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2024年3月

2024年3月24日 (日)

本「黒三ダムと朝鮮人労働者」⑥ 「高熱隧道」に朝鮮人が出てこない理由/キャニオンロードは10月1日から

   

今日は令和6年3月24日。

  

前記事に引き続き、

「黒三ダムと朝鮮人労働者」(堀江節子著/桂書房)より、

印象に残った文章を引用していきます。

二〇二四年度から上部軌道を経て黒四ダムまでの「黒部ルート」(欅平

黒四発電所 黒部湖までの工事のために掘削した地下ルート)が一般観

光客に開放され、関電は年間一万人を受け入れる。現在でもV字谷の

景色は素晴らしく、欅平までのトロッコ電車での観光は海外の観光客

にも人気で、韓国人観光客も少なくないと聞いている。そうした人た

ちに日本人と朝鮮人が協力して電源開発が行われた事実と感謝を伝え

ることはできないだろうか。「黒四」建設は、関西電力の太田垣社長

が陣頭指揮を執り、社員一丸となって取り組まれ、戦後の高度成長を

もたらしたと称賛される。一方、「「黒三」」 建設は、戦時の国策事

業として取り組まれ、高熱隧道や雪崩事故など多くの困難を克服して

完成した。 「黒四」が太陽であれば、「黒三」は影のような存在では

あるが、「黒三」なしに「黒四」は存在しない。 峡谷の景色を満喫し、

黒部ダムや黒部湖を見ることができるのは、「黒三」のおかげだ。戦

時下、植民地から来た朝鮮人労働者が携わった電源開発の過酷な歴史は、

国内外の観光客にとっても興味深いことに違いない。

(187p)

  

この本の出版は2023年7月なので、

黒部宇奈月キャニオンルートのことについて触れています。

このルートは、有名な黒四ダムよりの以前に造られた

黒三、黒ニ、黒一の発電所、ダムを知るコースです。

黒三でたくさんの朝鮮人が働いていたことは、

せっかく行くのだったら、勉強しておくべきだと思います。

この本「黒三ダムと朝鮮人労働者」と「高熱隧道」、

そして「真説『高熱隧道』」もお薦めです。

(「真説〜」については、3月21日の記事を見てください)

   

黒部宇奈月キャニオンルートは、6月30日がオープンの日でした。

しかし、関係する橋が、能登半島地震によって壊れたため、

延期となりました。

黒部宇奈月キャニオンルートHP

ここを見ると、次のようなお知らせがありました。

Img_4830

今年は中止という話も聞いていたので、

10月1日のなり、期間は短くなりましたが、

ありがたいです。

行きたいですね。

7月頃に予約が始まるそうなので、情報を逃さないようにしたいです。

  

「黒三」ダム建設について書かれた小説に、吉村昭による「高熱隧道」

がある。一九六七年に刊行され、現在なお広く読まれている。 これを

きっかけに黒部峡谷を訪れる人は多いという。吉村昭は、現場、証言、

史料等を取材し、事実に基づいてストーリーを構成する「記録文学」

「歴史文学」 で定評がある。この手法は一九六六年の『戦艦武蔵』か

らスタートし、翌年発表の「高熱隧道」で新境地を拓いたと、自身が

「精神的季節』(一九七二)に書いている。 佐藤組から資料の提供と取

材の便宜を受け、「黒三」 建設当時と同じような環境の現場に入って、

高温の温泉湧出地帯を掘り進んだ日電や佐藤組の所長や現場監督など

の関係者から聞き取りを行い、その歴史的挑戦を主題に作品化した。

ヒト・モノ・カネ、そしてイノチまでも総動員してダムを完成させよ

うとする狂気は、国民を戦争に駆り立てる政治的社会的圧力と相似形

で、そこに読者を飲み込む説得力がある。

事実に基づいて書かれるから記録文学とされるのだが、多くの人はこ

れを事実、または事実に近いものとして読む。だが、記録文学はあく

まで小説、フィクションである。吉村昭は難工事でたくさんの犠牲者

が出たことは記すが、その中に朝鮮人が多く含まれるという事実には

一切触れない。これについては、新田次郎との対談(『波』新潮社一

九七〇年5・6号)で、次のように話す。「この工事に従事した労働者

の半ば以上は朝鮮のヒトですが、強靭な体力を駆使してついにトンネ

ル貫通を果たした。 今の考え方からすると、朝鮮の人を労働者に使

ったというと虐使したのではないかと考えがちですが、事実は比較に

ならないほど高い給与が魅力となった。ともかく朝鮮の人と書くと主

題が妙にねじれてしまう恐れがあるので、ただ労務者という形で押し

通しました。 また自分の主題を明確にするためフィクションとして

書きました」。 そして、「私は主題の足を引っ張るような要素は容

赦なく捨てて、主題を生かす事実だけを使っています」。「事実と

は異なっていても、私の小説に関するかぎりそれが真実なのです」

と続ける。戦時下、電源開発、難工事といったシチュエーションで、

植民地からの労働者というのは欠くことのできないファクターだと

思われるが、「高熱隧道」については朝鮮人が存在しないことが彼

の主題を明確にすると断言する。

記録文学や歴史小説はドキュメンタリーのようにとらえられがちで、

すべて事実と思って読む人も珍しくない。吉村昭の作品は現場にい

た人の証言が活かされていて迫真感がある。 それでも、小説は小説

である。制作意図に沿わないことは省かれ、作者が紡いだ構成のな

かで場面に合わせて会話が創られるにもかかわらず、文字になって

いることが真実だと思わされてしまう。そして、「記録文学」とし

て評価が高いがゆえに、ストーリーに不要だとして省かれた、実在

した朝鮮人の存在が消されてしまった。

(192〜193p)

  

吉村昭が対談で語っている朝鮮人を書かないという理由だが、私に

は後付けのように思われる。私の理解はこうである。吉村昭の「記

録文学」の手法では、当事者への直接の取材が必須である。だが、

取材しようにも、大多数は戦後すぐに故郷に帰ってしまって話を聞

くことができない。例え小説といえども、 いかに吉村昭であっても

取材なしでは書けなかったのではないか。こうして、吉村昭の意図

がどうであれ、多くの読者は、朝鮮人は存在しなかったと思ってい

るのだ。

(194p)

