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2022年8月

2022年8月30日 (火)

東京都慰霊堂のあの部屋が映った!

    

今日は令和4年8月30日。

   

昨晩の「映像の世紀バタフライエフェクト」には面食らいました。

ラストで、東京都慰霊堂のあの部屋にカメラが入ったのです。

ここでも道草 東京都慰霊堂の25年前の思い出(2022年8月29日投稿)

☝ この記事で書いた25年前に訪れた部屋です。

骨壺がたくさんある部屋です。

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☝ この奥の部屋です。

電灯のスイッチを入れた管理人は、

もしや25年前に出会ったひとでしょうか。

まさかね~でも可能性は0ではありません。

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こんなにたくさんの骨壺があったんだと、

映像を見て思いました。

ナレーターが言いました。

  

関東大震災と空襲の犠牲者あわせて16万3千体の遺骨が

納められている。

  

身元が不明な遺骨がこんなにあるのは、

震災と空襲が凄惨なものだった証です。

東京はすごい歴史を乗り越えてきました。

やっぱり、この部屋は、また訪れたいです。




  

雑学:サンマはなぜ内臓まで食べることができるのか?

    

今日は令和4年8月30日。

   

昨日、薬局で薬が用意されるのを待っている時に、

テレビで面白い雑学をやってました。

東海テレビのニュースでした。

そしたら、家に帰って、Yahoo!ニュースで

同じネタを扱っていました。

東海テレビ NEWSONE

いずれ消えていってしまうので、ここに書き留めておきます。

  

サンマはなぜ内臓まで食べることができるのか?

ニュース画面の写真です。

2

胃がないというのは衝撃的でしたが、

あのスリムな体形は、そのためかと納得。

 

一部引用します。

  

魚の内臓の臭みの主な原因は、消化しきれていないエサが残っている

ことですが、サンマの内臓にはエサが残っていません。その理由は大

きく2つあります。

まず「サンマには胃がないから」。水産研究・教育機構研究員の冨士

泰期さんによりますと、サンマは胃がない魚で、まっすぐ伸びた消化

管で食べたものを直接吸収するため、他の魚に比べて消化のスピード

が速いといいます。

2つめは「秋にエサを食べないから」です。冨士さんによりますと、

サンマは6~7月に北の海に向かいたくさんのエサを食べます。夏の

間に成長したサンマは、秋になって産卵のため南下してきますが、こ

の時期はほとんどエサを食べません。

夏場には多くて4~6gのエサが消化管に残っていますが、秋には1

g未満になります。つまり、秋のサンマは内臓に未消化のエサがほと

んど無く、なおかつ脂を最も蓄えた状態になるので、身も内臓もまる

ごと美味しく食べられるということです。

  

消えていってしまうかもしれなかった雑学を書き留めました。

ビールの「秋味」を飲みながらの、焼かれたサンマはいいんだけどなあ。

  

2022年8月29日 (月)

「遺留捜査7」第7話/今日の名言は?

    

今日は令和4年8月29日。

        

8月25日放映のドラマ「遺留捜査シーズン7 第7話」

今回は特別です。

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渡辺裕之さんは、4月のロケだったそうです。

5月3日は、渡辺さんの誕生日。

格好がいい66歳です。

私も、格好いい60台を目指します。

  

  

それではいつもの名言。

今回は2つも飛び出しました。

  

進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む

 

て、誰かが言ってました。

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この名言の「誰か」は福沢諭吉でした。

  

思いを全て込めたなら勝敗の結果など問題はない

  

て、誰かが言ってました。

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この名言は、「誰か」がわかりませんでした。

  

 

 

明日から本格的に学校勤務がスタートします。

退職者だけど、退かざる者になろう。

また忙しくなります。

でも、今晩は「映像の世紀バタフライエフェクト」をじっくり見ます。

今からです。

黙祷の歴史

    

今日は令和4年8月29日。

  

前記事に引き続き、関東大震災のこと。

今日の朝日新聞朝刊に黙祷のことが載っていました。

関東大震災が関係していました。

  

記事を引用します。

  

