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2019年10月

2019年10月24日 (木)

「死の淵を見た男」/すごい58歳

 

今日は令和元年10月24日。

  

前投稿に引き続き、「死の淵を見た男 吉田昌郎と

福島第一原発の500日」(門田隆将著/PHP研究所)より

引用していきます。

  

すでに、身体はぼろぼろになっていた。

免震重要棟のトイレは、真っ赤なっていた、と伊沢は言う。

「トイレは水も出ないから悲惨ですよ。

流すこともできませんからね。

みんなして仮設トイレを運んできて、それが一杯になったら、

また次の仮設トイレを組み立てながらやってましたけど、

とにかく真っ赤でしたよ。みんな、血尿なんです。

あとで、三月下旬になって、水が出るようになっても、

小便器自体は、ずっと真っ赤でした。

誰もが疲労の極にありましたからね」

(278p)

  

現場の過酷さを物語る出来事だと思いました。

  

  

吉田(一弘)の「やり残したこと」とは、何だったのか。

「かみさんに”ありがとう”という感謝の気持ちを

伝えていなかったことです。

もう自分は、生きてはいられないかもしれない、

と、思っていました。

緊対室は、テレビが映っていたので、自分たちのいる発電所が

どうなっているかは、家族にはわかっているだろうと思っていました。

そういうことを書いた上で、かみさんに”ありがとう”と伝えました。

これまで幸せだった、と」

(中略)

妻から吉田に返ってきたメールには、こう書かれていた。

〈何を言ってるの、必ず帰ってきて。今すぐ帰ってきて〉

それは、愛する家族の偽らざる気持ちが凝縮された言葉だった。

(314~315p)

  

  

 

それぞれの人間が、それぞれの「家族」を背負って闘っていた。

伊沢は、吉田所長が「各班は最少人数を残して退避!」という

指示を出した時、初めて26歳を筆頭とする3人の息子たちに

緊対室からこんなメールを送っている。

「お父さんは最後まで残らなくてはいけないので、

年老いた祖父さんと、口うるさい母ちゃんを、

最後まで頼んだぞ」

それは、ユーモアを交えながらも自分の覚悟を

息子たちに伝えたものだった。

息子たちからは、「おやじ、なに言ってるんだ。死んだら許さない」

というメールが返ってきた。

(317p)

 

結果的に生きて、再会できてよかったです。

  

  

福島第一原発の運転管理部に所属していた

寺島祥希(よしき/享年21)は地震発生後、

4号機の点検のために同僚1人と一緒に

地下に入って津波に巻き込まれ、3週間近くが

経過した3月30日に同僚と共に遺体となって発見された。

(320~321p)

  

ここにも犠牲者がいたことを忘れないでいたいです。

書き留めました。

  

  

吉田(昌郎/まさお)は、事故から八ヶ月後、突然、

食道癌の宣告を受けた。

凄まじいストレスの中で闘ってきた吉田の身体は、

いつの間にか癌細胞に蝕まれていたのである。

(351p)

福島第一原発所長として、最前線で指揮を執(と)った

吉田昌郎氏に私がやっと会うことができたのは、

事故から1年3ヶ月が経過した時だった。(中略)

癌に倒れ、手術を経た吉田氏は、げっそりと痩せ、

事故当時の姿とはすっかり面変わりしていた。

病いを押して都合二回、4時間半にわたって私のインタビューに

応えてくれた吉田氏は、2012年7月26日、

3回目の取材の前に、凄まじいストレスや闘病生活で

ぼろぼろになっていた血管から出血を起こし、

ふたたび入院と手術を余儀なくされた。

(8p)

 

吉田さんのその後。

Wikipediaには次のように書いてありました。

  

治療のかたわら、原発事故に関する回想録の執筆を行なっていたが、

2013年7月8日の深夜に容態が悪化、翌7月9日、

食道癌のため慶應義塾大学病院で死去。58歳没。

  

今の自分と同じ年です。

すごい58歳でした。

「死の淵を見た男」/最近のニュースとつながる

今日は令和元年10月24日。

  

前投稿に引き続き、「死の淵を見た男 吉田昌郎と

福島第一原発の500日」(門田隆将著/PHP研究所)より

引用していきます。

 

