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2018年2月

2018年2月12日 (月)

初めての整体に行く予定/本證寺に行きたいなあ

今日は2月12日。

  

今日の午前10時から、生まれて初めての整体に行ってきます。

腰痛で苦しむ私の姿を見て、周囲の人から整体に行くことを

何度も勧められましたが、今までは一度も行きませんでした。

でも、昨年の腰痛はちょっと今までとは違う痛さでした。

まずは足の付け根上付近が痛み、

その痛みと表裏した腰下付近が痛烈に痛みました。

お医者さんからは「仙腸関節」の痛みと診断されました。

ここでも道草 今回の腰痛は辛い!/「仙骨」「腸骨」の語源(2017年10月25日投稿)

これはどうにかしないといけないと思うようになり、

今回整体に行く決心をしました。さあどうなるか?

  

  

 

整体に行った後に、息子と名古屋に行く用事があり。

その帰りに、安城市にある本證寺に行きたいと思っています。

大河ドラマ「おんな城主 直虎」の「直虎紀行」(昨年10月15日放映)で

紹介されたお寺です。

直虎紀行 愛知県安城市 本證寺

徳川家康の家来である本多正信に関係するお寺です。

1563年に起こった三河一向一揆。

家康の家来であった正信は、一向一揆の一向宗側について戦いました。

なぜ正信は、一向宗側についたのか?

本多家は貧しく、家康ではなく仏の力にすがったとか、

その頃はまだ家康との絆ができていなかったという説があります。

一向宗が立てこもった拠点のひとつが、本證寺です。

寺は内堀と外堀、二重の堀に囲まれ、敷地内に今も残る土塁が、

当時の様子をとどめているそうです。それを見てきたい。

  

  

翌年一向一揆は家康に負けます。

家康の家来で、一向宗側についた者たちは許されて、

再び家康の家来になりました。

しかし、本多正信は家来に戻らず、諸国を放浪したと言われます。

その中で、松永久秀にも仕えたようです。

戦国時代の稀代の戦略家である久秀に仕えたことで、

正信は多くのことを学んだのではという説があります。

久秀が正信のことを次のように褒めているそうです。

「剛に非ず 柔に非ず 非常の器である」

良い褒め言葉です。

  

 

こうして20年近く諸国を放浪した正信は、家康の元に戻ります。

その後は、家康の天下取りの参謀として活躍します。

以上の正信に関する記述は、次の番組を参考にしました。

※参考:「にっぽん!歴史鑑定 徳川家康の知恵袋 本多正信」(2018年2月5日放映)

  

「おんな城主 直虎」がきっかけで、本多正信のことを知ったと思います。

名前を聞いたことはあっても、このような素性を知ったのは初めてです。

気になったお寺、本證寺を見てきたいなあ。

内堀、外堀の位置はどうだったのか?

内堀は、今も残っていて地図でもわかりやすいです。

Photo

Yahoo!地図

  

外堀は?

この地図がいいです。

Tyosaiti 安城市HP 87年ぶり、安城市で3件目の国史跡指定へ

  

本證寺

〒444-1165  愛知県安城市野寺町野寺26
0566-99-0221

2018年2月11日 (日)

お父さん、お母さんを教えた教師の立場

今日は2月11日。

  

この記事で書いたことを実行しました。

ここでも道草 雪の中を走って帰りました/運動不足解消をめざす(20182月6日投稿)

 

2月5日~9日と自転車通勤を達成。有言実行しました。

そして2月10日にはバスケの大会で審判をしました。

コートを走り回りました。

自転車通勤のおかげでしょう。

  

 

その会場の応援席で、見知らぬ男の子に声をかけられました。

苗字を呼ばれました。

「誰かな?」と尋ねたら、「お母さんに頼まれた」とのこと。

それでも意味がわからずいたら、

その子のお母さんらしき人が現れて、

「先生ですよね」と確かめられました。

何と、20年ぶりくらいの再会。

以前、中学校勤務の時に教えた子、Kさん・・・今は立派なお母さんでした。

35歳。

大会に子どもが出場していて応援に来た模様。

そうなんだ、かつて教えていた子が親になり、

このような大会で出会うのですね。

私だと確認するために、まずは息子に尋ねさせたようです。

笑えました。そんなことを頼まれてやってしまう息子さんが偉い。

知らないおじさんに声をかけるのは勇気がいることでしょう。

 

