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2019年7月

2019年7月31日 (水)

押入れから出てきた絵葉書で社会科の勉強その2

 

今日は令和元年7月31日。

  

親の押入れの片づけをしていて出てきた絵葉書の話つづき。

  

Epson073  

東京駅です。

東京駅は太平洋戦争中の空襲で被害を受けました。

それまでは3階建ての駅舎でしたが、

戦後の工事で2階となりました。

戦前の東京駅の写真は、この記事に載せました。☟

※ここでも道草 戦災前の東京駅(2011年1月25日投稿)

☝ この記事でも触れていますが、

戦後東京駅は1951年(昭和26年)にできています。

すなわちこの絵葉書は、1951年以降のものとなります。

そして前記事で書いたように、連合国総司令部(GHQ)が

まだ存在することから、1952年4月以前ということに

なります。年代が絞られました。

  

気になるのは、絵葉書の下に書かれた漢字です。☟

Epson073a  

東京驛 東京都の ◇ 門

◇ がわかりません。

門構えに「前」で「前門」かなと思ったけど、

門構えに「前」という漢字が見当たりません。

※参考:漢字辞典オンライン 部首:もん・もんがまえ・かどがまえ(門)の漢字(画数順)

☝ ここを見て最も適当なのはこの字だと思いました。☟

Photo_3  

この字は「関」と同じ意味です。

つまり「関門」です。

「東京都の関門」というと、ようこそ!という感じではないのですが、

この字が最も私の中では有力です。

 

  

もう1枚絵葉書を載せます。

Epson072  

十分、戦災復興している仲見世だと思います。

遠くに気になるものが写っています。

Epson072a  

浅草寺の屋根の上に見えているのは、

アドバルーンではないでしょうか。

ちょうど風船の部分が看板で見えなくなっていると想像します。

アドバルーンについて調べると、面白いことがわかりました。

コトバンク 日本大百科全書(ニッポニカ)/小学館

  

引用します。

  

戦後初めてのアドバルーンは、1948年(昭和23)に

東京・日劇屋上であげられた「お夏清十郎」ショーのものであるが、

風船爆弾のイメージが残存するという

GHQ(連合国最高司令部)の指令で、

わずか2個のアドバルーンでさえ1日だけの浮揚で

禁止されてしまった。解禁許可第一号は

翌1949年11月の東京郵政局(のちの日本郵政公社東京支社。

日本郵政公社は民営化され現在は日本郵政グループ)によるものであった。

その後1951年4月の「繋留(けいりゅう)広告気球制限規定」の

緩和によって本格的なアドバルーン時代となった。

  

もし、絵葉書の不明のものがアドバルーンだとしたら、

この絵葉書は、1951年4月以降となります。

東京駅のことも考えて、この絵葉書の写真は、

1951年4月~1952年4月の撮影となります。

※参考 アドバルーンについてはこのサイトも勉強になる。☟

サイトを開いてスクロールすると、アドバルーンの話になる。

NHKスペシャル 戦後70年のニッポンの肖像 見上げる視線をくぎづけに!日本生まれの広告媒体  

  

  

  

この絵葉書は、すでに亡くなった母親が

買ったものと思われます。

昭和7年(1932年)生まれです。

1952年くらいに東京に遊びに行ったとしたら、

母親が20歳くらいの時に買ったものとなります。

結婚前です。

ちょっと想像しちゃいます。

自分が見たことがない若さなんだよなあ。

  

 

  

その時に買った絵葉書を、息子がこうやって分析するなんて、

20歳だった母親は想像しなかったでしょうね。

押入れから出てきた絵葉書で社会科の勉強その1

  

今日は令和元年7月31日。

  

親の押入れの片づけをしていると、

いろいろ出てきます。

親が旅行に行った時に買ってきたと思われる絵葉書が

いくつか出てきました。

捨ててしまおうと思ったけど、

中身を見たら、捨てるのを留まりました。

  

何枚か絵葉書の写真を載せます。

Epson070  

☝ 絵葉書が入っていた袋のデザインです。

国会議事堂はわかりますが、下にある建物が

何かわかりません。

でも、中に入っている絵葉書を見たらわかりました。

  