  

なぜ「高熱隧道」に朝鮮人が出てこないか。

この194pの説は納得です。

朝鮮人人夫の話が聞けてないなら、吉村さんは書けなかったんだ。

朝鮮人人夫がどう考えているのか、正確に掴めずに、書きなかったんだ。

だから、改めて書きますが、技師たちは、人夫が何を考えているのか

妄想を膨らませて、そして恐怖につながっていったんだと思います。

本「黒三ダムと朝鮮人労働者」⑤ 実は人夫の多くは朝鮮人だった

   

今日は令和6年3月24日。

  

3月21日の記事の続きで、

「黒三ダムと朝鮮人労働者」(堀江節子著/桂書房)より、

印象に残った文章を引用していきます。

   

北陸タイムス」は一九三八年八月二八日夜、阿曽原の隧道内でダイナ

マイトが自然発火で爆発し、南藤吉こと南慶述(35) 外五名の半島人

土工は無残にも頭部、顔面を粉砕して即死、山本政造他二名の内地人

は瀕死の重傷を負うた。さらに、同時刻には人見平(仙人谷)の隧道工

事でも土田武夫こと孫武述(38) 外三名の半島人土工が重傷を負う大

惨事が発生した」と、連続して起きているダイナマイト事故を報じた。

日本人もいたが、多くは朝鮮人だった。

(47p)

  

「高熱隧道」(吉村昭著)を読んでいる時に、全く出てこなかった

「朝鮮人」が、「黒三ダムと朝鮮人労働者」を読んでいると

ちょくちょく出てきます。あれれ?と思い出します。

  

  

体力を消耗するので、作業は一〇分から三〇分交替で行われ、坑口で

休み、塩分を補うために梅干を食べて出番を待って再び入坑した。そ

のため、一日の実動時間は短かった。火傷しないようにゴム合羽や肌

着を着ていたが、ケガや火傷、発破による事故は絶え間なく起き死傷

者が出ると、仲間に取りすがって「アイゴー、アイゴー」と泣いてい

たのを覚えている人もいた。

「アイゴー」とあるように、高熱隧道を掘り進んだのはすべて朝鮮人

の労働者だったと奥田淳爾さんは「黒部川水域の発電事業(二)」に書

いている。あまりに過酷な作業環境での重労働だったため、体力を消

耗するので水代りにおかゆを飲み、ゆで卵を食べ、牛乳が用意されて、

不調を訴えればカルシウム注射が打たれた。労働時間は一応八時間、

三交代で実働時間は三時間ほどだった。 ズリ出しで日給は一五円、切

り端は二〇円~二五円というから当時では破格の賃金だった。それば

かりか、「高熱隧道での仕事は、命知らずの朝鮮人だからできた」と

いわれ、技術力の高さに驚く人もいた。

(51p)

  

驚きです。「すべて朝鮮人の労働者だった」という証言。

そう言われてみたら、「高熱隧道」の人夫には名前がなかったことを

思い出します。

管理する技師たちには名前、日本名がありました。

人夫には名前がなかったぞ。

それも朝鮮人とわからないようにしたのかな。

「高熱隧道」を読んでいる時には、人夫は日本人のイメージでした。

自然にそう思っていました。

違いました。

そうなると、300名を超える犠牲者の意味が違ってきます。

朝鮮人は、全員ではないけれど、強制されてきた人たちもいました。

  

  

高熱のなかでの危険な作業であっても高賃金であれば、働きたいと思う

日本人はいたかもしれない。しかし、削岩機を使うような体力を必要と

する仕事ができる男性であれば、すでに甲種合格で戦場へと送られてい

た。「五◯キロもある削岩機を子どもでも抱きかかえるようにして持ち、

穴を穿つために切っ先を岩面に突き刺して、振動に耐えることのできる

頑丈な男はすでに朝鮮人しかいなかった」と、高熱隧道を請け負った親

方、金泰景さんの息子・金錫俊さんは話した。 朝鮮人でもできる人は限

られていたのだ。 そうした条件に合う労働者を確保するためには高賃金

で人を集める必要があったが、幸いにも話を聞きつけ全国の飯場から労

働者が集まって来た。 死と背中合わせの作業なのに逃げ出す者はいなか

った。日本人がいくら高いお金が払われようと働かなかった現場で、命

と引き換えに高賃金で働いたのだ。

(52p)

  

なぜ朝鮮人が多かったかの理由が書いてあります。

頭の中の現場の様子が、大きく変わってきました。

  

なお、著者が知るかぎりだが、富山県内の慰霊碑で朝鮮名のダム工事

犠牲者の名前が刻まれているのは、一九二七年着工、一九三〇年完成

の庄川水系祖山ダム(本体施行:佐藤工業、ダム事業者:関西電力)のみ

である。慰霊碑は一九三三年に建てられており、殉職者三一名のうち

朝鮮名は五名である。ここに名前を記し、追悼する。

権福永、朴黙、朴守黙、 金錬妓、安小龍  

  

人が死ぬのが当たり前だったかもしれない工事。

こういう人たちのことは、覚えておかなくてはね。

   

