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2019年6月

2019年6月22日 (土)

4年ぶり・・・6月21日「世界ALSデー」 6月22日「夏至」

今日は令和元年6月22日。

  

6月21日は「世界ALSデー」でした。

ただ、調べていくと、「ALS/MNDグローバルデー」という名称も

使われているようです。

ALSは、なかなか覚えられませんが、「筋萎縮性側索硬化症」

MNDは「運動ニューロン疾患」を指します。

ALSに特に関心をもつ日としたいです。

夏至が今日。6月22日。

この並びは、4年前にありました。

6月21日「世界ALSデー」 6月22日「夏至」(2015年6月21日投稿)

  

今回調べていて、次のアプリに注目しました。

Photo

Photo_3 コエステーション

指定された文章を読むことで、

文章を自分の声で呼んでくれるアプリ。

そういうものがあるというの聞いていましたが、

アプリとして手に入れることができるのですね。

ALS患者は、治療の中で声が出せなくいなってしまいます。

でもこのアプリを使って、その人の声が聞けるというのは、

まわりの人たちにとっても、もちろん本人もいいことだと思います。

夏至についてですが、

これからしばらくは6月21日が続きます。

6月21日以外が夏至になるのは、

ぐっと間が空いて

2056年が6月20日です。

95歳。

2060年も6月20日です。

99歳。

そして2061年7月28日。ハレー彗星接近。

100歳。

そこまで生きたいね。ボケずに、ハレー彗星を確認したい。

2019年6月21日 (金)

「収容所から来た遺書」6/2002年「知ってるつもり!?」

  

今日は令和元年6月21日。

  

前投稿に続く内容です。

山本幡男さんに関するもう1本の映像。

それはこれです。↓ DVDでの保存です。

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知ってるつもり!? 収容所からの遺書リレー

 海を越えた奇跡 山本幡男」(2002年2月24日放映)

こちらも昨晩見てみました。

こちらはあまり覚えがないので、

録画したまま見損なっていたかもしれません。

この番組の写真も並べていきます。

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この収録は舞鶴で行われていました。

  

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前投稿にも佐藤清さんの描いた絵を載せました。

この記事にも載せます。

佐藤清さんは2014年7月28日に

88歳で亡くなられています。

  

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なんと「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(文藝春秋)の

著者である辺見じゅんさんもゲストでした。

辺見じゅんさんについて調べてみてビックリ。

角川書店の創立者角川源義さんの長女。

角川春樹さん、歴彦さんのお姉さんでした。

辺見さんは、2011年9月21日に亡くなられています。

  

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↑山本幡男さんのシベリアからの最初のハガキ

  

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↑家族から贈られた写真

  

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1948年に、ダモイ(帰国)直前で、列車から降ろされて

軍事裁判を受けた山本幡男さん。

判決は、スパイ罪で強制労働20年。

  

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アムール句会(俳句の会)を開いていた山本幡男さん。

日本語が書いたものをもつことが禁止されていたので、

地面に俳句を書いては批評し合って、

それが終わると消していたそうです。

  

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ロシア国立軍事古文書館にある山本幡男さんのファイルに

新しく1枚加わりました。

それがこれです↓

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約21年間「積ん読」していた

収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(文藝春秋)を読んで、

過去に録画してあった2本の番組を見ました。

1本は当時見たのにしっかり頭に残っていなかったのが残念です。

でもこうやってたぐれたので(思い出せたので)、

幸運だと思いたい。

こうやってブログに掲載しとけば、「シベリア」「山本幡男」

「抑留」などのキーワードで、

過去の記事が簡単にすぐに見つけることができます。

(先日は「メロン」でたぐりました)

こういうブログの使い方、いいですよ。お薦め。

 

  

  

「収容所から来た遺書」5/1998年「驚きももの木20世紀」

 今日は令和元年6月21日。

  

前投稿で、シベリア抑留のこと、

以前に映像で見た覚えがあるが

うろ覚えだと書きました。

どんな映像だったのか、確かめました。

 

