« 2019年8月 | メイン | 2019年10月 »

2019年9月

2019年9月25日 (水)

「トムとジェリーとクラシック」その3/14秒間のディテール・シート

 

今日は令和元年9月25日。

   

9月6日に「ららら♪クラシック 

トムとジェリーとクラシック おかわり」が

放映されました。

Rimg2121

4月に放映された番組の続編です。

番組を大雑把に紹介していきます。

  

「トムとジェリー」の音楽担当を復習。

Rimg2122

スコット・ブラッドリーです。

   

「トムとジェリー」が緻密な協議を重ねながら、

音楽と映像の制作が同時に進行したと昨日書きました。

その証拠が示されました。☟

Rimg2125

Rimg2126

☝ ディテール・シートと言います。実物のコピーです。

Rimg2127

☝ このシートにカメラ・アクション・サウンドが書かれています。

翻訳版です。☟

Rimg2131  

「トムとジェリー」は1秒間に24コマで制作されているそうです。

サウンドのところに書かれている数字はコマ数です。

緻密に作られたシートであるとわかります。

Rimg2133

☝ このシートを元にオーケストラ編曲や録音、作画などの

アニメ制作が個別に進められ、持ち寄って作品ができるわけです。

6分ほどの番組が2週間ごとに制作されたそうです。

 

ちなみに、紹介されたシートで制作されたシーンは、

「滅茶苦茶ゴルフ」(1945年)の中の、

ジェリーがゴルフボールをうち、

トムがボールを飲み込まされて、

怒ったトムがジェリーを追いかけるも、

クラブによって滅多打ちされるところです。

(ふー、長い説明ですみません)

Rimg2128

Rimg2129  

この動画の中にある4分36秒から4分50秒までの

14秒間です。☟

 

つづく

 

2019年9月24日 (火)

「トムとジェリーとクラシック」その2/演奏に合わせた驚異的な作画

  

今日は令和元年9月24日。

  

前投稿に引き続き、4月5日放映の「ららら♪クラシック 

トムとジェリーとクラシック」より。

  

「トムとジェリー」は、通常、音楽と映像が同時に制作されます。

そんな中、異例で音楽が先にできて、映像がその音楽に精密に

合わせたのが、「ピアノ・コンサート(The Cat Concerto)」

1947年の作品です。

「ららら♪クラシック」の映像の写真を並べます。☟

Rimg2062

Rimg2063

☝ 驚異的な作画だそうです。

ピアノの鍵盤を押すのと音楽が一致するのです。

  

ジェリーがなかなか登場しません。

何と、ジェリーは、トムがひくピアノの中に住んでいました。☟

Rimg2064

Rimg2065

Rimg2066  

いろいろあって、トムはこうなります。☟

Rimg2067  

ラストはこうなります。☟

Rimg2068  

音楽視点で今一度見てみませんか。☟

「トムとジェリーとクラシック」その1/楽音で表現していた

 

今日は令和元年9月24日。

  

今年4月5日放映の「ららら♪クラシック 

トムとジェリーとクラシック」を見ました。

おなじみのアニメ「トムとジェリー」を音楽視点で

あらためて見るのは面白い体験でした。

  

「トムとジェリー」の音楽担当は、スコット・ブラッドリー

Rimg2070  

ブラッドリーは、効果音を使うことを好まず、

オーケストラによる楽器の音「楽音」を使って表現しようとしました。

Rimg2071

通常「トムとジェリー」では、緻密な協議を重ねながら、

音楽と映像の制作が同時に進行したそうです。

既にあるクラシック曲も使いましたが、

ブラッドリーは次々に新しい曲を作曲したそうです。

Rimg2069  

例えば・・・

Rimg2072

☝ 「2匹のネズミの足音の違いをバイオリンのピチカートと

フルートで」 ピチカートが分からず。調べたら、弦を指ではじくこと

によって音を出す演奏技法だそうです。

幸運なことに映像を見ることができます。

写真のシーンを確かめてみてください。☟

 

例えば・・・

Rimg2073

☝ 「布の伸縮 落下 トムの気づき 悪だくみなど演奏で

細かく表現されている

これも映像で確かめてみてください。☟

 

「トムとジェリー」は普通は6分間ほど。長くて7分だそうです。

思ったより短い時間だと思いましたが、

音楽の工夫が盛りだくさんだったことを知りました。

音楽が聴きごたえがあるために、長く感じたのかな。

 

