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2020年2月

2020年2月29日 (土)

「大熊町学校再生への挑戦」⑥ 相双/大熊町立小学校の表札/地球上から2度と

  

今日は令和2年2月29日。

おまけの日。

  

前投稿に引き続き

大熊町学校再生への挑戦」(竹内敏秀著/

福島県大熊町教育委員会編/かもがわ出版)より

引用します。2012年発刊の本です。

  

一つ疑問が解決しました。

  

137pに

「相双教育事務所」(相双=福島県相馬・双葉地区)

とありました。

相双ビューロー 大熊食堂

☝ このサイトを見て以来「相双」って何だろう?と思っていました。

わかりました。

読み方は「そうそう」でした。

   

  

引用を続けます。

   

Epson267 (162p)

この表札、いいですね。

地区の人(河東地区)のために校名が残っています。

熊町小と大野小の校名も受け継がれています。

  

私たち大熊町民のように放射線に追われ、踏むべき土も失って

しまうような境遇の人間を、日本からはもちろん、地球上から

2度と生み出してほしくありません。しかし、このような事態

を招いたのもほかならぬ人間(日本人)なのです。人間を育て

る教育の責任は大きいと考えております。

大熊町は、全町避難のなかでも、原点に焦点を当てた教育の挑

戦と実践を続けてまいります。そして、安心と学ぶ喜びに裏打

ちされた「子どもたちの笑顔」に満ちた学校を目指します。

教育は、子どもたちと人々の心に希望の灯をともし、理想を追

求し続けるいとなみです。

(213p)

 

 

「地球上から2度と生み出してほしくありません」

が印象に残りました。

大熊町が体験した非常に辛い出来事を知って、

その体験を将来誰も体験しないように

私ができることをやっていきたいです。

  

 

以上で「大熊町学校再生への挑戦」からの引用を終えます。

  

「大熊町学校再生への挑戦」⑤ 大熊中学校の現在地/JR大野駅付近避難指示解除

 

今日は令和2年2月29日。

おまけの日。

  

前投稿に引き続き

大熊町学校再生への挑戦」(竹内敏秀著/

福島県大熊町教育委員会編/かもがわ出版)より

引用します。2012年発刊の本です。

      

旧河東第三小学校で学校再開準備を進めて1週間がたったころ、

各校の児童生徒数が確定して、予想をはるかに超える状況になり

ました。避難先近くの学校に一時的に転校したが、大熊町の学校

再開の情報を聞き、会津若松市に移りたいと望む保護者も多かっ

たからでした。このままでは教室が足りない。そこで、大熊町教

育委員会が示した対応策は、中学校を旧会津学鳳中・高等学校

(旧若松女子高校)校舎に移して再開するというものでした。こ

こは、1階を大熊町役場として借り受けていたところで、2階を

中学校として使用することになりました。

(111p 早川良一/前・大熊中学校教頭)

  

私が2月19日に訪れたのが、旧若松女子高校を利用した

大熊町役場会津若松出張所でした。

そこに大熊中学校があったか?

なかったです。

現在はどこにあるか調べてみました。

大熊町HP 大熊中学校

☝ ここで住所がわかります。

  

福島県会津若松市一箕町八幡字門田9-2

  

住所がわかればグーグルアースで迫ります。

グーグルアース 大熊町立大熊中学校

1   

ストリートビューで下りてみます。

ストリートビュー 大熊町立大熊中学校 

2   

大熊中学校は移転していました。

それはいつか?

  

大熊町立大熊中学校ブログ

☝ かなり膨大な量のブログです。

これで過去をさかのぼってみました。

見つけた!

大熊町立大熊中学校ブログ 会津若松仮設校舎の開校式

開校式をやっていました。

2013年4月9日でした。

  

  

このブログの最新記事です。☟

大熊町立大熊中学校ブログ その先の未来へ・・・

ここに次のように書いてありました。

  

大熊町では、JR大野駅周辺の避難指示が

3月5日(木)の午前0時に解除され、

3月14日(土)には、JR常磐線が約9年ぶりに

全線で運転が再開されます。

  

 

よかった! もうじきです。

「大熊町学校再生への挑戦」④ 4月5日から全職員で準備作業が始まる

  

今日は令和2年2月29日。

おまけの日。

  

前投稿に引き続き

大熊町学校再生への挑戦」(竹内敏秀著/

福島県大熊町教育委員会編/かもがわ出版)より

引用します。2012年発刊の本です。

   

いろいろな立場の人たちの文章です。

  

