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2019年10月

2019年10月29日 (火)

「雪虫の飛ぶ日」③/理想像の2人コンビが終わる

 

今日は令和元年10月29日。

  

雪虫の飛ぶ日 新十津川物語6

(川村たかし著/偕成社)を読んだことがきっかけで

お米の品種「ゆめぴりか」について勉強できました。

今回は、自転車の勉強です。

雪虫の飛ぶ日」から引用します。

  

主人公の中崎フキと縁があって

居候している恭之助が、

フキの孫のあいに、女学校合格祝いに自転車をプレゼントします。

あやはフキの娘。あいの母親です。

感動のシーンなので、長く引用します。

  

 

(恭之助)「ところであいちゃん、お祝いがあるんだ。

さあ、目をつぶって。」

(中略)

(恭之助)「いいよ。目をあけてみな。」

あけた。するとどうだろう。目の前に真新しい女ものの

自転車がにぶくかがやいていたのだ。

(フキ)「おじさんからのお祝いよ。」

フキは両腕をだくようにして、あたたかくわらった。

(フキ)「おじさんが買(こ)うてくれたんよ。

それもね、去年の冬から夜なべにむしろを織った、

なわをなった。夏には沼の桑で蚕を飼(こ)うた。

なににつかうかは、いまにわかるって、

全部竹筒にためてきたのさ。

まるまる2年もためて、やっと買(こ)うたんやさけのう。」

恭之助はまた、コンコンときせるをたたいた。

(恭之助)「口上(こうじょう)はそれくらいにしようぜ。」

(フキ)「いいえ、馬鈴薯がにえるには時間がかかるの。」

フキがつづけた。

(フキ)「ところがこのまえ、合格だってあいが山へかえっていくと、

おじさんはトーンと竹筒をわってね。

お祝いに、ぴかぴかの自転車を買(こ)うてやるんだって、

おじさんがーーー」

フキはわらいながら話している。それなのに、鼻の横をつつーっと

なみだがつたわった。

鳥なべがわきはじめたが、だれひとり身動きひとつしなかった。

(フキ)「おじさんが2年間、思いに思って買った宮田号だよ。」

フキはなみだをはらった。

(フキ)「よかったね」

(恭之助)「いやさ。ところが、甲斐性がない年寄りだ。

まだ車輪1つぶんをはらいきれねえ」

あやもやっぱり目を赤くしながら、そっとペダルにふれた。

(あや)「父ちゃんがいなくても、婆ンちゃとおじさんが

いてくれるもんなあ。」

さっきから、あいはこわい顔で天じょうをにらんでいた。

うつむけば、なにかがこぼれおちそうだった。

この胸いっぱいにあたたかいものを、

ひとしずくもこぼしてはなるまいと思う。

2年もまえからおじさんは、1台の自転車のために、

好きな酒もきりつめたにちがいなかった。

(69~70p)

  

いい家族だなあと思います。

とにかくフキと恭之助の2人は素晴らしい。

巻末の仮説で、田宮裕三さんという方が、

2人を「理想的人間像」「剛毅でやさしく誠実」と

書いています。賛成です。

苦難にあっても耐えて、2人して前に進んでいます。

お金なんかなくても、何のその。

ちっぽけではないのです。

読んでいて後味がいいです。

  

  

しかし、この第6話ラストで、恭之助さんは亡くなります。

10話まで話はあるのに、2人のコンビが消えてしまいました。

どうなるのだろう?