いろいろ話をして、学級通信「道草」の話をして、

このブログの名前も教えました。

新任から続いている通信「道草」は今も続いていて、

”ブログでも”道草をするから「ここでも道草」

ふと浮かんだ名前ですが、お気に入りです。

見てくれているかな?またコメントをたのむね。

  

 

大会の会場では、もう一人S君にも声をかけられました。

同じく子どもの応援に来ていました。

彼は父親。42歳。

審判をやっているのを見て気がついたようです。

「先生、若いねえ」と冷やかされました。

自転車通勤のおかげで、動けているところが見せられてよかった。

  

 

 

立派なお母さん、お父さんをになった人たちを

かつて教えていた教師。

生きているとこういう立場を味わうのですね。

何か嘘みたいです。

 

 

  

でも初めてではありません。

今の勤務校にもいますよ。

かつての教え子が。

その子は父親です。

※参考:ここでも道草 意外な再会/教え子のお母さんが、孫の授業を見に来ていました(2012年12月4日投稿)

 

なぜ核兵器はなくならないのか?その3/ポツダム会談直前に行われた世界初の核実験

  

今日は2月11日。

  

前投稿に引き続き、1月7日に放映された番組

「ニチファ! 池上彰緊急SP なぜ世界から核兵器はなくならないのか?」より。

  

聞き書きします。

  

ナレーター:この計画を率いていたのは、ロバート・オッペンハイマー博士。

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  科学者・技術者など、総勢12万人が携わっており、

  この中には、後のノーベル賞受賞者が何と21人も。

  そしてこの計画の予算が20億ドル。

  現在の価値にして約2兆円でした。

Rimg1922  

池上彰:この計画、全米各地に分かれて、様々な実験を行っていました。

  こちらをご覧ください。

Rimg1923  

  オッペンハイマーが所長を務めていたのが、ロスアラモス研究所。

  そこでは主に爆弾の設計を行っていたんですね。

  そして、実際に原爆を造るためには、

  このオークリッジでは、ウランの濃縮、

  それが結局、広島に落とされる原爆に繋がっていきます。

  こちらのハンフォードでは、プルトニウムを作る、

  これは長崎に落とされた原爆に繋がっていくというわけですね。

  それぞれを細分化して、それぞれの研究者は、

  いったい何を造ろうとしているのかをわからないようにしていた。

  全体像をつかんでいるのは、このロスアラモス研究所の一握りの

  学者だけであった。それぞれこれが何に繋がるのかわかっていなかった。

  広島に原爆が投下されたニュースを見て、  

  あ、自分たちがやってきた研究がこういうことになったんだ、

  と初めて知った人が多かった、ということなんですね。

   

  こうしてアメリカはドイツに先を越されないようにと、

  国をあげて原爆開発に邁進し、原爆を造ることに成功した、

  ということ、つまり、ヒトラー率いるドイツで

  ウランの核分裂反応を発見したというのが、悲劇の始まりだったのです。

  

  このつづきはどうなったかというと、

  プロジェクトチームに衝撃的な出来事が起きます。

Rimg1924

  

  それはこちら。

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  ドイツの降伏です。

  ドイツが先に原爆を造ったら大変だ、といって一生懸命に造っていたら、

  ドイツが降伏しちゃった。

  もうドイツに対して使えなくなった。

  じゃあ、もう核兵器を使わなくてもいいじゃないか、

  という選択は当然あったんですよ。

  当然この計画を知っていた科学者の中には、

  もうこれ以上は止めるべきだ、と言っていた人もあったんですが、

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  ドイツ降伏から3ヶ月後の1945年の8月6日、

  広島に原子爆弾が投下されてしまった。

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  ドイツのために開発されていた原子爆弾が、なぜ日本に投下されたのか。

  その理由がわかりますと、なぜ核兵器がなくならないのかが、

  見えてくるんですね。

  (中略)