日本の側にも朝鮮人労働者を引き入れる要因があった。第一次世界大

戦後の好況時に一時的に労働力不足になり急激に導入が進んだ。 その

後も鉱山や土木、繊維関連工場の低賃金労働者として受け入れが続い

た。しかし、雇用の調節弁とされて安定的な職業に就くことはできず、

危険で低収入の職場で、「牛馬のごとき扱い」を受けた。いや、「牛

馬の方がましだった」とさえといわれている。

「韓国併合」以前から、日本人は朝鮮人を、人間というより都合のよ

い労働力と考え、同時に危険な存在として取り締まりの対象としてき

た。第一次大戦後に不況が広がり、日本人にも失業者が出るなかで、

政府は一九二三年五月に「朝鮮人労働者募集に関する件」 を公布、

日本人事業者に対して朝鮮人労働者の募集をできるだけ制限するよう

に伝えた。同年九月一日の関東大震災においては、「井戸に毒を入れ

た」「朝鮮人が暴動を起こして日本人を襲撃している」 など官憲によ

り意図的に流された流言飛語によって、民間人の自警団が数千人とも

いわれる朝鮮人や中国人の大量虐殺を行った。しかし、政府や行政は

殺戮行為の捜査も調査も行わず、日本人自身による反省もなかった。

それが一〇〇年後の現在に至るまでも犠牲者の人数がわからない原因

であり、日本人の反省と責任が問われるところである。さらにいえば、

朝鮮での義兵戦争に送り込まれた日本兵の影響を受け、植民地朝鮮へ

の蔑視、偏見が朝鮮人の命の軽視につながり、自警団を結成するなか

で容易く命を奪うことになった。

(78〜79p)

  

日本人は、労働力として朝鮮人を受け入れたが、

怖い存在でもあったことがわかります。

「高熱隧道」(吉村昭著)のラストでは、

人夫たちの集団に恐怖心を抱いた技師たちが、

人夫たちから逃げるシーンがラストです。

なぜあれほど、人夫たちを恐れたのかが、不明でした。

でも、朝鮮人だったと考えると、見えてきます。

多くの犠牲者を出して貫通させた隧道。

その労働環境は過酷で、命懸けの仕事場でした。

そんな場所で働かせた負い目が、恐怖となったのでしょう。

武田邦彦の「ホントの話」(155回)/フィンランドの英雄シモ・ヘイヘ

   

今日は令和6年3月24日。

   

サークルの時に教えてもらって、この動画を見ました。


YouTube: 【公式】武田邦彦の「ホントの話。」第155回 2024年2月23日放送 今回の内容は特に良いです(*自画自賛)

  

動画の最初のネタ。

Img_4825

サークルではこのことが話題になりました。

公立小学校教師からの投稿。

戦争において日本軍はアジアを守った、

併合した地域では教育を普及させ、

インフラ整備に力を注いだと話したところ、

上の先生から、そのようなことは教えないようにと言われたのです。

この先生は、最初は、日本軍は戦争をして、アジアで悪いことをしたと

教えていました。

しかし、教えていた子どもの曽祖父から次のように言われます。

「なぜ日本が悪いことをしたと教えるのか。

私たちは日本を守るために戦ったのに。

悪いことをしたなんて言われたら、日本を守って死んでいった仲間に

顔向できない」

この言葉を聞いて、その先生はしっかり勉強します。

そして、本当のことを知ったその先生は授業で教えました。

でも認められなかったのです。

嫌がらせもあって、現在この先生は休業中です。

武田先生は、戦争は勝者が歴史を作ると言っていました。

そうだよね、真実はどうだったかを調べて伝えることも大事ですが、

「勝者が歴史を作る」という視点も教えたいですね。

この動画は、他の勉強のきっかけにもなりました。

38分35秒くらいから、フィンランドとソ連との

冬戦争の話題になります。

武田先生が、冬戦争で活躍したフィンランドの英雄を

紹介していました。

名前は出ませんでした。

その人は狙撃兵です。

たった一人で、ソ連軍を止めた人です。

名前を出さなかったので、調べました。

「冬戦争 英雄 スナイパー」で検索したら、すぐにわかりました。

  

シモ・ヘイヘという名前でした。

Img_4812

Wikipedia シモ・ヘイヘより転載。

  

ソ連兵を542人射殺したと言われます。

その数は、世界戦史で最多と思われます。

ソ連兵に恐れられ、「白い死神」と呼ばれていました。

動画を調べると、幾つもありました。

その中からこの1本。


YouTube: 【白い死神】シモ・ヘイヘの狙撃能力と冬戦争

  

シモ・ヘイヘに焦点を当てた動画で、

詳しい説明をしてくれています。

冬戦争でシモ・ヘイヘが配属された場所はコッラ川。

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ここで、フィンランド軍は32名、ソ連軍は4000名。

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このとんでもない兵力差を、32名のフィンランド兵は、

雪を味方につけて、勝利するのです。

関連人物として2名。

32名の隊長。アールネ・ユーティライネン。

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フィンランド軍の最高司令官。

カール・グスタフ・アンネルヘイム。

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この2人もいつかしっかり調べたいと思います。

冬戦争における重要人物です。

ここに書き留めておきます。

今は、シモ・ヘイヘ。

  

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シモ・ヘイヘは、顎を撃ち抜かれ、意識不明。

目が覚めたのは1週間後でした。

その直後、冬戦争は終了。

その後、再びソ連と戦争を始めたフィンランド。

継続戦争。

シモ・ヘイヘも参戦を望みましたが、怪我が癒えていなくて、

参戦を認められませんでした。

39歳で退役。

96歳で永眠。長生きでした。

  

コッラ川で対峙したソ連軍は、こう言っていたそうです。

Img_4821

なぜ150%か?

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シモ・ヘイヘは、ソ連軍から奪った機関銃の扱いも上手く、

狙撃以上にソ連兵を射殺しているそうです。

1000人以上を射殺。

後年、このことで非難されたり、脅迫されたりします。

しかし、シモ・ヘイヘは何も言わなかったそうです。

唯一、こんなことを言ったそうです。

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こう聞かれたシモ・ヘイヘ。

次のように答えます。

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「できる限り実行」

これが大事ですよね。

今の自分は、こう思うことが多いです。

特にこの2年間は、この気持ちですね。

継続したいです。

   

今日はまた知らなかった歴史を知りました。

2024年3月23日 (土)

俳優の寺田農さんが亡くなるとのニュース

   

今日は令和6年3月23日。

  