汽笛を合図に、路上の人々は1分間、無言で祈った。

10万を超える犠牲者が出た関東大震災から1年、1924年9月

1日の東京・銀座の通りの様子を、新聞は伝えている。多くの店が

休業する中、汽笛が鳴ったのは、地震が起きた午前11時58分。

通行人だけでなく、路面電車も自動車も止まった。

東京市はこの日、追悼式を催し、1分間の「黙祷」を市民に提案し

た。これが日本の黙祷の始まりだ、と粟津賢太・上智大学客員研究

員(宗教社会学)は言う。翌年以降は黙祷の名で、ラジオなどで呼

びかけられ、全国に広がっていった。

粟津さんによると、黙祷は同時代の英国の「2分間の沈黙」がルー

ツ。1914年からの第1次世界大戦で英国は、約90万人の戦死

者を出した。停戦から1年となる1919年11月11日を追悼記

念日とし、国王は国民に2分間、日常生活を止め、戦死者を追想し

ようと呼びかけた。

   

「黙祷」の歴史を知りました。

黙祷は、特定の宗教によらないために、

受け入れられやすいやり方だと記事に書いてありました。

そう思います。

2019年11月11日。

100年後のヨーロッパで、黙祷が行われていたことを思い出します。

東京都慰霊堂の25年前の思い出

    

今日は令和4年8月29日。

   

今晩放映の「映像の世紀バタフライエフェクト」では、

関東大震災が扱われます。

今日の朝日新聞を見ると、関東大震災の記事が複数ありました。

9月1日が迫ってくると、関東大震災のことを目にします。

 

思えば、関東大震災があったのは1923年(大正12年)のことです。

来年で100年ということになります。

思い出すのは、今から25年ほど前の職員旅行。

日帰りで東京を巡ったと思います。

その時に、東京都慰霊堂に寄りました。

関東大震災で多数の人たちが烈火に焼かれた被服廠跡地にできた建物です。

 

特別に、身寄りのない遺骨が納められている部屋に入れてもらいました。

狭い部屋でした。

狭さを感じたのは、四方の壁に積まれたたくさんの骨壺のせいでしょうか。

部屋の中央にテーブルがあって、そこに水の入った皿があったと思います。

管理している年輩の方が、毎日水を替えているそうです。

ふくよかな方でした。

「私は大震災を経験しているんですよ」とその年輩の方が言いました。

そう言われてみて、大震災は75年ほど前のことであり、

その時に子どもだったら、その方ぐらいの年になるんだと思いました。

関東大震災は、過去の出来事であり、

文献でしか触れられない出来事と思い込んでいました。

目の前に、生き証人が存在する体験をして、

関東大震災が近い歴史であったと感じました。

  

それからはや25年が過ぎました。

100年が経ってしまうのですね。

あの管理していた年輩の方は、鬼籍に入(い)られたでしょうか。

それとも妖怪のように生きておられるかな。

  

東京都慰霊堂のあの骨壺に覆われた部屋に

また行ってみたいと何度も思ってきましたが、

実現していません。

  

「キャパとゲルダ」⑥ ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」

     

今日は令和4年8月29日。

  

前記事に引き続き、

「キャパとゲルダ ふたりの戦場カメラマン」

(マーク・アロンソン&マリナ・ブドーズ著/原田勝訳

/あすなろ書房)より。

  

ヘミングウェイはゲルホーンとともに、キューバのくずれかけた邸

宅を住まいと定め、そこで十七カ月間、根をつめて書き、『誰がた

めに鐘は鳴る』を完成させた。そして、この小説には、スペインで

見たすべてーーー希望や英雄的行為、裏切り、ソ連による冷徹な工

作ーーーがもりこまれている。ヘミングウェイは、もはや一人の熱

心な共和国政府支持者ではなく、真実を語ることに情熱を傾けた小

説家だった。この小説は、1940年に出版されると批評家たちか

ら絶賛され、売れ行きも好調だった。しかし、左派勢力、とくに国

際旅団にいた人たちは、以前は同じ大義のために戦ってくれる有名

人として英雄あつかいしていたヘミングウェイに、今度は見捨てら

れてしまったような気分になった。彼らは、ファシストの悪と戦う

英雄的な戦争物語を望んでいたのであって、万人(ばんにん)の残

酷さを大胆にえぐる陰鬱な物語を望んでいたわけではなかったのだ。

エイブラハム・リンカーン旅団は不買運動を起こし、すべての人々

に、この本を読むな、と訴えた。

(212p)