会津若松市よりお借りした園舎は2010年度末まで使用され

たものであり、施設設備をはじめ、備品や消耗品まで、そのま

ま使わせていただくことになりましたので、年度初めの準備作

業の手間は、大幅に省けました。ただ、新年度の学級数は5ク

ラスでしたので、不足の2クラスは、3キロメートルほど離れ

た大田原保育所跡を借用することになりました。

園舎が2つになることで、一体感がなくなる等のデメリットは

ありますが、それよりも大熊町の幼稚園として出発できること

の喜びのほうが、はるかに大きいものでした。2011年度が

スタートしても園児数は減少し、2012年度4月までの1年

間で、園児数は(130名ほどから)92名にまで減少してし

まいました。主な原因は、家族の仕事の事情にともなう転居に

よるものであり、やむをえないことでした。

(74p 林洋一/熊町・大野幼稚園園長)

  

  

夢のような1年が、夢のように過ぎました。

「これは、まぼろしではないのか」と、幾たび思ったことか。

今、私たち大熊町民は、子どももおとなも、1人の例外もなく、

「想定外の地」で、「想定外の時間」を過ごしています。故郷

大熊町にもどれたとしても、失った時間は取りもどせるわけで

はありません。しかし、現在の一瞬一瞬は、決して「仮の日々」

ではなく、紛れもなく「ほんものの人生」を生きているのです。

子どもたちと過ごす日々もまたしかりです。日々の保育は、ほ

んものの時間であり、「真剣勝負」の時間です。子どもたちや

職員とともに、今この時を精いっぱい生きていこうと思ってい

ます。明日を信じて。

(77p 林洋一/熊町・大野幼稚園園長)

  

こういう思いだったんだなと思って読みました。

  

  

学校としての全町避難後の最初の大きな仕事は、教職員や児童

の避難先の確認です。まず、全教職員の避難先を調べ、全児童

の避難先確認を全教職員が分担しながら行いました。

町として集団で避難している避難所へ行けば手がかりも大きい

と判断しましたが、行こうと思ってもガソリンが手に入らず、

バスや電車も止まり、困難をきわめました。確認作業はほとん

ど携帯電話で行われ、職員の通話料金も大きく跳ね上がりまし

た。全児童の避難先確認をおえるまでにかなり時間がかかりま

した。

(84p 大清水久雄/前・大野小学校校長)

  

このことに限らず、震災後に学校立ち上げにあたって

さまざまなことが行われていたことを、この本で初めて知りました。

  

  

4月5日、幼稚園、小・中学校の全職員が、体育館に集合し、

町教育委員会教育総務課の指導主事から、これからなすべきこ

との指示を受けて、いよいよ学校再開の準備です。学校は、業

者の手できれいに磨かれ、寒さの厳しい地域なので、ストーブ

が急ピッチで設置されていました。しかし、他の物は一切あり

ません。でも、驚いたことには、6日には、地域の方々が、4

年ぶりに使用することになった学校の環境整備のために一生懸

命作業してくれました。花壇を作ったり、樹木を剪定したりし

て、子どもたちや我々を大歓迎しようとしている姿に感銘しま

した。地域の方々も、「1度廃校になってしまった私たちの校

舎がよみがえり、とてもうれしく思っています」ということで

した。会津若松市、河東地区のみなさんの心温まる歓迎を受け、

新任地での不安も薄れ、大きな希望がわいてきました。

(85p 大清水久雄/前・大野小学校校長)

  

廃校した学校が、地域の人たちの協力を得て復活するという、

ドラマチックなことがあったのですね。

指導主事さんが体育館で話したことは、

指導主事さんの記述にありました。

   

「御覧のとおり、何もありません。ゼロからの出発です。いつ

までここにお世話になるのか、いつ帰れるのかわかりませんが、

大熊町が用意してくれたこの河東第三小学校で、子どもたちが

笑顔を取りもどし、安心して、楽しく学べる学校をつくるべく、

一致団結してがんばりましょう」と話して、早速、作業に入っ

てもらいました。

(140p 鈴木恵一/大熊町教育委員会教育総務課指導主事)  

   

  

つづく

「大熊町学校再生への挑戦」③ 4月16日に合同入学式の実施 

  

今日は令和2年2月29日。

おまけの日。

  

前投稿に引き続き

大熊町学校再生への挑戦」(竹内敏秀著/

福島県大熊町教育委員会編/かもがわ出版)より

引用します。

  