昨日、修了式。

今年度教えた子どもたちとお別れでした。

やり切りました。

また1年が終わろうとしています。

再雇用2年目。この1年も良かったです。

昨晩は反省会。しっかりビールを飲んで、

たくさんお話をしました。皆さん、お疲れ様でした。

さあ、春休み。

今日から31日までは、できるだけ道草したいですね。

ブログを書きたいです。

  

  

俳優の寺田農(みのり)さんが亡くなったというニュース。

享年81歳でした。

肺がんとのこと。

寺田さんについては、かつて記事にしました。

ここでも道草 映画「肉弾」の絶妙な会話シーン(2015年8月27日投稿)

映画「肉弾」(1968年)で主役を務めました。

このアップは印象に残りました。

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寺田さんの死を伝えるニュースです。


YouTube: 【訃報】俳優・寺田農さん(81)肺がんで死去

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映画「天空の城ラピュタ」(1986年)のムスカ役の声優でも有名。

その声をご丁寧に集めた動画がありました。


YouTube: 【高音質】ムスカ大佐 音声集

  

お馴染みだった俳優さんの死。

確かに確認しました。

2024年3月21日 (木)

本「黒三ダムと朝鮮人労働者」④ 「真説『高熱隧道』」の存在

   

今日は令和6年3月21日。

  

昨日の続きで、

「黒三ダムと朝鮮人労働者」(堀江節子著/桂書房)より、

印象に残った文章を引用していきます。

  

着工した年の一九三七年二月二六日、皇道派青年将校がクーデターを

起こした。七月七日には盧溝橋事件が起きた。いよいよ中国侵攻が本

格化し、関西では軍需品製造のための電力が待たれていた。早期完成

のため、隧道工事が主となる第二工区では同時に何カ所からも掘削し、

昼夜兼行で工事が行われ、さらに、「冬営」が敢行された。日本電力

株式会社取締役齋藤孝二郎土木部長は「一年のほとんど半ばにも及積

雪期を除外しては工程に及す影響であるから、あらゆる危険と不自由

を忍んでも冬営作業は止むを得ない次第である」(「黒部川第三発電所

工事余談」 齋藤孝二郎 一九三八年一二月二日稿)と書いている。

冬期間宇奈月との通行ができない状況は安全面からも問題だと当初か

ら指摘されていたが、はたしてこの冬営が志合谷ホウ雪崩事故、そし

て阿曽原ホウ雪崩事故などを起こし、幾多の犠牲者を出した。

自然環境保全のために着工が遅れたことについて、齋藤土木部長は

「産業風致両立こそ真に黒部を活かす所以なりと信じ、これより実行

して来たもので、私は茲に産業風景是非を論ずることを敢てせぬ」と、

産業と風致とを同時に実現しようとしたのだが、これが多大な犠牲と

辛酸を加重したのだろう。志合谷雪崩事故の少し前に書かれたものだ

が、当初の十字峡水没を避けて、仙人谷にダム建設をすることになっ

た。いずれにしろ高熱隧道の工事は避けることはできなかったかもし

れないが、早期完成を至上命題とするなかで自然保護を要請されたこ

とが工事着工を遅らせ、危険がわかっているのに冬営を強いられるこ

とになり、人命を犠牲にして工事を進めることになった。

(26〜27p)

  

この文章の中に「風致」が出てきます。

「風致」は最近知った言葉です。

ここでも道草 20240218幕山・城山登山/湯河原町の風致地区条例(2024年2月29日投稿)

風致は自然の景色などのおもむき、あじわいの意味です。

黒三ダム・発電所建設にあたって、

産業と風致を両立させようとした結果、

黒部渓谷の景色を壊さないために、

隧道を掘ることが選択されたということでしょうか。

そして冬期の工事。

その結果、300人以上の犠牲者が出てしまいます。

   

志合谷宿舎は合掌造り木造四階建で、側壁だけが厚さ一メートルの無

筋コンクリートだった。 まず屋根が飛ばされ、合宿上部は雪崩に打ち

砕かれて、就寝中の人々とともに志合谷から対岸尾根(対岸尾根は寄宿

舎と同じ高さか、それより低い) までの広い範囲に飛散した。三月に

入り、奥鐘釣山の絶壁の下に建物の一部と遺体が一ヵ所にあるのが発

見された。宿舎下部はその場に倒壊し、ここでも死傷者を出した。隣

接し佐藤組配下喜田組事務所ではコンクリート壁が倒れ、一名が圧死

した。事務所に続き、抗口に直結して別の宿舎が隧道内に建っていた。

また、隧道内宿舎地点から谷に降りる斜度は七〇度でロープなしでは

行動できない。

以上は、北海道大学低温科学研究所の故清水弘教授が作成した『真説

「高熱隧道」」(北海道地区自然災害科学資料センター報告, 7、 pp.

37-521992) の中の一文である。清水教授は、志合谷の実地調査と生

存者の証言を検証し、さらに志合谷に限らず一九七三年ころから約一〇

年間に黒部峡谷各地で起こった雪崩事故の様子を三〇人以上から聞き

取り、科学的考察をもとに報告書を作成した。 そして、吉村昭の「高

熱隧道」の記述と比較して表を作成する。 すでに「高熱隧道」を読ま

れた人は、「オヤッ?小説とは違う!」と思われたであろう。小説とわ

かっていても、人は吉村昭の記述を事実と思い、体験者ですら自分の

記憶を修正、上書きしがちである。

小説「高熱隧道」では、雪崩の威力を以下のように表現する。

「爆風は宿舎の二階から上部をきれいに引き裂いて、比高七八メート

ルの山を越え、宿舎から五八◯メートルの距離にある奥鐘山の大岩壁

にたたきつけた。途中に破片らしきものが何も発見されないことから、

宿舎はそのままの形で深夜の空を運ばれたと想像された。」

ホウ雪崩の爆風に飛ばされた建物が宙を飛び、 大岩壁にたたきつけら

れるシーンは恐ろしいまでリアルに目に浮かび、ホウ雪崩の凄まじさ

と就寝だった人たちが感じたであろう恐怖を感じさせる。 いやいや、

一瞬のことで恐怖を感じることもなかったかもしれない。

だが、これは事実ではない。

(34〜35p)

