました。

後者の番組も、1945年1月に沖縄に赴任して、

沖縄戦時の行政のトップを務めた島田知事の話なので、

2本とも沖縄戦ことなのです。

  

番組についていずれこのブログに書きたいと思っていますが、

その前に、昨日調べてわかったことを書きます。

  

島田叡は現在のように選挙で選ばれる知事ではなくて、

中央政府から任命される官選知事でした。

島田が選ばれたのは、1945年の1月でした。

沖縄県で最も評判のいい知事として名が残る島田叡ですが、

その前知事は、逆に最も評判のよくない知事です。

上記の「英雄の選択」でも、「とんでもない前知事」と言われていました。

在任中の1944年の10月に、那覇が空襲を受けた時には、

いち早く避難をして安全な場所に逃げました。

なにかと理由をつけて出張に出かけ、

危険な沖縄県にいる時間が少ない知事でした。

他県への転任を画策し、1945年には香川県知事となっています。

軍部と対立して、疎開を進めなかったために、

沖縄戦で多くの住民が巻き込まれて亡くなったとされています。

「英雄の選択」では、前知事の名前は出ませんでした。 

  

ここまで批判される前知事に興味を持ちました。

非難されることがわかりきっていることをなぜ行ったのか。

戦後どのように生きたのか知りたくなりました。

  

調べました。

名前は泉守紀(しゅき)。

泉知事に対する批判は、あちこちのサイトで見ることができました。

たとえばここ↓

※参考:小名木義行 ねずさんのひとりごと 沖縄の二人の知事・・・泉守紀と島田叡

引用します。

  

この男、頭は空っぽだけど、態度だけはでかい。

  

泉は、在任一年半のうち、三分の一近い175日間もの間、

沖縄県を留守にしています。

どこに行っていたのかと言うと、東京との調整と称して、

風雲急を告げる沖縄をほったらかして、ずっと中央に逃げていた。 

  

年が明けて米軍上陸必至の情勢になると、

大蔵省幹部の実兄に宛てて転任工作を依頼する手紙を出し、

自らも上京して、沖縄を去り、見事、

裏からの根回しを成功させて、香川県に去ってしまった。

悪く考えれば、泉知事は、沖縄がヤバイとなったとき、

県知事という職を利用して、中央や軍、

あるいは県庁職員の疎開案に、ことごとく反対し、

そのことで沖縄県民の安全を人質にして、自分ひとりだけ、

そこからうまく逃げ出す算段をしたとすらいえる。 

  

泉は、香川県知事として終戦を迎え、

その後も団体役員などを歴任したうえ、

昭和59年、86歳で天寿をまっとうしています。

  

こういうもっともらしい理屈をいう卑怯者というのは、

古来、どこの世界にもいるものです。

こういう連中には共通点があって、何かあると、

問題点を指摘するにとどめて、具体的意思決定は、

次々と先送りする。

  

約十万人の沖縄県民を死に至らしめた全責任は、

疎開を故意に遅らせた泉沖縄県知事にある。

  

非常に厳しい批判です。

このような批判をたくさん読んだ後に、次の文章に出会いました。

 

最近に至るまでさまざまな評伝は、

(泉)知事を「戦場から逃げた臆病で卑怯な県知事」として

定説化していたが、ここに一冊の例外が現れた。

※引用:大城将保の【おきなわ百話】(41)泉知事の「汚名」の真相

  

その例外の本がこれ↓

Photo  

上記のサイトからさらに引用します。

  

野里洋著『汚名-第二十六代沖縄県知事 泉守紀』

(講談社 1993年12月)である。

野里氏は泉元知事の消息を探し続けていたが、

戦後40年目にして埼玉県の自宅をさがしあて、

泉夫妻にインタービューを行うとともに

秘蔵の日記帳を閲覧する機会に恵まれた。

取材の経緯や日記の内容については

『汚名』の原本にゆずるとして、同書を一読して強く感じたことは、

「戦場化沖縄から逃げた臆病で卑怯な県知事」という風評が、

当時の沖縄県守備軍によって意図的に

ばらまかれたものであったという驚きであり、

今なお、同様のデマが沖縄現地でも受け継がれている

恐ろしさであった。

  