 

津波から12時間余が経過し、

ついに原子炉に水が注入されるのである。

吉田は、こう語る。

「海水注入なんて、誰でもすぐにできると思っているとかも

しれませんが、そんなことではないんですよ。

それを簡単にできるかのように思っているかもしれませんが、

そんなことはないんですよ。

それを簡単にできるかのようにおっしゃる方もいますが、

そういう話を聞くと、憤りを感じますね。

現場が、どんな気持ちで水を見つけ、

そして進路を確保してやっているのか、

そういうことをまったくわからないまま、想像もしないまま、

話していますからね。

頭で考えるよりも、時間はいくらでもかかるわけです。」

しかし、福島第一原発の消防車は、三台のうち二台が

津波で打撃を受け、まともに動けるのは「一台」しかなかった。

消防車の確保、それが喫緊の課題となっていた。

(101p)

  

この状況で駆けつけたのが自衛隊の消防車でした。

  

 

東電の副社長、武藤栄(60)は、この時、

池田と共にオフサイトセンターにいた。

武藤は、地震が発生して1時間も経たない午後3時半に

本店を出発、東電が契約している江東区新木場にある

ヘリポートから、福島に向かっている。

事故が起きた場合は、地元の自治体への対応など、

現地にはさまざまな仕事がある。

とにかく副社長である自分がオフサイトセンターに

行かなければならない。

武藤は、そう考えていた。

だが、武藤の福島入りは困難を極めた。

民間のヘリは、日没になれば飛ぶことが規制されるため、

その前に現地入りしなければならない。

しかし、3時半に本店を出た武藤は、

地震による都内の大渋滞に巻き込まれ、車が立ち往生したのだ。

そのため、武藤は途中で車を降り、「走って」いる。

この時、埋立地の江東区で液状化した道路で

武藤は砂の中に嵌(は)まってしまった。

身長186センチという長身の武藤が、

液状化による砂に膝の上まで嵌まって動けなくなったのだ。

人に助けてもらって砂の中を抜け出し、

下半身を泥だらけにしながら、

二度もヒッチハイクをして、やっとの思いで新木場の

ヘリポートに到着している。

武藤を乗せたヘリが離陸したのが午後5時12分、

福島県双葉郡富岡町の福島第二原発の敷地に着陸したのは

午後6時29分のことだった。

(133p)

 

9月19日に福島第1原発事故を巡り、

業務上過失致死傷罪で強制起訴された旧経営陣3人に

無罪判決が下りました。

その中の1人が武藤栄さんでした。

Photo sputniknews

武藤さんは、その時一生懸命でした。

  

  

彼ら原子力制御のプロたちは、放射線の怖さは頭に染みついている。

強い放射線に曝(さら)されれば、人間の細胞は破壊され、

無残な最期を遂げることになる。

1999年に起こった茨城県東海村のJCO臨界事故の

被曝作業員が、身体中の細胞がぼろぼろになって

凄惨な死を余儀なくされたことは、彼ら原子力に携わる人間たちには、

忘れようとしても忘れられないものだった。

(180~181p)

 

1999年の事故は今年で20年。

ニュースで流れていました。


YouTube: JCO臨界事故から20年 茨城・東海村職員らが黙とう(19/09/27)

Photo_2  

自分の中では、風化してしまった事故だったので、

本を読んで思い出せ、ここに書き留めることができてよかったです。

「死の淵を見た男」/原発が誘致された理由

今日は令和元年10月24日。

  

前投稿に引き続き、「死の淵を見た男 吉田昌郎と

福島第一原発の500日」(門田隆将著/PHP研究所)より

引用していきます。

  

冬場が来れば一家の主が大都会に出稼ぎに出ることが

あたりまえだった福島県双葉郡。

その地元を活性化させるために原発誘致を目指す自治体側と、

初の原子力発電所をこの地に誕生させたい東京電力との

意向が合致し、福島第一原発の一号機は、

1966年末に着工したのである。

東京電力で誘致に特に熱心だったのが、

福島県伊達郡の梁川町(現在の福島県伊達市)出身の

木川田一隆社長(当時)である。

なんとしても出身地・福島県に原発を誘致したかった

木川田の思いは、冬場は出稼ぎに頼らざるを得ない

福島県の浜通りの貧困さと無縁ではなかっただろう。

(16p)