  

いかん、自転車の話を書かずにここまで来てしまいました。

次の記事で書きます。

「雪虫の飛ぶ日」②/「ゆめぴりか」2度の試練

  

今日は令和元年10月29日。

  

雪虫の飛ぶ日 新十津川物語6

(川村たかし著/偕成社)を読んだことで

気になったことについて書きます。

  

北海道の米の品種「ゆめぴりか」について。

最近、このCMを見かけます。

 


YouTube: 【CM】ゆめぴりか

マツコ:ただいま

店主:ゆめぴりか

マツコ:帰って来ちゃった

店主:(うつむく)

マツコ:お待たせ

店主:(むせび泣く)

マツコ:おいしく炊いてね

ナレーター:「ゆめぴりか」が帰ってきました

店主:どこへ行ってた・・・

マツコ:やっぱり「ゆめぴりか」っておいしい。

Photo

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なぜ「ただいま」「帰って来ちゃった」なのかなと

思っていましたが、解決しました。

2018年は、北海道のお米は不作だったのですね。

農家の人には申し訳ありませんが、知りませんでした。

ライスピア米蔵 北海道、9年ぶりの「不作」

☝ ここを読むと、2018年は「ゆめぴりか」にとって

大ピンチになるほどの不作だったようです。

9年ぶりということは、その年は2009年。

実はこの年は「ゆめぴりか」デビューの年。

北海道米 ゆめぴりか HP

☝ このサイトから引用します。

 

1997年の開発から約10年。

これまでにない味わいを持つ北海道米が遂に誕生しました。

しかしいよいよ全国デビューという2009年、

大規模な冷害に見舞われ不作に。

その経験を生かし、冷害対策を強化し

改めて米づくりの管理体制を徹底することに。

そして2011年、満を持して「ゆめぴりか」がデビューしました。


YouTube: 北海道米 ゆめぴりか CM 「すいません」

☝ 2011年CM・・だから「ゆめぴりかって、何ですか?」と

桐島かれんさんは聞いているのですね。

その名は瞬く間に全国へ広がり、美味しくなったと言われていた

今までの北海道米を超えるひと味違う美味しさに注目が集まりました。

数々の苦難を乗り越え、挑戦を続けてきた北海道の米づくり。

その集大成ともいえる「ゆめぴりか」は

北海道の米づくりに関わる人々が誇る最高峰のお米です。

そんな「ゆめぴりか」は誕生から10周年。

これからもその味を極め、進化を続けていきます。   

  

  

「ゆめぴりか」は2度(2009年・2018年)の

試練を受けてきたのですね。

「新十津川物語」を読むと、何度も不作に苦しむシーンが

描かれています。

北海道開拓のたいへんさが伝わってきます。

その苦難の歴史は終わったわけではなく、

今もあるんだなと「ゆめぴりか」のことを知って気がつきました。

「雪虫の飛ぶ日」①/「玉置坊主」は本当にあったこと?

今日は令和元年10月29日。

  

本を読破しました。

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雪虫の飛ぶ日 新十津川物語6

(川村たかし著/偕成社)

  

図書館に返す本です。

印象に残った文章をここに書き留めます。

  

「玉置坊主(たまきぼうず)はどこまで

もちこたえられるかねえ。」

フキはつくろいものの手をとめて、

とおくを見る目になっていた。

(フキの)夫の豊太郎とおなじ級に、玉置直次という男がいた。

(中略)

入植しても学校がおなじ、日露戦争もいっしょだった。

その直次が、大正2年のひどい冷害のとき、

ひょろひょろした草ばかりの中に、たった1本、

花を咲かせている稲を見つけた。

直次は目をかがやかせた。

はやくから米づくりにうちこんでいただけに、

花をつけた1本の茎がどれほどのねうちがあるものか

わかったからだ。

彼は虫やスズメからこの穂をまもりとおした。

  

やがて秋になり、稲はみのって重くたれさがった。

たった1本の稲は翌年何升(なんじょう)かの

種もみにふえた。

冷害がやってくるたびに玉置種は見なおされ、

ひろがっていった。

寒さにつよいうえに、収量もおおい。

味もわるくなかった。

  

ただ穂の出るのがいくらかはやく、もみの色が明るい。

そのため、はじめは玉置の早稲(わせ)とよばれた。

だが、早稲というほどはやくもないので、

しだいに玉置坊主で知られるようになっていく。

  

