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2018年2月

2018年2月20日 (火)

言葉に敏感な子の質問攻め/「嘗て」「挙って」「剰え」「丫」他

今日は2月20日。

  

給食の時間に、「先生、『あまつさえ』ってどういう意味なの?」

と聞いてくる不思議な男の子がいます。小学4年生。

何が不思議かって?

どこで「あまつさえ」という言葉に出会って、

それを記憶し、こうやって質問してきたのか不思議です。

「いったいどこで『あまつさえ』に出会ったの?」と聞くと、

「テレビ」とのこと。

その子は「あまつさえ」の漢字も知っていました。

「剰え」です。

「剰え(あまつさえ)」の例文を調べました。

Yahoo!知恵袋 から引用です。

 

「あまつさえ」の例文です。

その意味は「悪いことに悪いことが重なります。」

「風邪気味でふらふらし、あまつさえ昔痛めたひざの痛みまで

出てきてもう歩くのは困難だった。」

「あの男は私たちを家から叩き出し、

あまつさえ私たちの荷物を外に投げ捨てたりもした。」

「あまつさえ」というのが古めかしい表現なので、

思い切って時代を昔に設定しての例文の方がふさわしいかもしれません。

「右腕に刀傷を受け、あまつさえ左肩には矢が深く突き刺さっていた。

しかし、猿田彦は必死の抵抗を続けていた。」

by sarutahiko52さん

  

  

ある日は「いやがうえにも」でした。

どういう意味なの?

即答できず。

調べました。

ことわざ・慣用句の百科事典

  

意味は「そうでなくても十分なのに、ますます」

例文

1.相手が昨年の優勝者だという事で、いやが上にも闘志が湧いたのだった。

2.彼女が見に来るというなら、いやが上にも頑張らないといけない。

3.これだけのメンバーがそろえば、いやが上にも番組は盛り上がるでしょう。

 

 

その男の子は漢字が得意です。

どこかで次のような漢字に出会って、

それを記憶しています。

そして私に聞いてきます。

「先生、〇〇って、漢字でどう書くか知ってる?」

  

その子が話題にした漢字を書いていきます。

 

「鷺」(さぎ)

「巫山戯る」(ふざける)

「お呪い」(おまじない)

「嘗て」(かつて」

「挙って」(こぞって)

  

最後はこの字。「丫」

これも漢字。

わかりますか?

私はぜんぜんわかりませんでした。

その子に聞くと、「あげまき」だと教えてくれました。

「あげまき」って何?

調べました。

ニコニコ大百科 によると、

漢字「丫」の意味は

「あげまき、あげまきにした人、つのがみ、二又の木の枝。」

「あげまき」は髪型。「総角」とも書く。

童子の髪型の一種で、髪を左右で分けて耳の上あたりに髷(まげ)を

結ったもののことだそうです。

 

Photo 佐藤嘉洋オフィシャルブログより

 

  

言葉に敏感な子どもだと思います。

これらの言葉と、どのように出会っているのかが、

興味津々です。

2018年2月19日 (月)

「頂」のアルコール度数が8%に変わった!

 

今日は2月19日。

  

サントリービール(株)の「頂(いただき)」が、

つい最近リニューアル。

アルコール度が7%だったのが、8%になりました。

アルコール度が変わることがあるんだと驚きました。

Rimg1934

↑2月12日撮影

  

SUNTORY HP 「頂〈いただき〉」リニューアル新発売

↑ここから引用。リニューアルは2月6日からでした。

 

今回は、発売以降お客様からいただいたお声やご期待にお応えし、

アルコール度数を7%から8%にアップします。

“飲みごたえ”はもちろんのこと、使用する麦芽量を増量することで、

麦芽由来の“力強いコク”をさらに強化しました。

また、醸造条件の最適化による後味の改善も行い、

より満足度の高い“最高峰のコク刺激”を実現しました。

パッケージは、評価の高いデザインを踏襲しながら、

アルコール度数8%であることを強調しました。

  

ご期待に応えての8%だったのですね。

パッケージの評価が高いのもわかります。

買いたくなるデザインです。

キリンビールの「澄み切り」のデザインもいいと思いましたが、

「頂」が登場して、銀色より金色の方がいいなあと思いました。  

  

  

アルコール度の高いビールについて調べました。

WE ♡ BEER ビールのアルコール度数について

ここに度数の高いビールが紹介されていました。

  

スネークヴェノム(67.5%) スコットランド

アルマゲドン(65%)スコットランド

スタート・ザ・フューチャー(60%)オランダ

Schorschbräu Schorschbock(57.5%)ドイツ

END OF HISTORY(55%)スコットランド

  

記述によるとEND OF HISTORYの入れ物にインパクトありとありましたが、

画像がありませんでした。

探しました。

そして驚きました。

何と、このビールはリスやオコジョ、野ウサギのはく製を使っていました。

参考:BrewDog Blog The End of History

う~ん、この画像は?