  

この本を読んで、スペイン内戦のことがわかった上で、

ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」を読むと、

理解が深まるんだろうな。

  

2011年に録画して観ていない映画「誰が為めに鐘は鳴る」

(1943年)も観てみたいね。

「キャパとゲルダ」⑤ 前線の兵士たちにとってタローは「お守り」だった

   

今日は令和4年8月29日。

  

前記事に引き続き、

「キャパとゲルダ ふたりの戦場カメラマン」

(マーク・アロンソン&マリナ・ブドーズ著/原田勝訳

/あすなろ書房)より。

   

アレンはビルバオで撮影中のキャパを見て、この写真家がどうやっ

てこうした力強い映像をものにしているのか、より深いレベルで理

解した。空襲警報が短くかん高い音を四度鳴らして飛行機の飛来を

告げても、キャパは走らなかった。そのままそこにいて、シャッタ

ーを切りつづけている。

「気がつくと周囲は大混乱になっていた・・・・キャパは落ちつい

て人々の表情をカメラにおさめていく。やがて通りから人影が消え、

一人残っていた、ライフルを手にしたグアルディア(警察官)が、

避難しろ、とわれわれをせきたてた。立ちつくすキャパは暗い目を

して、無表情だった顔をゆがめた」

なにがキャパをこうした勇ましい行為に駆りたてたのだろう?ユン

カース爆撃機が空を切り裂こうとしている時に、どうしてその場に

飛びこみ、シャッターを切りつづけることができたのだろうか?の

ちに、キャパはよくこう言っていた。「写真にどこか足りないとこ

ろがあるとしたら、それは、十分に近づいていないからだ」この言

葉は、よい戦争カメラマンになるためには、命知らずの冒険家にな

って、常に危険にむかって行かなければならない、という意味に解

釈されることが多い。たしかに、キャパの性格は戦争写真にむいて

いただろう。衝動的で、じっとしていられず、行動の人だった。

(151p)

   

ロバート・キャパは、ノルマンディー上陸の戦場は生きのびましたが、

インドシナ戦争で地雷を踏んで亡くなります。

近づいて撮影していたら、いずれそうなるだろうという

亡くなり方だと思います。

  

  

キャパにとって、人生はとてもわかりやすいものだった。戦争があ

り、写真がある。そして、タローがいた。

(154p)

  

なるほど。

  

  

タローは、単にスペイン内戦の証人になろうとしていただけではな

い。これは彼女自身の戦争、自分の戦いだった。日々、共和国政府

にとって悪い情報がふえていたというのに、タローは、よりあぶな

い橋をわたりはじめる。シエスタ(昼寝)の時間、あたりが静かに

なると、タローはカメラを肩にかけ、さえぎるもののない野原をぬ

けて走ったが、それはまるで、銃弾が自分にあたることはないと思

っているかのようだった。

「彼女は信じきっていた」と、カントロヴィッチは書いている。「

ファシスト軍のすさまじい反撃を受けている時でも、前線に自分の

姿があれば、味方の疲れきった兵士たちにとって、それは軍旗のよ

うな役目を果たすのだと。彼女自身の勇気や熱意が発する魔法のよ

うな力が、兵士たちの士気を高め、手薄で浮き足だつ国際旅団の戦

列に次なる行動を促す力になると」

(166~167p)

  

ゲルダ・タローは、きっと戦場のヒロインになった気持ちだったのだろう。

この本を読んでいたら、そう思いました。

前線の兵士のすぐ傍らに常にいたタロー。

 