Epson074  

☝ 連合国総司令部(GHQ)の建物でした。

連合国司令部は、終戦から1952年の4月まで、

日本を統治していました。

この建物を絵葉書の1枚にし、

さらには袋のデザインにもしていたことに、

不思議な気がしました。

今はこの建物はどうなっているのだろう。

建物については、Wikipedia 連合国軍最高司令官総司令部

次のように書いてありました。

 

当初は現在の横浜税関に置かれたが、

後に皇居と東京駅に挟まれた丸ノ内地区一帯のオフィスビルは

その多くが駐留する連合国軍によって接収され、

このうち総司令部本部は第一生命館に置かれた。

マッカーサー用の机は石坂泰三(第一生命社長)のものをそのまま使用した。

第一生命保険側は占領下では第一生命館の接収が免れ得ない事を承知しており、

当時では最新のオフィスビルであった当館を司令部として使う

優位性を説明し採用されたものである。

これは、司令部として使われるのであれば丁寧に使用され

将来の接収解除後は問題なく使用できるであろうことを期待した措置であり、

結果としてその目論見は奏功した。

   

  

したがって、総司令部が撤退後は、

第一生命がビルを使っていたそうです。

その後、このビルは「DNタワー21」という

オフィスビルの一部となっているようです。

※参考:第一生命館

  

こうなったらグーグルアースとストリートビューで迫ります。

ストリートビュー

Photo_2  

戦後は威容を誇っていたと思いますが、

今では、ビル群に埋もれていますね。

でも今でも残っているのが貴重。

内装もだいぶ変わったようですが、

マッカーサー記念室などの6階の一部は

保存されているようです。

  

まだ2枚絵葉書を見せたいけど、

次の記事にします。

押入れから出てきた十銭玉で社会科の勉強

 

今日は令和元年7月31日。

  

親の押入れの片づけをしていると、

いろいろ出てきます。

1円玉がザクザク出てきました。

あちらからも。こちらからも出てきました。

その1円玉の中に、穴の開いた1円玉がありました!

なんで穴が開いているんだと思ってよく見たら、

それは別のお金でした。

50円玉かと思いきや、50円玉でもありません。

老眼の私にはすぐにわからず、老眼鏡をかけて

見直してみました。

Rimg1941

Rimg1943

十銭でした。

「大日本」「昭和十九年」という文字が見られます。

 

十銭」について調べました。

古銭買い取り比較 全種類・前年代の【10銭硬貨】買取情報や概要の一覧

  

引用します。

 

額面が10銭の硬貨は明治時代~昭和21年までに

計10種類が発行されており、一時には穴あき

10銭硬貨なども発行されていました。

  

10種類のうちの1つというわけです。

 

さらに引用というか転載。

Photo  

錫(すず)930、亜鉛70に注目。

 

なぜ錫がこんなに多いんだろう?

  

さらに調べると、次の言葉が目に入りました。

臨時補助貨幣

  

次のサイトで調べました。

Wikipedia 臨時補助貨幣

 

ここから引用します。

 

戦局悪化に伴う貨幣材料調達事情による様式変更を、

勅令(後に政令)を以って臨機応変に対応可能とした

「臨時通貨法」(昭和13年法律第86号)の下

日本で製造され発行、流通した補助貨幣の総称である。

  

 

当初はアルミニウムが中心で硬貨が作られました。

しかし、戦時中、アルミニウムは航空機材料として使われるようになると、

次は錫が使われるようになります。

 

そのことが、上記Wikipediaには次のように書いてありました。

 

当時の日本が占領下においたマレーシアなどに

スズ(錫)の産地があった。スズは軟質であり、

貨幣材料としては適当と言えるものではなかったが、

アルミニウムに替わる貨幣材料として、

1944年(昭和19年)には錫貨幣(十銭・五銭・一銭)が

発行されるに至った。

  

  

たった一つの十銭玉から、当時の日本の様子が見えてきました。

びっくりです。

    

押入れから出てきた十銭玉は、

マレーシアの錫で作られた可能性が出てきました。

でもこの錫も十分に供給できなかったようで、

Wikipediaの続きにはこう書いてありました。

  

制空権、制海権を連合軍側が握るとスズの輸送も困難となり、

新たに陶貨幣(十銭・五銭・一銭)の試作を行い、

その製造が開始されたところで終戦を迎え

その陶貨幣は結局発行されなかった。

   