2018年2月18日 (日)

「21世紀脱・学校論」からの引用/没頭できないのは学校教育の弊害?

 

今日は2月18日。

  

前投稿に続いて「すべての教育は『洗脳』である 21世紀の脱・学校論

(堀江貴文著/光文社新書)から引用します。

  

没頭できるかどうかを決めるのは、

人の性格でも、あるいは没頭の対象の種類でもない。

それに対してどれだけ主体的に関われるかだ。

目の前に現れたものを、「与えられた作業」ではなく、

「自分でルールの作れるゲーム」だととらえられるようになれば、

あなたの人生は今この瞬間からでも、

没頭で埋め尽くされていくだろう。

では、なぜあなたはそこに足を踏み出せないのか?

簡単だ。学校教育の洗脳が抜けていないからである。

学校は、人が「好き」や「快」で動くことに対して、

すぐにイエローカードを差し出す。

あくびをしたら咎め、はしゃいでいたら叱り、

できない部分をひたすら注意する。

これらを許してしまったら、その人はオールBを目指さず、

「禁止」への恐怖も持たない人間になってしまうからだ。

(121P)

  

「禁止」ルールに基礎づけられた学校教育の中で、

人は自分の中の「好き」や「快」に従って生きること自体を

「悪いこと」だと思い込む。

その結果、自分の没頭する力に強烈なブレーキをかけ、

身動きがとれなくなってしまうというわけだ。

僕には「好きなことに打ち込むことは悪いことである」という

価値観はさっぱり理解できない。

「子どもがサッカーに夢中で、サッカーの強い高校に

行きたいと言うんです。でもJリーガーになれる人はごく一部ですし、

できれば普通の進学校に進んで勉強してほしくて・・・」

この手の意見は耳にタコができるほど聞いてきたが、

素直に言うと、僕には意味がわからないのだ。

「サッカー選手になれる確率は低いのだから、

サッカーにハマるのは無駄だ」。これは裏を返せば、

「サッカーをやるからには、サッカー選手にならなければならない」という

謎の強迫観念にとらわれているということだ。

サッカーという入り口は、サッカー選手という出口にしかつながっていない

・・・・とても窮屈な考え方だ。まさに、「用意されたレール」式の

発想である。

いちいち解説するのもおかしな話だが、

「サッカーに没頭する」という体験がもたらす可能性は、

「プロのサッカー選手になる」ことだけじゃない。

もしかしたら彼は、途中でサッカーグッズの開発に興味をもつかもしれない。

サッカー漫画にハマって漫画家を目指し始めるかもしれない。

サッカー部でできた友達と、何か関係ない仕事を始めるかもしれない。

10年後にはサッカーにまつわるまったく新しい

ビッグビジネスが生まれており、彼のスキルがたまたまそれに生きるかもしれない。

こんな想像は、いくらしてもきりがない。まさに無限大だ。

こうした可能性を、すべて「ゼロだ」と却下できる人はいないはずだ。

同時に、どれか1つの可能性だけを取り上げて、

それを理由にやるやらないの選択を下すのも馬鹿馬鹿しい。

やりたいならやればいい。それだけだ。

現実はそうなのに、「サッカー選手になれる確率は低いから、

真面目に勉強しなさい」という、論理的に破綻した正義を

平気で振りかざすのが、学校教育なのだ。

学校は、どんな入り口からでも、無限の可能性にアクセスできるという

事実を隠蔽する。そして、解くべき問題集を、進むべき大学を、

就職するべき優良企業を次から次へと用意し、

人をそのレールの上だけで走らせようとする。

(122~123P)

  

この本で堀江さんが言いたかったことは、

この最後の引用文に凝縮されているように思えます。

「やりたいことをやりなさい」

「それに没頭することで、無限の可能性がある」

「その行動にブレーキをかけているのが、学校教育だ」

  

やりたいことに没頭した後のことが心配なんだよなあ。

これも学校教育に洗脳された結果?

  

   

たくさんの時間をかけて引用してきました。

この時間が少々もったいない。

文章をテキスト化するアプリがあるはず。

探してみよう。

「21世紀脱・学校論」からの引用/インターネットの登場

 

今日は2月18日。

 

前投稿に続いて「すべての教育は『洗脳』である 21世紀の脱・学校論

(堀江貴文著/光文社新書)から引用します。

  

当たり前にやっている仕事を見直すには、いい本です。

  

どんどん引用します。

  

何のために何をするのか、どんな風にするのか、

すべてを自分で決め、自ら責任を負いながら突き進む力。

新しい時代を楽しく生きるために必須のこの能力を、

僕はシンプルに「没頭する力」と呼んでいる。

(84P)

  

没頭する対象なんて、その気になればいくらでも見つかる。

あなただってきっと、すでに出会っている。

でも、自分で自分にブレーキをかけているのだ。

「こんなの、できっこない」と。

どうしてわざわざ自分にブレーキをかけるのか?