所有している映像のタイトル名で検索すると、

2本の映像がヒットしました。

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1本はビデオテープでした。

驚きももの木20世紀スペシャル~シベリアの奇跡~

収容所から届けられた6通の遺書

 (1998年10月9日放映)

1時間半の番組でした。

昨晩見始めてみました。

 

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番組が始まって、この写真を見た時に、

私はこの番組を確かに見たことを追い出し、

山本幡男さんの顔を思い出しました。

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そのまま1時間半の番組を見続けました。

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収容所(ラーゲリ)からの遺書」がベースなので

出来事をおさらいでき、本の中で出てきた様々な

人の姿がでてきて、イメージが浮かびやすくなりました。

番組の写真を並べます。

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↑ シベリア抑留体験者の佐藤清さんが描いたラーゲリ(ラーゲル)

  

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↑1日の食事量。わかりやすい。これだけだった。

  

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↑シベリア抑留者たちが歌っていた曲。

 

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山本幡男さんの遺書は、次の6人が記憶して、

家族に届けました。

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彼らは、昭和31年12月にやっと日本の地を踏めました。

 

次からは聞き書き。

 

ナレーター:大宮に移り住んでいた山本モジミの家を

  その男が訪ねたのは、昭和32年1月半ばだった。

  男は山村昌雄と名のるとこう言った。

  「私の記憶してきました山本幡男さんの言書を

   お届けにあがりました」

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  (モジミ)「記憶してきた?」「遺書?」

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  モジミが不思議そうな顔をすると、

  (山村)「どうやら私が最初に遺書をお届けしたようですね」

  男はそう言うと、晴れやかな笑顔になった。

  この瞬間、彼の長かった戦争が終わったのだ。

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思い出しました。

山村さんに始まり、次から次に人が山本家を訪ね、

ある時は郵便物で、山本幡男の遺書が家族に届くのです。

涙なくして見れないシーンでした。

 

この番組。21年前に見ています。

収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(辺見じゅん著/文藝春秋)を

読んでいる時には、漠然としか思い出せませんでしたが、

たぐれました(思い出すことができました)。

 

 

もう1本の映像は次の投稿で。

2019年6月20日 (木)

「収容所から来た遺書」4/1953年長期抑留者帰還第一次

 

 

今日は令和元年6月20日。

  

前投稿に引き続き、 

収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(辺見じゅん著/文藝春秋)より

引用します。

  

あるとき、山本(幡男)が虎林(こりん)での初年兵時代の

話をしたことがあった。(中略)

1945(昭和20)年1月、山本は部隊長室に呼び出された。

「山本二等兵は、ハルビン特務機関への配属となった。

 明朝、出発せよ」

部隊長は命令したあと、山本が満鉄調査部にいたことを知っていて、

「おめでとう、竜が雲を得たようなものだな」

と励ましてくれた。山本が去ったその翌日、

虎林の部隊は南方戦線へ移動となった。

輸送船で送られる途中、敵機の爆弾で撃沈されて

五百名の将兵は戦死してしまった。

そんな話をすると、山本は眼鏡の奥の眼をうるませていった。

「ぼくひとりだけ・・・・生き残ってしまったのですよ」

(111~112p) 

虎林は、現在の地図では、ここです。↓

Photo Yahoo!地図

   

「新妻ですぞ、なんと新妻からの手紙です」

のぞき込んだ男が声を高くしてまわりの者に伝えた。

「新妻だ」の言葉は、ひとしきり同じバラックの

仲間たちの口にのぼるようになった。

その男はもちろん他の人びとにとっても、

七年の歳月を隔ててなお新妻は「新妻」のままなのだ。

その手紙を書いた妻は、またたく間に同じ部屋の人びとの

共通の「新妻」になっていた。

(149p)

  