つづく

 

 

2019年9月23日 (月)

「空知」の語源を最近読んだぞ

  

今日は令和元年9月23日。

  

今日は、妹が帰省して、私への手土産はビールでした。

秋味」6本と、その他いろいろなビールをもらいました。

その中の1本の写真。☟ メーカーはSAPPOROです。

Rimg2058 

最近は北海道開拓がマイブームなので、

北海道に関するものは好奇心のアンテナに引っかかります。

「SORACHI」「空知」「そらち」「ソラチ」

口に出すといい響きの地名です。

私はホップよりも、この地名のいわれに関心を持ちました。

 

と言うより、最近この「空知」の語源について読んだぞと

思い出しました。

今読んでいる本「広野の旅人たち 新十津川物語2

(川村たかし著/偕成社)をペラペラめくりました。

あった。

   

滝川はもとソウラップチプトとよんだ。アイヌ語による。

ソウは滝、ラプッチは水のおちることをあらわし、

プトは川の合流するところ。

発音を漢字にあてて空知太(そらちふと)となり、

意訳して滝川(たきかわ)と名づけた。

(91p)

    

  

この説明は部分的に使えます。

「空知」の語源は、アイヌ語の「ソウラップチ」

(滝・水のおちるところ)となります。

ちなみに空知郡の中に滝川市があります。

 

前投稿の京都に続いて、北海道ネタでも偶然がありました。

良い晩です。

今からドラマ「監察医 朝顔」の最終回を見ます。

宇治田原町マンホールカード入手

  

今日は令和元年9月23日。

  

娘に頼まれてマンホールカードを初めて入手しました。

Epson104  

かつてデザインマンホールに凝ったことがある身としては、

気になっていたカードです。

あんだんべぇー マンホールカードとは?

☝ このサイトによると、マンホールカードは2016年4月から

配布が始まったもので、年々発行している自治体が増えているそうです。

2019年8月7日現在、種類は全国で539種類、

454の自治体が発行しています。

そんな中の1枚です。

  

京都府綴喜郡宇治田原町。

そもそもこの郡名と町名を正しく読めますか。

私は全く自信がなく、調べました。

「つづきぐん うじたばらちょう」でした。

平等院のある宇治市のすぐ隣。

カードの裏面には次のような説明がありました。

 

お茶の産地として名高く、

日本緑茶発祥の地としても知られる宇治田原町。

まちづくりの上で、お茶を産業のひとつとして

捉えるだけでなく、文化振興や地域産業の活性化の

ツールとしても活用を図っています。

本カードのデザインは、1997年に制作しました。

茶摘みの様子を蓋いっぱいに描き、

将来にわたって変わらぬ景観を残していきたいという

町の想いを表現しました。

お米の収穫時期は5月で、新緑の中、

町内のいたるところで茶摘みが行われます。

茶摘み体験交流会では茶娘衣装の貸し出しもされており、

運が良ければこのマンホール蓋のデザインさながらの

光景に出逢えるかもしれません。

 

 

「日本緑茶発祥の地」と言えば永谷宗七郎(宗円)。

※参考:ここでも道草 5月17日は「お茶漬けの日」/お茶で教材研究(2019年5月16日投稿)

以前勉強した人と繋がりました。

永谷園の創始者永谷宗七郎さんが生まれた地だったのですね。

この偶然が楽しい。 

2019年9月22日 (日)

20190917報告 再び鳳来寺山へ

  

今日は令和元年9月22日。

  

再び鳳来寺山へ行ってきました。

今回は階段を登って本殿へ。

そして前回に行かなかった東照宮で参拝してきました。

その時の写真です。

  

登山口。今回もいい雰囲気で迎えてくれました。☟

Rimg2051  

傘すぎ。看板には樹齢800年とあります。☟

Rimg2054_2

Rimg2054_3

その看板が作られたのが平成2年。

そうなると、樹齢は現在830年くらいでしょうか。

 

 

今回はここで休憩しました。☟

Rimg2056_2  

 