答えは簡単だ。「学校」でそう洗脳させられたからである。

学校は、あの手この手を使って、子どもたちの欲望に

ブレーキをかけさせる。

そして、急ブレーキによって人生にエンストを起こさせるような

この介入のことを、傲慢にも「指導」などと呼んでいるのだ。

(86P)

  

自分で行き先を決め、アクセルを踏む生き方のためには、

「学び」が不可欠だ。 (中略)

僕が言う「学び」とは、没頭のことだ。

脇目もふらずに没頭し、がむしゃらに取り組める体験のすべてが

「学び」だと僕は思っている。

だから、没頭する対象は数学や英語、料理だろうと、

ダンスだろうと何でもあり得る。

すなわち、その人が心から没頭できていれば、対象は何であれ、

僕はそれを「学び」ととらえる。

(88P)

  

堀江さんは、学校や企業で行われる「お勉強」と、

「学び」は違うと言う。

「お勉強」は受動的、正解あり、カリキュラムあり、

イノベーション(革新?)の可能性なし、楽しさなし。

「学び」は能動的、正解なし、カリキュラムなし、

イノベーションの可能性あり、楽しさあり。

「お勉強」をする者たちの目的は、

「与えられた課題をこなし、大人に認められること」だけだと

断じています。

  

残念ながら学校は、こうした学びの本質を教えてくれない。

むしろ、子どもたちから没頭する機会を奪うことばかりに

力を注いでいるのが現状だ。

象徴的なのが、学校教育を覆う「オールB」思考である。

たとえば、5教科のうち1教科だけがA評価であとはE、

という生徒のことを普通の教師は褒めない。

どれだけその1教科に飛び抜けた才能があろうと、

教師は不出来だった4つの教科について彼を咎める。

国語しかできない子は、こんな風に言われるだろう。

「あなたは理系科目が弱点だから、数学や理科をもっと頑張りなさい」

これが「美術だけ」「体育だけ」になると、

教師の評価はもっと辛くなる。

主要科目以外の特技に打ち込む生徒は、

学校から見ればただの落ちこぼれでしかない。

野球に没頭すれば「野球バカ」と言われ、

化学に没頭すれば「化学バカ」と呼ばれる。

没頭している何かについての価値判断より、

できていない部分の量によって「バカ度」を測られるのが

学校という場なのである。

(93P)

これは受験を意識するかな。

将来高校受験で困らないように、

どの教科にも苦手意識をもってほしくない気持ちはあります。

「やってみたら面白いよ」「まずはやってみよう」

という気持ちがありますね。

でも、なにもかも「面倒!」「やりたくない!」という子どもが

「これって面白い」と思える教科を見つけた場合は、

しっかり応援したいです。

実際、今目の前にいる子どもがそうです。

理科が得意なんだとこの1年で思ってくれました。 

  

堀江さんは、インターネットの登場によって、

世の中が変わったと考えています。

  

G人材(グローバルな活動範囲もつ人)の最大の特徴は何か。

それは実は「所有からの解放」にある。

彼らは、「所有」に価値を置かずに生きることができるのだ。

(中略)

インターネット登場以前における「豊かな人生」の条件は、

なんといってもモノの「所有」、ストック量だった。

お金や土地、家、車など、みんなが欲しがるモノを

どれだけ多く手元に置いているか。

これが社会における絶対的なステータスであり、

人の幸福度を左右する重大事項だったのである。

こうした価値観は、今もなお多くの人々が引きずっている。(中略)

しかしインターネットの登場によって、

この価値観はすでに崩壊している。(中略)

今インターネットビジネスを「虚業だ」と鼻で笑える人はいない。

インターネットは、人とあらゆるモノ、

そしてモノ以外を繋ぐ最強のインフラとなった。

G人材とは、このことを心から理解し、

最大限に利用している人たちのことを指す。

だから彼らにとって、一番大切なのは、モノではない。

情報だ。

(60~61P)

  

