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2019年10月

2019年10月27日 (日)

パラリンピック〈5〉パラリンピックの「パラ」は?

今日は令和元年10月27日。

  

10月18日の記事の続きで、

パラリンピックシリーズです。

  

 

8月23日放映の「チコちゃんに叱られる!」の

読み物化をします。

チコちゃんの質問はこれ。☟

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答えるのはナインティナインの岡村さん。

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岡村さんが、苦しまぎれに言ったのが、

ワフルン」

その答えに対して、チコちゃんからは決まり文句。☟

Rimg2103

チコちゃんの答え。☟

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「パラプレジア」の「パラ」と言われても、

岡村さんをはじめゲストの皆さんも

「パラプレジア」って何?って顔でした。

私もそうです。

  

今回、解説してくれる人はこの人。☟

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「パラプレジア」の意味は、「下半身まひ」の意味です。☟

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パラリンピックは、もともと車いすに乗る人だけが参加する

大会とされていました。

その起源は1948年です。

それは第2次世界大戦後、初めてオリンピックがロンドンで

行われた年です。

このオリンピックに合わせて、ロンドン郊外にある

ストーク・マンデビル病院で、

第2次世界大戦で負傷した人たちが、

リハビリの成果を競い合うアーチェリーの競技会が行われました。

 

  

  

今晩はここまで。

また明日。

  

つづく。

  

 

薬の話/半減したけどまた元にもどる

今日は令和元年10月27日。

  

毎週心療内科に通っています。

7月4日に最後の薬の増量があって、

薬の量は変わりませんでした。

とても調子がよくなってきたので、

ほぼ3ヶ月経った10月17日に

薬を減量しました。

アモキサンカプセルの量を半減しました。

アモキサンカプセルの効果

いよいよ治ってきたと、うれしい気持ちでした。   

  

  

そしたら、不安感が出てきてしまいました。

自動車を運転していたら、

事故を起こしてしまうのではないかと思って

スピードが出せませんでした。

働いている人を見ると、

働いていない自分にくよくよするようになってきました。 

しばらく感じなかったいろいろな不安感が、

浮かび上がってきてしまったのです。

薬の量で、こうも変化する今の自分に

軽いショックを受けました。

  

  

10月24日の診断でそのことを正直に

お医者さんに伝えたら、

アモキサンカプセルの量は元に戻りました。

半減ではなく、少しずつ減らしていきましょう

ということになりました。

  

 

コレステロールの薬も含めて、

できたら、飲む薬を減らしていきたいと思っている私。

少しずつ自分を改善していきたい。

2019年10月26日 (土)

4代目RICHOのCX5/今日から使い始めます

 

今日は令和元年10月26日。

  

ここでも道草 RICOHのCX5の中古を購入 2016年バージョン(2016年3月23日投稿)

2016年3月24日から使ってきたデジカメ、

RICHOのCX5がだんだん不調になってきて、

撮りたいと思った時に動かないことが重なりました。

3年7カ月、常に身近にあって、

たくさんの写真を撮ってきましたが、

ここらが限界です。

次のカメラを注文して、今日届きました。

Img_0594_2

何と、またRICHOのCX5です。

写真の手前が新しいCX5。

奥が今まで使ってきたCX5です。

中古で、安く手に入りました。

CX5でいうと4代目(4台目)です。

 

歴史をまとめると・・・・

2009年に接写が得意と薦められて、

RICHOのCX1を買いました。

※関連:ここでも道草 冬芽・葉痕の接写(2010年1月28日投稿)

RICHOのデジカメとは、もう10年のお付き合いです。

  

2012年7月に後継機のCX5を買いました。

※関連:ここでも道草 昨日(7月25日)出会った夕焼け(2012年7月26日投稿)

CX5が気に入ったので、2代目、3代目は中古で買いました。

そして今日から4代目です。

 