  (戦争を早く終わらせるために原爆を落としたというアメリカ側の説明)

  しかい、アメリカの真意は別の場所にあったんではないか、

  と言われています。

  そのことが読み取れるあるエピソードがあります。

  広島に原爆が投下される少し前に時計を戻しましょうか。

Rimg1928  

  1945年7月17日から8月2日にかけて、

  連合国の首脳陣が集まり、ドイツのポツダムで、

  会談が行われました。

  まだ日本は戦争をしていたんですけど、

  日本の占領政策について話し合われていたんですね。

  で、このポツダム会談、7月の始めから始まる予定だったと

  言われているんですが、アメリカのある理由から、

  日程の変更をしたんではないかと言われています。

  それはなぜか。こちら。

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Rimg1930  

ナレーター:これはアメリカで行われた初の核実験の様子をおさめた

  貴重な映像。実験は長崎と同じプルトニウム型の原爆でした。

  その威力はおよそ20kt(キロトン)。

  こうして核の時代が幕開けしたのです。

池上:世界初の核実験が行われた日にちを見てください。

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  トリニティと呼ばれる実験場で(核実験を)やったんですが、

  それがポツダム会談の前日。つまりアメリカはポツダム会談の前に、

  核実験に成功すれば、よその国に対して、とりわけソ連に対して、

  優位に立てると考えたのではないか。

  ポツダム会談中に、アメリカのトルーマン大統領は、

  ソ連のスターリン首相に対してこう言ったそうです。 

  「我々は、とてつもない破壊力を持つ新兵器を手にしました」

  つまり、アメリカはこれだけの力を手に入れたんだぞ、

  というのをソ連に対して、アピールしたかったんではないか、

  ということなんですね。

Rimg1933

  つまり、アメリカとソ連は、連合国として一緒に戦っていたんですが、

  しだいに亀裂が走ってくるわけ。どうもソ連はアメリカとは違う方向に

  行こうとしてるんじゃないか。第2次世界大戦が終わったら、

  アメリカはソ連と対立することになるんじゃないか。

  じゃあ、その前に、アメリカの力をソ連に見せつけておこうと

  考えたんではないか。そして1ヶ月後、実際に広島に原爆を投下した。

  実際に原爆がどれだけ恐ろしい力を持っているのかを、

  ソ連に見せつける、戦後、ソ連を抑えつけようと考えていたのではないか。

   

  ドイツで発見された新しいエネルギーを使って完成した核兵器。

  使わないという選択肢もあったはずなのに、

  アメリカは核兵器という悪魔に誘惑されてしまった。

  核兵器を持つことが大国の証であるという時代になってしまった。  

  だからこそ、核兵器は世界からなくならない、ということになっていると

  いうわけですね。

Rimg1934

ポツダム会談の日程を変更してまで行った世界初の核実験。

これまた初めて知りました。

核兵器が、早くも相手を脅すためのカードになってしまったのです。

それほど強力なのです。 

  

 

「なぜ世界から核兵器はなくならないのか?」

1つ目の理由は「ドイツで世紀の発見がなされたから」でした。

この発見が、原子爆弾を造るきっかけになってしまいました。

ここまでの引用は、この1つ目の理由に関することでしたが、

2つ目の理由はもう顔を出しています。

核兵器が外交のカードになってしまったから」です。

そして3つ目の理由は

核兵器の技術はビジネスになるから」です。

 

全てをブログに書き留めたいのですが、時間的に無理です。

ここまで。

勉強になったいい番組でした。

なぜ核兵器はなくならないのか?その2/アインシュタインからの手紙

 

今日は2月11日。

  

前投稿に引き続き、1月7日に放映された番組

「ニチファ! 池上彰緊急SP なぜ世界から核兵器はなくならないのか?」より。

  

聞き書きしていきます。

 