タロー自身が、あるフランス人ジャーナリストに何度か語っている

が、常に前線にいたいと願うことは、「理解して、そして少しでも

役にたつための事実上唯一の方法」だった。

そして、この言葉はあたっているように思う。おそらくタローは、

兵士たちにとって、お守りのような存在だったのだろう。

(189p)  

  

前線の兵士にとって、傍らに小柄な若い女性がいることは、

「お守り」のように思うだろうなと思いました。

この「お守り」は印象に残りました。

 

「キャパとゲルダ」④ ヒトラーがフランコを援助した理由

     

今日は令和4年8月29日。

  

前記事に引き続き、

「キャパとゲルダ ふたりの戦場カメラマン」

(マーク・アロンソン&マリナ・ブドーズ著/原田勝訳

/あすなろ書房)より。

  

ヒトラーがフランコを援助した背景にはさまざまな計算があった。

ひとつはイデオロギーの問題があって、結局フランコも、ヒトラー

同様、ファシストだったということが挙げられる。(中略)

もっとも冷酷で恐ろしい理由は、この小さな戦争がドイツ製の兵器

を試すよい機会だったからだ。ヒトラーはかねてより、ひそかに軍

事力増強にはげんでいて、スペイン内戦は自国の兵士たちを実戦で

鍛え、兵器や戦術を試す場になると考えたのだ。スペインは、新し

い軍事技術が試される、血にまみれた試験場になろうとしていた。

(77~78p)

  

フランコはヒトラーの力を借りましたが、

ヒトラーにとっても、スペイン内戦は好都合だったのです。

しかし、強力なヒトラーは、第2次世界大戦で滅びますが、

その力を借りたフランコ政権は長く生きのびます。

ヒトラーが倒れたら共倒れとはならなかったのですね。

  

  

この時期、タローは周囲の人たちに、自分とキャパは「コパン」ーー

仲間、相棒、友人ーーーにもどった、と言いはじめている。タローが

この言葉を選んだのは、キャパとの関係だけでなく、自分自身の問題

として、自立する必要を感じたからだろう。だれであれ男性の陰に、

とくに名声を獲得しつつある男性の陰に隠れているわけにはいかない、

と。タローはまったく先例のないことをしていた。それまで、戦場と

いう典型的な男の職場で、写真家として働く女性はいなかった。タロ

ーはひときわ目立つ存在だったので、「コパン」という言葉を使った

のは、単に周囲に線を引き、自分がだれか一人の男性の「所有物」で

はないことを宣言するための手段だったかもしれない。あるいは、そ

れによって自分が自由の身であることをほのめかし、男たちをうまく

あしらって、必要なものを手に入れるための方便だったのだろう。た

とえば前線まで車に同乗させてもらったり、次はどこが戦場になるか

という情報を教えてもらったりする必要があったからだ。多くの点で、

キャパもタローも成長し、それぞれが新たな役割をになうようになっ

ていく。それまでは、若い恋人同士として助けあい、新しい自分を作

ってきた二人だったが、このころには、経験豊かなプロの写真家にな

ろうとしていた。そして、それにともない、緊張関係が生じるのはさ

けられないことだった。

(127~128p)

  

最初は共同作業だった2人ですが、

それぞれがプロの戦場カメラマンになろうとしはじめたのだと

いうことでしょう。

 

1937年春のどこかで、ロバート・キャパはゲルダ・タローに結婚

を申し込んでいる。タローは、今はだめだ、と答えた。スペインで戦

争が続いているのに結婚なんてできない、と。まるで、今は、この内

戦の大義と結婚しているのだ、と言っているようでもある。

(135p)

  