世の中、スマホで写真を撮る時代。

デジカメで撮っているのは、時代遅れになってきたかな。

それでも、接写力は魅力だし、使い慣れているので、

今回また購入してしまいました。

  

このブログに頻繁に載せているテレビ画面の写真は

ほぼ全てCX5で撮ってきました。

これからもそうです。

頼むぞ、4代目。

「異色の戦争画」③人を圧倒する絵

 

今日は令和元年10月26日。

  

前投稿に引き続き、9月8日放映の

日曜美術館 異色の戦争画 知られざる従軍画家 小早川秋聲

より。

  

前投稿の聞き書きのつづき。

  

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ナレーター:戦争末期の昭和19年。小早川が戦争画の

  集大成のように描いたのが「国之楯」です。

  暗闇の中から浮かび上がるように

  軍服を着た犠牲者が横たわっています。

  当時、戦死者は「英霊」とされました。

  顔は、寄せ書きの入った日の丸でおおわれ、

  頭の周りは仏の円光(えんこう)のように、

  光の輪が描かれています。

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  この絵には、従軍画家となって以来、

  小早川がこだわってきたモチーフが描きこまれてきています。

   

  一つは「日の丸」です。

  小早川は、ただ「日の丸」がひるがえるだけの絵を

  いくつも描いています。

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  これは「武運長久」の文字と寄せ書きが入った日の丸。

  長年戦場でさらされてきたためか、

  端は破れ、傷んでいます。

    

小早川:国旗に対しての尊厳、ありがたさ。

  一度祖国を離れて、外国で日章旗を仰ぎ見たとき、

  反射的に、無理屈に、祖国を思うの念が、

  湧き上がってまいります。(記事)

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ナレーター:もう一つのこだわりは、「戦争の犠牲者」です。

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  月明かりが浮かび上がらせているのは、戦友の墓の前で、

  敬礼する姿。

  小早川は、こうした弔いの光景を幾度も描きました。

    

  従軍画家として、また東本願寺の慰問使として、

  前線で数多くの戦死者を見て来た小早川。

  これは全ての犠牲者に捧げる絵だったのでしょうか。

  

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浅田裕子さん:この作品が完成する間近に、師団長と部下たちが

  秋聲のアトリエに来て、この作品に圧倒されて、

  帽子をとって、頭を下げたという話が残っています。

  この作品を持ちだすときに、手伝いに来た女性の方が、

  この絵の前で泣き崩れたという話が、伝わっています。

  何度も、この美術館では、展示をしてきました。

  その中で、なかなか作品の前から動けない方がおられましたので、

  お声掛けしましたら、自分の兄だか弟だったと思いますけど、

  戦争で亡くなったんだと、その姿を重ねて、

  涙が出ておられたようでした。

    

  

私も、この絵は圧倒される絵だと思います。

横たわる死体という題材としても、

さらには幅2mを超えるサイズも、圧倒的です。

忘れたくない絵、そして画家だったので、書き留めました。

  

これで「日曜美術館 異色の戦争画 知られざる従軍画家 

小早川秋聲」の読み物化完了。

「異色の戦争画」②作戦記録画

  

今日は令和元年10月26日。

  

前投稿に引き続き、9月8日放映の

日曜美術館 異色の戦争画 知られざる従軍画家 小早川秋聲

より。

  

番組開始から21分過ぎから聞き書きをします。

  

ナレーター:昭和16年。真珠湾の奇襲攻撃に始まった太平洋戦争。

  開戦とともに、日本軍が画家たちに委嘱して、

  戦争画を描かせる動きが明確化します。

  特別に「作戦記録画」と呼ばれた戦争画。

  真珠湾攻撃の絵を軍から依頼されてのは、

  藤田嗣治(つぐはる)でした。

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  奇襲部隊が撮った写真をもとにしたというこの絵。

  アメリカの軍艦が、水柱を上げて沈む姿が、

  上空からの視点で、リアルに描き出されています。

  