もともと泉知事は根っからの軍隊嫌いであり、

行政官僚としての使命感から次々突きつけてくる

軍の不条理な要求には屈することがなかった。

   

強い信念に基づいた強硬な姿勢が軍部から非難され、

やがて泉知事攻撃へと発展して軍部の片棒をかつぐ新聞などの

泉攻撃キャンペーンに発展していく。

沖縄守備軍が県下にばらまいた泉知事攻撃の

ネガティブキャンペーンは戦後まで受け継がれ、

今日にいたるまで泉知事の「汚名」が清算されたとはいえない。

  

  

真実はどうなのだろう。

きっと泉知事に責められるべきことはたくさんあったと思われますが、

もしゆがめられた真実があるのだったら正して、

正当に出来事を見たいと思いました。

「汚名」を読んでみたいけど、地元の図書館にはなかったです。

しかし、田原市の図書館にはあった!

  

  

2015年9月22日 (火)

Def Techのストレートな音楽賛歌

 

今日は9月22日。

  

生活のBGMは、最近はずっと

Def Techのアルバム「Mind Shift」でした。

500  

飽きもせずに繰り返し聞きました。

聴き取れない英語の歌詞の中に、

キラッと光る日本語の歌詞。

いいですねえ。

  

あのヒット曲「My Way」の中にもそんな歌詞がありました。

「手をつなげば怖くないから そこまでお前は弱くないから」

この歌詞は良かったです。

2005年の名曲。聞いてみませんか↓

  

アルバム「Mind Shift」の曲については以前も書きました。

ここでも道草 anyway(とにかく) ここから走りだせ たった今♪(2015年9月1日投稿)

ここでは「The Dub Dichotomy」について書きました。

他にもこの2曲がお気に入り。

  

「おんがく♫MUSIC」

印象に残った歌詞。

「始まりはきっと恐れる心を 打ち砕く為に吠えた叫び」

「音楽があれば いちばん苦しいときこそ

 楽しさに溢れた世界へ輝くから」

「ほら顔を上げて見てごらん 全てが輝きだす

 実はこんな素晴らしい世界に生まれたんだ」

ストレートな音楽賛歌。

この曲なら、目の前にいる子ども達と一緒に聴いて、

一緒に口ずさんでもいいなと思います。

  

  

「Rays of Light」

実はこの曲は歌詞が心に残っていません。

さわやかなメロディーが心地良いのです。

Wikipediaに、この曲についてこう書いてありました。

 

木漏れ日という意味。

2009年末に生まれたShenの愛娘シエラを見るため

Def Techが再会した際、日本人のShenの妻に

「仕事抜きにこの子の子守唄を作ってほしい。」

とMicroが頼まれ、Shenと共に作ることとなった

正にDef Tech復活のカギとなった楽曲である。  

Wikipedia Mind Shift

読んで納得。子守唄だったんだ!

歌詞が入ってこなくて、心地よいわけです。

  

    

アルバムの中ではこの3曲は次のように並んでいます。

⑤「おんがく♫MUSIC」

⑥「The Dub Dichotomy」

⑦「Rays of Light」

至福の3曲連続でした。  

  

  

昨日から、生活のBGMを変えました。

HYのアルバム「LIFE」です。

今度はどんな曲と出会えるでしょうか?

2015年9月21日 (月)

乾電池の発明者は誰だろう?

 

今日は9月21日。

  

日めくりより。

「乾電池は、なぜ単〇というのか?」  

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なぜ「単」がつくか疑問に思っていませんでした。

なぜ疑問に思わなかったの?