スターリンの死は、わずかだったが確かにラーゲリ内に

明るい雰囲気を運んだ。

日本からの小包が、とつぜん許可になった。

日本の味といえば、ラーゲリを訪れた富山県出身の

高良(こうら)とみが、郷里の留守家族たちから頼まれたといって

帰国後に一度だけ東京から山本海苔を送ってきたことがあった。

富山県出身者たちは自分たちだけで故国の味を

楽しんでは済まないといって、

みんなに少しずつ分けた。

すぐに口に入れる者はなく、みな掌のうえに乗せて眺めたり、

匂いを嗅いだり、触ったりして楽しんだ。

そのときの海苔の味が忘れられず、長谷川は句会のときなど、

「血に沃度(ようど)が急にふえたような気がしたねえ」

と、なん度も山本(幡男)たちと話したものだった。

(160p)

沃度(ようど)=ヨウ素。海藻から摂取できる物質。 

  

日本から送られてくる小包は、

人びとにもうひとつの新しい情報をもたらした。

収容所のソ連人たちは日頃、日本は不況で国民は

貧困に苦しんでいるといっていた。

しかし、送られてきた品々から祖国が想像以上に

復興している様子が感じられて話題になった。

(161p) 

  

五か月間もナホトカのラーゲリに留められていた

小高や黒田たちは、別のラーゲリからきた人びとと合流して、

(1953年)12月1日に京都の舞鶴港に上陸した。

この時の稊団長は長谷川宇一だった。

長谷川以下811名の帰還者は、長期抑留者帰還第一次と呼ばれている。

このなかには、一般邦人391名の他に、女性9名、子供1名、

病人27名がまじっており、そのうちの約300名は樺太にいた

民間人だった。

帰還船「興安丸」での二昼夜の航海中から長谷川たちは、

8年間に及ぶシベリアでの疲労もかえりみず抑留者たちの

名簿作りを始めた。

すべては記憶にたよっての作業だったが、

1612名の残留者名簿と500名を超える志望者リストを

作成した。

長谷川たちは舞鶴に着くと間もなく、残された同胞の

帰還運動にとりかかり、国会へ請願に行くなど活発に

活動をし始める。

シベリアの俘虜のうち60万人近くがそれまでに

帰国していたが、組織だった引揚運動が起きたのは、

このときからである。

長期抑留帰還第一次の人びとは、それぞれ手分けして

残留した仲間たちの留守宅を訪ね歩き、その消息を伝えた。

(173p)

 

たくさん引用してきました。

シベリアではこんな状態だったんだ。

こんなことが起きていたのか。

そんなことを思って読みました。

シベリア抑留のことは、映像で以前見た覚えがありますが、

記憶がうっすらです。残念。

きっとその時のアウトプットが十分ではなかったのでしょう。

全てを知ることはもちろん無理ですが、

これらのことを知らずに、シベリア抑留の上っ面しか

教えてこなかったなあ。

まだ引用は続く。

「収容所から来た遺書」3/「まだ若い、人生は長い」

 

今日は令和元年6月20日。

  

前投稿に引き続き、 

収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(辺見じゅん著/文藝春秋)より

引用します。

  

とりわけ山本(幡男)が句会の折に熱をこめてよく語ったのは、

「ぼくたちはみんなで帰国するのです。

その日まで美しい日本語を忘れなようにしたい」

という言葉である。

竹田は、山本のいちばんいいたいことはこれではないかと思った。

(87p)

  

何年もシベリアにいるとこういう思いになるんだと、

ハッとさせられた文章です。  

  