3月26日、改めて星教育長の案内で(会津若松)市内の廃校

を見せていただきました。できれば、いわゆる間借りではなく

校舎、体育館、校庭が自由に使えること、また入学する児童・

生徒数を各学年40名として、小1から中3までの9学年で計

360名と予測し、それに見合う器の廃校を希望したからです。

旧河東第三小学校が私の心を動かしました。360名が学ぶこ

とが可能な校舎ですし、体育館、校庭も備わっていました。さ

らにダメを押されたのが、校庭のまわりに広がる豊かな田園風

景でした。それは、大熊町の小・中学校周辺を似た風景であり、

ここなら子どもたちも違和感なく学校生活に入ることができる

と思えたのです。「学校は日当たりよりも周囲の風景がたいせ

つ」ーーーこんなことばを思い出しておりました。借用する学

校が決まりました。

(47p 竹内敏英/大熊町教育委員会教育長)

  

廃校を利用していたことを、今回の旅行で旧県立若松女子高にあった

教育委員会に訪れて初めて知り、この本を読んでいきさつを知りました。

少しでも早く学校を立ち上げるためにはいいアイデアです。

すでに3月26日。被災後2週間で決まっていました。

  

課題の1つは、入園・入学式をいつ、どういう形で行うかという

ことです。

立ち上げ作業が進むにつれ、入園・入学式はできるだけ早いほう

がよいという意見と、準備がある程度進んでからのほうがよいと

いう2つの意見が出ておりました。

教育委員会としては前者の意見を採りました。大きな地震、津波

にあい、そして原発事故で自分の家も、自分たちの学校も捨てざ

るをえなくなった子どもたちです。子どもたちには、それまで習

っていた先生方や友だちと会うことがたいせつであり、このこと

が心のケアの側面からも重要ととらえていたからです。

また、「校舎があり、先生がおり、読む本があれば学校教育はで

きる」との思いも前者を採る後押しもしたのです。

4月7日に(会津若松市の)星教育長と相談。4月16日に、会

津若松市文化センターをお借りして、幼稚園、小・中学校合同の

入学式を行うことを決めました。

(51~52p 竹内敏英/大熊町教育委員会教育長)  

  

4月16日に合同入学式!素晴らしい早さだと思います。

準備のために、たくさんの人が動いたことは、この本に書かれていました。

それはまた後で。

  

  

2学期から中学生には寄贈された自転車を生かし、自転車通学

を認めることにしました。自転車通学は「初雪まで可」という

のは(会津若松)市内の中学校に同じです。

(53p)

  

大熊町がある浜通りに比べて、会津地方は雪の多いところ。

「初雪まで可」というルールは雪国らしいなと思いました。

「大熊町学校再生への挑戦」② 会津地方が学校復活の候補地になる

  

今日は令和2年2月29日。

おまけの日。

  

前投稿に引き続き

大熊町学校再生への挑戦」(竹内敏秀著/

福島県大熊町教育委員会編/かもがわ出版)より

引用します。

  

「大熊町」は、(中略)旧大野町と旧熊町村が合併し、195

4年に生まれました。

(28p 竹内敏英/大熊町教育委員会教育長)

  

そのため、大野小学校と熊町小学校の2校が

あることがわかりました。

  

避難は大混雑が予想されましたが、消防団をはじめ関係者の適

切な活動もあり、、住民は整然とバスに乗り込んで次々と田村

市方面へ避難しました。自家用車ではなくバスでの避難であっ

たこと、町民が個人の荷物を持参することなく、着の身着のま

まで避難したことが、その主な理由です。「2,3日で帰れる」

と、すべての町民が思っていたからにほかなりません。私もそ

の1人でした。

ここに至っても「原発は安全」との神話は生きていたのです。

こうして、全町民が自分の町、自分の家を離れての避難生活に

否応なしに入っていったのです。

避難所としての中心となる田村市体育館で、夕食の配給が始ま

ると、食パン1枚とペットボトル1本の水を求めて、町民の列

が続きました。町民にとっては避難民としての現実を直視させ

られた場面でした。体育館にはこの日、約1700名が入りま

した。

(26p 竹内敏英/大熊町教育委員会教育長)

  

全町避難後の2011年4月22日には、20キロ圏内が「警

戒区域」に法律で指定され、自分の町にも自分の家にも、帰る

自由が奪われてしまいました。今も大熊町は2011年3月11

で時間が止まったままで、人っ子ひとりいない状態が続いてい

す。

(30p 竹内敏英/大熊町教育委員会教育長)

  