情報というと、ニュースのようなものを思い浮かべる人が多い。

日経平均株価が何円上がったとか、あの企業はそろそろ

上場しそうだといった内容のものだ。

これはつまり、各種印刷物や伝聞から得られる知らせということになる。

でも、現代のおける情報の意味合いはもっと多様だ。

メールもLINEも、グーグルマップも路線情報アプリも、

すべてが情報としての価値を持つ。

こうしたツールの特徴は、「所有」しなくていい、ということだ。

お金を出して手元に常備しておかなくても、必要な時にはただ、

インターネットを通じてそれに「アクセス」するだけですむ。

ひと昔前まで、情報もまた「所有」することに価値があった。

みんなが知らない情報をたくさん持つことは権威の象徴だったし、

高等教育によって得られる知識もSの一種だったと言える。

それがインターネットの登場によって大きく変わった。

情報は、「所有すべきもの」から、「アクセスすればいいもの」へと

変化を遂げたのである。

だからG人材は、「所有」よりも、「アクセス」をベースに

自分の生活を豊かにしようとする。  

(61~62P)

  

こうした時代を象徴するアプリ「スナップショット」が紹介されました。

インスタグラムやツイッターと違って、上げたデータが最大でも

24時間で消滅してしまうというもの。驚きです。

友人相手なら、閲覧時間を10秒伊以内に設定することもできるそうです。

そんなの面白いのと思ってしまいます。  

堀江さんはこう書いています。

  

「データがすぐ消えるなんて」と戸惑うのは、

所有やアーカイブにこだわる古い世代だけだ。

ネットネイティブ世代は、「画像がすぐ消える世界」の価値を

直観的に見抜く。

(63P)

  

私は古い世代ですね。

やっぱりこのブログのように、書いたものは残しておいて、

再度見ることを前提にしています。

繰り返し読むことで、身につくと思っています。

こんなことが以前あったなと、

昔を思い出すときのきっかけにしたいとも思っています。

うわあ、「所有」「アーカイブ」派です。

堀江さんは、さらに書きます。

  

数秒で消えるなら、どんな変顔写真だろうが

お互い瞬間的にネタにして終わりにできるし、

データが残って「黒歴史」になることも避けられる。

毎日「いいね!」を稼がなければ、フォロワーを増やさなければ

というストレスもない。つまり、どこまでも気楽なのだ。

彼らにとって、余計な情報やモノは、むしろウザいゴミにすらなる。

(63P) 

  

ゴミかあ~。

データをストックするのではなく、純粋に見てその瞬間楽しむことに

注視したことで、ヒットしたアプリでした。

発想が違う。 

今はネットを使えば大抵の調べ物や勉強はできる時代。

「自分にはここが欠けている」と思ったら、

その場で瞬時に埋めることができる。

学校を順当に卒業しなければ得られない教養など、

もはや存在しない。

ならば、「好きなように生きて、わからないことがあったら

そのつど調べる」でいいのではないのか?

(101P)

 

これは大賛成。

インターネットは調べることをスピーディにしてくれて、

行動は早くなったと思います。

インターネットの普及は、それまでの価値観を変えています。

学校教育だって、もっと変わるべきだとは思います。

学校にも、企業にあるような開発部が必要だと思います。

そうでないと、民間の塾産業のほうが教材や指導方法が優れ、

学校には来ない子どもが出てきそう。

 

もう少し引用したい。続く。

「21世紀脱・学校論」からの引用/「学校」の歴史

 

今日は2月18日。

  

前投稿に続いて「すべての教育は『洗脳』である 21世紀の脱・学校論

(堀江貴文著/光文社新書)から引用します。

  

僕もすくめ、一般的な学校教育を受けた人たちは皆、

「いざという時」のために学校に通わされ、

役に立つか立たないのかわからない勉強をさせられてきた。

その間はもちろん、やりたいことを我慢し、

やりたくないことも受け入れるしかなかった。

たとえば、受験、就職、キャリアアップ。

あるいは結婚、出産、子育て。

さらには定年退職、老後。学業だけではない。

多種多様な「いざという時」に備えて今は我慢しなさい、というのが

大人たちの理屈だ。  (6p)

  

 

ちょっと違うように思えます。

我慢するのは、その後に楽しいことが待っているという気持ちが強いです。

今は我慢の時。それを過ぎれば、楽しい時、

つまりやりたいことができる時が来ると信じていたと思います。

 

 

「やりたいけど、やらない」人たちの脳裏にあるのは、

「自分がまだ実力不足だから」という自己否定に他ならない。

やりたい、動き出したい気持ちはある。

右足はなんとなくアクセルペダルを踏んでいる。

でも同時に、左足でブレーキペダルをベタ踏みしている。

しかし、そのことに気づけない。

我慢が習慣化しているからだ。

学校教育が作り出すのは、こうした無自覚の習慣に他ならない。

(7p)

  

この文章は共感できるところがあります。

やりたいことがあるのに、今の自分はそんなことをやっていると

後ろ指を指される仕事しかやっていない。

仕事に対しての自信が、この年になってもなく、

それが今やっている仕事以外のやってみたいことをやることに

ブレーキペダルを踏んでいるのだと思います。

  

昨日も山登りを誘われていたのに、断りました。

岡崎の瀧山寺の鬼祭りがあったのに、行くのをあきらめました。

何をやっていたかというと、勤務校に行って、

教室の片付け・整備をしていました。

それはそれで、やり遂げた感は味わえましたが、

やりたかったことは後回しにしました。

今日、ポックリ死んでしまったら、後悔するだろうなあ。

でもこれって、昨日の仕事が「我慢」になっているんで、

問題ではあります。

  

  

なぜ学校は恣意(しい)的な(勝手な)常識を

人に押し付けようとするのか?