この日めくりは、時々問いかけてきます。

  

乾電池の「乾」はなぜだろう疑問に思いました。

これは電池工業会なる組織のHPに説明がありました。

電池工業会 なるほど電池Q&A

1888年、ドイツのガスナーが、電解液でんかいえき石膏せっこうでかため、

持ち歩いても中の液体がこぼれない電池を発明しました。

それまで使われていた、液体がこぼれやすい電池に対して

「乾いた電池」=乾電池と呼ばれ、

この発明によって電池が使いやすくなり

広く世の中に行きわたるきっかけになりました。

  

  

むむむ・・・1888年。

日めくりには1887年に「屋井乾電池」が乾電池の始まりだとあるけど、

どうなっているの?

これまた電池工業会の説明を見つけました。

※参考:電池工業会HP 電池の歴史 1.屋井乾電池

屋井さんは、時計店に勤めていて、

電池で正確に動く「連続電気時計」を発明した人でした。

ただこの時に使っていた液体式の電池では、

手入れが必要であったし、寒さで液体が固まってしまうと、

電池の機能が働かなかったそうです。

そこで乾電池の開発に着手。1887年に発明しました。

 

一部引用します。

  

しかし、日本における乾電池の特許の第一号は屋井ではなく、

高橋 市三郎氏です。

海外ではドイツのガスナー、デンマークのヘレンセンが

1888年に乾電池を発明したことになっています。

  

「発明したことになっています」

とは、微妙な言い方です。

はっきりさせてくださいよと電池工業会に言いたい。

次の歴史も面白い。


明治27年に日清戦争が勃発し、ある日発行された号外で、

満州において使用された軍用乾電池の

大成功に関する記事が掲載されました。

従来、液体型の電池が使われていましたが、

満州の寒気に乾電池だけが使用でき、

号外で「満州での勝利はひとえに乾電池によるもの」

と報道されました。

新聞はこの乾電池が屋井のものであることを聞きつけ、

翌日の新聞にこれを書き立てました。

  

  

日清戦争の裏では、このような乾電池の活躍があったのですね。

いつか授業でクイズで出したいですね。

  

「日清戦争直前に、いま皆さんにとって身近なものが発明され、

日清戦争でおおいに使われました。何だと思う?」

  

   

電池のこと、もう一つ。

「単4」電池は知っているけど「単5」は?

冗談のような疑問。調べてみたら・・・・

  

ありました、単5!

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それじゃあ、「単6」は?

何と、単6もありました!

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それじゃあ、「単7」は?

これはどうも確定できず。

2015年9月19日 (土)

ススキの話その5/枯れすすき・ススキの登場する曲

  

今日は9月19日。

  

ススキの話の最終回。

  

本「身近な雑草の愉快な生きかた」(ちくま文庫)から

またまた引用します。

  

風に揺れるすすきの穂は秋の風物詩であるが、

ススキにとっても秋風はとても大切である。

というのもススキは風によって花粉を運んでいるのだ。

お月見に飾られる穂先のそろったススキの穂は、

まだつぼみの状態である。

しかし、雄しべと雌しべを出して花が咲きだすと、

穂が四方に広がる。

こうして、風を受けやすくして、自分の花粉を風に運ばせながら、

一方で風によって運ばれてきた

ほかの個体の花粉をキャッチするのである。

花が終わると広がっていたススキの穂は閉じて、ふたたびそろう。

種子が熟すまでのあいだは、

風によって痛まないようにやり過ごすのだ。

やがて種子が熟すと、ススキは再び穂を四方に広げる。

こんどは、風に乗せて種子を飛び立たせるためである。 (228p)

  

穂はこのような動きをしていたのですね。

確かめたくなります。今年の秋はススキにこだわってみますかね。

こんな映像がありました。

ススキが種子を飛ばす映像です。

こんなのを生で見てみたいです。

 

  

引用を続けます。

  

こうして風にさらされて種子を飛ばし終えたススキは、

秋の終わりとともに枯れてしまう。

しかしケイ酸質を多く含むススキは茎がかたいので、

枯れても立ち尽くしたままである。

  