大正8年、なお改良をのこしながら、玉置は若く死んだ。 

41歳だった。

家族が札幌へ出たあとを杉岡という人がついだ。

  

昭和にもなると、空知(そらち)地方を中心に

玉置坊主は一万町歩もつくられるようになっていた。

ことしになって、またふえた。

昭和5年はたいへんな暑さで、稲はのびすぎて草に力がなく、

イモチ病がひろがった。

あちこちの田んぼはべったりとひれふしたが、

玉置坊主だけはほとんどたおれなかった。

寒さばかりか暑さにもつよいという評判のうえに、味もよい。

このごろではどの検査場でも、〇にタという赤い標識は

優良米としてあつかわれている。

豊太郎と直次の執念が、ようやく形をとりつつあった。

(50~51p) 

  

北海道での米づくりでは、

実際にこのようなことがあったと思います。

ここまで詳細に書いてあるので、

「玉置坊主」は実話だと思って、

実際にインターネットで調べましたが、

見つかりませんでした。

知れば知るほど北海道米より年表を転載。☟

Epson117  

ふと脱線して、「ゆめぴりか」について書きたくなりました。

  

2019年10月28日 (月)

20191023報告 兀岳・夏焼山報告④県民の森を堪能

 

今日は令和元年10月28日。

  

報告のラストです。

山で出合った景色の写真を並べます。

  

南アルプスを見ることができる場所がありました。☟

Rimg2210

雪があるのは赤石岳だそうです。

南アルプスも初冠雪です。

  

これは双耳峰だから、池口岳だねと話していました。☟

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目の前には、午前中に登った兀岳が見えました。☟

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大きな紅葉の葉っぱが、斜面に引っかかっていました。

美しい! ☟

Rimg2215  

 

☟ この建物は、13年前にもあったらしいけど、

すっかり忘れています。

Rimg2221  

13年前の写真を載せます。☟

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熊よけ鈴 お貸しします。」が新しい。

  

  

やっぱり木をたくさん撮った日でした。☟

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赤い落ち葉の階段。☟

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石にできた不思議な模様。☟

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どうしてこんな模様ができたのだろう?

  

  

ゴール近し。

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登山口に戻ってきました。登山口にある水場。

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何が書いてあるのだろうと思って読んでみました。

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おっと、最近問題になっていた豚コレラ予防のお願いでした。

しっかり靴底を洗いましたよ。

  

 

以上で報告終了。いい山でした。

贅沢をさせてもらいました。

20191023報告 兀岳・夏焼山報告③夏焼山から県民の森へ

  

今日は令和元年10月28日。

  

昼食をすませて、次は夏焼山です。

 

登山口です。☟

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これも13年前と比較してみます。

2006年11月の登山口です。☟

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階段がだいぶ老朽化していました。

 

  

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紅葉の赤色や黄色に向かって行く薄い緑色の葉っぱも

いいなと思いました。

  

  

信州山歩き地図Ⅳ 里山編」(中嶋豊著/信濃毎日新聞社) の

絵地図です。☟

Epson114a  

「平坦で快適な稜線の道」を体験しました。☟

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確かに平坦で快適な道でした。そう見えるでしょ。

  

  

夏焼山頂上です。☟

Rimg2191  

あらためて御嶽山。☟

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夏焼山を登った後は、地図のように県民の森を歩きました。

そこで出合った景色を並べます。

Epson116

  

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クマザサは背丈以上ありました。☟

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やっぱり紅葉がよかったです。☟

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 県民の森の北端には、ミズナラが堂々と立ってました。☟

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青空に緑がすがすがしかったです。

  

つづく

  

20191023報告 兀岳・夏焼山報告②兀岳下山で見た景色

  

今日は令和元年10月27日。

  