その常識によって、どんな人間を育てようとしているのか?

一言でいえば、従順な家畜である。

社会は、とくに旧来型の企業では、従順な働き手を求めている。

したがってその養成段階であう学校で

子どもたちに道徳規範を叩き込まれ、

学力という形で「従順さ」に点がつけられていく。

受験のため、卒業のため、就職のため、どんな理不尽な勉強にも耐え、

ひたすら情報処理能力を磨いていく。

そんな従順さの指標が、受験社会における「学力」だ。

企業からすると高学歴な人間は、理不尽な作業への

耐性が強いという判断になる。

いまだ体育会系の学生へのニーズが高いのは、

要するに「従順さ」と「理不尽への耐性」が強いとみなされているからだ。

(21p)

 

学校は、そこに通う人間を、とにかく「規格」どおりに仕上げようとする。

建前上は「個性を大切にしよう」「のびのび育ってほしい」などと言うものの、

その裏にはいつも「ただし常識の範囲内で」という本音が潜んでいるのだ。

(22p)

 

教師は子どもたちに同じテキストを暗記させ、

同じ数学の問題を解かせ、同じルールで採点していく。

赤点を取ったり、問題行動を起こしたりした子どもは、

どうにか「規格内」になるように尻を叩く。

そして「会社」に納品する。

(23p)

  

堀江さんは、学校誕生の歴史に触れていきます。

  

一定の年齢に達した国内の子どもを1箇所に集め、

読み書き計算を教える。

こうした学校制度の基礎は、19世紀、

つまり産業革命期のイギリスで生まれた。

当時のイギリスは、ヨーロッパの覇権をいち早くつかみつつあった。

そして重火器の発明や、その大量生産を可能にする工業力増強の動きが、

社会に産業革命をもたらした。

この時庶民は、「大量生産を目的とする工場で労働し、その報酬をもらう」

という新しい働き方を得た。

そして、工場を作る資本を持つ富裕層、つまり資本家たちは、

「いかに大勢の働き手を集め、効率よくマネジメントしていくか」という

課題を抱えることになった。

「会社」的な世界観のはじまりである。

(23~24p)

  

工場の誕生によって、古くからの家庭内手工業に従事していた

職人たちが一斉に職を失う。

同時にその子どもたちも、「親の後を継ぐ」という道が閉ざされ、

文字通り路頭に迷った。

産業革命以前、子どもは立派な労働力の一部であって、

保護する対象ではなかった。

だから(産業革命)当初、子どもたちは大人と同じように

工場で働かされ、劣悪な労働条件や大気汚染の中、

猛烈な勢いで死んでいった。

さすがにこれではまずいということで、

政府が主導して作ったのが「学校」である。

学校の大きな役割は2つあった。

1つは子どもの保護。

そしてもう1つは、彼らを「望ましい工場労働者」へと

育てあげることだ。

(24P)

  

学校はもともと、子どもという「原材料」を使って、

「産業革命に適応した大人」を大量生産する

「工場」の1つだったのである。

今の学校も、この原則はまったく変わっていない。

学校で押し付けられるのは、「工場=会社」の

予行演習のようなことばかりだ。

たとえば時間割の厳守、全体行動、一方的な評価、

ボス=教師の言うことへの服従・・・・。

そして今の子どもたちも、雇用者にとって管理が楽な

「望ましい労働者」としての規格からはみ出ないよう、

「常識」せっせと教え込まれているのである。

(25P)

 

  

今のような「学校」が存在するのは当たり前とは思いません。

教えるー教えられるの関係はあったと思いますが、

今の「学校」のように、たくさんの子どもたちを

強制的に集めて教えるー教えられるシステムは、

確かに歴史は浅いと思います。

だから、「学校」がこれからも今のままではないと思います。

これから変わっていくのでしょう。

堀江さんはもうこれからの「学校」が見えるのかもしれません。

   

