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2019年7月31日 (水)

押入れから出てきた絵葉書で社会科の勉強その2

 

今日は令和元年7月31日。

  

親の押入れの片づけをしていて出てきた絵葉書の話つづき。

  

Epson073  

東京駅です。

東京駅は太平洋戦争中の空襲で被害を受けました。

それまでは3階建ての駅舎でしたが、

戦後の工事で2階となりました。

戦前の東京駅の写真は、この記事に載せました。☟

※ここでも道草 戦災前の東京駅(2011年1月25日投稿)

☝ この記事でも触れていますが、

戦後東京駅は1951年(昭和26年)にできています。

すなわちこの絵葉書は、1951年以降のものとなります。

そして前記事で書いたように、連合国総司令部(GHQ)が

まだ存在することから、1952年4月以前ということに

なります。年代が絞られました。

  

気になるのは、絵葉書の下に書かれた漢字です。☟

Epson073a  

東京驛 東京都の ◇ 門

◇ がわかりません。

門構えに「前」で「前門」かなと思ったけど、

門構えに「前」という漢字が見当たりません。

※参考:漢字辞典オンライン 部首:もん・もんがまえ・かどがまえ(門)の漢字(画数順)

☝ ここを見て最も適当なのはこの字だと思いました。☟

Photo_3  

この字は「関」と同じ意味です。

つまり「関門」です。

「東京都の関門」というと、ようこそ!という感じではないのですが、

この字が最も私の中では有力です。

 

  

もう1枚絵葉書を載せます。

Epson072  

十分、戦災復興している仲見世だと思います。

遠くに気になるものが写っています。

Epson072a  

浅草寺の屋根の上に見えているのは、

アドバルーンではないでしょうか。

ちょうど風船の部分が看板で見えなくなっていると想像します。

アドバルーンについて調べると、面白いことがわかりました。

コトバンク 日本大百科全書(ニッポニカ)/小学館

  

引用します。

  

戦後初めてのアドバルーンは、1948年(昭和23)に

東京・日劇屋上であげられた「お夏清十郎」ショーのものであるが、

風船爆弾のイメージが残存するという

GHQ(連合国最高司令部)の指令で、

わずか2個のアドバルーンでさえ1日だけの浮揚で

禁止されてしまった。解禁許可第一号は

翌1949年11月の東京郵政局(のちの日本郵政公社東京支社。

日本郵政公社は民営化され現在は日本郵政グループ)によるものであった。

その後1951年4月の「繋留(けいりゅう)広告気球制限規定」の

緩和によって本格的なアドバルーン時代となった。

  

もし、絵葉書の不明のものがアドバルーンだとしたら、

この絵葉書は、1951年4月以降となります。

東京駅のことも考えて、この絵葉書の写真は、

1951年4月~1952年4月の撮影となります。

※参考 アドバルーンについてはこのサイトも勉強になる。☟

サイトを開いてスクロールすると、アドバルーンの話になる。

NHKスペシャル 戦後70年のニッポンの肖像 見上げる視線をくぎづけに!日本生まれの広告媒体  

  

  

  

この絵葉書は、すでに亡くなった母親が

買ったものと思われます。

昭和7年(1932年)生まれです。

1952年くらいに東京に遊びに行ったとしたら、

母親が20歳くらいの時に買ったものとなります。

結婚前です。

ちょっと想像しちゃいます。

自分が見たことがない若さなんだよなあ。

  

 

  

その時に買った絵葉書を、息子がこうやって分析するなんて、

20歳だった母親は想像しなかったでしょうね。

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