兀岳の頂上から下山中にみた景色です。

うれしいことに、1500~1600mは紅葉でした。  

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大平峠に戻ってきました。

峠のトンネルです。☟

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13年前も同じように撮影していました。☟ 11月の終わりでした。

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道路横の木が太くなったように思えます。

  

   

昼食は大平峠の東屋(あずまや)で食べました。

ふと天井を見たら、スズメバチの巣がありました。

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むむ、ハチはいるのかなと思って見ていたら、

顔を出しました。失礼しました。

差し障りのないように昼食を食べました。

前回の登山でも、スズメバチに出合っています。

季節がそういう季節なんですよね。

   

昼食中に、ドライブ中のご夫婦と話をしました。

名古屋在住の方。

山好きの方たちで、しばらく山の話をしました。

驚きは、平山明神山でヒルにやられたという話。

うわ~、三河の山々はどんどんヒルが増えいています。

大好きな山の一つ、平山明神山までも。

まいったなあ。

昼食後、夏焼山と県民の森を歩きました。

次の記事で書きます。

20191023報告 兀岳・夏焼山報告①まずは兀岳に登りました

  

今日は令和元年10月27日。

  

本で読んだり、テレビ番組で見たり、

インターネットで知ったことを、

実際にどうなんだろうと出向いて確かめる。

それが楽しい。

  

いい本があります。

3年前に注文した本です。

ここでも道草 12月24日の風越山登山その4 乙女の滝(2016年12月25日投稿)

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信州山歩き地図Ⅳ 里山編」(中嶋豊著/信濃毎日新聞社) 

この本には、著者が実際に歩いて描いた登山道の絵地図があります。

ほれぼれします。

そこを実際に歩いて、今もそうなっているんか実際に確かめる。

ぜひやりたいと思っていましたが、3年経ってやっと実行しました。

  

兀岳(はげだけ)と夏焼山周辺を歩いてきました。

同行者はKさんとSさんです。

13年前に登ったコースです。

  

まずは兀岳に登りました。

Kさんが用意してくれた国土地理院の地図です。

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兀岳登山口の標識です。☟

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ちなみに13年前の2006年11月です。☟

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13年の年月を感じさせてくれる標識です。

  

  

信州山歩き地図Ⅳ 里山編」の絵地図です。☟

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この絵地図を見て、ブナを見上げてみたいと思っていました。

実行しました。素晴らしい木でした。☟

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信州山歩き地図Ⅳ 里山編」の絵地図です。☟ 分岐です。

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実際はこうでした。☟

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山は紅葉でした。

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御嶽山です。☟ 雪をかぶっていました。初冠雪です。

この日、富士山も初冠雪。南アルプスも初冠雪でした。

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右奥には、乗鞍岳が見えました。☟

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頂上です。☟

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13年前の頂上です。☟

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信州山歩き地図Ⅳ 里山編」の絵地図です。☟ 

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兀岳頂上には、13年前にも絵地図でもベンチがありました。

しかし、現時点では全くありませんでした。

頂上を示す標識も、草の中にうつぶせに倒れていました。

様変わりしていました。

実際に行ったから、わかったことです。

  

 

パラリンピック〈8〉2020年、56年ぶりに東京でパラリンピック開催

  

今日は令和元年10月28日。

  

前投稿に引き続き、

8月23日放映の「チコちゃんに叱られる!」の

読み物化をします。

  

  

再び同じ都市で開催されたのは1988年の韓国のソウルでした。

Rimg2131

この時、東京大会で初めて使われた「パラリンピック」の名前が

国際オリンピック協会に認められ、正式名称になりました。

(東京大会では公式名称だったけど、正式名称ではなかった。

ややこしい)

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「パラリンピック」の「パラ」は、オリンピックと「並行」して

行うことをさす「パラレル(並行)」へと、解釈が変更されました。

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来年、パラリンピックは56年ぶりに東京に戻ってきます。

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東京パラリンピックの開会式は、2020年8月25日です。

  

 