絶望感から自暴自棄になる者が多く、

「白樺派」という言葉がラーゲリ(収容所)の中では

流行った。

ラーゲリでは、死ぬとボロボロの着衣までも剥ぎとられ、

解剖に付されてから埋葬される。

死者を偽って脱走するのを防止するためだといわれた。

そして、「お前たちは生きて帰さない。

白樺の肥やしになるんだ」とソ連側から

脅かされつづけてきたように、

遺体は白樺の根元を掘って埋められた。

その穴も、九月下旬には凍土になるので、

あらかじめ秋以後の死者の数を想定して、

その数だけ七、八月の短い夏の間に掘らされた。

冬に死んだ者を準備されたその穴に投げ込み、

凍土をかけ、春になってから埋葬しなおす。

「白樺派」というのは、帰国もできず

いずれその穴に収まるのは自分だ、

という投げやりな気持を吐露した言葉だった。

「おれは、もうじき白樺派だよ」

「どうせ白樺派になってしまうんだ」

などと自嘲をこめてみんなのあいだを飛びかった。

山本(幡男)はこの「白樺派」という言葉を耳にすると、

きまって野本にいった。

「野本さん、ぼくたちは白樺派になっちゃおしまいだよ。

 かならず帰れる日がくる。

 まだぼくたちは若いし、人生は長いんだよ」

自分よりも八歳も年上の四十二歳の男が、

「まだ若い、人生は長い」というのに、

野本は呆気にとられた。

しかし、もしかしたら山本はこのラーゲリのなかで

いちばん若々しい精神の持ち主かもしれないと思った。

(98~99p)

 

あるとき、山本と自殺の話になった。

「ぼくはね、自殺なんて考えたことありませんよ。

 こんな楽しい世の中なのになんで自分から

 死ななきゃならんのですか。いきておれば、

 かならず楽しいことがたくさんあるよ」

そう山本(幡男)はいうと、下を向いてニッと笑った。

ラーゲリの中にいながら、

「こんな楽しい世の中」という山本は、

普通の人間を測る物指しでは測りきれない、

別の物指しで見なければ理解できない人物だと思った。

そして、山本と話すようになって何か月か経つうちに、

あの「シベリアの青い空」の文章と同じように、

どんなに理不尽であっても絶望することなく、

いまいる状況のなかに喜びも楽しみも見いだし、

しかもそれを他人にまで及ぼしてしまうところに、

山本の精神の強靭さと凄さがある、と野本は理解した。 

(99~100p)

  

句会が終って食堂をでると、

外はつき刺さるような寒さだった。

山本(幡男)の鼻髭が、吐く息でたちまち

凍てついて真白になった。

「山本さん、寒い時だけでも剃ったらどうですか」

と新森がいうと、

「うむ。なにもかもとられたんだから、

 せめて髭ぐらいは残しておかんと」

と山本が答えた。

(105p)

  

つづく

  

山本幡男さんのことが、Wikipediaで説明されていることが判明。

ここです↓

Wikipedia 山本幡男

「収容所から来た遺書」2/「白樺のこやし」

  

今日は令和元年6月20日。

  

私の場合、本は再読しないかもしれませんが、

ブログは再読する可能性が高いです。

再読したい文章は、ここにせっせと書き残します。

 

収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(辺見じゅん著/文藝春秋)より

引用します。

「ウラルの首都」と呼ばれるスベルドロフスク市は、

モスクワから1818キロ離れた、ウラル山脈の石炭と

鉄鋼を産する大工業都市である。

帝政ロシア時代には、エカチェリンブルグと呼ばれて栄え、

ロシア革命時に廃された皇帝ニコライ二世一家が幽閉され、

処刑された地としても知られている。

(17p) 

Epson027  

俘虜(ふりょ)たちがもっとも苦しめられたのは、

作業のノルマだった。

俘虜ひとりあたりの1日のノルマを収容所側が決め、

それを上回った者には、食糧の支給をふやし、

ノルマに達しない者には、それに応じて支給量が減らされた。

しかし、ノルマが厳しいため、それを越える者はいなかった。

1日黒パン200グラムとか、150グラムしか

支給してもらえない者も多く、そのため体力はますます衰え

さらに作業量が減るという悪循環がくり返される。

体力のない者は栄養失調で、夜中にだれにも気づかれず

ひっそりと死んでいった。

死ぬと、体中にまつわりついていたシラミが

いっせいに逃げ出すのですぐにわかった。

(22p)

  

死者は、白樺の木の根元に穴を掘って埋められたので、

「白樺の肥やし」といわれた。

(48p)

