「北へ行く旅人たち」その1/台風の被害で北海道移住を決意した人たち
今日は令和元年9月22日。
また北海道開拓に関する本を読みました。
「北へ行く旅人たち ~新十津川物語1~」
(川村たかし著/偕成社)
奈良県の十津川村が、明治22年に大水害に遭い、
多くの人命や家屋、畑、山林が失われました。
残された村人の3分の1が、新天地北海道に
移住をすることを決めます。
苦労の末に北海道に行きつき、仮住まいで冬を過ごします。
春になって、割り当てレれた場所での開墾がスタート。
そこはクマザサと樹木に覆われた場所でした。
移住者は少しずつ土地を切り開いていきました。
印象に残った文章を書き留めます。
明治22年8月18日~19日に十津川村には大雨が降りました。
※Wikipeia 十津川水害によると、この大雨は台風のためでした。
登場人物は「天の池がこわれた」と表現していました。
台風という言葉は出てきません。
当時、台風が接近して風雨が強まるといった予報は
なかったかと思います。
水分を多く含んだ山は、次々に崩れ、崩れた土砂が川をせき止めて
湖を作りました。
その湖の水圧に負けて、せき止めていた土砂が崩れると、
土石流となって川下の人たちを襲っていました。
川津では、堰をきって流れだした神納(かんの川の水が、
いちじに鉄砲水になっておしよせてきた。
山香(やまか)直吉は流れにまきこまれて、家ごとはこびさられた。
グシャッと家がくだけたとき、妻や子どもはやっとのことで
裏山へはいあがった。にげににげた。
そのあとを水がぐんぐんせりあがった。
やっと増水がとまったので気がつくと主人のすがたがない。
直吉はだいじな書類をもちだそうとして、水にさらわれたのである。
巨大な新湖は赤土さながらふくれあがっている。
やっと水だとわかるのは、ところどころに流れがうずをまいているせいだ。
でなければ思わず足をふみこみそうになる赤い川であった。
妻も老父も腰をぬかして、ただぼんやり見まもるしかなかった。
何十という家いえの屋根や、おびただしい材木がただよっている。
たんすや机などもういている。
そのあちこちに、女や子どもがとりすがり、たすけをもとめていた。
川の中の男は水をくぐって岸に近づこうとしては、
やがて力つきてひっそりとした。
直吉の死体は三日後になって、二十メートルも高い山腹の岩かげで
発見された。
堤が切れた湖は、せめてものことに死体をそっとおいていった。
(56p)
平谷(ひらだに)もまたそういう支流からの水にあらわれた。
おなじように池も出現した。
下手にある猿飼(さるかい)では高さ四十メートルの湖が、
さらに下流の桑畑(くわばた)でもやっぱり新湖が
できてはくずれていった。
谷がひろくなっているとはいえ、上流のにわかづくりの湖が
くずれるたびに、ねとねとの泥水にのって材木や家が
おし流されてきた。
人間や獣の死体がぞくぞくとくだってきた。
ここではおし流された民家は六戸にとどまったが、
水につかったりほとんどこわれた家は百戸をこえる。
あたかもどぶにつかったような村を見おろしながら、
人びとは高いところへあがって、くりかえしくりかえし
はねとんでくるとほうもない鉄砲水に、ただ唖然としていた。
はじめの山くずれもだが、新湖の出現とその決壊という
二次災害がむごたらしさの幅をひろげていた。
(62p)
あとでわかったことだが、このとき一夜のうちに出現した
湖は三十七。
そのうちのいくつかは何年ものあいだ水をたたえていた。
小さな山くずれはかぞえきれず、幅五十間(約90メートル)を
こえる山津波は千八十か所をかぞえた。
家は全村の四分の一にあたる六百戸が、流されたりこわれたりした。
百六十八人が死んだ。
田畑にいたっては実に七十パーセントが消え去った。
十一の集落はけしとんであとかたもない。
(63p)
以前、十津川村に行ったことがあります。
その時に水害のことを聞いたことがあり、
新十津川村誕生のことも知っていました。
この小説をよみ、その歴史的なことを思い出し、
かつ、十津川村の中心街に行くまでに谷深い山道を
自動車で長く走ったことも思い出しました。
谷瀬(たにぜ)の吊り橋は、橋から谷底まで50m以上ありました。
台風の被害が、歴史を作ったと言える出来事。
今年の台風15号も忘れられない台風となりました。
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