「キャパとゲルダ」④ ヒトラーがフランコを援助した理由
今日は令和4年8月29日。
前記事に引き続き、
「キャパとゲルダ ふたりの戦場カメラマン」
(マーク・アロンソン&マリナ・ブドーズ著/原田勝訳
/あすなろ書房)より。
ヒトラーがフランコを援助した背景にはさまざまな計算があった。
ひとつはイデオロギーの問題があって、結局フランコも、ヒトラー
同様、ファシストだったということが挙げられる。(中略)
もっとも冷酷で恐ろしい理由は、この小さな戦争がドイツ製の兵器
を試すよい機会だったからだ。ヒトラーはかねてより、ひそかに軍
事力増強にはげんでいて、スペイン内戦は自国の兵士たちを実戦で
鍛え、兵器や戦術を試す場になると考えたのだ。スペインは、新し
い軍事技術が試される、血にまみれた試験場になろうとしていた。
(77~78p)
フランコはヒトラーの力を借りましたが、
ヒトラーにとっても、スペイン内戦は好都合だったのです。
しかし、強力なヒトラーは、第2次世界大戦で滅びますが、
その力を借りたフランコ政権は長く生きのびます。
ヒトラーが倒れたら共倒れとはならなかったのですね。
この時期、タローは周囲の人たちに、自分とキャパは「コパン」ーー
仲間、相棒、友人ーーーにもどった、と言いはじめている。タローが
この言葉を選んだのは、キャパとの関係だけでなく、自分自身の問題
として、自立する必要を感じたからだろう。だれであれ男性の陰に、
とくに名声を獲得しつつある男性の陰に隠れているわけにはいかない、
と。タローはまったく先例のないことをしていた。それまで、戦場と
いう典型的な男の職場で、写真家として働く女性はいなかった。タロ
ーはひときわ目立つ存在だったので、「コパン」という言葉を使った
のは、単に周囲に線を引き、自分がだれか一人の男性の「所有物」で
はないことを宣言するための手段だったかもしれない。あるいは、そ
れによって自分が自由の身であることをほのめかし、男たちをうまく
あしらって、必要なものを手に入れるための方便だったのだろう。た
とえば前線まで車に同乗させてもらったり、次はどこが戦場になるか
という情報を教えてもらったりする必要があったからだ。多くの点で、
キャパもタローも成長し、それぞれが新たな役割をになうようになっ
ていく。それまでは、若い恋人同士として助けあい、新しい自分を作
ってきた二人だったが、このころには、経験豊かなプロの写真家にな
ろうとしていた。そして、それにともない、緊張関係が生じるのはさ
けられないことだった。
(127~128p)
最初は共同作業だった2人ですが、
それぞれがプロの戦場カメラマンになろうとしはじめたのだと
いうことでしょう。
1937年春のどこかで、ロバート・キャパはゲルダ・タローに結婚
を申し込んでいる。タローは、今はだめだ、と答えた。スペインで戦
争が続いているのに結婚なんてできない、と。まるで、今は、この内
戦の大義と結婚しているのだ、と言っているようでもある。
(135p)
ゲルダにとって、結婚は後回しになってしまったのでしょう。
まずは、戦場に出かけていって、戦場カメラマンとして
自立することが頭にあったと思います。
(1937年)4月27日朝、スペインから恐ろしい知らせがもたら
された。シムが熱心に取材していたバスク地方が攻撃されたのだ。そ
れもきわめて陰惨で冷酷なやり方で。
その前日の午後おそく、一機のドイツ軍機がスペイン北部の小さな町
ゲルニカに、六発の大型爆弾を投下した。ゲルニカは聖なる町と考え
られていて、バスクの人々にとって自由を象徴するカシの木で知られ
ていた。負傷者を救おうとして、人々が表に出てきはじめると、編隊
を組んで飛来した飛行機が、さらに大きな爆弾を投下した。住民は逃
げ出したが、機銃掃射でなぎたおされていった。まるで空から急降下
する黒いカラスたちのように、ドイツ軍のユンカース社製急降下爆撃
機が焼夷弾をばらまき、それがすさまじい勢いで発火した。ゲルニカ
は文字どおり焼きつくされ、がれきと灰の山になった。死者は千六百
名を超え、生き残った人々は町を出て、進軍してくるフランコ軍に道
をあけた。それまで、世界のどこであれ、空襲でこれほど破壊された
町はなかった。
(146p)
これが有名なゲルニカの空襲の様子なんだ。
フランコ軍ではなく、ドイツ軍による攻撃だったんだ。
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