十銭玉から当時の日本の様子が見えてきました。

びっくりです。

  

  

現在の錫(スズ)の生産国を調べました。

GLOBAL NOTE 世界の錫生産量 国別ランキング・推移

2016年のデータでの生産国多い順10か国。

1.中国

2.ミャンマー

3.インドネシア

4.ブラジル

5.ペルー

6.ボリビア

7.オーストラリア

8.コンゴ民主共和国

8.ベトナム

10.マレーシア

  

日本が太平洋戦争で占領した東南アジアの国々が見受けられます。

4月1日の『雑学王』より/高齢者のために◇◇◇をつけることができる自動販売機

 

今日は令和元年7月31日。

 

前投稿に引き続き、4月1日放映の

「芸能人雑学王最強No1決定戦2019春!」より。

  

その自動販売機は、ボタンを押すと、 

Rimg1966

Rimg1967

Rimg1968  

問題:自動販売機に備えられた高齢者が

飲み物を安全に飲める機能は? 

  

  

これはわかりませんでした。

 

Rimg1958  

とろみをつけることがなぜいいのでしょうか。

ここがわからない。

説明を聞きました。

Rimg1959

Rimg1960

とろみをつけたお茶は、ゆっくり落ちていきます。

このゆっくり落ちていくのが大事です。

Rimg1969  

人が何か飲み物(緑色)を飲んだ時に、

喉頭蓋が動いて、気管に飲み物が入っていかないように

蓋をしてくれます。☟

Rimg1961  

ところが高齢者になると、

喉頭蓋の動きが遅く、蓋がされる前に、

飲み物の一部が気管に入ってしまうことがあります。

Rimg1970

Rimg1962

気管に入った飲み物のおかげで、肺炎になったりします。

とろみをつけることで、飲み込まれていくのが遅くなり、

気管に入る可能性が減るのです。

なるほどと思いました。

Rimg1963  

お茶だけでなく、コーヒーやココアにもとろみを

つけることができるそうです。

 

おじいちゃんの通っているショートステーや

デイサービスの施設にも、そのような設備はあるのでしょうか。

実物を飲んでみたいですね。

  

4月1日の『雑学王』より/地面に設置される信号機の目的

 

今日は令和元年7月31日。

 

久々・・・6月12日以来の「4月1日の『雑学王』より」シリーズ。

4月1日放映の「芸能人雑学王最強No1決定戦2019春!」より。

  

Rimg1944_2  

信号機の問題。

ここ数年、小型化やLED化など進化をしている信号機。

Rimg1945

オランダ郊外では、下の写真のように地面にも

表示されているものがあります。

Rimg1946_2  

これは、最近頻繁に起こるある問題を解消するために

設置されているそうです。

Rimg1948

Rimg1949   

  

正解の予想がつくのではないでしょうか?

  

 

  

それでは正解。

  

Rimg1950

海外で地面に表示される信号を設置した目的は、、

まだ試験的なプロジェクトだそうですが、

スマホに夢中になっている歩行者に

信号機の状態を知らせるためだそうです。

Rimg1951

Rimg1952

実際にこのようなものができているのですね。

私はスマホを持っていないので、やっていませんが、

歩きスマホの人の多いこと、多いこと。

しょうがなく必要な信号機と言えます。

 

ドイツの場合。

Rimg1953

Rimg1954  

停止の時には、赤いライトが点滅します。

シンガポールでも実施されているそうです。

  

中国では、歩きスマホを許可する専門レーンが

設置されているそうです。

Rimg1955  

皆さん、ちょっやりすぎていませんか?

あらためて、問題の回答はこれ。☟

Rimg1956

  

  

 

 

 

 

2019年7月30日 (火)

夏の甲子園、近江高校の試合に注目します

今日は令和元年7月30日。

  

今日で、高校野球、夏の甲子園出場校が

全て決まったというニュース。

注目は、滋賀県代表の近江高校。

昨年夏の甲子園で、金足農業に惜敗した学校です。

その時の近江高校のバッテリーは2年生でした。

林優樹投手と有馬諒捕手です。

ここでも道草 注目したい2人のインタビュー記事に出会う(2018年8月30日投稿)

あのインタビュー記事を思い出します。

2年生の有馬君はこう言っていました。

 