50分ほどで本殿へ。

前回(9月11日)は蒸し暑い日で、ヘトヘトでしたが、

今回は涼しくて楽でした。

本殿裏手にある階段で、

前回から気になっていたものがありました。

「あれは、つぶれたヒルだったのか?」

確かめに行きました。

これです。☟

Rimg2057

これは種子ですね。

前回はヘトヘトでちらっとしか見ていませんでした。

今回はじっくり見ました。

ヒルではありませんでした。

ああよかった。

同じ新城市の明神山ではヒルがいると聞きました。

鳳来寺山に2回登りましたが、

今のところヒルに出合っていません。

☟ ここでヤマビルの勉強。

ヤマビル研究会

この動画もよかったら。ただし、虫が苦手な人はやめた方がいいです。

Photo

 

東照宮です。☟

Rimg2060

Rimg2061

   

今回も森の中で、汗びっしょりになって、

フィトンチッドをしっかり吸ってきました。

「北へ行く旅人たち」その2/十津川郷士 囚人による開拓

  

今日は令和元年9月22日。

  

前投稿に引き続き

北へ行く旅人たち ~新十津川物語1~

(川村たかし著/偕成社)より引用します。 

 

  

もう二十二、三年もまえ、官軍は京都から越後へ出て

長岡城を攻めた。北越戦争のそのとき、

十津川兵二百人が出撃したが、死傷は八十一人にたっした。

それほどの激戦だった。

十九歳だった壮一郎も刀をふりまわして戦ったひとりだ。

この家の留造(とめぞう)も輜重隊(しちょうたい)という

荷物はこびとして戦いにくわわっている。

ふたりともふしぎにかすり傷ひとつせずに生きのびた。

十津川郷士たちは、菱形の中に十の字をつけた旗印をつけていた。

はじめは丸に十の字だったが島津が同印なので、

同じ官軍の中ではまちがわれやすい。

朝廷のさしずで旗印をあらためた。

禁裏(きんり)から旗印をいただいたものもすくないことだろう。

天皇の近衛兵をもって任ずる〈菱十〉の集団は、

命しらずの戦いぶりをしたことになる。

(68p)

  

世の中には知らないことがたくさんあります。

それらを全て知ろうなどとは思いません。

それでも、出合った事象については、

噛みしめるように知ろうと思います。

十津川郷士についてはあまり知らないことでしたが、

この記述に出合ったので勉強しました。

Wikipedia 十津川郷士

壬申の乱、平治の乱でも出兵。南北朝時代には南朝側。

勤皇の人たちであり、戊辰戦争では官軍に加わりました。

菱十字をWikipediaから転載。

175pxtotsukawa_nara_chapter  

  

 

こうして十月十八日からはじまった移民は、

二十七日までのあいだに、つぎつぎと谷を出ていった。

はじめは二千六百九十一人が願書(ねがいしょ)をだしたが、

このとき出かけた者は六百戸、二千四百八十九人だった。

辞退する者があったからだ。

つづいてよく二十三年七月、四十戸、百七十八人が

北国をめざして海をこえた。

総計で二千六百六十七人が十津川をはなれたことになる。

これは村の人口のほぼ三分の一にあたる。

谷はにわかにさびれる。

(104p)

 

大水害に遭ってから、2カ月で移住が始まったわけです。

この決断は苦しかったとと想像します。

明治22年。西暦で1889年。

今から130年前の10月のことです。

  

  

この時期、月形(つきがた)村にある

樺戸(かばと)集治監(しゅうちかん)には、

二千四百人にちかい囚人が集められていた。

大正九年の獄舎が網走へうつっていくまでの五十年あまりのあいだ、

月形には日本最大の刑務所があったことになる。

中でも、この明治二十二年はもっとも人数がおおかった。

前年にくらべて、九百人がいっぺんにふえていた。

設備がととのったので、内地からぞくぞくとおくりこまれてきたのだ。

囚人は男ばかりで、石炭の採掘と道路の開通工事にしたがっていた。

(121p)

  

私にとって網走刑務所は有名ですが、

月形刑務所については全く知りませんでした。

囚人を労働力として、開拓に従事させている様子は、

この小説の中で多く描かれています。

  

道は雨がふるとたちまちぬかるみとなった。

排水工事までは手がまわらないせいだ。

雪どけはとくにひどかった。

補修がくりかえされた。

囚人たちは泥の中を、ときには腰までうまって杭をうち、

板をならべた。あまりに労働がはげしかったので、

あっけないほどもろく死んでいく。

中には逃亡する者もあったが、方向がわからず、

食べものもなくてにげきれなかった。

死んだあとには新しい囚人がおくられてきた。

北海道の開発はまず道をつけることからはじまったが、

その道はところによっては一メートルにひとりというほど

囚人たちの命をすいとっている。

(122p)