〽おれは河原の枯れすすき

  

その立ち枯れたようすは、そう歌われた。 (228p)

  

  

「枯れすすき」はよく聞く言葉。

その理由は”ケイ酸”だったのですね。

  

しかし、「河原の枯れすすき」はススキではなくオギかもしれませんね。

※参考:ここでも道草 ススキに似ているが、ススキではないもの(2007年11月18日投稿)  

  

ちなみに「おれは河原の枯れすすき」は

「船頭小唄」(野口雨情作詞/中山晋平作曲 大正10年)の

歌い始めでした。

 

Photo_2   

  

「枯れすすき」といえば忘れてはいけないのがこの曲。

 

Photo_3   

「昭和枯れすすき」(山田孝雄作詞/むつひろし作曲 昭和49年)です。

しっかり印象に残っている曲です。

  

ケイ酸による立ち枯れたススキを見て、

人間はいろいろ思うのですね。

季節が寒い季節だから、プラスには考えないのですね。

  

  

調べていたら「すすき」という曲を見つけました。

「すすき」(稲津端子作詞 渡部節保作曲)です。

歌詞です。

  

すすき すすき  お前の側から 秋はどんどん逃げて行くよ

そして その羽毛(はねげ)のような綿がなくなると  

ほら こんな爽やかな風にも散っていく

  

すすき すすき  お前の側から 秋はどんどん逃げて行くよ

寂しく 一人ぼっちにならないうちに 私と一緒に行く気はないかい?

ほら 夕日も静かに姿を消してゆく 消してゆく

  

 

  

まさに、種子を飛ばすときの様子を歌にしています。

今年の秋はやっぱりススキの穂の観察をしたいですね。

  

ちなみに次のサイトに、

この歌詞に関する面白いエピソードが書いてありました。

http://www.geocities.jp/nekoron6/hitokoto/050210/050210.html

引用させてもらいます。

こんな歌詞を小学生の時歌ってたんだな~と改めてしみじみ・・・。

そうそうこの歌詞の中の「羽毛(はねげ)」のところを

男の子たちは「鼻毛(はなげ)」といつも歌っていて、

それを聴くたび私はお腹を抱えてヒーヒー大笑いしていました

(お下品な子供だったのね、てへへ)。

当時なんでこんなことで(しかも毎回)笑えたんだろう・・・。

笑っちゃいけない、いけないと思えば思うほど

おかしくなっちゃうんですよね、なんてことないことでも。

朝礼の時なども1人で思い出し笑いをしてにやついてたな~。

ピアノのレッスン中もそんな感じで、

始めのうちは先生も一緒になって「なにがおかしいの」と

笑ってるんだけれど、私がいつまでもにへらにへらした顔で

弾いてるもんだから「もう帰りなさい!!」とレッスン中断に。

そして先生は家に電話。帰ると激怒した母が待っていました。

なつかしいあの頃・・・(笑)

 

そりゃあ、羽毛(はねげ)は鼻毛にしたくなりますよ。

  

  

この曲を最後に、「ススキの話」シリーズは完了。

読んでいただきありがとうございます。

ススキの話その4/「カヤ」がつく地名

  

今日は9月19日。

  

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先日載せたわが学級の掲示物です。

もちろんお月見の図です。

  

本「身近な雑草の愉快な生きかた」(ちくま文庫)から

引用します。

  

ススキの名は「すくすく育つ木」に由来する。

お月見には、ススキが飾られるが、これはススキの穂を

稲穂に見立てて、ススキのように稲がすくすくと育つように

という願いがこめられているらしい。  (226p)

  

9月27日が十五夜。迫ってきました。

いい天気だといいのですが。

上記のことを知って、できたらススキを取ってきて

お月見してはいかがでしょうか。

本からの引用を続けます。

  