  日本軍は、南方の石油資源を確保するため、

  インドネシアの油田地帯を落下傘部隊によって占領します。

  青空をバックに、無数の落下傘が舞い降りています。

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  敵陣の中に降下していく兵士たちは、

  空の「神兵」と称えられ、その快挙が歌にされました。

    

  シンガポールを陥落させた日本軍。

  山下奉文(ともゆき)将軍は、イギリス軍のパーシバル将軍に

  イエスかノーかと降伏を迫りました。

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  ニュース映画そのままに、会見の様子をリアルに描き出した

  宮本三郎の絵。

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  当時、戦争画の最高傑作と称えられました。

  

  小早川秋聲は、昭和18年、作戦記録画の制作者に選ばれます。

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  ビルマのイギリス軍の降伏場面を描くように指示されました。

  前の年の昭和17年。日本軍はビルマ全土を制圧しました。

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  しかし、昭和18年に入ると、

  各地でイギリス軍の反撃が始まっていました。

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  小早川が従軍画家として赴(おもむ)いたのは、その頃でした。

    

  小早川はビルマでの体験を、新聞に従軍記として書きました。

  

小早川:数機編隊の空爆をくらった。壕の土を震わし、

  私の肉を通して、骨に響いた。足もやられた。

  そこを守る勇士は、壮烈なる戦死をした。

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ナレーター:小早川は、ジャングル地帯の最前線の

  悲惨な実態を記しています。

  

小早川:水は、池の泥水と、瓶にためた雨水。

  これとても泥で濁っている。

  汁に浮かぶ菜のごときものは、野草である。

  毒草でない限り、牛馬が食うものは人間も食べられると

  将兵はそれを食い、英気を養っている。

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ナレーター:帰国後、小早川が描いたイギリス軍旅団長が

  捕虜となる絵。

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  現在、絵は行方不明。

  絵葉書でようやく絵柄を知ることができます。

  

  これはビルマ従軍の後に描かれた風変わりな戦争画です。

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  陸軍の大佐と思われる軍人が、茶を飲む姿です。

  小早川は、従軍記の中で、こう書いています。

  

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小早川:急に出陣の命令が達したので、部隊長は心静かに

  茶碗で一服、薄茶を立てだした。

  茶は黄土色にがしている。

  香気も風味もないはずである。

  隊長の落ち着き、心構えは、武人として、

  いかにもゆかしい極みである。

  

   

小早川秋聲は、満州事変から日中戦争でも従軍して、

見たものを描いてきました。

戦闘している絵は少なく、兵士が休んでいたり、

寒さの中で火にあたっていたり、あるいは、

上記のお茶を飲む姿といった、

日常の何気ない姿を絵にしました。

その多くが絵葉書になり、戦地と内地との間で交わされた

軍事郵便としても使われました。

イギリス旅団長の降伏の絵のように、

元の絵が行方不明になっていて絵葉書が残っているものが

たくさんあるそうです。

通算6600本目の投稿/「異色の戦争画」①日本兵の死を描いた作品

  

今日は令和元年10月26日。

  

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9月8日放映の「日曜美術館 異色の戦争画 知られざる従軍画家

小早川秋聲」を見ました。 

番組の内容を少しだけ読み物化します。

  

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鳥取県日南町にある美術館に異色の戦争画があります。

横幅2メートルをこえる画面に、戦死者の姿が描かれています。

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絵のタイトルは「国之楯(くにのたて)」

Rimg2103  

昭和19年の作品です。描いたのは小早川秋聲

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陸軍から要請されて戦争画を描いていた小早川ですが、

この「国之楯」は陸軍から受け取りを拒否されました。

  

戦争中、多くの画家たちが、国民の士気を高めるために

戦争画を描きました。

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☝ 戦争前期。日本軍の落下傘部隊の勇ましい戦闘の絵。

  

