押入れから出てきた絵葉書で社会科の勉強その2
今日は令和元年7月31日。
親の押入れの片づけをしていて出てきた絵葉書の話つづき。
東京駅です。
東京駅は太平洋戦争中の空襲で被害を受けました。
それまでは3階建ての駅舎でしたが、
戦後の工事で2階となりました。
戦前の東京駅の写真は、この記事に載せました。☟
☝ この記事でも触れていますが、
戦後東京駅は1951年(昭和26年)にできています。
すなわちこの絵葉書は、1951年以降のものとなります。
そして前記事で書いたように、連合国総司令部(GHQ)が
まだ存在することから、1952年4月以前ということに
なります。年代が絞られました。
気になるのは、絵葉書の下に書かれた漢字です。☟
東京驛 東京都の ◇ 門
◇ がわかりません。
門構えに「前」で「前門」かなと思ったけど、
門構えに「前」という漢字が見当たりません。
※参考:漢字辞典オンライン 部首:もん・もんがまえ・かどがまえ(門)の漢字(画数順)
☝ ここを見て最も適当なのはこの字だと思いました。☟
この字は「関」と同じ意味です。
つまり「関門」です。
「東京都の関門」というと、ようこそ!という感じではないのですが、
この字が最も私の中では有力です。
もう1枚絵葉書を載せます。
十分、戦災復興している仲見世だと思います。
遠くに気になるものが写っています。
浅草寺の屋根の上に見えているのは、
アドバルーンではないでしょうか。
ちょうど風船の部分が看板で見えなくなっていると想像します。
アドバルーンについて調べると、面白いことがわかりました。
引用します。
戦後初めてのアドバルーンは、1948年(昭和23)に
東京・日劇屋上であげられた「お夏清十郎」ショーのものであるが、
風船爆弾のイメージが残存するという
GHQ(連合国最高司令部)の指令で、
わずか2個のアドバルーンでさえ1日だけの浮揚で
禁止されてしまった。解禁許可第一号は
翌1949年11月の東京郵政局(のちの日本郵政公社東京支社。
日本郵政公社は民営化され現在は日本郵政グループ)によるものであった。
その後1951年4月の「繋留(けいりゅう)広告気球制限規定」の
緩和によって本格的なアドバルーン時代となった。
もし、絵葉書の不明のものがアドバルーンだとしたら、
この絵葉書は、1951年4月以降となります。
東京駅のことも考えて、この絵葉書の写真は、
1951年4月~1952年4月の撮影となります。
※参考 アドバルーンについてはこのサイトも勉強になる。☟
サイトを開いてスクロールすると、アドバルーンの話になる。
NHKスペシャル 戦後70年のニッポンの肖像 見上げる視線をくぎづけに!日本生まれの広告媒体
この絵葉書は、すでに亡くなった母親が
買ったものと思われます。
昭和7年(1932年)生まれです。
1952年くらいに東京に遊びに行ったとしたら、
母親が20歳くらいの時に買ったものとなります。
結婚前です。
ちょっと想像しちゃいます。
自分が見たことがない若さなんだよなあ。
その時に買った絵葉書を、息子がこうやって分析するなんて、
20歳だった母親は想像しなかったでしょうね。
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