「これからもっとしんどいこともあると思います。

注目されることで、厳しい試合も増えると思いますし……。

でも、自分がもっと林をうまくリードして、

来年も甲子園には必ず帰ってきたいです。

というより、甲子園は帰らないといけない場所だと思っています」

  

この1年間、この気持ちを忘れずに頑張ってきたんだろうなあ。

しんどいことを乗り越えて、地方大会を勝ち上がって、

こうやって再び甲子園に戻てきたなんて、素晴らしい。

有言実行です。

 

近江高校の試合は、録画してでも見たいです。

医療で治すことと生活で治すことが必要

今日は令和元年7月30日。

  

今回読み物化したいのは、7月17日放映の

クローズアップ現代+ 社会復帰に新展開!最新のうつ病治療」 

です。

うつ病患者は、日本で現在100万人。

私もそのうちの1人。

ことし6月から再発を防ぐための新たな治療法が

保険診療に加わりました。

うつ病で低下した脳の働きを改善する治療法

TMS:経頭蓋(けいとうがい)磁気刺激」です。

今までの薬物治療などで改善が見られない患者のみ

適用されるようです。

私の場合は、3回連続の増量によって安定する薬の量が定まり、

現在は薬による小康状態です。

  

印象に残ったところを聞き書きします。

作家の石井光太さんと、女優の高木美保さんの発言です。

  

石井:今まで見てきたうつ病の方というのは、

  いろんな方がいるんですけど、

  僕の中で多いなと思ったのはですね、

  いろんな問題を抱えている人、

  たとえば、家庭の問題だとか、あるいは仕事の問題だとか

  あるいは地域の問題。そういった問題を抱えているからこそ、

  いろいろ症状が出る。

Rimg1944

  病院はですね、発症したうつ病の症状などを薬や電機などで

  治す、それはいいと思うんですが、

  問題の根本にある、本人を取り巻く環境だとかそういったものが

  変わってないとですね、またまたやっぱり社会に戻ってきては、

  難しい生きにくさを感じてしまう。

  医療で治すことと、私生活で治していくことはまた違う方法が

  あるんではないかと思いますけどね。

Rimg1946

Rimg1947

高木:今(石井さんが)おっしゃったみたいに、原因というのは、

  環境とそれと本人のものの考え方の両方あると思います。

  私がよく言われたのは、「あなたはまじめすぎます」

  「努力しすぎます」です。まじめと努力は、幼稚園の頃から

  褒められてきたことなので、それを否定されると、居所が

  なくなってしまうところもあるんですね。

  だから、もしかすると日本の組織の中でね、そういう人に

  仕事の量がドーンといってしまっているとか、責任がその人の

  ところにドーンとかぶっているということがあるかもしれない。

  本人の資質を注意するよりも、

  まわりのそういう環境を直してほしいなと思ったこともあります。 

  

 

「治療」で治すことを現在進行中です。

実際、気持ちは安定してきています。

仕事を休んだことと、薬の効果だと思います。

しかし、このまま近い将来復職して大丈夫か。

発病後、ケアマネージャーさんが動いてくれて、

父親の介護は、ショートステイやデイサービスが増えて、

負担感が減りました。

じゃあ仕事は。

おそらく、復職したら、

ほぼ仕事の毎日になってしまうと思うのです。

中学校の現場はそうだと思います。

退職までの2年余り。

たった2年余りかもしれませんが、

再発しないだろうかと不安になると思います。

再発すれば、また周囲に迷惑をかけます。

 

こうも考えます。

この期間に不慮の事故で亡くなったら、

やりたいことを後回しにしている今の生き方を

後悔すると思います。

  

この番組を見たから考えたことではなく、

ずっと考えてきたことです。

今の私は、退職までの2年余りをどう生きるかが

重要な考えるテーマになっています。

 

2019年7月29日 (月)

「偉人たちのあんまりな死に方」4/アインシュタインの脳の扱われ方

 

今日は令和元年7月29日。

  

前投稿に引き続き、「偉人たちのあんまりな死に方

(ジョージア・ブラック著/梶山あゆみ訳/河出文庫)から

引用していきます。

  