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☝ 戦争後期。日本軍が玉砕した戦いの絵も描かれましたが、

殺されているのは、日本兵はなくて敵国アメリカ兵でした。

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日本兵の死は描かない。

そんな暗黙のルールがあった戦争画にあって、

「国之楯」は異色だったのです。

  

つづく

  

薬の話/7年間飲んできた薬

今日は令和元年10月26日。

  

7年前の記事です。

ここでも道草 コレステロールを減らすぞ(2012年12月27日投稿)  

コレステロールが高くなるのを抑えるために飲み始めた薬。

7年前は「コレステロールをさげるぞ!」と

意気盛んでした。

当初はクレストール錠でしたが、

今はロスバスタチン錠2.5mg「DSEP」を毎晩2錠飲んでいます。

Photo QLIFE

 

もう7年も内科病院に通っています。

4週間ごとです。

自分の性格上、薬はほぼ忘れずに飲んでいます。

時々血液検査をします。

コレステロールの値は確かに正常です。

  

でもふと思ったのです。

一生、この薬を飲み続けなければいけないのか。

4週間に一度内科病院に行き、

待たされる時には1時間以上の時もあり、

短い時間診察されて、「大丈夫ですね」のくり返し。

お金も毎回2350円(診察代・薬代)かかります。

血液検査があると3670円です。

  

動脈硬化で死にたくはないけれども、

一生薬を飲み続けるのは異常ではないかと思ったのです。

ふだんの生活を改善して、自力で治せないものかと

思い始めました。

  

 

先日、内科病院の先生に聞いてみました。

この薬は一生飲み続けなければならないのかと。

そしたら立てつづけにこう言われました。

  

飲み続けなければいけません。

副作用もないし、いい薬です。

検査の結果、いい結果が出ています。

だからやめてはだめです。

私も飲んでいます。

惑わされては行けません。

  

「惑わされては」は、私が何か飲まなくてもいいのではと

アドバイスを受けたと思っての発言だと思います。

う~ん、直接アドバイスを受けたことはありませんが、

気になっている本はありました。

81xki7fhgxl amazon

 

今度読もうと思って、図書館に予約しています。

  

一度、飲み続けてる薬について考えてみたいです。

  

2019年10月25日 (金)

あの緩やかな尾根を歩いてみたい

 

今日は令和元年10月25日。

  

先日、鳳来寺山に登った時に見えた、

気になった山について書きます。

ここでも道草 20191015報告 鳳来寺山前編(2019年10月22日投稿) 

☝ ここに写真を載せました。

今一度載せます。☟

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この平らな山頂が気になりました。

 

鳳来寺山を一緒に登ったKさんが、調べて教えてくれました。

この山の名前は浅間山弓張山(ゆみはりやま)でした。

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国土地理院

 

弓張山と浅間山は、鳳来寺山から見たら南東にありました。

グーグルマップの3Dで見てみます。

グーグルマップ 弓張山 

Photo_5  

浅間山と弓張山との間の、緩やかな尾根を歩いてみたいです。

     

    

  

そう思っていたら、どうやら昔、登ったことがあるようです。

17~18年ほど前だと思います。

う~ん、忘れています。

汗をかいて登ったのに、忘れてしまいました。

でも同じ場所に立てば思い出すかも。

明日は「原子力の日」/ポスターコンクールは見合わせたまま

今日は令和元年10月25日。

  

明日、10月26日は「原子力の日」であり、

「反原子力の日」でもあります。

今日は何の日~毎日が記念日~10月26日から引用します。

 

原子力の日

日本政府が1964(昭和39)年に制定。

1963(昭和38)年、茨城県東海村の日本原子力研究所で、

日本初の原子力発電が行われた。

また、1956(昭和31)年のこの日には

日本が国際原子力機関(IAEA)に加盟した。

  

反原子力デー

「原子力の日」に因み、各地で原発反対の運動が行われる。

  