池上彰:核分裂の発見を利用して、

  「ドイツが新型爆弾を造るのではないか?」と強く考えたのは

  アメリカに亡命していたユダヤ人科学者たちだったわけですね。 

Rimg1912

  大勢のユダヤ人科学者がヒトラーの迫害を恐れてアメリカに

  亡命していたわけですね。その人たちにしてみれば、

  その発表(核分裂の発見)を見れば、新型爆弾が造れるのではないか、

  ということがわかるわけです。

  もしナチスドイツが先にこんなものを造ったら、

  ユダヤ人が根絶やしにされるという危機感をいだいたんですね。

  そこで彼らはある人に相談しました。

  

  この人です。

Rimg1913   

  アルベルト・アインシュタイン。

  当時60歳でした。

  すでに相対性理論で世界的に有名な物理学者でした。

  彼もユダヤ人でしたから、アメリカに亡命していたわけですね。

  アメリカに亡命していたユダヤ人の科学者たちが、

  何とか発言力のある人、それはアインシュタインだろう、

  アインシュタインが声を上げてくれれば、

  大きな影響力があるんじゃないか、と言って、

  第2次世界大戦が勃発する1ヶ月前の1939年8月に、

  ある行動を起こします。こちらをご覧ください。

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Rimg1915

  これ(上の写真)は、歴史的出来事だったと言うことで、

  後に当時の様子を再現した写真です。

  当時の写真じゃないんです。こんなふうにしたんですと、

  再現して撮った写真です。

  アインシュタインの向かい側にいる人は、レオ・シアード。

  この人も、ユダヤ系の物理学者なんです。

  この後の出来事に関わる歴史的に重要な手紙を書いている、

  これから手紙を書いているということなんですが・・・

  さあ、いったい誰に手紙を書いているんでしょうか?

  その人がこちら。

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  ルーズベルト大統領に手紙を出しました。

  どんな手紙だったかといいますと、こちらですね。

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  2枚からになる手紙ですが注目すべきはこの部分ですね。

Rimg1918

  新たに発見されたこの現象、ウランの核分裂のことですね、

  これは爆弾の製造にもつながるでしょう。

  これにより極めて強力新型爆弾が造られることが考えられます、

  と書いたんですね。

  ドイツがこの研究発表を使えば、

  ドイツが新型爆弾を造ることができてしまうんですよ、

  危険性を知ってください。という手紙だったわけですね。

  ということは、結果的に、アメリカもドイツに負けずに

  新型爆弾を造る必要があるんじゃないでしょうか、

  ということに繋がっていく、と言うことになるんですね。

  そして、アインシュタインが訴えていた脅威が、

  現実になるかもしれないという出来事が起こります。

Rimg1919  

  ドイツのポーランド侵攻、第2次世界大戦というわけですね。  

  

  この状況になりまして、新型爆弾の開発研究が、

  (アメリカで)できるのかという調査を始めさせたんですね。

  アメリカだけではありません。同盟国のイギリスの協力もありまして、

  調査開始の3年後の1942年に本格的にプロジェクトが始まりました。    

  そのプロジェクトの名前、ご存じの方も多いでしょう。

  こちら。

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  「マンハッタン計画」というものですね。

  

  

「マンハッタン計画」の名前は、

「存じの方」の1人で知っていました。

今までにも勉強をしてきました。

この計画が始まるまでに、マイトナー博士とハーン博士の発見、

アインシュタインとユダヤ系科学者たちとのやい取りがあったことを

知りました。

後の歴史を知っている立場から見たら、

ヒトラーがアメリカまで攻めて、アメリカを支配下にするとは思えませんが、

当時のユダヤ系の人たちにとって、ヒトラーはどこまでやるのかわからない、

恐怖の存在だったと想像します。

  

つづく

  

なぜ核兵器はなくならないのか?その1/リーゼ・マイトナー博士

  

今日は2月11日。

  

今朝は、昨年12月に放映された

北斎ミステリー ~幕末美術秘話 もう一人の北斎を追え~」を見ました。

面白かった。

面白かったけど、こんままほっとけばまた忘れてしまうことでしょう。

また読み物化したいです。

しかし、その前に読み物化しておきたい番組があります。

今日はそちらが先。

   

1月7日に放映された番組

「ニチファ! 池上彰緊急SP なぜ世界から核兵器はなくならないのか?」

3時間のスペシャルでした。

  

この番組中の忘れてはならないことはここに書き留めたいと思います。

  