(3月18日)最後には町長は次のように話しました。

「ともかく4月から学校を立ち上げよう。いっさい条件はつけ

ないから、学校を立ち上げてほしい。教育長も『大熊の子ども

は大熊で育てる』といつも言っているのだから、今こそそれを

実行するときだと思う」

そして、こうつけ加えたのです。

「大丈夫!学校を立ち上げれば町民もついてくる」

全町避難という町民の生活を根こそぎ奪ってしまう大混乱のな

かでも、町長の「教育重視」にブレはなかったのです。町長の

ことばは私に勇気を与えてくれましたし、学校立ち上げへひと

すじの光を見出した瞬間でもありました。

(34p 竹内敏英/大熊町教育委員会教育長)

  

  

明けて3月18日、「いっさい条件をつけない」と町長に言わ

れて、動きやすかったのは事実ですが、学校立ち上げの条件を

考えました。

1つは、原発事故の先が見えない現状では田村市(原発から30

キロ)やその周辺では、再避難の必要に迫られる可能性があるた

め、80~100キロは原発から離れたところにしたい。

2つめは、学校を立ち上げれば、保護者、家族もいっしょに移動

することになるので、少なくとも3000人以上の町民を受け入

れてくれる「器」を有する自治体にしたい。

この2つのことをふまえて、私は廃校も多い会津地方が適地では

ないかと判断しました。

(35p 竹内敏英/大熊町教育委員会教育長)

  

  

実際に2泊3日の旅行で、大熊町~会津若松市は自動車で走っています。

遠いと感じましたが、その遠いが大事だったわけです。

「大熊町学校再生への挑戦」① 3月12日の朝の全町避難

 

今日は令和2年2月29日。

4年に1度の閏日。

おまけの日。

本当は京都での研修会(キミヤーズ塾)に参加する予定でしたが、

新型コロナウィルスの流行のため延期となりました。

おまけであり、予定が突然空いた日。

こういう日は道草日和。

ブログに記事を多めに書きたいと思います。

  

本をまた読みました。

大熊町教育委員会の方に紹介してもらった本です。

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大熊町学校再生への挑戦」(竹内敏秀著/

福島県大熊町教育委員会編/かもがわ出版)

  

印象に残った文章を引用していきます。

この本が出版された年月日も重要です。

2012年8月25日です。

東日本大震災が起こってから1年余りが過ぎた頃です。

  

  

地震、津波被害と、避難した3キロ圏内の住民への対応を続け

て、(3月)12日の朝を迎えました。町民の生活を根こそぎ

変えてしまう朝でした。

午前6時前、国から1本の電話が町長に入りました。

「原発が心配なので、10キロ圏内の住民を避難させてほしい。

あくまでも念のためです。」。さらに「これは内閣総理大臣の

指示ですから、よろしく」と言って電話は切れました。

10キロ圏内となると、大熊町のほとんどが入ってしまいます

(地図参照)。子どもを含め、すべての町民が町を離れなけれ

ばならなくなるのです、災対本部はざわめきました。

Epson266 (18p)

一方、11日の夜から不思議なことが起こっておりました。茨

城県から当町へ次々とバスが入ってきていたのです。その数は

70代以上になっていまいました。国からはこのバスを使って

避難しろとのことでした。国はすでに前夜からバスを準備して

避難させる準備を着々と進めていたのだと思っています。そし

て、混乱を避けるために、夜明けを待って当町へ避難指示をし

たとしか考えられません。

(25~26p 竹内敏英氏/大熊町教育委員会教育長)

    

次の日(3月12日)の早朝、「帰宅難民」になった子どもを、

保護者に渡し、朝食時に学校への集合時間を話し合っていると、

タイベックスに身を包んだ集団が体育館に近づいてきました。

同じくして、バスでの避難命令が出されました。すると、県外

のバスが、わき出るように体育館に近づいてきました。乗車し

た車窓から、地区民が集会所に列をなして集まるようすが見え

ました。

これが避難生活の始まりでした。

(95~96p)(根本修行氏/前・熊町小学校校長)

    