ゲルダにとって、結婚は後回しになってしまったのでしょう。

まずは、戦場に出かけていって、戦場カメラマンとして

自立することが頭にあったと思います。

(1937年)4月27日朝、スペインから恐ろしい知らせがもたら

された。シムが熱心に取材していたバスク地方が攻撃されたのだ。そ

れもきわめて陰惨で冷酷なやり方で。

その前日の午後おそく、一機のドイツ軍機がスペイン北部の小さな町

ゲルニカに、六発の大型爆弾を投下した。ゲルニカは聖なる町と考え

られていて、バスクの人々にとって自由を象徴するカシの木で知られ

ていた。負傷者を救おうとして、人々が表に出てきはじめると、編隊

を組んで飛来した飛行機が、さらに大きな爆弾を投下した。住民は逃

げ出したが、機銃掃射でなぎたおされていった。まるで空から急降下

する黒いカラスたちのように、ドイツ軍のユンカース社製急降下爆撃

機が焼夷弾をばらまき、それがすさまじい勢いで発火した。ゲルニカ

は文字どおり焼きつくされ、がれきと灰の山になった。死者は千六百

名を超え、生き残った人々は町を出て、進軍してくるフランコ軍に道

をあけた。それまで、世界のどこであれ、空襲でこれほど破壊された

町はなかった。

(146p)    

  

これが有名なゲルニカの空襲の様子なんだ。

フランコ軍ではなく、ドイツ軍による攻撃だったんだ。

「キャパとゲルダ」③ 「くずれおちる兵士」の真偽

    

今日は令和4年8月29日。

  

前記事に引き続き、

「キャパとゲルダ ふたりの戦場カメラマン」

(マーク・アロンソン&マリナ・ブドーズ著/原田勝訳

/あすなろ書房)より。

  

 

ここでも道草 「翼をください」③ 「崩れ落ちる兵士」はやらせ?(2022年8月16日投稿)

☝ この記事で書いた問題の写真です。

_

ロバート・キャパの名前を有名にした「くずれおちる兵士」

(「キャパとゲルダ」では”くずれおちる”はひらがな)

  

この写真が撮られた情景を、この本の本文では次のように書いています。

  

キャパとタローは、エスペホという村の近くで、共和国軍の小さな部

隊に合流した。昔から、その間は戦闘を行わないことになっている午

後1時から3時半の昼寝(シエスタ)が終わって少したったころ、丘

の斜面で兵士たちの一隊が訓練を始めた。タローとキャパは、房のつ

いた帽子をかぶって胸に弾帯をたすきがけにした兵士たちが、丘の上

を走り、塹壕の中で身がまえ、ライフルのねらいを定める様子を撮影

した。

キャパは兵士たちの前を走り、時おり体をひねってシャッターを切っ

た。タローはうしろから追った。兵士たちは再び丘を駆けあがり、指

揮官が腕を前方にふるのに合わせて、次の塹壕に飛びこんでいった。

どこかその途中で銃声が一度だけ響き、長身の兵士が腕を横に大きく

広げて銃をとりおとした。キャパはライカのシャッターを切り、銃弾

が兵士の胸を撃ちぬいて命を奪う瞬間をとらえた。

「くぜれおちる兵士」と呼ばれるこの写真は、史上もっとも有名な戦

争写真となる。スペイン内戦だけでなく、すべての戦争とその無残な

人的代償を象徴する写真となるのだ。

(74~75p)

    

訓練中に、不幸にも敵の狙撃兵に撃たれた兵士を

撮影したことになっています。

この本では、「『くずれおちた兵士』をめぐる論争」というタイトルで、

別に4ページほど、いろいろな説が紹介されています。

キャパ自身が、あの写真はやらせであったと言っているのを聞いた説。

写真の場所はエスペホという場所であり、

そこでは戦闘の記録がないという説。

そしてこんな説もあります。

  

さらに、この写真にとって不利な事実があります。すなわち、キャパ

もタローもシムも、撮影のために演技をしてもらうことがあったのは

たしかなのだ。当時はそういう手法が認められていた。したがって新

しい証拠が見つからないかぎり、いつどこで起きた戦闘なのか、その

日戦死した共和国軍兵士がだれなのか特定できず、その写真が演技で

ある可能性は排除できない。

(244p)

 

演技OKだったのです。

さらに、演技してもらっている時に、不運にも敵の狙撃兵によって

撃たれた瞬間だったという説もあります。

それだと、決定的瞬間をとらえたことになりますが、

キャパとしては、複雑な気持ちになる写真だと思います。

結局、現時点で、この写真が真実なのかやらせなのかは不明です。

ゲルダが撮影したものだという説は、この本では出てこなかったです。

2022年8月28日 (日)