番組のタイトルである「なぜ世界から核兵器はなくならないのか?」

迫る内容のところを書き留めます。

  

理由は3つ紹介されました。

その1つ目は、

ドイツで世紀の発見がなされたから」でした。

Rimg1904  

池上彰さんの説明を聞き書きしていきます。

  

池上:世界から核兵器がなくならないその1つの理由が、

  「ドイツで世紀の発見がなされたから」ということなんです。

  どういうことか。その世紀の発見をした人がこの人です。

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  ドイツ人科学者のオットー・ハーン博士ですね。

  彼は1938年、ウランの原子核が分裂をする、そしてその時、

  膨大なエネルギーが生まれることを発見し、翌年に論文で発表したんです。

  莫大なエネルギーが生まれる。

  人類にとって、一見、有意義な発見だと思われたのですが、

  さあこれによって、莫大なエネルギーが得られるって

  喜んだ人たちがいる一方で、

  ちょっと待てよ、このエネルギーを使えば、

  強力な爆弾がつくれるんじゃないか、

  と考える人たちが出てきたと言うわけですね。

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  というのも、この少し前、1933年からヒトラーが政権を握り、

  独裁政治が始まっていたわけです。

  ナチスドイツの時代になり、ユダヤ人の迫害が始まっていた、

  その頃時代は戦争に向かっていた、となると、

  ドイツがもしこれによって新型爆弾を開発することができたら、

  それこそ世界中のユダヤ人が絶滅してしまうのではないか、

  ヨーロッパをドイツが占領してしまうのではないか、

  と、心配する科学者が、大勢いたと言うことなんですね。

  

  オットー・ハーン博士は、核分裂の発見により、   

  1944年にノーベル化学賞を受賞しているんですが、

  実はあまり知られていないんですが、この研究には

  一人、ユダヤ系物理学者も関わっていました。

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  その人が、こちら・・

Rimg1909

  リーゼ・マイトナーという女性の物理学者です。

  実はこの研究を最初に始めたのが彼女だったんですが、

  ハーン博士が加わり、共同研究となったんですが、  

  マイトナーはユダヤ系だったから、

  ヒトラー政権の迫害から逃れるため、研究を途中で断念して、

  スウェーデンに亡命したんですね。

  その後、ハーン博士が論文を発表し、

  ノーベル賞を受賞したということだったんですが、

  実は、このオットー・ハーン博士、研究の途中で、

  どうしてもわからないことがあった、これはどういうことなんだろうか、

  といって、スウェーデンに亡命したリーゼ・マイトナーに疑問をぶつけた。

  それに対して、彼女はこういうことじゃないですか、と答えてくれた。

  これによって、研究を成功させた、ということなんです。

  ところが、リーゼ・マイトナーという人はユダヤ人です。

  ユダヤ人と一緒に共同研究をしたということになると、

  自分も立場が悪くなるので、彼女のことを一切隠したまんま、

  オットー・ハーン博士がこの研究を発表し、ノーベル賞を受賞する

  ということになったというわけなんですね。

Rimg1911

興味深い2人です。

生年月日を見て、よく似ていると思いました。

ハーン博士が生まれたのは1879年。マイトナー博士はその前年。

そして亡くなたのは同じ1968年。

調べたところ、マイトナー博士が1968年10月27日。89歳。

ハーン博士が亡くなったのはその3ヶ月前、

1968年7月28日。89歳でした。

Wikipediaで調べると、リーゼ・マイトナーの説明は長く、

オットー・ハーンの説明は短かったです。

※参考:Wikipedia リーゼ・マイトナー

※参考:Wikipedia オットー・ハーン

それも、オットー・ハーンの説明のほとんどは「マイトナーとの関係」の章。

ノーベル賞は得たものの、マイトナーの方が関心が高い人生なのでしょうか。

人はきっと賞とかよりも、物語を求めている証拠かな。

  

  

しかし、たった80年前。ウランの核分裂によって

膨大なエネルギーが生じることが発見されなかったら、

広島や長崎での悲劇はなかったし、

今のような核兵器があふれる世の中にはならなかったんですよね。

 

つづく。

 

 

2018年2月10日 (土)

「驚きももの木20世紀」その7/事故直後乗組員は生存していた?