翌(3月)12日午前6時ごろ、突然、多くの車が校庭に入っ

てきました。「10キロ圏内に避難指示が出た」「全町避難」

「バスが迎えに来るので、そのバスで町外に避難するように」

とのこと。対応にあたっていた町役場職員や消防団員、我々に

は、連絡が入っていない。それどころか「バスは来る」「来な

い」と情報が錯綜し、一時混乱しました。

午前7時ごろ、バス十数台が校庭に入ってきました。茨城県内

の社名が書かれているバスに分乗し、自分も最後のバスに乗車

しました。「どこに向かえばよいのか?」運転手から質問され、

避難指示すら知らされていない自分への質問に驚きました。「

とにかく、前のバスを追って西へ」。バスは田村市方面へ向か

いました。この時点でも、バスに乗った町民を含め、まだ、深

刻な状況を理解していませんでした。せいぜい1~2日程度、

安全が確認されるまでの一時避難だと感じていました。

しかし、運転手との次の会話で、非常事態であることに気づか

されました。「何時に茨城を出て来たのですか?」「昨夜の10

時ごろに招集がかかり、11時に出発した」とのことでした。

(108p 早川良一/前・大熊中学校教頭)

  

   

2011年3月12日の朝の様子が書かれた文章を引用しました。

突然の避難指示であり、それほど長期にならないで

大熊町に戻れると思ったため、きっと持ち物も少なかった予想できます。

  

つづく

 

2020年2月28日 (金)

2020福島報告(7)中間貯蔵工事情報センターへの道で気がついたこと

  

今日は令和2年2月28日。

  

大熊町役場新庁舎と道をはさんで反対側に、

大熊町2つ目の食事処「ダイニング大川原」がありました。

Rimg2127

3月2日オープンでした。もうじきです。

だんだんにぎやかになればいいなと思います。

    

新庁舎から中間貯蔵工事情報センターに向かいました。

教えてもらったコースです。

googleマップの地図をベースに、その時のコースを

青い太線で示してみました。☟

Epson265  

このコースで気がついたことを書いてみます。

①付近では、おそらく田んぼで

稲を育てたであろう景色が見られました。

富岡町で米づくりが行われているかどうか調べました。

とみおかプラスブログ 【ふくしまプライド×富岡魂】令和元年度富岡の米作りスタート【富岡町の農業2019】

☝ ここから一部引用します。

   

本年(2019年)の富岡町の米作りが本格的にスタートしました。

今日から田植えがはじまりました!

(中略)

福島県内全域でお米は全量全袋検査を行い、

安全性が保証されています。

富岡町も長年の試験栽培・実証栽培を経て、

やっと市場にお米を販売できるようになったのです。

  

 

大熊町より一足先に富岡町のお米は販売が始まったのですね。

大熊町も続くといいです。

  

   

②の場所付近で、この看板を再び見ました。☟

Rimg2131_2

Rimg2131_3

これから向かう先が帰還困難地区だとわかりました。

緊張せざるをえない看板です。

  

  

中間貯蔵工事情報センターの帰りも同じコースでしたが、

帰還困難地区内の③付近で撮影した写真です。☟

Rimg2144_2

Rimg2145_2  

9年前にたいへんなことが起きたんだと、

自動車で走りながら感じました。

今頃。

   

  

  

  

福島報告(6)でも、福島県のお米について書きました。

今日(2月28日)朝日新聞朝刊に次のような記事がありました。

Epson264  

福島県に実際に行ったので、

福島県の記事に目が留まります。

「特産のコメ」に注目です。

風評にまどわされずに、福島のお米を食べてみたいです。

「コシヒカリ」はもちろん「天のつぶ」というのも

おいしそうです。

  

20200225鍵掛山登山② コケに覆われた橋・階段/今も残る看板/45分急降下 

  

今日は令和2年2月28日。

  

前投稿の続きです。

  

林道を離れて山道に入りました。

よく見ると道があるようなところを歩きました。

 

コケに覆われた橋。☟

Rimg2143

コケに覆われた階段。☟

Rimg2144

Rimg2145  

滅多に人が通らないことを物語っています。

でも遠い過去に、ここに橋を架け、階段を作った人がいるんだよなあ。

登山者? 林業の人?

どんな人だろう?

そんなことを思って登りました。

  

12時22分に鍵掛山の頂上に出ました。

Rimg2149  

1時間37分かかって頂上にたどり着きました。

  

見晴らしのない所を歩いてきたので、

開放的な頂上は気持ちがよかったです。

ちょうど座りやすい石の上に腰をおろして、

Kさんとコーヒーを飲みました。

曇りがちの日でしたが、十分に汗をかきました。

  

頂上の足元にあったこの看板。☟

Rimg2148   

1999年発刊の「愛知の130山」(あつた勤労者山岳会編/

風媒社)に写真が載っていました。☟

Epson262 撮影日は1998年5月5日とありました。

22年の月日で黒い字はしっかり残っていて判読可能ですが、

赤字のところは褪せてしまい、山名・年月日がよくわかりません。

   

