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2020年2月 7日 (金)

「名鉄ディープ」③ 名鉄豊川線の歴史/名鉄小坂井支線の痕跡

 

今日は令和2年2月7日。

  

前記事に引き続き、

名鉄沿線ディープなふしぎ発見」(小林克己著/

じっぴコンパクト新書)より引用します。

 

もうひとつ、書き留めておきたい話があります。

名鉄豊川線の歴史です。

 

この地図を見てください。

Epson243  

1939(昭和14)年に豊川海軍工廠ができたときには、

名鉄豊川線はできていませんでした。

   

豊川海軍工廠で働く彼らは、通勤に不便を感じていた。当時、

豊川一帯には、豊橋駅と長野県の辰野駅をつなぐ国鉄(現・J

R)飯田線しかなく、名古屋方面から通う場合は、名鉄の名古

屋本線で豊橋駅や伊奈駅へ至り、そこから飯田線へ乗り換える

という、遠回りになるルートで通勤していた。また御油駅と国

府駅から直通バスも出ていたが、ガソリン不足のなか頻繁に走

ることなく、通勤者は不便を強いられていた。

そこで海軍は、名鉄の路線から海軍工廠の正門前につながる路

線「豊川市内線」の新設を名鉄に要請したのである。

(38p)

  

伊奈駅と小坂井駅をつなぐ名鉄小坂井支線。

今はもうないのですが、痕跡が残っていないか、

グーグルアースで見てみました。

グーグルアース 伊奈駅ー小坂井駅

11  

痕跡が見えますよね。

こんな感じに。☟

11_2  

曲線部分をアップにしてみます。☟

12  

中央の縦の道はよく通る道です。

曲線の部分の路地に、次回は入ってみようかなと思います。

  

  

話を戻します。

海軍に要請された名鉄は次のように動きます。

  

だが1943年は太平洋戦争の真っただ中である。戦時体制が

強化されるなか、新しく鉄道を敷設するための資材など入手困

難な状況だった。しかし、軍部の要請を受けたからには従うし

かない。名鉄は碧西(へきさい)線(新安城~西尾~吉良吉田

間)のレールを転用。また揖斐線や谷汲(たにぐみ)線の車両

や渥美線の天白変電所の設備を使うなど、四苦八苦しながら

1945年に国府~市役所前(現・諏訪町)間の4.4キロメ

ートルの豊川市内線を開通させたのである。

(38p)

 

まずは国府~諏訪町(旧市役所前)がつながったことを知りました。

駅を降りて、たくさんの人たちが、豊川海軍工廠まで歩く姿が

目に浮かびます。

続きです。☟

  

こうして軍部の要請によって半ば無理やり敷設された豊川市内

線だったが、終戦によって違った性格の路線となる。

目的地だった豊川海軍工廠は8月7日の爆撃によって壊滅状態

となり、戦後は再建されなかった。跡地は自衛隊駐屯地や企業

の工場などに転用された。

そこで名鉄は1954(昭和29)年、工員輸送がおもな役割

だった豊川市内線を、豊川稲荷への参詣路線へと位置づけを変

えた。5年後には諏訪町~稲荷口間が開業。同年末には稲荷口

~新豊川(現・豊川稲荷)間を延伸し、豊川線と改称したので

ある。

この延伸線の開業により、豊川稲荷への参詣には、従来の飯田

線ルートに新たなアクセスルートが加わった。これによって、

初詣などの混雑が分散される効果が生み出されたのである。

(38~39p)  

  

  

66年前のこと。

名鉄豊川線はこうして誕生したのですね。

豊川海軍工廠が、というか戦争がきっかけになりました。

戦争は無理を通すところあり。

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