チコちゃんの質問の正式な答え。☟

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※注釈 ☟

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パラリンピックのことを継続して書いていこうと思っています。

基本中の基本の「パラ」の意味を確認しました。

  

8月23日放映の「チコちゃんに叱られる!」の読み物化完了。

  

パラリンピック〈7〉1964年東京でパラリンピック開催

  

今日は令和元年10月28日。

  

前投稿に引き続き、

8月23日放映の「チコちゃんに叱られる!」の

読み物化をします。

  

1964年にストーク・マンデビル大会は東京で開催するのに

反対する声もありました。

Rimg2119_2

中村裕さんの長男の中村太郎さんが教えてくれました。

聞き書きします。

 

中村:(父が行おうとしたことは)必ずしも、

  世間、医療界の評価も良いものではなかった。

  「せっかく(病状が)良くなたのに、スポーツをして

  悪くなったらどうするんだ」とか、

  「障害者を見せ物にするのいか」と。

  みんなの前でスポーツ大会をすることは、およそ、

  その頃の日本では考えられなかった。

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そこで中村裕さんは、東京開催の2年前、

1962年のストーク・マンデビル大会に自身の患者さん2人に

参加してもらい、障害者でもスポーツができるとアピールしました。

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中村さんの熱意に押されて、東京大会開催が正式決定。

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中村さんをはじめ準備委員会のメンバーは、

この大会の名前をパラリンピックとし、

公式にうちだすことを決めました。

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そして1964年11月8日。

参加22か国でパラリンピックが東京で開催されました。

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これでパラリンピックは、

オリンピックと同じ都市で行われたかと言うと、

そうではありませんでした。

Rimg2130  

東京大会以降、「パラリンピック」という名前は使われず、

オリンピックと同じ都市での開催は行われませんでした。

  

私自身の記憶でもそう思います。

「パラリンピック」という大会名は、昔からあったという記憶ではなく

比較的新しい記憶なのです。

では、いつ復活したか。

 

次の記事で書きます。

                                                                                                                  

パラリンピック〈6〉1960年ローマでパラプレジックオリンピック開催

 

今日は令和元年10月28日。

  

昨晩に引き続き、

8月23日放映の「チコちゃんに叱られる!」の

読み物化をします。

  

前投稿で書いた、ストーク・マンデビル病院で行われた競技会は、

ストーク・マンデビル大会と呼ばれました。 

Rimg2111  

1948年に始まったストーク・マンデビル大会は、

それ以後毎年開催され、

しだいに世界各国から選手が参加するようになり、

国際競技大会へと発展していきます。

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1960年には、オリンピック開催都市で、

ストーク・マンデビル大会を行おうと、

開催委員会が決めました。

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1960年、イタリアでのオリンピックに合わせて、

ローマでストーク・マンデビル大会が行われました。

その時に大会名は、パラプレシアとオリンピックを合体させた

パラプレジックオリンピックという愛称が、

大会関係者の間で使われていたそうです。

Rimg2114  

公式にパラリンピックという言葉が使われ始めたのは、

1964年の東京でのオリンピックからでした。

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1964年のパラリンピック階差に向けて、

尽力した人物がいました。

日本パラリンピックの父、中村裕(ゆたか)さんです。

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大分県で医師をしていた中村さんは、

当時最先端のリハビリ技術を学ぶため、

1960年にストーク・マンデビル病院に留学しました。

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そこで、スポーツによるリハビリに感銘を受け、

1964年の東京大会を日本における障害者スポーツのための

第一歩にしようと決意しました。

順調にいけば、1964年のストーク・マンデビル大会は

東京で行われるため。中村さんは発起人となり、

大会準備委員会を立ち上げ、大会に向けて奔走しました。

 

しかし、この大会を東京で開催するのに反対する声も

ありました。

どのような声があったと思いますか?

私にはすぐに浮かびませんでした・

次の記事で書きます。

  

つづく

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