 

なぜあの場所に原発があったかの歴史は知っておくべきです。

※関連:ここでも道草 「中間貯蔵施設に消えたふるさと」③/売却を説得した渡辺さん(2019年10月8日投稿)

その上で、どうしたらよかったのか。

これからどうするかです。

  

 

福島第一原発の1~4号機の非常用ディーゼル発電機と

配電盤は、海面10メートルの敷地にあるタービン建屋の

地下室に設置されていた。

福島第一原発の津波の想定は、建設時には約3メートル、

その後、2009年には、およそ6メートルの高さへの

対策となった。

しかし、それ以上の高さに対する備えは、

まったく施されていなかった。

非常用ディーゼル発電機やメタクラ(メタル・クラッド・

スイッチ・ギア metal clad switch gear)呼ばれる

高圧配電盤がタービン建屋より高い場所に移されることはなく、

今回の津波によって、ひとたまりもなく

水没してしまったのである。

そこにこそ、自然災害に対する東電の油断と驕(おご)り、

さらに言えば慢心が存在したのではないか、と思われる。

(54p)

    

この事故はやっぱり教訓にならないといけないのです。

台風15号、19号の被害もしかり。

自然災害の想定を上げなければいけないのですね。

個人レベルでも。

   

 

吉田(昌郎)は、そんなことを指示しながら、

「次」のことを考えていた。

消防車の手配である。原子炉を冷やすことができなければ、

直接、水で冷やすしかない。

水なら海にいくらでもある。

では、その水をどうやって運ぶか。

「とにかく水で冷やすほかはない。では、もし、

水を入れられなかったら、どうなるんだろうと。

それはもうずっと、その時から思っていましたね。

私は水をプラントに入れるには、消防車しかない、

と思いました。

海からの距離がありすぎて、消防車のホースが

届かなければ、消防車を”つなげばいいじゃないか”と。

そう考えました。」

多くの専門家が驚くのは、この早い段階で吉田が、

消防車の手配までおこなわせたことである。

(59p)

  

対応策が浮かぶかどうか。

それまでの体験・知識をフル稼働して

アイデアが浮かぶかどうか。

これはどの仕事でも、追い込まれた時には、

浮かぶ頭にしておきたいと思います。

  

  

(元大熊町長の)志賀は昭和6年(1931年)10月に

生まれた。福島県双葉郡熊町村(注=現在の大熊町)の

夫沢(おっとざわ)である。

彼ほど福島第一原発にあるこの地の変遷を知る人物は

おそらくいないだろう。

志賀はこの地がただの原野だった頃、

そして戦時中に造成されて陸軍の飛行場になった時期、

さらには戦後に同地が塩田になった時も、

そして福島第一原発がつくられ、近代的な施設が

立ち並ぶ地に変貌したすべてを目撃し、

そして、それらに直接かかわってきた人物なのである。

(84p)  

 

私が今行きたいと思っているのは福島県大熊町です。

関連:ここでも道草 「中間貯蔵施設に消えたふるさと」①/中間貯蔵施設とは?(2019年10月8日投稿)

知識を積み重ねておいて、

実際に現地で味わってきたいと思っています。

この本を読んだ理由でもあります。

  

 

2019年10月23日 (水)

昨日、また本を読破しました

今日は令和元年10月23日。

  

昨日、また本を読破しました。

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死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日

(門田隆将著/PHP研究所)を読みました。

※関連:ここでも道草 活字中毒になってきたぞ(2019年10月14日投稿)

  

 

休みをいただいたことで、

本を読破できるようになりました。

拾い読みが精一杯だったのに、

今はできます。

教材研究のつもりで読みました。

いつか役にたつかもと思っています。

  

 

375pの本の374pから引用します。  

「おわりに」の終わりの方の文章です。

  

 