  

囚人の開拓の歴史にも興味をもちました。

小説「石狩川」「石狩平野」には書かれていなかった歴史です。

  

  

まちかねた入植の日が来た。(中略)

くじびきで割りあて地もきまっていた。

一戸あたり均等に一万五千坪(約五ヘクタール)。

アイヌ名でトックとよばれる樹海は、

無人のまま新十津川村と名づけられていた。

(168~169p)

  

Wikipedia 新十津川町によると、正式に新十津川村になったのは

明治35年のことです。

でもこの小説によると、明治23年にはあらかじめその村名が

ついていたようです。どうなんだろう?

  

  

以上で、「北へ行く旅人たち ~新十津川物語1~」の引用終了。

最後に挿絵の写真を載せちゃいます。

鴇田幹(ときたかん)さんの絵です。

魅力的な絵です。

囚人の前田恭之助が、主人公の津田フキを

肩に載せて歩いているシーンです。177p

Epson103

「北へ行く旅人たち」その1/台風の被害で北海道移住を決意した人たち

今日は令和元年9月22日。

  

また北海道開拓に関する本を読みました。

51aqin7yuxl amazon

北へ行く旅人たち ~新十津川物語1~

(川村たかし著/偕成社)

  

奈良県の十津川村が、明治22年に大水害に遭い、

多くの人命や家屋、畑、山林が失われました。

残された村人の3分の1が、新天地北海道に

移住をすることを決めます。

苦労の末に北海道に行きつき、仮住まいで冬を過ごします。

春になって、割り当てレれた場所での開墾がスタート。

そこはクマザサと樹木に覆われた場所でした。

移住者は少しずつ土地を切り開いていきました。

  

印象に残った文章を書き留めます。

  

明治22年8月18日~19日に十津川村には大雨が降りました。

Wikipeia 十津川水害によると、この大雨は台風のためでした。

登場人物は「天の池がこわれた」と表現していました。

台風という言葉は出てきません。

当時、台風が接近して風雨が強まるといった予報は

なかったかと思います。

水分を多く含んだ山は、次々に崩れ、崩れた土砂が川をせき止めて

湖を作りました。

その湖の水圧に負けて、せき止めていた土砂が崩れると、

土石流となって川下の人たちを襲っていました。

  

川津では、堰をきって流れだした神納(かんの川の水が、

いちじに鉄砲水になっておしよせてきた。

山香(やまか)直吉は流れにまきこまれて、家ごとはこびさられた。

グシャッと家がくだけたとき、妻や子どもはやっとのことで

裏山へはいあがった。にげににげた。

そのあとを水がぐんぐんせりあがった。

やっと増水がとまったので気がつくと主人のすがたがない。

直吉はだいじな書類をもちだそうとして、水にさらわれたのである。

巨大な新湖は赤土さながらふくれあがっている。

やっと水だとわかるのは、ところどころに流れがうずをまいているせいだ。

でなければ思わず足をふみこみそうになる赤い川であった。

妻も老父も腰をぬかして、ただぼんやり見まもるしかなかった。

何十という家いえの屋根や、おびただしい材木がただよっている。

たんすや机などもういている。

そのあちこちに、女や子どもがとりすがり、たすけをもとめていた。

川の中の男は水をくぐって岸に近づこうとしては、

やがて力つきてひっそりとした。

直吉の死体は三日後になって、二十メートルも高い山腹の岩かげで

発見された。

堤が切れた湖は、せめてものことに死体をそっとおいていった。

(56p)

  

平谷(ひらだに)もまたそういう支流からの水にあらわれた。

おなじように池も出現した。

下手にある猿飼(さるかい)では高さ四十メートルの湖が、

さらに下流の桑畑(くわばた)でもやっぱり新湖が

できてはくずれていった。

谷がひろくなっているとはいえ、上流のにわかづくりの湖が

くずれるたびに、ねとねとの泥水にのって材木や家が

おし流されてきた。

人間や獣の死体がぞくぞくとくだってきた。

ここではおし流された民家は六戸にとどまったが、

水につかったりほとんどこわれた家は百戸をこえる。

あたかもどぶにつかったような村を見おろしながら、

人びとは高いところへあがって、くりかえしくりかえし

はねとんでくるとほうもない鉄砲水に、ただ唖然としていた。

はじめの山くずれもだが、新湖の出現とその決壊という

二次災害がむごたらしさの幅をひろげていた。

(62p)