   

志合谷泡雪崩事故の様子は、吉村昭さんの「高熱隧道」の記述の

イメージが焼きついています。

しかし、違うようです。

宿舎はそのままの形で飛んでいって、

奥鐘山の岩壁に激突したイメージですが、

それだけではなかったようです。

  

この文章中に出てくる「真説『高熱隧道』」

これは偶然ネットで発見していました。

真説「高熱隧道」(清水弘)

ここを見ると、吉村昭さんの記述と、

清水さんが調査した記録の食い違いが、

表によって示されています。

どうやら「高熱隧道」は正確なものではないようです。

  

「真説『高熱隧道』」のラストの記述が気になりました。

引用します。う〜ん、写真を転載します。

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吉村昭さんの「高熱隧道」の舞台裏を見た感じです。

「高熱隧道」 すごい本に出合ったと感じましたが、

完璧な本ではなかったようです。
  

  

  

マクドナルドのCM/宮崎あおいさんの登場

   

今日は令和6年3月21日。

  

ケーブルテレビで再放送しているドラマ「純情きらり」を、

昨年の10月から見続けています。

以前にも書きましたが、「純情きらり」は、2006年4月から

半年間放映されたNHK連続テレビ小説です。

このブログが始まるよりも1年早く、18年前のドラマです。

私にとって、ブログを始める前と後では区切りがあって、

始める前の出来事は、昔のことのように思えてしまいます。

その法則だと、このドラマは昔のドラマですが、

映像が鮮明なこともあって、あまり古さを感じません。

最近のドラマのように思って見ている自分がいます。

  

主人公の有森(松井)桜子を演じるのは、宮崎あおいさんです。

宮崎さんは1985年11月生まれなので、現在38歳かな。

ということは、「純情きらり」の頃は、20歳となります。

そうかあ。

最近見るCMで、これって宮崎あおいさんか?と思えるものがありました。

半信半疑で調べたら、宮崎あおいさんでした。

びっくりです。


YouTube: 宮崎あおい、EPO「う、ふ、ふ、ふ、」にのせ、てりたまをパクリ! マクドナルド新TVCM「春好き?てりたま好き?篇」「マックデリバる?篇」

宮崎「春好き?」

後輩「春、好きっす…」

宮崎「お花見は?」

後輩「好きっす、す」

宮崎「じゃあ…てりたまは?」

後輩「好きっす」

宮崎「じゃあ…てりたま買って、お花見するのは?」

こんな会話が出てくるCMです。

この動画は3本収録されていますが、

最初の15秒バージョンだけ見たことがありました。

真ん中の30秒バーションがやっぱりいいですね。

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「純情きらり」から18年経ちましたが、

笑顔は変わらないなあと思って見ました。

笑わなかったら、宮崎あおいさんに似ている若手さんかなと

思ったことでしょう。

18年の経過を感じさせない宮崎あおいさんを見て、

「純情きらり」はますます最近のドラマに思えてきます。

  

「純情きらり」は、毎日1本ずつ見てきましたが、

今日が148回。

3月いっぱいで終了だと思うので、大詰めです。

 

 

 

 

  

【追記】

あれれ、2年前にもCMに出てたの?

見た覚えがありません。


YouTube: 宮崎あおい、小悪魔的なふるまいで後輩翻弄!? 「30年ぶり」マクドナルドCMに出演 てりたまシリーズ新CM

Img_4791

「30年ぶり」に引っかかりました。

調べました。

ORICON NEWS

ここに書いてあったことを転載します。

  

宮崎は撮影を振り返り、「とても楽しかったです。実は30年くらい前に

出演させていただいたことがあって…エキストラをしていた 5~6 歳の頃、

ハッピーセットの CM に出させていただいたことがあり、自分の中で勝

手に『30年ぶり』って(笑)。母とも『うれしいね』という話をしてい

て、実際に今日撮影に参加できて『てりたま』もとてもおいしかったので、

すごく楽しい一日でした」と充実した様子。

  

そうだったのですね。

     

  

  

  

  

【追記2】  

2023年はどうだったのかなと調べました。

吉岡里帆さんでした。


YouTube: 【30秒版】 吉岡里帆 マクドナルド てりたま めっちゃ春じゃん篇 TVCM

これも吉岡さんが後輩と「てりたま」を食べています。

基本、同じです。

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来年の「てりたま」のCMに注目しよう。

まだ寒い/雹が降り、サクラの冬芽に変化なし

   

今日は令和6年3月21日。

  

昨日の暴風警報。

心配していましたが、思ったよりこの地域は

強風が吹かなくて良かったです。

ただ、寒気が入ってきたことで、

上空が不安定になり、雹(ひょう)が降ってきました。

1分間録画しました。


YouTube: 2024年3月20日 天気不安定 白いものが降った!

  

今日も寒いです。

朝のゴミ出しも、寒かったなあ。

まだ冬だ、いつ春が来るんだと思ってしまいました。

町内会のお花見は3月26日の予定。

電子回覧板で、サクラの冬芽の写真を、

ほぼ毎日アップしていますが、

ちなみに昨日はこんな感じでした。

Img_4537

ちょっと26日には、開花でさえ難しいなと思います。

26日の天気もあまり良くないようなので、

延期できるのなら、1週間遅らせるのがいいのではと思います。

主催者さんは、どうお考えかな。

2024年3月20日 (水)

本「黒三ダムと朝鮮人労働者」③ 最初は高峰譲吉でした

   

今日は令和6年3月20日。

  

この本の引用も間が空いてしまいました。

「黒三ダムと朝鮮人労働者」(堀江節子著/桂書房)

いつ以来か調べました。

ここでも道草 本「黒三ダムと朝鮮人労働者」② 黒三と黒四は「不ニ一体」(2024年2月17日投稿)

1ヶ月余りが過ぎていました。

この本の引用も頑張ります。

  

