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2024年3月24日 (日)

本「黒三ダムと朝鮮人労働者」⑤ 実は人夫の多くは朝鮮人だった

   

今日は令和6年3月24日。

  

3月21日の記事の続きで、

「黒三ダムと朝鮮人労働者」(堀江節子著/桂書房)より、

印象に残った文章を引用していきます。

   

北陸タイムス」は一九三八年八月二八日夜、阿曽原の隧道内でダイナ

マイトが自然発火で爆発し、南藤吉こと南慶述(35) 外五名の半島人

土工は無残にも頭部、顔面を粉砕して即死、山本政造他二名の内地人

は瀕死の重傷を負うた。さらに、同時刻には人見平(仙人谷)の隧道工

事でも土田武夫こと孫武述(38) 外三名の半島人土工が重傷を負う大

惨事が発生した」と、連続して起きているダイナマイト事故を報じた。

日本人もいたが、多くは朝鮮人だった。

(47p)

  

「高熱隧道」(吉村昭著)を読んでいる時に、全く出てこなかった

「朝鮮人」が、「黒三ダムと朝鮮人労働者」を読んでいると

ちょくちょく出てきます。あれれ?と思い出します。

  

  

体力を消耗するので、作業は一〇分から三〇分交替で行われ、坑口で

休み、塩分を補うために梅干を食べて出番を待って再び入坑した。そ

のため、一日の実動時間は短かった。火傷しないようにゴム合羽や肌

着を着ていたが、ケガや火傷、発破による事故は絶え間なく起き死傷

者が出ると、仲間に取りすがって「アイゴー、アイゴー」と泣いてい

たのを覚えている人もいた。

「アイゴー」とあるように、高熱隧道を掘り進んだのはすべて朝鮮人

の労働者だったと奥田淳爾さんは「黒部川水域の発電事業(二)」に書

いている。あまりに過酷な作業環境での重労働だったため、体力を消

耗するので水代りにおかゆを飲み、ゆで卵を食べ、牛乳が用意されて、

不調を訴えればカルシウム注射が打たれた。労働時間は一応八時間、

三交代で実働時間は三時間ほどだった。 ズリ出しで日給は一五円、切

り端は二〇円~二五円というから当時では破格の賃金だった。それば

かりか、「高熱隧道での仕事は、命知らずの朝鮮人だからできた」と

いわれ、技術力の高さに驚く人もいた。

(51p)

  

驚きです。「すべて朝鮮人の労働者だった」という証言。

そう言われてみたら、「高熱隧道」の人夫には名前がなかったことを

思い出します。

管理する技師たちには名前、日本名がありました。

人夫には名前がなかったぞ。

それも朝鮮人とわからないようにしたのかな。

「高熱隧道」を読んでいる時には、人夫は日本人のイメージでした。

自然にそう思っていました。

違いました。

そうなると、300名を超える犠牲者の意味が違ってきます。

朝鮮人は、全員ではないけれど、強制されてきた人たちもいました。

  

  

高熱のなかでの危険な作業であっても高賃金であれば、働きたいと思う

日本人はいたかもしれない。しかし、削岩機を使うような体力を必要と

する仕事ができる男性であれば、すでに甲種合格で戦場へと送られてい

た。「五◯キロもある削岩機を子どもでも抱きかかえるようにして持ち、

穴を穿つために切っ先を岩面に突き刺して、振動に耐えることのできる

頑丈な男はすでに朝鮮人しかいなかった」と、高熱隧道を請け負った親

方、金泰景さんの息子・金錫俊さんは話した。 朝鮮人でもできる人は限

られていたのだ。 そうした条件に合う労働者を確保するためには高賃金

で人を集める必要があったが、幸いにも話を聞きつけ全国の飯場から労

働者が集まって来た。 死と背中合わせの作業なのに逃げ出す者はいなか

った。日本人がいくら高いお金が払われようと働かなかった現場で、命

と引き換えに高賃金で働いたのだ。

(52p)

  

なぜ朝鮮人が多かったかの理由が書いてあります。

頭の中の現場の様子が、大きく変わってきました。

  

なお、著者が知るかぎりだが、富山県内の慰霊碑で朝鮮名のダム工事

犠牲者の名前が刻まれているのは、一九二七年着工、一九三〇年完成

の庄川水系祖山ダム(本体施行:佐藤工業、ダム事業者:関西電力)のみ

である。慰霊碑は一九三三年に建てられており、殉職者三一名のうち

朝鮮名は五名である。ここに名前を記し、追悼する。

権福永、朴黙、朴守黙、 金錬妓、安小龍  

  

人が死ぬのが当たり前だったかもしれない工事。

こういう人たちのことは、覚えておかなくてはね。

   

日本の側にも朝鮮人労働者を引き入れる要因があった。第一次世界大

戦後の好況時に一時的に労働力不足になり急激に導入が進んだ。 その

後も鉱山や土木、繊維関連工場の低賃金労働者として受け入れが続い

た。しかし、雇用の調節弁とされて安定的な職業に就くことはできず、

危険で低収入の職場で、「牛馬のごとき扱い」を受けた。いや、「牛

馬の方がましだった」とさえといわれている。

「韓国併合」以前から、日本人は朝鮮人を、人間というより都合のよ

い労働力と考え、同時に危険な存在として取り締まりの対象としてき

た。第一次大戦後に不況が広がり、日本人にも失業者が出るなかで、

政府は一九二三年五月に「朝鮮人労働者募集に関する件」 を公布、

日本人事業者に対して朝鮮人労働者の募集をできるだけ制限するよう

に伝えた。同年九月一日の関東大震災においては、「井戸に毒を入れ

た」「朝鮮人が暴動を起こして日本人を襲撃している」 など官憲によ

り意図的に流された流言飛語によって、民間人の自警団が数千人とも

いわれる朝鮮人や中国人の大量虐殺を行った。しかし、政府や行政は

殺戮行為の捜査も調査も行わず、日本人自身による反省もなかった。

それが一〇〇年後の現在に至るまでも犠牲者の人数がわからない原因

であり、日本人の反省と責任が問われるところである。さらにいえば、

朝鮮での義兵戦争に送り込まれた日本兵の影響を受け、植民地朝鮮へ

の蔑視、偏見が朝鮮人の命の軽視につながり、自警団を結成するなか

で容易く命を奪うことになった。

(78〜79p)

  

日本人は、労働力として朝鮮人を受け入れたが、

怖い存在でもあったことがわかります。

「高熱隧道」(吉村昭著)のラストでは、

人夫たちの集団に恐怖心を抱いた技師たちが、

人夫たちから逃げるシーンがラストです。

なぜあれほど、人夫たちを恐れたのかが、不明でした。

でも、朝鮮人だったと考えると、見えてきます。

多くの犠牲者を出して貫通させた隧道。

その労働環境は過酷で、命懸けの仕事場でした。

そんな場所で働かせた負い目が、恐怖となったのでしょう。

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