  

あとでわかったことだが、このとき一夜のうちに出現した

湖は三十七。

そのうちのいくつかは何年ものあいだ水をたたえていた。

小さな山くずれはかぞえきれず、幅五十間(約90メートル)を

こえる山津波は千八十か所をかぞえた。

家は全村の四分の一にあたる六百戸が、流されたりこわれたりした。

百六十八人が死んだ。

田畑にいたっては実に七十パーセントが消え去った。

十一の集落はけしとんであとかたもない。

(63p)

  

 

以前、十津川村に行ったことがあります。

その時に水害のことを聞いたことがあり、

新十津川村誕生のことも知っていました。

この小説をよみ、その歴史的なことを思い出し、

かつ、十津川村の中心街に行くまでに谷深い山道を

自動車で長く走ったことも思い出しました。

谷瀬(たにぜ)の吊り橋は、橋から谷底まで50m以上ありました。

Img_5483 十津川村観光協会HP

台風の被害が、歴史を作ったと言える出来事。

今年の台風15号も忘れられない台風となりました。

平成31年の100円玉が3つもあった

 

今日は令和元年9月22日。

  

財布の中にある100円玉が、いやにピカピカしているなと思って、

取り出して調べてみました。

何と、平成31年の100円玉が3枚もありました。

そして同じくらいに輝いていた平成30年の100円玉が1枚。

いつ財布に入って来た100円玉か、まったく覚えがありません。

写真に撮ってみました。

Rimg2054

Rimg2056  

平成31年の100円玉は、次のサイトによると約37万枚作られたそうです。

それがちょっと知りたい!

その他の枚数は以下の通り。

500玉は、約20万枚

50円は、約8万枚

10円は、約27万枚

5円は、約5万5千枚

1円は、約1000枚

  

注目は1円玉です。1000枚しか作られていません。

出合えたら幸運です。

 

とりあえず今回の4枚の100円玉は貯金箱に入れます。

私は5のつく日に500円以上の貯金をすることをしています。

毎年やっていて、お盆に開封。

家族にお小遣いとしておすそ分けしています。

まもなく25日なので、その日に貯金箱に入れておきます。

2019年9月21日 (土)

「がんになって良かった」その5/若者たちはつながりながら今を闘っている

  

今日は令和元年9月21日。

  

前投稿に引き続き、9月16日に放映された

ひとモノガタリ ”がんになって良かった”と

言いたい ~京大生のSNS闘病記~」の

読み物化をしていきます。

  

 

〇7月初旬、山口雄也さんはシーフードヌードルを

 おいしそうに食べる。病院食以外のものを

 食べる許可が出たのである。

〇青田チヨ子さんのブログを読む山口さん。

 青田さんは、移植手術を目前にして不安な気持ちを

 マンガにして発信していた。

Rimg2104

Rimg2105  

〇山口さんは、青田さんの不安を和らげるために、

 自身の経験を伝えた。☟

 ホッとパックを使うことで、術後の痛みを軽くできる。

Rimg2106

〇8月中旬山口さん退院。退院する時の自動車の中の映像。

 映し出されたセリフが印象に残った。☟

Rimg2108

Rimg2109  

白血病は10代・20代が多くかかるのですね。酷な病気です。

でもこの番組で、「若者たちはつながりながら今を闘っている」

その姿を垣間見ることができました。

SNSやブログでつながることは、支え合うことになるのです。

   

〇2週間更新がなかった、青田チヨ子さんのSNSが更新された。

 チヨ子さんの夫が更新したものだった。

Rimg2110

Rimg2111

Rimg2112  

〇青田チヨ子さんは、副作用が死につながってしまった。

 2018年12月1日に急性骨髄性白血病と診断され、

 8月20日に亡き人となる。

  

〇番組のラストはこのシーン。☟

Rimg2115  

 

以上で読み物化、完了。

最近の写真

  • Img_5463
  • Img_5462
  • Img_5461
  • Img_5392
  • Img_5391
  • Img_5390
  • Img_5386
  • Img_5384
  • Img_5383
  • Img_5382
  • Img_5376
  • Img_5373

楽餓鬼

今日はにゃんの日

いま ここ 浜松

がん治療で悩むあなたに贈る言葉