「北へ行く旅人たち」その2/十津川郷士 囚人による開拓
今日は令和元年9月22日。
前投稿に引き続き
「北へ行く旅人たち ~新十津川物語1~」
(川村たかし著/偕成社)より引用します。
もう二十二、三年もまえ、官軍は京都から越後へ出て
長岡城を攻めた。北越戦争のそのとき、
十津川兵二百人が出撃したが、死傷は八十一人にたっした。
それほどの激戦だった。
十九歳だった壮一郎も刀をふりまわして戦ったひとりだ。
この家の留造(とめぞう)も輜重隊(しちょうたい)という
荷物はこびとして戦いにくわわっている。
ふたりともふしぎにかすり傷ひとつせずに生きのびた。
十津川郷士たちは、菱形の中に十の字をつけた旗印をつけていた。
はじめは丸に十の字だったが島津が同印なので、
同じ官軍の中ではまちがわれやすい。
朝廷のさしずで旗印をあらためた。
禁裏(きんり)から旗印をいただいたものもすくないことだろう。
天皇の近衛兵をもって任ずる〈菱十〉の集団は、
命しらずの戦いぶりをしたことになる。
(68p)
世の中には知らないことがたくさんあります。
それらを全て知ろうなどとは思いません。
それでも、出合った事象については、
噛みしめるように知ろうと思います。
十津川郷士についてはあまり知らないことでしたが、
この記述に出合ったので勉強しました。
壬申の乱、平治の乱でも出兵。南北朝時代には南朝側。
勤皇の人たちであり、戊辰戦争では官軍に加わりました。
菱十字をWikipediaから転載。
こうして十月十八日からはじまった移民は、
二十七日までのあいだに、つぎつぎと谷を出ていった。
はじめは二千六百九十一人が願書(ねがいしょ)をだしたが、
このとき出かけた者は六百戸、二千四百八十九人だった。
辞退する者があったからだ。
つづいてよく二十三年七月、四十戸、百七十八人が
北国をめざして海をこえた。
総計で二千六百六十七人が十津川をはなれたことになる。
これは村の人口のほぼ三分の一にあたる。
谷はにわかにさびれる。
(104p)
大水害に遭ってから、2カ月で移住が始まったわけです。
この決断は苦しかったとと想像します。
明治22年。西暦で1889年。
今から130年前の10月のことです。
この時期、月形(つきがた)村にある
樺戸(かばと)集治監(しゅうちかん)には、
二千四百人にちかい囚人が集められていた。
大正九年の獄舎が網走へうつっていくまでの五十年あまりのあいだ、
月形には日本最大の刑務所があったことになる。
中でも、この明治二十二年はもっとも人数がおおかった。
前年にくらべて、九百人がいっぺんにふえていた。
設備がととのったので、内地からぞくぞくとおくりこまれてきたのだ。
囚人は男ばかりで、石炭の採掘と道路の開通工事にしたがっていた。
(121p)
私にとって網走刑務所は有名ですが、
月形刑務所については全く知りませんでした。
囚人を労働力として、開拓に従事させている様子は、
この小説の中で多く描かれています。
道は雨がふるとたちまちぬかるみとなった。
排水工事までは手がまわらないせいだ。
雪どけはとくにひどかった。
補修がくりかえされた。
囚人たちは泥の中を、ときには腰までうまって杭をうち、
板をならべた。あまりに労働がはげしかったので、
あっけないほどもろく死んでいく。
中には逃亡する者もあったが、方向がわからず、
食べものもなくてにげきれなかった。
死んだあとには新しい囚人がおくられてきた。
北海道の開発はまず道をつけることからはじまったが、
その道はところによっては一メートルにひとりというほど
囚人たちの命をすいとっている。
(122p)
囚人の開拓の歴史にも興味をもちました。
小説「石狩川」「石狩平野」には書かれていなかった歴史です。
まちかねた入植の日が来た。(中略)
くじびきで割りあて地もきまっていた。
一戸あたり均等に一万五千坪(約五ヘクタール)。
アイヌ名でトックとよばれる樹海は、
無人のまま新十津川村と名づけられていた。
(168~169p)
Wikipedia 新十津川町によると、正式に新十津川村になったのは
明治35年のことです。
でもこの小説によると、明治23年にはあらかじめその村名が
ついていたようです。どうなんだろう?
以上で、「北へ行く旅人たち ~新十津川物語1~」の引用終了。
最後に挿絵の写真を載せちゃいます。
鴇田幹(ときたかん)さんの絵です。
魅力的な絵です。
囚人の前田恭之助が、主人公の津田フキを
肩に載せて歩いているシーンです。177p
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