ただ私は「望ましい労働者」を育てている発想はあまりありません。

確か澤口俊之さんが言っていたと思いますが、

人生を幸せに過ごさせるためだと思っています。

本人だけでなく、本人と関係する人たちをも幸せにする

そんな人物を育てたいです。

そのために澤口さんはHQ(人間性知能)を育てることを

提唱しています。

今の世の中、これからの世の中の仕組みを教師はきちんと認識して、

子どもたちが上手に対応し幸せになれるように育てたいです。

澤口さんの考えを書き留めたことあり↓

※参考:ここでも道草 「『やる気脳』を育てる」からの引用(2013年6月28日投稿)

※参考:ここでも道草「『やる気脳』を育てる」からの引用 その2(2013年6月29日投稿)

2018年2月17日 (土)

「21世紀脱・学校論」からの引用/「我慢しない人」を軽蔑する文化

今日は2月17日。

  

 

すべての教育は『洗脳』である 21世紀の脱・学校論

(堀江貴文著/光文社新書)から以前投稿しました。

ここでも道草 「オールドルーキー」の歌詞の意味は、「過去を再利用しない」ということ?(2018年2月13日投稿)

 

今回もこの本からの引用です。

「脱・学校論」というだけあって、教師の立場からどう思うかを

次から次に問われるような内容でした。

  

最初に断っておくと、僕は「我慢」が大嫌いである。

やりたいことがあったらすぐに行動に移すし、

やりたくないことは極力やらない。

現状に不満があるのにひたすら我慢するなんてありえない。

ただし、一度やると決めたことについては全力でやり抜く。

そのための「努力」は惜しまない。

この場合の努力とは、我慢とはまったく別物だ。

僕の言う努力とは、どうしてもそれがやりたくて、

誰に何を言われても走り続けること。

足を止めないこと。

つまり「夢中になること」なのだ。

日本には、僕のような「我慢しない人」を軽蔑する文化がある。

そして「我慢強い人」を褒め称える文化がある。

どんなに不満があっても、どんなに理不尽な状況に置かれても、

それを耐え忍ぶことを美徳とし、耐えしのいだ先にこそ

「成功」が待っているかのような言説がまかり通っている。

ほとんどマインドコントロールに近い不条理なこの呪いが、

この国全体を覆っている。

その原因は何か?  (5p)

 

5pはここで終わっていて、その原因については、

ページをめくった6pに書いてある状況です。

原因は何だと思いますか?

もう予想がつきますよね。

それではページをめくります・・・・

  

「学校」なのである。

旧態依然とした学校教育の中で、日本人は洗脳されている。

やりたいことを我慢し、自分にブレーキをかけ、

自分の可能性に蓋をすることを推奨する恐ろしい洗脳が、

白昼堂々なされているのが今の学校なのだ。 (6p)

  

 

「我慢しよう」とは日頃、教室でよく言う言葉です。

でもそれが「子どもたちの可能性に蓋をする」つもりは毛頭ありません。

でも「我慢しよう」は言っています。

人には我慢できる力は大事だと思っています。

あるときは我慢して頑張れば、その後は楽しいことが待っている。

そんな使い方をするかな。

我慢せずに、やりたいことだけをやっていては、

将来生活に困ってしまう大人になってしまい、

もし家族をもっていたなら、家族も不幸にしてしまう大人になると

考えてしまいます。

そう考えるのは、私自身も洗脳されてきたからでしょうか?

 

自信をもって「違う!」と言えないところがあるなあ。

  

続く

2018年2月15日 (木)

20180203観音山報告その2/昭和31年生まれの送電鉄塔

今日は2月15日。

  

2月3日に登った浜松市の観音山の報告。

  

山で出会った送電鉄塔の写真です。

Rimg1861

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Rimg1863  

送電鉄塔のあるところは、送電線展望台と名付けられていました。

送電線があるために、樹木は切り開かれていて、

見晴らしのいい場所でした。

しかし、私がここで注目したのは、

遠景ではありませんでした。

送電鉄塔にあった表示です。

Rimg1860

Rimg1860a

 「昭和31年1月建設」と書いてあります。

昭和31年! 西暦で1956年。

62年前の送電鉄塔? そんなに年数が経っているのに現役?

ビックリしました。

そもそもそんなに古くから、送電線の必要があったの?