「キャパとゲルダ」② ロバート・キャパという名前の誕生

     

今日は令和4年8月28日。

  

前記事に引き続き、

「キャパとゲルダ ふたりの戦場カメラマン」

(マーク・アロンソン&マリナ・ブドーズ著/原田勝訳

/あすなろ書房)より。

   

スペイン内戦時の若き男女キャパとゲルダの青春物語でした。

表紙をめくった裏には、次のように書いてありました。

  

キャパはゲルダに写真を教え、

ゲルダはキャパを、

戦場カメラマンとしてプロデュースした。

激動の1930年代、夢と理想に燃え、

カメラを武器に闘った

若き二人の素顔とは・・・・・?

  

「映像の世紀バタフライエフェクト」で知った2人のことが

よくわかった本でした。

引用していきます。

  

アンドレとゲルダには、運を引きよせられるかもしれない大それた

方法がひとつあった。名前を変える、という手だ。決めたのはどち

らなのか、はっきりとはわからないが、おそらくゲルダではないか。

頭のいいゲルダは、名前がもつ力を計算していたのだろう。二人は、

もっと写真でかせぐための計略を編みだした。それは、ゲルダが芝

居を打ち、ロバート・キャパという名の、裕福で著名なアメリカ人

写真家が撮影した写真を売りこむというもので、キャパの写真は一

枚百五十フランは下らない、という設定だった。ゲルダもまた名前

を変えることにした。ゲルダ・ポホリレを、ゲルダ・タローにする

のだ。この名前には、どこか女優のグレタ・ガルボに通じるはなや

かさがある。新しい名前は、人を惹きつけて魅了する力を二人に与

えた。

(31p)

  

「映像の世紀バタフライエフェクト」で初めて知ったこと。

「ロバート・キャパ」というのが作られた名前であること。

この本でも確かめることができました。

彼らの思惑はうまくいって、ロバート・キャパの写真は売れました。

ゲルダ・タロー。

日本人の感覚だと、男性名「太郎」が浮かんでしまいます。

岡本太郎の名前からゲルダは取ったという説も見ました。

ちょっと違和感のある名前です。

ゲルダは魅力的な名前です。

  

  

1920年代から30年代にかけて、あるドイツ企業が、もちはこ

び可能なライカというカメラを製造し、写真界に革命を起こした。

その直後、今度は競合する企業がコンタックスというカメラを発売

した。いずれのカメラも小型で、手のひらにしっくりおさまった。

どちらも映画撮影用と同じ、幅三五ミリのフィルムを使用し、カメ

ラの左側にフィルムカートリッジを装着し、中のフィルムを引き出

しながら上下の穴をスプロケットにかませ、右側のスプールに巻き

つけていく仕組みだった。シャッターボタンを押すたびに、光を遮

断していた内部のシャッター幕がひらき、フィルムが感光して長方

形の画像が残されていく。撮影者はフィルムを巻きあげ、次の画像

を撮影する。内部の機構はすばやく動くので、巻きあげてから次の

写真を撮るまで一秒もかからない。まるで、静止画をたくさん連ね

て映画を撮影しているようで、事態の進展を刻一刻ととらえること

ができる。

おかげで、キャパもタローも、ほかの写真家たちも、動きまわって

はカメラをかまえ、何度もシャッターを切ることができるようにな

った。こうした新しいカメラは、二十世紀になって起こりはじめた

あらゆる事象に似て、スマートで、モダンで、軽量だった。

(40~41p)

  

キャパは、スペイン内戦時には、ライカのカメラを使っていたとのこと。

100年前、35ミリフィルムのカメラは、

画期的だったんだなあ。

この文章、私はわかります。イメージがちゃんと浮かびます。

押し入れには、35ミリフィルムのカメラがあります。

でも、デジカメやスマホのカメラしか知らない世代だと、

この文章は、わけわからないことでしょう。

100年の進歩は大きい。

  

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