いち早く黒部川電源開発に注目したのは、福沢諭吉の養子の福沢桃介

だった。一九〇九年に調査に入ったが、あまりに急峻な地形だったこ

とと、別の事業を始めたことから手を引いた。また、三井鉱山が神岡

鉱山の鉛精錬のために水利権を出願するなど、多くの企業が水利権を

得ようと競っていた。

だが、実際に大規模な調査と開発が行われたのは一九二〇年代になっ

てからだった。一九一七年、タカジアスターゼの発見者として知られ

る高峰譲吉が、アルミ精錬の電源を求めて黒部川の水力発電の可能性

に注目して調査に乗り出した。一九一九年にはアメリカのアルコ社と

共同で東洋アルミナムを設立、富山湾に面する良港、高岡銅器の加工

技術、水力発電による電力、豊富な労働力を結合してアルミ産業を興

すという壮大な計画を立てた。一九二〇年には欅平から上流へと水平

歩道の開削を開始、一九二一年には電源開発と地域開発を同時に進め

るために黒部鉄道株式会社を起し、建築資材と人員を運ぶ軌道計画を

立てた。一九二二年には宇奈月をリゾート地として開発する黒部温泉

会社を発足、一九二三年には県中心部の富山市から宇奈月まで鉄道が

開通した。

しかし、第一次世界大戦後の不況のさなか一九二二年に高峰が亡くな

ると、 東洋アルミナムはアルミ事業を断念し、黒部水力株式会社と改

称して電源開発事業を縮小し、温泉開発計画も白紙に戻して、株式は

日本電力株式会社(現・関西電力)に譲渡された。富山県のアルミ産業

の発展という高峰の壮大な夢の実現は、戦後を待たなければならなか

った。(高峰譲吉博士研究会「黒部奥山をひらく」)

(15p)

  

東洋アルミナムが水平歩道を作ったのは、

このような経緯(いきさつ)だったのですね。

高峰譲吉は化学者、薬学博士の顔と、実業家の顔があったのですね。

高峰譲吉については、このサイトが参考になります。

高峰譲吉博士研究会 高峰譲吉ってどんな人?

このサイトから図を転載。

Img_4783

ニューヨークの郊外にある墓地の紹介には

次のように書いてあるそうです。

  

「世界で最初のでんぷん分解酵素(タカジアスターゼ)を1896

に開発したことにより”近代バイオテクノロジーの父”として尊敬を

集め、1901年にはアドレナリンを世界で初めて分離した。また有

名なワシントンの桜を(アメリカに)寄贈したのも博士である。」

  

今朝のニュースと繋がったことがあります。

ワシントンのサクラが満開であるというニュースでした。

例年よりも2週間早いそうです。

向こうは暖冬が続いたようです。

日本は3月になって冷えたので、開花すらしていません。

  

「タカジスターゼ」は、夏目漱石の小説に出てきたぞ。

「吾輩は猫である」の苦沙弥(くしゃみ)先生が常用していました。

アドレナリンもこの人だったのですね。

まさか高峰譲吉に、黒三ダムで出会うとは思いませんでした。

  

黒部川電源開発を引き継いだ日電は、さっそく一九二三年九月に宇奈

月─猫又間一二キロの軌道の開削に着手、上流へと調査を進めた。さ

らに、「黒四」へのルート開発として日電歩道の開削に取り組み(一九

二九年完成)、翌一九二四年には柳河原発電所工事を開始した。猫又で

取水口工事に取り掛かり、洪水やホウ雪崩などの自然災害に阻まれな

がらも、三年後の一九二七年に黒部峡谷最初の発電所が運転を開始し

た。

(15〜16p)

  

日電が日電歩道を作ったことが、ここで確認できました。

ホウ雪崩(泡雪崩)はすでに起きていたのですね。

黒部峡谷、怖い場所です。

  

「黒二」は一九三六年十月末に営業運転を開始、送電を始めたが、そ

の完成を待つことなく、同年九月から「黒三」建設工事が開始され、

完成まで四年以上の歳月を費やした。

工事は欅平に発電所を造り、六キロ上流の仙人谷ダムから水を取り入

れるというもので、険しい地形、冬期の積雪、風致地区ということか

ら工事資材運搬用の軌道をはじめ、ダム以外のすべてを隧道内とした。

また、両地点に三〇〇メートルの高低差があり、河川勾配二五分の一

のため、欅平の山中に内径五・五メートル、直高二二二メートルのエ

レベーター(竪坑)を作り、宇奈月から軌道で運んできた資材をトロッ

コに乗せたまま垂直に移動して、再び上部軌道で仙人谷へ、さらには

黒四ダム工事地点まで運ぶ計画が練られていた。そのため、工事開始

以前から人跡未踏の切り立った崖に調査用の狭い道をつけ、さらに上

流へと調査を進め、一九二八年にはすでに「黒四」地点の調査を開始

し、翌年には日電歩道(仙人ダムー黒部ダム)が完成した。その後、一

九三七年には宇奈月から欅平までの軌道が全線開通した。

(24〜25p)

  

欅平(けやきだいら)には竪坑エレベーターが造られました。

これは今も現役です。

黒ニができたら、黒三、そして黒四。

次から次に、ダムや発電所は造られる計画だったのですね。

もう知らない歴史が、堰を切って私に流れ込んできます。

本「高熱隧道」⑤ 2度目の泡雪崩

   

今日は令和6年3月20日。

  

前記事に引き続き、

「高熱隧道」(吉村昭著/新潮文庫)を読んで、

印象に残った文章を引用していきます。

    