その辺りが全く不明。

家に帰ったら調べようと思っていました。

今頃実行。

 

ここに答がありました。

技術探索 送電鉄塔の歴史

ここで見ることができる論文(本郷栄次郎著)によると、

初めて送電鉄塔ができたのは、1907年のことだそうです。

100年以上の歴史がありました。

 

次のサイトも参考になりました。

中部電力 31000基の鉄塔を見守る

ここから引用します。

  

適切なメンテナンスをおこなえば、

鉄塔は100年以上もたせることも可能です。

鉄塔は、風雨や直射日光にさらされるため、

防食性の高い亜鉛めっきを施していますが、

それぞれの建設地点における自然環境の影響により、

時とともに劣化していきます。

山地では40~50年も亜鉛めっきの効果が保たれる鉄塔もありますが、

沿岸部では海塩による腐食により建設後10年ほどで

補修(塗装)が必要となる場合もあります。  

(中略)

経年劣化のスピードは鉄塔ごとに異なるため、

1基ごとの状況を確実に把握し、

その健全性を保っていくことがますます重要です。

中部電力では1年に700基ほどの鉄塔に塗装を施し補修をしています。

  

  

100年以上もたせることが可能とあります。

私が見た鉄塔は62年。まだまだ。

そしてこの鉄塔は塗装されていました。

Rimg1866  

そうなると、100年以上頑張る送電鉄塔になるかも。

私より5年早く生まれた送電鉄塔ですが、

私より長生きするんだあ。

  

  

私が生まれてからあくせく生きてきましたが、

その間この鉄塔はずっとここに立っていたんだよなあ。

お疲れさん。

これからも頑張って。

2018年2月14日 (水)

今日は何の日クイズ 2月14日「〇〇”〇の日」

今日は2月14日。

  

今日は何の日?

もちろん「バレンタインデー」ですが、

学級でやった「今日は何の日クイズ」では、

「〇〇”〇の日」で尋ねてみました。

「『〇〇”〇』に何が入ると思いますか?」

  

子どもたちに出したヒントととして、

  

2 1  4

〇 〇” 〇

 

と板書しました。

最初の〇は「2」、次の「〇”」は「1」、

最後の「〇」が「2」に関する文字が入ることを言いました。

子どもたちからは「にいし」「ふいよ」「にいよ」「にじし」

などが出てきます。

厄介なのは「1」をどう読むかです。

「1」を「いち」「ワン」と読んでいては、

答えに行きつきません。

10の位であることから「じゅう」と言えれば、

ほんの少し正解に近づけます。

「にじし」は「じゅう」から生まれた発言でしょう。

  

「にじし」という発言は有効です。

「にじし」は意味がない言葉ですが、

その響きは十分ヒントになります。

「『にじし』と言うのはいいヒントになっているよ」

と言うと、子どもたちは考えます。

そして「にぼし」だ!と気づきました。

  

そう今日は「煮干し(にぼし)の日」です。

 

「今日は何の日クイズ」の面白さは、

みんなでたくさん考え、発言し、多くの間違いをした後に、

それまでの間違いをヒントにして正解に行きつく過程です。

今日もその流れがありました。

 

ちなみに「1」から「ぼ」は連想しにくいです。

「1」を「棒(ぼう)」と見なして、「ぼ」なのです。

そんな馬鹿な!と言いたくなる理由です。

ここでは終わりません。

「煮干しは、いろいろな魚でつくられますが、

一般的には〇〇〇〇〇〇〇という魚からつくられます」として

問います。正解は「カタクチイワシ」です。

  

  

さらに問います。

「イワシ」は漢字で書くと魚偏の横に何と書きますか?

正解は「弱」です。「鰯」と書きます。

  

  

次いでにもう一つ。

「鱈」は何と読みますか?

正解は「タラ」

寒い日に食べるといい鍋。その鍋で「タラ」をたべるとおいしいよね。

  

そんな話をして・・・・国語の教科書を開かせました。

  

  

「煮干し」を知らない子がいました。

明日は実物を持っていこう。見せたいね。

Sl_2133 https://tkjm.jp/kanbutsu/1362/

おっと、ビックリ。

6年前にも「煮干しの日」のことを書いていました。

ここでも道草 2月14日は「煮干しの日」でもあります(2012年2月13日投稿)

私にとっては気になる「何の日」のようです。

2018年2月13日 (火)

「オールドルーキー」の歌詞の意味は、「過去を再利用しない」ということ?

 

今日は2月13日。

  

竹原ピストルさんの曲「オールドルーキー」の歌詞について

以前、記事を書きました。

ここでも道草 昨晩から今朝にかけて触れた言葉その3/大晦日にたくさんの人が撃たれた(2018年1月11日投稿)

なかなか刺激的な歌詞です。

あらためて一部引用します。

  

積み上げてきたもので

勝負したって勝てねぇよ

積み上げてきたものと

勝負しなきゃ勝てねぇよ

(中略)

  

いやはや丸くなったよ。。

って笑ってりゃあ そりゃあ酒もやさしくなるさ

だけど俺はやめたんだ

そういうのをもうやめたんだ

オールドルーキー

  

何度でも立ち止まって

また何度でも走り始めればいい

必要なのは走り続けることじゃない

走り始め続けることだ (後略)

  

 