199▢.11.19.(または17)

  

しまったなあ、よく見てくればよかったです。

▢の部分の数字がわかりません。

きっと実物を見たら判読できたと思います。

0~7のどれかです。

後悔先に立たず。

  

頂上の雰囲気も22年前とは違います。

当時よりも今は”樹木に囲まれた感”がありました。

22年前の方がより開放感があるようです。

  

  

下山。

ほぼ45分で駐車場まで急降下でした。

☟ こんな岩場もありましたが・・・

Rimg2154

ほとんどがふかふかの土壌でした。☟

Rimg2155   

ふかふかの土壌を足でギュッと踏んづけるのはとても気持ちがいいです。  

時には木につかまり、時には両手を地面につきながら、

どんどん下がっていきました。

どこに足を置いたらいいか、

コースは正しいか、目印のリボンはどこだ。

雨上がりだったので、根っこが滑るので注意。

スリルを感じました。

下りなのに、すごく汗をかきました。

やっぱり登山は面白いと再認識しました。

 

ここがゴール直前。☟  ここも滑りました。

Rimg2157 

 

  

ゴール!

Rimg2159

この日は、私たちだけだったようです。

  

帰路、新城市の石雲寺によって、セツブンソウを見ました。

今年は暖冬のためか、すでに花はありませんでした。

Rimg2163  

諦めかけたら、Kさんが咲いているのを発見。

Rimg2164  

撮影直後に、ネコが飛び出てきてビックリ。

Rimg2166   

  

今度こそ、休職中最後の登山でした。

   

20200225鍵掛山登山① 林道/渓谷美/切り通し

  

今日は令和2年2月28日。

  

まだ登山をしているのと言われそうです。

本格的に復職プログラムを始める日が、

少しずつ後ろに移動しています。

2月12日が2月25日に変更。

2月25日が3月2日に変更。

これで本決まりでしょう。

と、思ったら、

昨晩、安倍首相の3月2日からの小中学校休校要請。

いろいろなことが起こります。

大川入山登山が最後と思っていましたが、

間隙を縫って、山仲間のKさんに案内してもらって、

新城市の鍵掛山を登ってきました。

  

この山は「愛知の130山」(あつた勤労者山岳会編/風媒社)で

紹介されている山ですが、まだ登っていませんでした。

国土地理院の地図でコースを示します。

Epson263  

大島橋のたもとにある駐車場に車を置いて出発です。

出発はゆっくり目の午前10時45分でした。

Rimg2119   

湖面も物音も静かでした。☟

Rimg2122_2

  

最初は林道歩きですが、その林道は荒れていました。☟

Rimg2125

Rimg2137

Rimg2138

Rimg2136  

この林道は平成16年にできています。

まだ16年しか経っていませんが、

おそらく自動車は走行不可能でしょう。

  

そんな林道ですが、目をひくものが2つありました。

1つは渓谷美。

Rimg2131

登山道からだと樹木に隠れていた滝を、

河原に下りて撮影しました。☟

Rimg2133  

名もないような滝だと思いますが、見ごたえがありました。

  

もう1つが、切り通しです。

岩石を削って道が造られているところが見事でした。

Rimg2126

Rimg2132  

どのような重機を使って削ったのだろうと思います。

 

45分ほど歩くと、林道の三叉路に行きつきます。

ここを左折して、登ります。

Kさんがここに標識をつけました。

Rimg2139

Rimg2140

Rimg2142   

つづく

旧名鉄小坂井支線の痕跡を確認

令和2年2月28日。

   

旧名鉄小坂井支線について以前書きました。

ここでも道草 「名鉄ディープ」③ 名鉄豊川線の歴史/名鉄小坂井支線の痕跡(2020年2月7日投稿)

11  

旧名鉄小坂井支線の痕跡を残す、曲線部分を見に行ってきました。

12a

☝ 黄色の丸の部分に立って、西方向を向いて撮った写真が下です。

Img_0732a

☝ ねえ、右に曲がっているのがわかると思います。

さらにこの写真の黄色丸まで行って撮影したのが次の写真。

Img_0733a  

さらに黄色丸まで行って撮ったのが次の写真です。

Img_0734

 右へゆるく曲がっていくのがわかりました。

旧名鉄小坂井支線の痕跡は、残っていたのです。

こういうの楽しくなります。

最近の写真

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楽餓鬼

今日はにゃんの日

いま ここ 浜松

がん治療で悩むあなたに贈る言葉