「21世紀脱・学校論」からの引用/没頭できないのは学校教育の弊害?
今日は2月18日。
前投稿に続いて「すべての教育は『洗脳』である 21世紀の脱・学校論」
(堀江貴文著/光文社新書)から引用します。
没頭できるかどうかを決めるのは、
人の性格でも、あるいは没頭の対象の種類でもない。
それに対してどれだけ主体的に関われるかだ。
目の前に現れたものを、「与えられた作業」ではなく、
「自分でルールの作れるゲーム」だととらえられるようになれば、
あなたの人生は今この瞬間からでも、
没頭で埋め尽くされていくだろう。
では、なぜあなたはそこに足を踏み出せないのか?
簡単だ。学校教育の洗脳が抜けていないからである。
学校は、人が「好き」や「快」で動くことに対して、
すぐにイエローカードを差し出す。
あくびをしたら咎め、はしゃいでいたら叱り、
できない部分をひたすら注意する。
これらを許してしまったら、その人はオールBを目指さず、
「禁止」への恐怖も持たない人間になってしまうからだ。
(121P)
「禁止」ルールに基礎づけられた学校教育の中で、
人は自分の中の「好き」や「快」に従って生きること自体を
「悪いこと」だと思い込む。
その結果、自分の没頭する力に強烈なブレーキをかけ、
身動きがとれなくなってしまうというわけだ。
僕には「好きなことに打ち込むことは悪いことである」という
価値観はさっぱり理解できない。
「子どもがサッカーに夢中で、サッカーの強い高校に
行きたいと言うんです。でもJリーガーになれる人はごく一部ですし、
できれば普通の進学校に進んで勉強してほしくて・・・」
この手の意見は耳にタコができるほど聞いてきたが、
素直に言うと、僕には意味がわからないのだ。
「サッカー選手になれる確率は低いのだから、
サッカーにハマるのは無駄だ」。これは裏を返せば、
「サッカーをやるからには、サッカー選手にならなければならない」という
謎の強迫観念にとらわれているということだ。
サッカーという入り口は、サッカー選手という出口にしかつながっていない
・・・・とても窮屈な考え方だ。まさに、「用意されたレール」式の
発想である。
いちいち解説するのもおかしな話だが、
「サッカーに没頭する」という体験がもたらす可能性は、
「プロのサッカー選手になる」ことだけじゃない。
もしかしたら彼は、途中でサッカーグッズの開発に興味をもつかもしれない。
サッカー漫画にハマって漫画家を目指し始めるかもしれない。
サッカー部でできた友達と、何か関係ない仕事を始めるかもしれない。
10年後にはサッカーにまつわるまったく新しい
ビッグビジネスが生まれており、彼のスキルがたまたまそれに生きるかもしれない。
こんな想像は、いくらしてもきりがない。まさに無限大だ。
こうした可能性を、すべて「ゼロだ」と却下できる人はいないはずだ。
同時に、どれか1つの可能性だけを取り上げて、
それを理由にやるやらないの選択を下すのも馬鹿馬鹿しい。
やりたいならやればいい。それだけだ。
現実はそうなのに、「サッカー選手になれる確率は低いから、
真面目に勉強しなさい」という、論理的に破綻した正義を
平気で振りかざすのが、学校教育なのだ。
学校は、どんな入り口からでも、無限の可能性にアクセスできるという
事実を隠蔽する。そして、解くべき問題集を、進むべき大学を、
就職するべき優良企業を次から次へと用意し、
人をそのレールの上だけで走らせようとする。
(122~123P)
この本で堀江さんが言いたかったことは、
この最後の引用文に凝縮されているように思えます。
「やりたいことをやりなさい」
「それに没頭することで、無限の可能性がある」
「その行動にブレーキをかけているのが、学校教育だ」
やりたいことに没頭した後のことが心配なんだよなあ。
これも学校教育に洗脳された結果?
たくさんの時間をかけて引用してきました。
この時間が少々もったいない。
文章をテキスト化するアプリがあるはず。
探してみよう。
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