私は、これまで多くの太平洋戦争の関連の書籍を上梓している。

太平洋戦争の主力であり、二百万人を超える戦死者を出した

大正生まれの人々を、私は「他人のために生きた世代」と捉え、

それと比較して現代の日本人の傾向を

「自分のためだけに生きる世代」として、論評してきた。

しかし、今回の不幸の原発事故は、はからずも現代の日本人も、

かつての日本人と同様の使命感と責任感を持ち、

命を賭けてでも、毅然と物事に対処していくことを教えてくれた。

その意味では、この作品で描かせてもらったのは、

原発事故の「悲劇の実態」と共に、最悪の事態に放り込まれた時に

日本人が発揮する土壇場の「底力と信念」だったかもしれない。

なぜ彼らは、ここまで踏ん張れたのだろう。

同時代を生きるひとりの人間として、私は取材のあいだ中、

そのことを考えつづけた。

その答えが、本作品で読者の皆さんに少しでも伝われば、

これに過ぐる喜びはない。

   

 

大正生まれの人たちを「他人のために生きた世代」と

捉えたところが、なるほどと思いました。

   

なぜ踏ん張れたのか。

その答えをここに書けませんが、

同じ状況に置かれたら、自分はどうするだろうかと思いながら

読みました。

無理かもしれないけど、自分も踏ん張りたいと思いました。

お手本を示された気持ちです。

クイズ番組「東大王」で知った「擽る」の読み方

今日は令和元年10月23日。

  

今晩放映のクイズ番組「東大王」で 大きな収穫がありました。

難読オセロのコーナーで、「擽る」の読み方を知りました。

何と読むかわかりますか?

少し考えてみてください。

  

  

 

  

  

  

  

「擽る」

手偏に「楽しい」です。

その読み方は、

くすぐる」でした。

Photo 朝の元気になるイラスト画像コーナー♪

 

手偏で「楽しい」で、「くすぐる」と読むなんて

素晴らしい!

うれしくなってしまいました。

  

教育手法として「くすぐり」を

真面目に考えている私にとって

飛び上がって喜ぶほどのことでした。

  

※参考?:ここでも道草 くすぐってでも笑わせる実践/教育は伝染・感染(2017年5月1日投稿)

    :ここでも道草 この1年間のキーワードは「くすぐり」(2018年3月23日投稿)

2019年10月22日 (火)

20191015報告 鳳来寺山後編 鷹打場の白い物は看板でした

  

今日は令和元年10月22日。

  

前投稿に引き続き、鳳来寺山登山の報告です。

  

鷹打場に到着。☟

Rimg2175_2

やっぱり、いい場所です。

 

下から見た白い物の正体は、すぐにわかりました。☟

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☝ 看板の裏面は、思いのほか白かったです。

  

 

鷹打場からの景色。☟

Rimg2178

Rimg2179  

なぜ1本だけ赤白なのだろうと、Kさんと話しました。

Yahoo!知恵袋の回答が興味深かったです。

  

航空法の関係で60m以上の鉄塔などは

赤白識別が義務となっています。

現在は航空障害灯の設置をすれば、

赤白の識別はしなくても良いとなっています。 

   

鉄塔の赤白塗装(航空障害塗装)は決まりがあって、

全体の高さをを7等分し、

必ず、下(上)から赤・白・赤・白・赤・白・赤の塗り分けます。

今度良く見てください。

とにかく高さの7等分ですから、低い鉄塔の間隔は短く、

高い鉄塔の間隔は長くなっています。

  

本当かなと?と思って、上の写真を数えたら、

7等分でした。面白い。

ささやかな知識と出合いました。

  

 

登山道で見つけた実です。☟

Rimg2181_2

Rimg2182_2  

新鮮な緑色に目が行き、手に取りました。

柑橘系の香りがしました。

何の実だろう?

  

この実はわかります。☟

Rimg2187_2  

アケビです。

けものが食べた跡でしょうか。

アケビは久々に見ました。

  

以上で報告を終わります。

20191015報告 鳳来寺山中編 黒曜石か松脂岩か?