最近は福島原発関係の勉強をしていましたが、

ずっと以前からは原子力発電については、

関心があり、ブログに書いてきました。

一部、読み直してみようと思いました。

  

ここでも道草 脱原発の映画・トークその1・・・脱原発デザイン(2011年10月9日投稿)

ここでも道草 脱原発の映画・トークその2・・・大気と海で薄まる発想(2011年10月10日投稿)

ここでも道草 脱原発の映画・トークその3・・・劣化ウラン弾によるヒバクシャ(2011年10月15日投稿)

ここでも道草 脱原発の映画・トークその4・・・今こそ、エネルギーシフト(2011年10月16日投稿)

 

☝ 2011年10月16日投稿の記事では、

今こそ、エネルギーシフト

(飯田哲也/鎌仲ひとみ著 岩波ブックレット)より次の文を

引用しています。

 

そもそも、日本の教育の中で、「被曝」や「放射線」の

基本を教えるということがされてこなかった、

ということも指摘すべきでしょう。(中略)

反対に、教育に取り込まれてきたのは

「わくわく原子力ランド」という副読本で、

原子力発電の優秀さと安全性ばかりを強調したものです。

そして、原子力の日(10月26日)に子どもたちに

ポスターを描かせて表彰したりして、

まさしく国家ぐるみでプロパガンダを

教育の中で行ってきたのです。

( 鎌仲ひとみ 22p)

  

 

「原子力の日」にポスターを描かせて、

表彰することを今もやっているのでしょうか。

調べました。

「原子力」「ポスター」で検索したら、

このようなチラシを発見しました。☟

 

Photo  

まだやっているのかなと思って、さらに見ていくと・・・・

Photo_2

Photo_3

平成22年のものでした。

2010年のことです。

東日本大震災があった前年のことです。

それ以後はどうなのか調べました。

  

response 原子力ポスターコンクールを中止 文科省と経産省

☝ 引用します。

  

2011年5月11日(水) 23時57分 

文部科学省と経済産業省は、共催で実施してきた

「原子力ポスターコンクール」について、

東日本大震災に伴う東京電力株式会社

福島第一原子力発電所の事故を踏まえ、

当面開催を見合わせると発表した。

  

  

 

廃止とは言っていないのかな。

ずっと見合わせたままで行くのかな。

やはり福島第一原発で起ったことは、

私の、国民の意識を変えたと思います。

尊い教訓を活かさなければいけないと思います。

  

  

 

今回のように、自分の過去記事を読み返して復習し、

さらに知識を重ねていくのは、理想的です。

2019年10月24日 (木)

「死の淵を見た男」/教訓をいかせず大惨事となった

 

今日は令和元年10月24日。

  

前投稿に引き続き、「死の淵を見た男 吉田昌郎と

福島第一原発の500日」(門田隆将著/PHP研究所)より

引用していきます。

 

この本は、図書館に返します。

手元から離れます。

でも読み直したい文章はたくさんあるので、

ブログに書き留めています。

今回がラスト。

長く引用します。

 

  

大津波がもたらしたこの未曾有の原発事故は、

あらゆるものに深い傷跡を残したのである。

私は、取材をつづけながら、この原発事故が

さまざまな面で多くの教訓を後世 に与えたことを

あらためて痛感した。それは、単に原子力の世界だけの

教訓にとどまらず、さまざまな分野に共通する警句であると思う。

  

そして、現場で奮闘した多くの人々の闘いに敬意を表すると共に、

私は、やはりこれを防ぎ得なかった日本の政治家、官庁、

東京電力……等々の原子力ェネルギーを管理·推進する人々の

「慢心」に思いを致さざるを得なかった。

  

この事故を防ぐことのできる“最後のチャンス”は、

私は実は「二度」あったと思う。その最大のものは

9・11テロの「2001年9月11日」である。

  