貫通直前の隧道工事では、両工事班の切端が極度に接近した時、穿孔

(せんこう)鑿(のみ)の尖端が相手側の切端に突き出れば、最後の

発破は鑿(のみ)を突き出させた側の権利となるという約束事がある。

その「鑿先をとる」ことが人夫頭・人夫たちの最大の悲願なのだ。そ

のためには、最後の発破の瞬間まで敏速に掘進作業をつづけねばなら

ない。

双方の坑道内に電話がとりつけられ、互に坑内連絡がとれるようにな

った。仙人谷工事班長沼田からも、阿曾原谷工事班の鑿岩機(さくが

んき)の音がきこえてくるといううわずった声が流れてきた。

翌十七日、仙人谷側坑道の切端で午後四時の発破が仕掛けられたのに

つづいて、一時間後には阿曾原谷側で岩盤がダイナマイトの起爆によ

って崩れ落ち、両班の切端の距離は六メートル足らずにまで接近した。

しかし、根津、藤平はむろんのこと、両工事班の幹部技師たちは両切

端間の距離についてはかたく沈黙を守りつづけていた。設計にもとづ

く計算によればたしかに六メートル足らずではあっても、実際には多

少の食いちがいがあらわれるかも知れない。

それに、人夫たちにそのことを洩らしてしまうことは、掘進競争に好

ましくない結果をあたえるおそれがある。 作業の進行状況からみて

到底「鑿先をとる」ことができないと見きわをつけた工事班では、

落胆して意欲を失い、作業を投げ出してしまうことが考えられる。

なるべくかれらを盲目状態において、最後の一瞬までその力のすべて

をしぼり出させる必要があった。

ただかれらは、岩盤の奥からつたわってくる相手方の岩機の音に切端

が 接近しているこを察知しているらしく、かれらの動きにも一層はげ

しいものがあらわになってきていた。火薬係の人夫たちは、うがたれ

た孔に氷の棒をさし入れることも全くやめてしまっていた。

(185〜186p)

  

ダイナマイトに岩盤の高熱が伝わらないように、

氷の棒を差し入れていたのに、焦る人夫たちは、

その手間も惜しんでいたのでしょうね。

  

貫通祝いは、その日の午後一時におこなわれた。

仙人谷工事班の手で岩盤の中心部にダイナマイトが装填され、炸裂音

がとどろいて人が通れるほどの穴があけられた。

藤平には、再び胸にこみ上げるものがあった。加瀬組の後を引きつい

で岩盤に挑みはじめてから、すでに一年四カ月が経過している。阿曽

原谷横坑工事をふくめて九〇四メートルの隧道工事に、それほど多く

の日数を費したことは、藤平自身の経験では今までにないことだった。

が、世界でも稀有な温泉湧出地帯に道をうがつことができたというこ

とは、かれの自尊心を満すのに十分だった。

開かれた穴には清酒が注がれ、仙人谷工事斑の者たちと穴を通して杯

が交され乾杯した。

測定の結果、坑道の食いちがいは横に一七センチの誤差だけですんで

いることが確認できた。そのことは、根津や藤平にとって貫通の喜び

を一層大きなものにさせてくれた。

事務所内で鳴門工事部長、杉山専務をまじえて、あらためて貫通祝い

の杯が交された。鳴門は、根津をはじめ工事関係者の努力をたたえ、

現在掘進中の水路 道の貫通に全力をあげてくれるようにと激励した。

貫通後の慣習で、人夫たちには二日間の特別休暇があたえられた。か

れらは、宿舎の中で眠りつづけていた。

(194〜195p)

  

隧道を両方から掘削していって、たった17cmしかズレないなんて

すごいことだと思います。

貫通した時の祝杯がいい。

穴を通して杯が交わされ乾杯するんだ。

そして2日間のお休み。

貫通はやっぱり特別のことなんだよなあ。

  

  

藤平は、裏山の傾斜を見上げた。かれの口からも、意味のない叫びが

もれた。密生した橅(ぶな)の林に異常が起っていた。あたかもその

部分が人為的に伐りひらかれたように頂から傾斜の下まで七、八〇メ

ートルの幅で樹木の姿が消えている。

その光景が、なにを意味しているのかはあきらかだった。泡雪崩の爆

風が、橅の林の中を通り過ぎたのだ。それは、頂の方向からやってき

て巨大な橅の群れを鋭い刃先で切断し、橅は、大勢の射手が一斉に放

った矢の群れのように空中に舞い上り、宿舎目がけて突き刺さってき

たにちがいなかった。

木造の建築物は圧しつぶされ、それが各部屋に備えつけられた火鉢の

火で火災をひき起したものだと断定された。

(211〜212p)  

  

滅多に起きない泡雪崩(ほうなだれ)が、また襲ってきたのです。

1940年1月9日、阿曽原谷の飯場が、橅の大木に襲われました。

とにかく、こんな出来事があったことを知りませんでした。

知らない歴史は、たくさんあります。

  

吹雪はやんで、その夜は、一面の星空になった。

県警察部の係官の調査では、山の傾斜から舞い上った撫の巨木は、推

定三百本で宿舎から渓谷一帯に散乱していた。

宿舎に突き刺さっている橅(ぶな)は、すべて根が上方になっている

ことからも一旦舞い上ってから逆さまになり、梢(こずえ)の部分か

ら落下したと想像された。落下した橅は、平均して 径 七 〇センチ、

長さは二〇メートルで、ほとんどが六階から五階を貫き鉄筋コンクリ

ートの床にまで及んでいた。

(213〜214p)  

  

すごい威力です。自然の力は、人間の想像力を軽く超えてしまいます。

  

本「高熱隧道」④ 多くの犠牲者が出ても工事が継続された理由

   

今日は令和6年3月20日。

  

前記事に引き続き、

「高熱隧道」(吉村昭著/新潮文庫)を読んで、

印象に残った文章を引用していきます。

   