これだけ重要なススキだったから、

稲を管理する田んぼがあるように、

昔は村々には必ずといっていいほど、

ススキを管理する「かや場」と呼ばれる場所があった。

東京にある茅場町の地名はその名残である。

ススキは屋根材のほか、

家畜の餌や堆肥の原料としても用いられた。 (226p)

  

  

東京に「茅場町」があるように、

地元の愛知県にもないか調べました。

  

隣の豊橋市に「茅野(かやの)新田」という地名が

あったことがわかりました。

豊川の河口左岸にあった地名で、

明治11年に青野村の一部になって地名は消えました。

しかし「茅野」という地名は、豊川河口左岸に残っていました。

  

  

 

同じく豊橋には「萱町(かやまち)」がありました。

豊橋駅の近くです。よく行く場所です。

見た覚えがある地名です。

  

名古屋市には「萱場」という地名がありました。

ナゴヤドームに近い場所です。

  

  

愛知県にもありました。

ススキなどの「カヤ」に関係したかどうかは不明です。

ちなみに今回参考にした本は

「角川日本地名大辞典 23 愛知県」(角川書店)です。

1989年3月8日発行の本です。

2校目の学校を去る時に、

保護者の方からプレゼントしていただいた本です。

当時の私は地名に凝っていたので、それを見かねて?

選んでくれたようです。

まだ発行されてまもない本でした。

嬉しかったです。そして今でも使っていますよと伝えたいです。

ススキの話その3/ススキの葉ののこぎり歯を観察

 

今日は9月19日。

  

ススキをさっそく探しに行ってきました。

やっぱりありました。見ていなかっただけのこと。

  

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写真の場所と、もう1か所でススキを採取。

葉を解剖顕微鏡で調べてみました。

2つ前の投稿で引用した文章↓

  

ススキの葉で皮膚が切れやすいのは、

ガラス質のトゲがのこぎりの歯のように並んでいるからである。

※本「身近な雑草の愉快な生きかた」(ちくま文庫)より

  

これを確かめるためです。

 

うれしいことに、ケイ酸でできたのこぎりを見ることができました。

半透明の小さなのこぎり歯でした。

葉のどこにもついているわけではないようです。

触ってみて、引っかかる場所を見てみると、発見しやすかったです。

  

写真に撮ってここに載せたいと思いました。

しかし、解剖顕微鏡で見た通りにはいきません。

でものこぎり歯の様子はわかるかな。

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別の葉

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これはどっち向きに歯がついていると思いますか?

葉の付け根に向かうと引っかかるようになっていました。

つまり動物がこの葉を食べようと

葉先の方から口に入れていくと、

のこぎりの歯に引っかかるというわけです。

(あくまでも予想です)

  

子どもたちに連休中の宿題として、

「生まれて初めてのことをして、日記に書いてくる」というのを

課しました。

私にとって、ススキの葉ののこぎり歯の観察は、

生まれて初めてのことでした。

子どもたちに課しただけでなく、私自身もやってみました。

  

ススキの話その2/曽爾高原に行ってみたい・稲にとってのケイ酸

  

今日は9月19日。

  

「ススキの葉は、ガラス質のトゲがのこぎりの歯のように並んでいる」

と前投稿で書きました。

確かめたいです。

しかし、どこにススキがあるかな?

思いうかべれないのが残念。

今日は外に出かけた時には、気にして周りを見ていきたい。

あれども見えず。その気になればすぐに見つかるでしょう。

(もう一つ、ブタクサも発見して確認したいと思っています→

ここでも道草 今年はオオブタクサ(またはブタクサ)の写真を撮りたい 2015年8月27日投稿

  

  

ブログ「ここでも道草」でススキに似た植物を載せています。

ここでも道草 ススキに似ているが、ススキではないもの(2007年11月18日投稿)

この時は「オギ」でした。

ここでも道草 8月上旬の花々3・・・マテバシイ・イヌマキ2・トキワススキ(2012年9月5日投稿)

この時は「トキワススキ」でした。

トキワススキは9月までの植物。

ススキは早くて9月から穂が出ます。

現在は一番厄介な時期かもしれません。

  

  

登山に行くとススキが一面にある場所に出くわすことがあります。

ススキの名所として有名なのが、曽爾(そに)高原。

Photo_img_05b 曽爾村HP

いつかは行ってみたい場所です。

ただシーズンは人が多そうです。

10月初めなら少しは空いているかな?