  

今日は令和元年10月22日。

  

前投稿に引き続き、鳳来寺山登山の報告です。

  

昼食を食べた天狗岩から見た岩場、鷹打場です。

Rimg2171

下から見たとおり、鷹打場までは下りです。

下って行って、もうすぐ鷹打場だというときに、

この岩石が目に入りました。☟

Rimg2173_2

Rimg2174_2

写真以上に黒く輝いていました。

黒曜石かなと思いました。

調べました。

 

☆しの☆の低山日記

このサイトの筆者さんは、おそらく私と同じ場所でこの岩石を

目にして、次のように書いています。

 

これって間違いなく黒曜石だよね 

黒曜石の石器は触ったことがある 

黒曜石って産地が限られるはずで 

鳳来寺山で黒曜石が産出するって知らなかった 

調べてみると 

石器の材料になるような

良質の黒曜石の産地は限定されるけれど 

日本で黒曜石を産出する地点は 

70カ所以上あるとのことだ 

鳳来寺山もその一つとのことだ

 

やっぱり黒曜石でいいのかなと思ったら、

次のサイトで別の名前が出てきました。

弁護士永野海 法律と防災のページ

このサイトの筆者、永野さんが、鳳来寺山自然科学博物館に寄って、

そこにある岩石標本の写真を並べ、説明しています。

黒く輝く石の下の説明にはこう書いてありました。

 

鳳来寺山を代表する松脂岩(しょうしがん)。

流紋岩が水和するとこれになるそうです。

白い流紋岩が一気に黒曜石のような黒に変身する不思議。

  

黒曜石ではなくて、松脂岩の可能性も出てきました。

黒曜石も松脂岩も、流紋岩の種類だそうです。

Wikipediaには、松脂岩は次のように書いてあります。

  

黒曜石に似るが、国際地質科学連合の分類では、

黒曜岩の水分が1%以下なのに対して、

水を1~10%含むため別の物と扱われている。

  

   

ふ~、こうなったら、今一度あの場所に行って、

石を採取して、鳳来寺山自然科学博物館で確認しよう。

   

  

つづく

20191015報告 鳳来寺山前編 鷹打場の白い物は何だ?

  

今日は10月22日。

 

恒例の?鳳来寺山登山報告です。

この日は初めて行者越えコースで東照宮まで登りました。

Kさんが同行してくれました。

出発は10時30分頃。

 

スタートの駐車場から少し歩くと、

これから登るコースが一部見えます。

今日のコースは、行者越え駐車場→東照宮→本堂

→鳳来寺山山頂→天狗岩→鷹打場→東照宮→駐車場です。

Rimg2150  

鷹打場は岩場です。アップ。☟

Rimg2150a

何か白い物が見えました。

何であるかを行って確認しようとKさんと話しました。

  

行者越えコースの案内板です。☟

Rimg2152   

立派な木が生えていました。

Rimg2154 

お墓がありました。☟

角が丸いお墓は、僧侶のお墓だとKさんに教えてもらいました。

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本堂前の定点観測するモミジです。☟

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前回から始めましたが、毎回登るたびに色づきを撮影していきます。

  

 

登山道を歩いていました。少々お疲れでした。☟

Rimg2159  

アザミが開花直前。☟

Rimg2160

エンシュウハグマは先週よりもにぎやかに咲いていました。 

全ての花にピントを合わせようと欲張ったら、

全てピントはずれ。残念。☟

Rimg2162  

ウルシの紅葉が始まっていました。☟

Rimg2165

  

頂上を通過して、天狗棚の見晴らしのいい場所で昼食。

今回のメニューです。☟

Rimg2167  

天狗棚から見えた山です。頂上が平らです。

何て山だろう。

Rimg2172_2  

鳳来寺山から見て東方、国道を挟んで向こうの山です。

頂きの下を林道らしき道があります。

また調べます。

 

まだ長くなりそうですので、ここまでを前編とします。

2019年10月21日 (月)

冷泉家/京都に残った理由 取り壊されなかった理由

 

今日は令和元年10月21日。

  

前投稿に引き続き、9月7日放映の「ブラタモリ 京都御所」の

読み物化をしていきます。

  

冷泉家は、五月の節句ののように、

昔からの年中行事を今も大切に守り伝えています。

歌会始(うたかいはじめ)☟

Rimg2129  

雅楽の上達を願って、織姫と彦星に演奏を捧げる

乞巧奠(きっこうてん)☟

Rimg2130

Rimg2131

現在の七夕の原型と言われています。

  