その頃、県警察部では、日本電力・佐川組の両者をまねいて、事故の

事後処理に対する見解をあきらかにした。 それは、工事の全面的な

中止命令に近いものだった。

「犠牲者をこれ以上出すのは、もうやめなさい」

部長は、ふりしぼるような声でくり返した。

藤平は、頭を垂れてその声をきいていた。 根津は仏が出ても遺族のこ

とは決して考えるな、と言ったが、遺体とともに宇奈月に降りてから

は、遺体にとりすがって泣き叫ぶ老人や女や子供たちの姿を毎日眼の

前で見てすごした。遺族たちの素朴な態度は、かれの胸を深く刺した。

かれらは泣き叫ぶだけで、肉親を死に追いやったはずの幹部技師や会

社に批判も憤りもぶつけてこようとはしない。 藤平たちが、神妙にか

れらに慰めの言葉をかけると、かれらは、ただ頭を深々と下げて、く

り返し礼を述べるだけなのだ。

死者をこれ以上出すのはやめろという警察部長の悲痛な言葉は、その

まま受け入れなければならない常識にちがいない。

これまで苦しんで工事をすすめてきた以上、全工事を完工させたいの

は山々である。が、黒部渓谷は、人間が挑むのは到底不可能な世界な

のかも知れない。

黒部の奥で工事をすることが無理だ、と宇奈月の町の者たちは言って

いるというが、かれらにとっては、欅平附近ですら秘境なのだ。まし

てその上流の黒部渓谷は、人間の足をふみ入れることのできない恐る

べき魔の谷であることを知っている。その渓谷で、工事をはじめ自分

たちは、かれらからみれば狂人としか思えなかったのだろう。

その結果は、多くの死者となってあらわれた。神秘的な黒部渓谷の自

然の力の前に屈する人間の敗北の姿として、かれらは恐れおののいて

それらの遺体をながめてきたにちがいない。

(157〜158p)

  

泡雪崩によって吹き飛ばされた志合谷宿舎の建物が、

大岩壁に激突しているのが発見され、犠牲者の遺体が

収容された後の場面です。

黒部渓谷が、当時どのように思われていたのかわかる文章です。

  

  

三月十八日、雪崩によるその春最大の鉄砲水が上流で発生し、阿曾

原谷は一時的な洪水状態に見舞われた。激流は宿舎の近くまで押し

寄せ、一階の炊事場には雪をまじえた水が流れこんだ。

水は間もなくひいて危険は去ったが、その日の午後、志合谷事故の

犠牲者全員に天皇陛下から金一封が御下賜されたことを、宇奈月事

務所から電話で知らせてきた。

藤平は、すぐ宇奈月までくだったが、迎えた根津もかれも、その一

名あたり二十五円の金額については、遺族たちの悲嘆をやわらげる

のに効果があるだろうという程度にしか考えなかった。そして、遺

族に対する自分たちの責任が、幾分か軽くなったような気持をいだ

いた。

しかし、その御下賜金の下附決定は、藤平たちの想像もおよばない

大きな波紋を周囲にひき起していた。殊に富山県庁と県警察部の反

応は大きかった。

かれらの黒部第三発電所建設計画第一・第二工区に対する工事の全

面的な中止の意志はきわめてかたく、それはほとんど確定的なもの

になっていた。たとえ中央本省から工事再開命令が出されたとして

も、かれらは犠牲の大きいことを理由に強硬な反抗をしめすにちが

いなかった。かれらは、黒部渓谷の特殊な性格を知りつくしていて、

そこで工事のおこなわれることがほとんど不可能であると判断して

いた。

しかし、御下賜金の下附決定は、かれらの態度をたちまち突きくず

してしまった。それは、かれらの批判をさしはさむ余地の全くない、

おかしがたい絶対的な力をもつ声として受けとられたのだ。

御下賜金の下附には、県側の強い意向をひるがえさせようとする中

央本省の政策的な工作もあったのだろうが、そうした事情に気づい

てはいても、県も県警察部も御下賜金の対象となるような重要な工

事を、自分たちの意志で中止させることは到底許されないことを知

っていた。それどころか、たとえ犠牲はどれほど多くとも、積極的

に工事続行に協力しなければならない立場にあることをさとったの

だ。

(169〜170p)

  

当時の天皇の権力、威力、権威を感じました。

これで、大きな犠牲を出したにもかかわらず、

工事は続けられました。

  

 

漸(ようや)く貫通の日が近づいたことに、藤平はあらたな感慨をお

ぼえていた。 加瀬組の放棄した阿曾原谷横坑と仙人谷本坑指定位置に、

それぞれ第一回の発破がとどろいてから七四二メートルの岩盤を掘鑿

(くっさく)してきたことになるが、死者は百七十名をかぞえ四・三

メートル強に対して人間一名が消えてしまったことになる。

人柱という言葉が、自然と胸に浮んでくる。難工事が予想される折に、

生きた人間を水底に沈め土中に埋めたのは神の心をやわらげるためだ

というが、自然はそのような形で犠牲を強いるのだろうか。 人柱は、

事前に神に供えられるが、百七十名の死者は、たとえそれが故意に犠

牲として供えられたものではなくとも、残忍な人柱と異なるところは

ない。

生きて作業をつづけている人夫たちの姿も、決して尋常なものとは思

われない。かれらの体は、熱さにおかされて脂肪分が失われ、骨と皮

のように痩せきってしまっている。そして、体中いたる所に、懲罰で

も受けたように火傷の痕が残されている。連れ立って坑内から出てく

るかれらに、藤平は、死の翳(かげ)りを色濃く見出して、思わず顔

をそむける。

しかし、順調に掘鑿がすすめば三ヶ月後には貫通するという想像は、

藤平の胸をときめかせた。たとえ人夫たちが亡者のように痩せこけて

しまっていようとも、かれらを督励して、切端にぽっかりと穴のあく

のを眼にしたいという願いが、切なく胸の中にあふれた。

(175p)

   

この文章を読んだ時には、私は働く日本人を思い浮かべていました。

しかし、その後に読んだ「黒三ダムと朝鮮人労働者」(堀江節子著/

桂書房)の内容に驚きます。働いていた人たちの多くは朝鮮人だっ

たということです。

藤平が感じている人夫に対する不安とか、人夫の犠牲があっても

工事を完結させたいという気持ちは、同朋の日本人ではなく、

別国の朝鮮人だからだったのではないのかと。

たくさんの犠牲者が出ても、人夫が反抗しなかったのも、

朝鮮人だからというのもあったのでは。

吉村昭さんは、朝鮮人が働いているのを知りながら、

朝鮮人を1回も出しませんでした。考えさせられます。

  

  

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