曽爾高原経由での倶留尊山(くろそやま)登山がいい。

  

実行したくなった。

わが家から登山口まで3時間。

  

  

  

イネ科の植物はケイ酸を含むと前投稿で書きました。

関連して次のようなサイトがありました↓

JA全農HP ケイ酸の効果

稲作にとってケイ酸は重要であることが勉強できます。

稲がケイ酸を十分吸うことで、しっかり立つことができ、

葉も直立します。

そうすると光合成も十分に行われるのだそうです。

ケイ酸は稲の姿勢をよくする役目があるのです。  

  

  

ススキの話 まだつづく

ススキの話/ケイ酸を含む・かや葺き屋根

  

今日は9月19日。

さあ5連休。とにかく動こう!

道草もしよう!投稿4500本目を踏みたいなあ。

(今回が4489本目)

   

今回はススキの話。

本「身近な雑草の愉快な生きかた」(ちくま文庫)からの引用。

  

能力が高い「切れ者」なのだが、プライドが高く、

下手に触ると痛い目に遭わされそうな人がいる。

ススキはまさにそんなイメージである。

不用意にススキの葉に触ると皮膚を切ってしまうことがある。

実際、ススキの原で手や足を

傷だらけにした経験を持つ方も多いだろう。  (224p)

  

確かに経験あり。

その理由が書いてあり興味を持ちました↓

  

ススキの葉で皮膚が切れやすいのは、

ガラス質のトゲがのこぎりの歯のように並んでいるからである。

私たち人間が作る透明なガラスはケイ酸を原料としている。

ススキをはじめとしたイネ科の植物は、

草食動物から身を守るために、

土の中から吸収したケイ酸を体内に蓄積しているのだ。

そのため、葉だけでなく茎もかたい。

ススキの茎はコンクリートと同じくらいの耐久力があると

いわれているくらいだ。 (224p)

  

ほらほら、ワクワクしてくるような情報ではありませんか。

あの硬さはケイ酸だったのですね。

さらにこんな文章が続きます。

  

ススキは「カヤ」とも呼ばれる。

昔はススキの茎をたばねて屋根を作った。

これが「かや葺き屋根」である。

ススキが用意できない家では、しかたなく稲わらを使って

「わら葺き屋根」にした。

ススキは稲よりずっと高級だったのである。  (224p)

  

「かや葺き屋根」の方が「わら葺き屋根」より高級なのですね。

今まで比較して見たことありませんでした。

というより区別もできないのではないかな。

全部「わら葺き屋根」と思って見ていたと思います。

耐久性に大きな違いがあるようです。

「かや40年、麦わら15年、稲わら7年」と言われるそうです。

かやには適度な油分があり、雨を弾きますが、

わらは水を吸う特性があることで、耐久性の違いが生じました。

※参考:Yahoo! 知恵袋  

  

中学生の自由研究も面白かったです↓

※参考:かやぶき屋根はどうして雨もりしないのか?

結論だけ引用します。

  

Photo   

知恵袋の「雨を弾く」考えとの違いがありますが、

かやの表面に溝があって、雨を流すこと、

束ねたかやだと茎と茎の間を雨が伝わることなど

つきとめていて、すごいなと思います。

   

そうそうこの中学生が「カヤ」について説明してくれています。

「カヤ」は「ススキ」だけでなく「ヨシ」「チガヤ」などの

屋根を葺く草本の総称だそうです。  

  

ススキの話 つづく

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