  

今日は2月10日。

3連休の初日。

 

1993年10月29日放映の

驚きももの木20世紀 チャレンジャー爆発」について書いてきました。

もう書き終えたつもりでしたが、

もう1本書きたくなりました。

2月4日に書いた記事の続きです。

  

 

今回の記事を書くためにいろいろ調べました。

その時に、乗組員が乗っていた部屋は、爆発でも壊れることなく、

爆発直後には乗組員は生存していたという説に出会いました。

驚きました。

この映像でも説明しています↓


YouTube: 【衝撃映像と説明】 チャレンジャー号爆発事故 Space Shuttle Challenger disaster

動画の写真です。

Photo

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この乗員室で乗組員が生きていて、

どのような会話がなされたのかという動画もありました。


YouTube: 【死の直前最後の言葉】チャレンジャー号爆発事故後の通信記録:時速300キロ以上で海に激突するまでの恐怖と絶望の7分間

  

この動画の文章を一部引用します。

 

彼らがシャトルの”爆発”で即死したという説が一般的なのは、

その方が慰めになるからだろう。

  

それはあると思う。

でももし生きていて、この動画にあるような会話がなされたのなら、

知るべきだろうと思う。

絶望の中でも、どうにかしようとしていた乗組員の行動は歴史に残るべきだと思う。

このブログにも書き留めておきたいと思って、

今朝は書いてみました。

  

   

  

4日の投稿で引用した本「治療塔」(大江健三郎著/岩波書店) 

もう一つ引用します。

  

大江さんは、エリスン・オニヅカさんと母親のミツエ・オニヅカさんのことも

書いていました。

  

船団が大挙して帰って来ますならばな、誰より先にオニヅカさんが

スペースシャトルから降り立たれて、苦労されたハワイ移民の

お母さんの手を握っていただきたいものですな!

(20p)

  

「驚きももの木20世紀」でもお母さんのことをたくさん扱っていました。

報道できっとお母さんのことをよく報道していたのでしょう。

その影響で、この文章ができたと思います。

(”当時”を知る人間ですが、どのような報道がなされたか忘れています)

「治療塔」は今日、図書館に返却予定。

 

以上です。

2018年2月 7日 (水)

来た道戻るの大嫌い!/毎日リクエスト

今日は2月7日。

  

2月3日から生活のBGMを変えています。

竹原ピストルのアルバム4枚目。

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ROUTE to ROOTS

 

以前話題にした曲「オールドルーキー」が含まれています。

ここでも道草 晩から今朝にかけて触れた言葉その3/大晦日にたくさんの人が撃たれた(2018年1月11日投稿)

  

このアルバムに入っている曲で、

来た道戻るの大嫌い!」もいいなあ。


YouTube: 来た道戻るの大嫌い!/竹原ピストル

♪ 過去はどうにもならない

  未来はどうとでもできる

  くやんでちゃだめさ  

 

以前にも書いたと思うけど、

私が曲に求めるのは、癒しか励まし。

竹原ピストルの曲は励まし派ですね。

   

  

夏木陽介さん主演の映画「野盗風の中を走る」のテレビ放映を願って、

2月4日から毎日2か所にリクエストをしています。

NHK BSシネマ

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時代劇専門チャンネル

  

1か月ほどリクエストを続けたら、成果が出ないかな?

参考:ここでも道草 夏木陽介さん亡くなるのニュース(2018年1月19日投稿)

 

 

そんなこと、やっています。 

2018年2月 6日 (火)

雪の中を走って帰りました/運動不足解消をめざす

今日は2月6日。

  

2月3日に、久々に仲間と登山。

浜松市の観音山を登ってきました。

5時間余りを歩きました。

この山の報告は、また書こうと思いますが、

歩いてみて運動不足を感じました。

こんなことで、こんなに疲れなかったよなあと思いました。

  

  

今度の土曜日には、バスケットボールの大会があり、

審判で笛を吹かなくてはなりません。

この運動不足のままでは、十分に走れないことは目に見えています。

  