最近読んだ本に、共通した考えがある文章を発見したので、

ここに引用します。その本は

すべての教育は『洗脳』である」(堀江貴文著/光文社新書)です。

  

【過去を再利用しない】

(中略)

自分が今までの努力で得てきたものを、なんとか未来にも活かしたい。

そこに費やしてきた時間を無駄にしたくない。

そういった未練とは潔く手を切ってほしいのである。

あくまでも、「今」あなたが何をしたいのかが出発点だからだ。

メルマガに寄せられる定番の質問に、こういったものがある。

「私は会計士の資格を持っています。

とりあえずこの資格を活かせることをやろうと思うのですが、

何かいいアイデアはないでしょうか」

自分は会計士だ。だから会計士の資格を活かせることをやる。

真っ当な発想に見えるかもしれないが、実はまったくなっていない。

なぜならここには、本人の「これがやりたい」という動機が

一切ないからだ。順序は常に「好き」「やりたい」という動機が

先でなければならない。

この相談者の「やりたいこと」に、会計士資格が活かせるのであれば

もちろんそれでもいい。

しかし、「とりあえず」を理由に何かを始めても、

同じことを「やりたくて」やっている人には絶対勝てない。

「大好きだからやりたい」と

「特別やりたいとは思っていない」の間にある壁は

想像以上に高いのだ。  (155~156p)

 

 

つまり、自分のやってきたことや、すでに持っているものから

「やること」を決めてはいけないのだ。  (中略)

もしかしたら「一見使えそうな」スキルや経験があなたにあるかもしれない。

でも、「これを素材として活かす事業でなきゃダメだ」と思っているのなら、

むしろ捨てた方がいい。

それは、あなたの本当の「やりたい」を妨げる持ち物だからだ。

(中略)

「過去を活かす」のは一見、「経験を無駄にしない」ことのように思える。

でも、それは錯覚だ。

過去は、ただ過ぎ去った時間でしかない。

「再利用できる資源」ではないのだから、それを無理に活かす必要はない。

過去を元手に決断すれば、その時点であなたの可能性は100分の1、

1000分の1に縮まってしまうだろう。  (157~158p)

 

「オールドルーキー」で、きっとこういうことかなと思ったことが、

堀江さんの文章を読んで、こういうことかとわかった気がします。

でも難しいなあ。

何か始める時には、「本当にやりたい」と思っているか、

過去の蓄積に頼っていないか、自問しなければならないと思う。

  

  

今やり始めようとしていることがあります。

情報に関する、動画教材に関することです。

さっそく自問しています。

過去の経験は参考にしています。

過去の経験から、こういうことをやりたいと思うようになりました。

過去の経験がなければ、思いつかないことです。

過去の蓄積の再利用はねらっていません。

「やってみたい」気持ちは確実にある。大丈夫。

2018年2月12日 (月)

20180203観音山報告その1/大王松かな?/花図鑑リニューアル

今日は2月12日。  

2月3日に仲間と久々の登山。

浜松市の観音山を登ってきました。

  

その時のことを書きます。

  

同行した方が、この登山報告を「ヤマレコ」にアップしています。

ヤマレコ 観音山(浜松市:久留女木の棚田経由で周回)

どのようなコースを歩いたかは、そちらでわかります。

私は付け足しで書きます。

  

途中でかわった松を見ました。

  

Rimg1911

Rimg1912

Rimg1916  

以上私が撮影した写真。次の写真は同行者の方の写真↓

Photo_2  

とにかく葉が長い。

 

調べてみました。

どうやら「大王松(だいおうまつ/だいおうしょう)」という松のようです。

英名はlongleaf pine(長い葉のマツ)。北アメリカ東南部が原産地。

松ぼっくりが巨大なようです。

  

地元の豊川市にある豊川稲荷でも大きな松ぼっくり取れることで有名。

そうなると、豊川稲荷にあるのも大王松?

 

なぜ写真のように大量に大王松があるのでしょう?

大きな松ぼっくりを取って、売るのかな?

長い葉を取って売るのかな?

盆栽で使われるようです。

生け花でも使うようです。

需要はありそうです。

こんな写真がありました↓

Dscf5323 ちぃ道場〜なんたって好日〜 お正月の花(松、竹、アンスリウム)

  

  

久々に「みんなの花図鑑」を訪れて、

この松のことを教えてもらおうと思ったら、

すっかり様変わりしていました。

みんなの花図鑑 powered by goo

せっせと投稿した写真は、全て消えてしまいました。

久々だったのがいけなかったです。

もっと早く訪れていたら、投稿した写真のデータの引っ越しもできたのに・・・。

残念。

昨年の9月1日に変更されたようです。とっくの昔のことでした。

  

最近の写真

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