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2015年9月23日 (水)

例外の本「汚名~第二十六代沖縄縣知事 泉守紀」

 

今日は9月23日。

  

連休中にじっくり繰り返して見ている番組があります。

2本。

2015年6月14日放映の「NHKスペシャル 沖縄戦全記録」

8月20日放映の「英雄たちの選択 ”命どぅ宝” 沖縄県知事

島田叡(あきら)からの伝言」です。3回通り見ました。

後者の番組も、1945年1月に沖縄に赴任して、

沖縄戦時の行政のトップを務めた島田知事の話なので、

2本とも沖縄戦ことなのです。

  

番組についていずれこのブログに書きたいと思っていますが、

その前に、昨日調べてわかったことを書きます。

  

島田叡は現在のように選挙で選ばれる知事ではなくて、

中央政府から任命される官選知事でした。

島田が選ばれたのは、1945年の1月でした。

沖縄県で最も評判のいい知事として名が残る島田叡ですが、

その前知事は、逆に最も評判のよくない知事です。

上記の「英雄の選択」でも、「とんでもない前知事」と言われていました。

在任中の1944年の10月に、那覇が空襲を受けた時には、

いち早く避難をして安全な場所に逃げました。

なにかと理由をつけて出張に出かけ、

危険な沖縄県にいる時間が少ない知事でした。

他県への転任を画策し、1945年には香川県知事となっています。

軍部と対立して、疎開を進めなかったために、

沖縄戦で多くの住民が巻き込まれて亡くなったとされています。

「英雄の選択」では、前知事の名前は出ませんでした。 

  

ここまで批判される前知事に興味を持ちました。

非難されることがわかりきっていることをなぜ行ったのか。

戦後どのように生きたのか知りたくなりました。

  

調べました。

名前は泉守紀(しゅき)。

泉知事に対する批判は、あちこちのサイトで見ることができました。

たとえばここ↓

※参考:小名木義行 ねずさんのひとりごと 沖縄の二人の知事・・・泉守紀と島田叡

引用します。

  

この男、頭は空っぽだけど、態度だけはでかい。

  

泉は、在任一年半のうち、三分の一近い175日間もの間、

沖縄県を留守にしています。

どこに行っていたのかと言うと、東京との調整と称して、

風雲急を告げる沖縄をほったらかして、ずっと中央に逃げていた。 

  

年が明けて米軍上陸必至の情勢になると、

大蔵省幹部の実兄に宛てて転任工作を依頼する手紙を出し、

自らも上京して、沖縄を去り、見事、

裏からの根回しを成功させて、香川県に去ってしまった。

悪く考えれば、泉知事は、沖縄がヤバイとなったとき、

県知事という職を利用して、中央や軍、

あるいは県庁職員の疎開案に、ことごとく反対し、

そのことで沖縄県民の安全を人質にして、自分ひとりだけ、

そこからうまく逃げ出す算段をしたとすらいえる。 

  

泉は、香川県知事として終戦を迎え、

その後も団体役員などを歴任したうえ、

昭和59年、86歳で天寿をまっとうしています。

  

こういうもっともらしい理屈をいう卑怯者というのは、

古来、どこの世界にもいるものです。

こういう連中には共通点があって、何かあると、

問題点を指摘するにとどめて、具体的意思決定は、

次々と先送りする。

  

約十万人の沖縄県民を死に至らしめた全責任は、

疎開を故意に遅らせた泉沖縄県知事にある。

  

非常に厳しい批判です。

このような批判をたくさん読んだ後に、次の文章に出会いました。

 

最近に至るまでさまざまな評伝は、

(泉)知事を「戦場から逃げた臆病で卑怯な県知事」として

定説化していたが、ここに一冊の例外が現れた。

※引用:大城将保の【おきなわ百話】(41)泉知事の「汚名」の真相

  

その例外の本がこれ↓

Photo  

上記のサイトからさらに引用します。

  

野里洋著『汚名-第二十六代沖縄県知事 泉守紀』

(講談社 1993年12月)である。

野里氏は泉元知事の消息を探し続けていたが、

戦後40年目にして埼玉県の自宅をさがしあて、

泉夫妻にインタービューを行うとともに

秘蔵の日記帳を閲覧する機会に恵まれた。

取材の経緯や日記の内容については

『汚名』の原本にゆずるとして、同書を一読して強く感じたことは、

「戦場化沖縄から逃げた臆病で卑怯な県知事」という風評が、

当時の沖縄県守備軍によって意図的に

ばらまかれたものであったという驚きであり、

今なお、同様のデマが沖縄現地でも受け継がれている

恐ろしさであった。

  

もともと泉知事は根っからの軍隊嫌いであり、

行政官僚としての使命感から次々突きつけてくる

軍の不条理な要求には屈することがなかった。

   

強い信念に基づいた強硬な姿勢が軍部から非難され、

やがて泉知事攻撃へと発展して軍部の片棒をかつぐ新聞などの

泉攻撃キャンペーンに発展していく。

沖縄守備軍が県下にばらまいた泉知事攻撃の

ネガティブキャンペーンは戦後まで受け継がれ、

今日にいたるまで泉知事の「汚名」が清算されたとはいえない。

  

  

真実はどうなのだろう。

きっと泉知事に責められるべきことはたくさんあったと思われますが、

もしゆがめられた真実があるのだったら正して、

正当に出来事を見たいと思いました。

「汚名」を読んでみたいけど、地元の図書館にはなかったです。

しかし、田原市の図書館にはあった!

  

  

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