  

そこで・・・・

昨日(月曜日)から金曜日まで5日間連続で

自転車通勤をしようと決めました。

昨年度後半から思うように続かない自転車通勤。

寒い最中ですが、

片道30分、往復1時間を頑張ろうと決めました。

そして大会を迎えたいです。

  

有言実行。

勤務校の校長先生に、

「5日連続で自転車で通うつもりです」と宣言しました。

そして今日で2日間連続で達成。

  

昨晩は雪降る中を帰りました。

その時に撮った写真です↓

Rimg1879  

気づけば、股の間の自転車の細いフレームの上にも積もるほどの

雪でした。

前面から襲ってきて、ハンドルやハンドルを握る腕の上にもはりつく

雪でした。

  

こりゃあ翌朝は雪道でたいへんだぞと思いました。

 

でも、晩に雪はあまり降らず、道路に雪はほとんどありませんでした。

  

今朝の写真です。

Rimg1881

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Rimg1883  

少々寒かったけど、空気の澄んだ気持ちのいい

朝らしい朝でした。朝はこうでなくっちゃ。

自転車は快適でした。

  

2018年2月 4日 (日)

「驚きももの木20世紀」その6/「治療塔」からの引用

 

今日は2月4日。

 

前投稿に引き続き、

1993年10月29日放映の

驚きももの木20世紀 チャレンジャー爆発」をここに書き留めます。

  

1月28日の「今日は何の日」クイズをきっかけに、

25年前の番組を、このブログに書き留めました。

映像の読み物化をまた実行しました。

もう埋もれてしまいそうだった映像を、

最近はあらためてじっくり見てみました。

埋もれちゃいけない番組だと思いました。

このブログに書き留めたことで、

その気になればすぐに読み返して、

自分の中で再構築ができます。

見たければまたビデオテープを出してきて見ることができます。

もしかしたら、この番組について知りたいと思う人が出てきたら、

検索してヒットします。少しは役に立つでしょう。

今日は6本、番組に関する記事を投稿しました。

時間はかかりましたが、無駄ではないと思いたいです。

  

今昔の番組をこうやって読み物化していくこと。

私にとって大事な仕事です。

埋もれていってしまう番組を消さないために。

そして有効に活かすために。 

テレビ番組は貴重なのです。

最近の動画で、チャレンジャー号の事故を扱ったものを探しました。

この動画はどうでしょう↓


YouTube: 宇宙 緊迫の瞬間 スペースシャトル・チャレンジャー爆発事故

  

最後に、1月28日が「宇宙からの警告の日」と

なった本からの引用をしたいです。

どうも「今日は何の日~毎日が記念日~」の説明では

納得がいかなかったので、図書館で借りてきました。

※参考:ここでも道草 1月28日に思い出した番組(2018年2月1日投稿)

(ここに説明アリ)

    

その本は「治療塔」(大江健三郎著/岩波書店)。

1990年発行の本。SF小説。

時代は21世紀前半が舞台。今ですね。

51zccdrntkl__sx218_bo1204203200_ql4  

この本に、チャレンジャー号の事故のことが

次のように書かれていました。

  

リッチャンはまだ生まれていなかったから、

古き善き時代のケープ・カナベラル基地から

NASAのスペース・シャトルが打ち上げられていた、

宇宙航海の揺籃期のことは知らないよね?

しかしテレヴィのノスタルジーの番組で、

離陸したロケットがほんの数秒後に白い煙の輻(や)を

四方に放って爆発した、あの涙ぐましいようなヴィデオは

見たことがあるでしょう?

