「偉人たちのあんまりな死に方」4/アインシュタインの脳の扱われ方
今日は令和元年7月29日。
前投稿に引き続き、「偉人たちのあんまりな死に方」
(ジョージア・ブラック著/梶山あゆみ訳/河出文庫)から
引用していきます。
すでにダーウィンはかなりの高齢である。
妻のエマは、研究をやめるようにと夫に釘を刺した。
ダーウィンは日誌に、夕食後の400万回目の
嘔吐と腹のガスについて記す。
この学者もまた、命あるすべてのものがたどる道を
行こうとしていた。
すべての虫が、すべての爬虫(はちゅう)類が、
すべての石楠花(シャクナゲ)がたどる道を。
時計の針は歩みをゆるめ、最期の時が近づいていた。
(中略)
もしも力が残っていたら、ダーウィンは健康日誌に
こう記したかもしれない。
「(妻の)エマが抱きしめて体を揺すってくれた。
いい気持ちだった。疲れた。私は死んだ」
1882年4月19日、チャールズ・ダーウィンは
心臓発作を起こして世を去った。73歳だった。
(172~173p)
スーパーウーマンのマリー(・キューリー)は、
二度目のノーベル賞は今度は化学の分野で受賞する。
第一次世界大戦中の数年間は、X線装置を載せた
大型車を運転して全国を回り、負傷兵の体内に食い込んだ
銃弾を見つけるのに力を尽くした。
研究に戻ってからはビーカーと実験バーナーを手に、
放射性物質を医療で利用する道を探りはじめる。
しかし、マリー自身にもなんらかの医療が必要だった。
黒くなった指先はひび割れて体液がしみ出し、
鈍くなった感覚をとり戻そうとマリーは絶えず指を
こすり合わせていた。
耳鳴りがひどく、頬はこけ、体は骨と皮ばかりである。
白内障も患い、両目がほとんど見えない。
初めにも書いたように、まさしく笑っている場合ではなかった。
体を壊しているのはマリーだけではない。
研究を手伝ってもらっていたかつての教え子は、
片腕をつけ根から切断する羽目になった。
アメリカでも、若い女性工員が時計の文字盤に
ラジウム入りの夜光塗料を塗る作業をしていて、
3年間に15人が命を落としたことが明るみに出る。
(180~181p)
◆ラジウム夜光塗料
ラジウム夜光塗料は暗闇で光る性質をもつ。
発光物質の結晶粉末にラジウムを混ぜてつくられた。
最初に使用されたのは1902年で、
時計の文字盤に塗るためだった。
1920年の時点では、すでに400万個以上の
腕時計や置時計に使われるまでになっていた。
また、家の番地を示す標識や、寝室用スリッパ、
釣りの疑似餌、劇場の座席番号、拳銃の照準器、
人形の目などにも使われている。
1990年代以降は使用が禁止されている。
(182~183p)
故人の遺志にそむき、近親者の許しを得ぬまま、
ハーヴィーは(アインシュタインの)脳をとり出した。
早く重さを量りたくてしかたがない。
誰もが感じていたことをついに自分が確かめるのだ。
つまり、アインシュタインの脳はほかの人より
大きいということである。
そう決まっている。
天井から吊り下げた秤(はかり)に脳を載せた。
およそ1.2キロ。キャベツ一玉分くらいである。
これだと平均的な脳よりやや軽い。
そんな馬鹿な!
ハーヴィーは有名になるチャンスをそうやすやすとは
手放したくなかったので、ホルマリン入りの瓶の中に
アインシュタインの脳を沈めた。
(中略)
トマス・ハーヴィーは記者の前で検死解剖の結果を報告する。
今やアインシュタインの脳が瓶の中に浮かんで、
臓器保管室に置かれていることなどおくびにも出さずに。
解剖室に戻ると、切り刻まれた遺体はすでに火葬に向けて
出発していた。 (189~190p)
最後に「訳者あとがき」から引用します。
何より、病気や死といった側面を見ることで、
偉業を綴った偉人伝を読む以上にその人への
親しみが湧いてくるから不思議なものだ。
どの人物もひどく人間的な存在に感じられ、
一般には「悪役」として位置づけられるような人であっても
妙に憎めない。なんとも愛おしくなってくる。
加えて興味深いところは、本書がさながら「恐怖の医学史」の
様相を呈している点だ。
病気の症状自体よりもはるかに過酷なのが、
施された医療である。
どれもその時代としては「最善の治療法」だったとはいえ、
何もしないほうが助かっただろうといいたくなるものばかりで、
気の毒なことこの上ない。
現代の医学にしみじみと感謝したくなる。
もっとも現代医学といえども「現時点で最善」というだけのこと。
著者が「はじめに」でも書いているように、
未来の人が現代をふり返れば「なんと野蛮な」と
絶句するかもしれない。
そうした医学の来し方行く末に思いを馳せたくなるところも、
本書の魅力のひとつだろう。 (200~201p)
今日読み切って、
今日中に引用したい文をうち終わりました。
この本中心の日でした。
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