すでにダーウィンはかなりの高齢である。

妻のエマは、研究をやめるようにと夫に釘を刺した。

ダーウィンは日誌に、夕食後の400万回目の

嘔吐と腹のガスについて記す。

この学者もまた、命あるすべてのものがたどる道を

行こうとしていた。

すべての虫が、すべての爬虫(はちゅう)類が、

すべての石楠花(シャクナゲ)がたどる道を。

時計の針は歩みをゆるめ、最期の時が近づいていた。

(中略)

もしも力が残っていたら、ダーウィンは健康日誌に

こう記したかもしれない。

「(妻の)エマが抱きしめて体を揺すってくれた。

いい気持ちだった。疲れた。私は死んだ」

1882年4月19日、チャールズ・ダーウィンは

心臓発作を起こして世を去った。73歳だった。

(172~173p)

  

  

スーパーウーマンのマリー(・キューリー)は、

二度目のノーベル賞は今度は化学の分野で受賞する。

第一次世界大戦中の数年間は、X線装置を載せた

大型車を運転して全国を回り、負傷兵の体内に食い込んだ

銃弾を見つけるのに力を尽くした。

研究に戻ってからはビーカーと実験バーナーを手に、

放射性物質を医療で利用する道を探りはじめる。

しかし、マリー自身にもなんらかの医療が必要だった。

黒くなった指先はひび割れて体液がしみ出し、

鈍くなった感覚をとり戻そうとマリーは絶えず指を

こすり合わせていた。

耳鳴りがひどく、頬はこけ、体は骨と皮ばかりである。

白内障も患い、両目がほとんど見えない。

初めにも書いたように、まさしく笑っている場合ではなかった。

体を壊しているのはマリーだけではない。

研究を手伝ってもらっていたかつての教え子は、

片腕をつけ根から切断する羽目になった。

アメリカでも、若い女性工員が時計の文字盤に

ラジウム入りの夜光塗料を塗る作業をしていて、

3年間に15人が命を落としたことが明るみに出る。

(180~181p)

  

  

◆ラジウム夜光塗料

ラジウム夜光塗料は暗闇で光る性質をもつ。

発光物質の結晶粉末にラジウムを混ぜてつくられた。

最初に使用されたのは1902年で、

時計の文字盤に塗るためだった。

1920年の時点では、すでに400万個以上の

腕時計や置時計に使われるまでになっていた。

また、家の番地を示す標識や、寝室用スリッパ、

釣りの疑似餌、劇場の座席番号、拳銃の照準器、

人形の目などにも使われている。

1990年代以降は使用が禁止されている。

(182~183p)

  

   

故人の遺志にそむき、近親者の許しを得ぬまま、

ハーヴィーは(アインシュタインの)脳をとり出した。

早く重さを量りたくてしかたがない。

誰もが感じていたことをついに自分が確かめるのだ。

つまり、アインシュタインの脳はほかの人より

大きいということである。

そう決まっている。

天井から吊り下げた秤(はかり)に脳を載せた。

およそ1.2キロ。キャベツ一玉分くらいである。

これだと平均的な脳よりやや軽い。

そんな馬鹿な!

ハーヴィーは有名になるチャンスをそうやすやすとは

手放したくなかったので、ホルマリン入りの瓶の中に

アインシュタインの脳を沈めた。

(中略)

トマス・ハーヴィーは記者の前で検死解剖の結果を報告する。

今やアインシュタインの脳が瓶の中に浮かんで、

臓器保管室に置かれていることなどおくびにも出さずに。

解剖室に戻ると、切り刻まれた遺体はすでに火葬に向けて

出発していた。 (189~190p)

  

  

最後に「訳者あとがき」から引用します。

  

何より、病気や死といった側面を見ることで、

偉業を綴った偉人伝を読む以上にその人への

親しみが湧いてくるから不思議なものだ。

どの人物もひどく人間的な存在に感じられ、

一般には「悪役」として位置づけられるような人であっても

妙に憎めない。なんとも愛おしくなってくる。

加えて興味深いところは、本書がさながら「恐怖の医学史」の

様相を呈している点だ。

病気の症状自体よりもはるかに過酷なのが、

施された医療である。

どれもその時代としては「最善の治療法」だったとはいえ、

何もしないほうが助かっただろうといいたくなるものばかりで、

気の毒なことこの上ない。

現代の医学にしみじみと感謝したくなる。

もっとも現代医学といえども「現時点で最善」というだけのこと。

著者が「はじめに」でも書いているように、

未来の人が現代をふり返れば「なんと野蛮な」と

絶句するかもしれない。

そうした医学の来し方行く末に思いを馳せたくなるところも、

本書の魅力のひとつだろう。  (200~201p)