日本人には有人ロケットの打ち上げができなかった頃でね、

あのロケットにはオニヅカ宇宙飛行士という日系二世が

乗り組んでいたこともあって、とくに関心が集中していたんだよ、

こちらでも。

現場中継のテレヴィは西側世界のどこでも放映されたはずだよ。

あれを見ているとね、スペース・シャトルの関係者は

緊迫した雰囲気だったけれども、見送りに集まった見物人たちの

特設桟敷は花やかなピクニックのようでね。

人類的な規模の大事故が、ああした行楽気分のなかで起るものかと、

後になってつくづく気が滅入ったけれどもね。

ロケットが発射される。

お祭り気分の連中が喚声をあげる。

闘牛かなにかの熱狂ぶりでね、Go、Go!とか叫んでさ。

在郷軍人風の連中は手慣れたもので、

のんびり星条旗の紙旗を振ったりしていた・・・。

そのほんの数秒後、ドカーンと爆発して、

カメラがたまたまとらえていた宇宙飛行士の家族が、

Oh,No!と叫ぶ。

あの瞬間、テレヴィ中継を見ていた、

西側世界全域の人々の心にね、悲劇的な感情がサーッと走ったと思うよ。

そして、その感情は、奥深いところで正しかったんだね。

彼らの胸の底に届いていたのは、人的被害は最小にとどめての

宇宙意志からの警告だったさ。

私はね、あれを機会に、宇宙にロケットを打ち上げる試みは、

すべて断念すべきだったと思うよ。(中略)

ところが人類はそれとは逆の選択をしたんだなあ。(後略)

(16~17p)

  

こうなると、宇宙に出ることが必ずしも良しではない。

人類は、本当に宇宙に出るべきかどうか考えろ。

1月28日は、そんな日と言うことでしょうか。

  

少々違うところあり。

打ち上げから爆破まで「数秒」とあるけど、

実際は「73秒前後」

オニヅカさんは「日系二世」ではなくて、

「日系三世」

  

  

ふ~、今日はよく書いた。スペースシャトルが夢に出てくるかも。

もうこんな時間。おやすみなさい。

 

「驚きももの木20世紀」その5/Come Fly with me

 

今日は2月4日。

 

前投稿に引き続き、

1993年10月29日放映の

驚きももの木20世紀 チャレンジャー爆発」をここに書き留めます。

 

 

いよいよ打ち上げです。

番組の写真を並べます。

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次の瞬間だ。

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ナレーターの森本レオさんが、この大事故を伝えます。

 

ナレーター:高度1万6千メートルで起こった大事故。

  一瞬の時を置いて、

  現実の悲惨さが誰にも伝わった。

  事態は最悪だった。

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  ひとつ、またひとつ、

  チャレンジャー号の残骸が海に落ちていく。

  肉親を、友人を目の前で失う。

  観客席はどうにもならない悲鳴で埋まった。

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  だが、その中で1人、毅然としていた女性がいた。

  オニヅカの母だった。

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  「泣かないで皆さん、泣かないで。

   私は皆さんがいるから大丈夫。

   どうか泣かないで」

 

  

エリスンさんが母に送った言葉を、弟さんが紹介してくれました。

ディスカバリー号成功後の渡されたものと思われます↓

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お母さんへ

僕の夢を信じてくれたことに

多くの愛と感謝を込めて。

あなたの助けがなくては

これは成し遂げられなかった。

母さんい一緒に飛ぼうよ。

(Come Fly with me)

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お母さんの証言。

息子がいないのは淋しいけれど

一人だけじゃなく 

仲間6人と一緒に逝ったのだから

あの子は幸せ者ですよ。

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ここで映像は終了。

その直後の三宅裕司さんの顔。

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この顔は覚えていました。

チャレンジャー打ち上げから爆発までの大事故を見て、

そしてエリスンさんの言葉、お母さんの言葉を聞くと

この顔になってしまうのです。

目が奪われ、心も奪われてしまう映像なのです。

  

「強いなあ、お母さん」

三宅さんはそう言います。

  

立川志の輔が言います。

 

本当に、お母さんというのが最後まで

印象に残りますね。

もしあそこで、お母さんが、

「雑貨屋は私一人でやっていけるんだから、

 あなたはあなたの夢を追いかけなさい」

と言わないで、

「あなたがいないとこの雑貨屋はやれないし、

 私のそばを去らないで」

と言っておけば、ひょっとすると、

オニヅカさんは今、生きてはいるかもしれないけど、

その夢は一切何もできない、実現されていない。

 

 

周りの人の助けを受けて努力することで、夢は叶う。

この番組のテーマはここだと思います。

  

つづく

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