なぜ冷泉家が京都に残ったのかを、

当主が説明してくれました。

聞き書きします。

  

当主:ここで、なぜ残ったかといえば、

  ご存知の通り、明治2年の時に天皇が東京に移られます。

  多くの公家が天皇にお供をして東京に行かれたわけです。

  その時に、冷泉の家は、ちょうど公家の中ほどの

  格だったもんですから、京都御所の留守居役を

  仰せつかるわけです。だから残れたわけです。

Rimg2132

Rimg2133  

Wikipediaには次のように書いてあります。

  

明治時代になると、ほとんどの旧・公家は

明治天皇に従って東京に移住したため、

現在の京都御苑内にあったほとんどの公家住宅が空家となり、

治安維持のため取り壊された。

しかし、上冷泉家には御文庫といわれるかつては勅封※だった蔵もあり、

また今出川以北の京都御苑外に立地していたため、取り壊しも免れた。

※勅封=蔵などを勅命によって封印すること。

( 扉とびらに錠をかけて麻縄でしばり、

   結び目を天皇自署の紙で封じる。

 開閉には勅使が参向する)引用: コトバンク 大辞林

  

  

ブラタモリ 京都御所」は他にも興味深い内容でした。

本来、天皇は平安京の大内裏に住むはずなのに、

平安京の北東の隅で500年近く住んでいました。

その理由を解き明かしていました。

詳しくは、他の人のブログで読んでみてください。☟

Y.Johnnyかく語りき ブラタモリ 西陣 京都御所編

冷泉家/「明月記」との再会 五月の節句

今日は令和元年10月21日。

  

前投稿に引き続き、9月7日放映の「ブラタモリ 京都御所」の

読み物化をしていきます。

  

タモリさんたちは、冷泉家(れいぜいけ)を訪れます。

  

ナレーター:冷泉家の先祖は小倉百人一首の選者、

  藤原定家(さだいえ)です。

  定家の日記で国宝の「明月記」や「新古今和歌集」など、

  宮廷文化を今に伝えるお宝を多く所有しています。

  御所とその周りで培われた宮廷文化とは

  どのようなものだったんでしょう。

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Rimg2122  

「明月記」と聞いて、古い記事を思い出します。

ここでも道草 「ヒストリア 天文」より6・・・900年前の星の輝き(2013年1月27日投稿)

以前の勉強(教材研究ですね)とつながるのは、

とっても愉快です。  

時を超えて、違うアプローチで「明月記」に

たどりつくことができました。

知識を少し積み重ねることができました。やったね。

   

  

話は番組に戻ります。

  

冷泉家では、25代目当主ご夫妻がお出迎え。☟

Rimg2123  

5月末のロケでした。

広間はこのようになっていました。

Rimg2124

奥さんが説明してくれました。

 

奥さん:これはね、5月の節句の飾りでございます。

  旧暦の5月と言うのは、五月雨が降る頃なんですね。

  現代でいうところの梅雨でございます。

Rimg2125

Rimg2126

  病気がはやる季節、たとえば赤痢みたいな病気とか

  家の中に入らないようにするために、

  和薬ですね、日本の薬を軒につるしたり屋根にふいたりしてね。

  その代表的な和薬がショウブでありヨモギであるわけです。

Rimg2127

Rimg2128  

  

軒につるしたり屋根にふいたりしてね

が気になったので、

「五月の節句」「ショウブ」「屋根」で画像検索したら、

次のような写真がヒットしました。

Syoubu1

Syoubu2 茅葺き屋根と囲炉裏の古民家 白馬マル七の過去日記

次のような説明が添えられていました。

  

2007.6.4

白馬の端午の節句は1ヶ月遅れの6月5日です。

厄除け・魔除けのために、家の各出入口には

菖蒲(ショウブ)と蓬(ヨモギ)を飾る習慣があります。

  

  

実際に屋根に飾っているところがありました。

ショウブ湯には入りますが、屋根に飾っているのは初めて見ました。

  

  

つづく 

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