  

  

今日読み切って、

今日中に引用したい文をうち終わりました。

この本中心の日でした。

「偉人たちのあんまりな死に方」3/1万3143人の登場人物を生み出した小説家

  

今日は令和元年7月29日。

  

前投稿に引き続き、「偉人たちのあんまりな死に方

(ジョージア・ブラック著/梶山あゆみ訳/河出文庫)から

引用していきます。

 

ナポレオン・コンプレックス

「ナポレオン・コンプレックス」とは、

自分に欠点があると思うあまり、

それを補おうとしてほかの方面に過剰な熱意を燃やすことをいう。

ナポレオンの尋常ならざる世界征服欲は、

背の低さを補うために生じたといわれる。

しかし、ナポレオンは当時としては平均的な

身長だった(約168cm)。

とりわけ背の高い親衛隊に囲まれていたため、

低く見えたにすぎない。   (125p)

  

  

1827年3月26日、偉大な音楽家は息を引きとる。

56歳だった。

ベートーヴェンが亡くなると、形見を手に入れようとする

人々が現れ、髪を少しずつ切りとってもち去った。

ある者は誰も見ていないすきをうかがって、

ある者は金を払って、またある者は

正式に死んだとされないうちから。

日が暮れるころ、ベートーヴェンの頭には毛が

1本もなくなっていた

髪の毛を形見にするというのは奇妙な習慣に思えるが、

写真が登場する前の時代にはごく普通に行われていた。

(131p)

  

  

◆結核

結核で亡くなった人は、過去200年だけでも

全世界で約10億人にのぼる。

有史以来、これほど大勢の命を奪った病気はない。

ポーが生きた19世紀には、欧米で7人にひとりが

結核で死んでいた。 (中略)

初めて結核ワクチンが開発されたのは1921年。

今日では抗生物質で治療できるが、それでも世界で

年間ほぼ200万人がこの病気で死亡している。

(143~144p)

  

  

史上初の推理小説

ポーの短編小説「モルグ街の殺人」は、1841年に

『グレアムズ・マガジン』に掲載された。

この作品は推理小説の第1号とみなされている。

探偵名はC・オーギュスト・デュパン。

(144~145p)

  

  

ディケンズ

ディケンズは全部で1万3143人もの登場人物を生み出した。

(155p) 彼は小説家

  

 

2週間後の1881年9月19日、撃たれてから3か月足らずで

ガーフィールドは天に召される。

不運にも、傷口の感染症と敗血症と、心臓発作が息の根を止めた。

三カ月で体重が45キロも減っていた。

解剖の結果、捜していたのとはまったく別の場所から

銃弾が見つかる。

弾は重要な臓器をかすめてもいなかった。

医者が汚い手をどけていれば、ガーフィールドは命を

落とさずにすんだだろう。

20年後の1901年、時の大統領、

ウィリアム・マッキンリーが暗殺された。

大統領を警護するシークレットサービスはまだいなかった。

(162p)  

   

 

ガーフィールドには間に合わなかった医学の進歩

・消毒法の使用・・・1865年(ガーフィールドの

 主治医たちには、清潔にしてばい菌の広がりを

 喰いとめようという発想がなかった。

 アメリカで消毒が広く行われるようになるのは

 1880年代の後半になってからである。)(後略)

(164~165p)

  

  

少年時代のダーウィンは甲虫(カブトムシ)をつかまえたり、

舟底に溜まった泥を集めたり、

木にとまった蛾を獲ったりして遊んだ。

自分がしたことはなんでも記録する習慣があって、

後年にはバックギャモンで2795回勝ったことまで

書きしるしている。  (168p)

  

  

やっほー!自分もやったことを書き記す習性あり。

だからどうなんだは、自分で証明しないとね。

これから、これから。

  

  

つづく

「偉人たちのあんまりな死に方」2/長く瀉血がよいと思われていた

  

今日は令和元年7月29日。

  