あらためて言うまでもないが、安全を期して二重、三重に

「防御」を張りめぐらしている原発の敵は、

「自然災害」「テロ」である。

  

今回の福島第一原発の事故の最大の要因となった、

海面から10メートルという高さに対する過信は、

その中の「自然災害」に対するものだ。

「まさか10メートルを超える津波が押し寄せるわけがない」

その思い込みには、過去千年にわたって福島原発の立つ浜通りを

「そんな大津波が襲ったことがない」という自然に対する

「侮(あなど)り」、言い替えれば「甘え」が根底にある。

  

しかし、自然災害が過去の災害の「範囲内」に終わるという保証は、

まったくない。それは、人間の勝手な思い込みに過ぎない。

これは、自然に対する人間の驕(おご)りとも言えるだろう。

  

この驕りに対して、警鐘を鳴らしたのが、実は、

あのオサマ・ビン・ラディンによる9・11テロだったと思う。

ビン・ラディンは自然災害とは関係がない。彼がおこなったものは、

テロである。だが、およそ三千人もの犠牲者を出したこのテロは、

原子力発電に対しても、大きな警鐘を鳴らした。

予想を超えた規模のテロは、原発に対する最も大きな脅威で

あることを人々に知らしめたのである。

  

アメリカの原子カ関係者の動きは素早かった。

ただちに、テロ対策を強化し、その中で、

「すべての電源を失った場合、原子炉の制御をどうするか」

ということが、以前にも増して議論されることになった。

そして、5年後の2006年、

アメリカのNRC(原子力規制委員会) が対策のための

文書を決定し、それは、日本にも伝えられた。

   

その中には、全電源喪失下の手動による各種の装置の

操作手段についての準備や、持ち運び可能な

コンプレッサーやバッテリーの配備に至るまで

細かく規定されていた。

  

テロがもたらすものも、自然災害がもたらすものも、

原発にとっての急所は、「全電源喪失」であり、

「冷却不能」であるという事態に変わりはない。

しかし、わが国の原発では、「全電源喪失」「冷却不能」の

状態がもたらされる可能性を、それでも想定しようとはしなかった。

「日本では、そんなテロが起こるはずがないーー日本に照準を

定めるミサイル配備をおこなっている国を周辺に

抱えているにもかかわらす、根拠のないそんな思い込みが、

ここでも原子力エネルギーを推進、管理する指導者たちに

蔓延していた。だが、その「テロ」に匹敵する、いや、

ある意味ではそれ以上の「災害」が原発を襲ったのである。

  

非常に辛練で俗っぽい表現だが、私はあえて

"平和ボケ”という言葉を使わせてもらおうと思う。

日本だけは「テロの対象」になり得ない、 あるいは、

日本では原発がミサイル攻撃を受けるはずがない

という幼児的ともいえる楽観思考は、原子力行政にあたる

指導者として、あるいは実際の原子力事業にあたるトップとして

「失格」であると私は思う。

  

テロ、あるいは紛争が原発にもたらすだろう

「全電源喪失」「冷却不能」という事態を少しでも

考慮に入れていたなら・・・と私は残念でならない。

アメリカと同様、いくばくかの措置に踏み込んでいたら、

「全電源喪失」「冷却不能」に対処する方法が考えられ、

言いかえれば、自然災害においても、これほどの大惨事には

至らなかったということだ。

だが、その最大のチャンスは、失われた。

(368~370p)

  

 

教師は、さまざまな教訓を知っていて、

目の前の児童・生徒に伝えるのも仕事であると思います。

9・11テロを実際に見た者として、

福島第一原発の惨事を見た者として、

発信しなくてはいけないと思います。

そのためには、見ただけでなく、見えなかったことも

知る必要があると思います。

今回の本を読んでそう思いました。

  

福島にいくぞ!

最後に映画の宣伝。この本が原作です。


YouTube: 福島第一原発事故を映画化!『Fukushima 50』(フクシマフィフティ)特報

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