前投稿に引き続き、「偉人たちのあんまりな死に方

(ジョージア・ブラック著/梶山あゆみ訳/河出文庫)から

引用していきます。

  

16世紀には長生きする者などいない。

35歳を迎えられたら運がいいといわれた。

いろんな疫病に天然痘、想像を絶する悪夢のような病の数々。

医者にはどうすることもできず、人は蠅のように次々と死んだ。

ガリレオは45歳になってから(もちろん同年代の仲間は

すでにほとんどが旅立っている)望遠鏡の制作にとりかかる。

最初はあまりうまくいかず、紙を丸めて覗くのと大差がなかったが、

改良を重ねるうちに倍率20倍のものを完成させた。

これなら現代のおもちゃ屋で売っているものと比べても

見劣りがしない。

ガリレオは望遠鏡を空に向け、そしていくつもの発見をした。

(83p)  

  

そしてついに鉛中毒がこの男をとらえる。

1642年1月8日、ガリレオはイタリアのアルチェトリで

腎不全に斃(たお)れた。77歳だった。

人生を2回分生きたといっていい。

異端者とされたために、ガリレオには盛大な葬儀が許されなかった。

遺体はフィレンツェのサンタクローチェ教会に運ばれ、

物置程度しかない小さな部屋に葬られた。

(中略)

1992年、カトリック教会はガリレオ裁判の誤りを認めて

ようやく正式に謝罪した。死後350年が過ぎていた。

(85~86p)

 

 

◆ゴミとともに去りぬ

モーツァルトの未亡人、コンスタンツェは、

 亡夫の未完の楽譜を多数処分してしまった。

ベートーヴェンの秘書は、ベートーヴェンが筆談に使った

 ノート400冊のうち260冊を捨ててしまった。

ジョージ・ワシントンの妻のマーサは、互いに交わした

 恋文をほぼすべて燃やしてしまった。

クリストファー・コロンブスの遺族は、残された地図や

 海図をすべて売りはらってしまった。

(96~97p)

  

死んでしまえばそんなものですよね。

私が今死んだら、12000番組をこえるビデオテープ、

DVD-R、BD‐Rなんて、処分されちゃうだろうなあ。

実際、11年前に亡くなった母親のものを、

次々に捨てている息子です。

  

  

首を刎(は)ねられる間際、マリーは

あやまって執行人の足を踏んでしまう。

そのとき顔を上げてこういった。

「わざとではありませんのよ」。

それが最後の言葉となった。

悪気があってやったのではないというそのひと言が、

マリー・アントワネットの人生すべてを言い表している。

(105p)

  

  

(秘書の)リアは農園の監督をしているローリング氏に

手助けを求める。ふたりはワシントンに指示されるまま、

誰もが当然と思うことをした。

先のとがった両刃(もろは)のナイフを取り出し、

ワシントンの腕を深々と切りつけ、

血を流させて鉢に受けたのである。

こうして0.2リットルばかり血液を抜きとった。

これは瀉血(しゃけつ)と呼ばれ、病気の治療法として

古くから用いられている。

悪い血が溜(た)まって体のなかによどんだら、

外に出してやる必要があると信じられていたためだ。

ただし、見落とされている点がある。

ひとつ、これをやると痛いこと。

ふたつ、患者の気分がよけいに悪くなることだ。

そこに長らく誰も気づかなかったらしく、

20世紀の初めになってようやく医者は瀉血をやめた。

(112p)

  

  

◆史上初の救急車

ドミニク・ジャン・ラレー男爵はナポレオン専属の外科医であり、

戦場の負傷兵を運ぶために史上初の救急車(当時は馬車)を

1792年に考案した。戦場の救急車をもってしても、

約50万人のフランス兵がナポレオン戦争で命を落としている。

これは当時のフランスの人口の6分の1にあたる人数だ。

1895年には自動車の救急車が誕生し、

1900年にフランス陸軍で使用された。

(125p)

  

  

  

人口の6分の1が命を落としているのは大きい。

でも知らなかった。

こうやって、テレビ番組や本から新しい知識を得ることで、

授業のやり方・内容はきっと変わってくると思う。

新しいネタを伝えたくて、

教師もワクワクして授業に臨めると思います。

 

しかし、中学校では忙しい。

中学校の先生に、もっと教材研究の時間を!

 

 

つづく

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