  

1949年(昭和24年)の夏、「地獄谷」にいた

山本や新森たち戦犯とされた日本人二十数名は、

ハバロフスク市内にあるソ連邦矯正収容所第六分所へ

移された。

到着したばかりの一行が目にしたのは、

焼け焦げた木材や朽ちかけた空缶の散乱する

ゴミ捨て場のような空き地だった。

第六分所は火事で焼けたままに長いこと

放置されていたのだ。

第六分所が火事に見舞われたのは、

山本がスべルドロフスクの俘虜収容所にいた

1947年12月27日の早朝であった。

第六分所は、戦争中に戦車を生産していた

カガノビッチ工場の寄宿舎を俘虜収容所に急改造したもので、

粗末な木造の平屋建てだった。

修養されていたのは、、ドイツ人2名を含む400名の

日本人俘虜たちで、そのなかには満蒙開拓団から

現地召集をうけた十六、七歳の少年兵も十数名まじっていた。

その朝、北隅の乾燥室から出火すると、

折からの北風に煽(あお)られて一気に燃え広がった。

収容所には出入り口が二か所あったが、

すでに北側の出口は火炎に包まれていた。

収容者たちは南側の出入口へと殺到したが、

そこには数日前に寒風が吹き込むのを防ぐために

観音開きのドアが釘で打ちつけられている。

人びとは狭い入口から飛び出そうと押し合っているうちに

充満した煙にのまれた。

翌朝ドア付近の焼け跡に、122名の死体がイナゴを

積みあげたように折り重なって発見されたという。

(62~63p)

日本から遠く離れた場所での、突然の無残な死。

無念だったはず。 

  

野本は周囲を見回した。(中略)

近くに人のいないのを確かめて、「シベリアの青い空」

という随筆と北溟子(ほくめいし)という筆者名が

目に入った。さほど関心もなかったが、

久しぶりに読む日本語が懐かしかった。

読み進むうちに、ささくれだった心が洗われていくような

心地になっていた。なによりも野本の心をつよく惹いたのは、

シベリアの青空の美しさを讃えている作者の

やわらかな感受性であった。

敗戦から5年間というもの、ラーゲリ(収容所)を転々とする

日々だった野本は、民主運動に痛めつけられて、

肋膜炎で死にかけたこともある。

他人の死は数えきれないほど見てきた。

「死」の痛みにさえ鈍くなっていた。

ましてやシベリアの空が美しいなどと考えもしなかった。

第一、空をしみじみ眺めてみるような心の余裕などがなかった。

不思議な人物もいるものだという驚きとともに、

「そうか、シベリアにも青空があったのか」という、

思いがけないものでも見つけたようなほろ苦い気持が広がった。

読み終えたあと、厳しいラーゲリ生活の中で、

青空に詩的な幻想を馳せるだけの心のゆとりを見せる

山本北溟子(山本幡男)という人物へ、にわかに興味が湧いた。

(77~78p)

  

普請場に燕大きく来りけり 栗仙

  

森田のこの句が山本(幡男)によって選ばれたときには、

「栗仙君のこの句はいいね。作業場にも、

ああもう夏がやってきたなという作者の思いが、

燕大きくによってでてますよ」

シベリアでは、燕(ツバメ)が夏を運んでくる。

長く厳しい冬のあと、一挙に訪れる夏は、

すべてのものが生き生きとしてくる。

燕がまるで「生命」を運んでくる使者のようだった。

ロシア人は溌溂として初々しい娘のことを

ラストチカ(燕)とよんでいた。

(82p) 

  

日本の場合は春に来るツバメ。

シベリアは夏なのですね。

「収容所から来た遺書」1/山本幡男(はたお)

 

今日は令和元年6月20日。

  

また本を完読。

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収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(辺見じゅん著/文藝春秋)

 

本を買うと、最後のページに購入日を記入します。

この本の購入日は「1998年11月9日」

購入してから21年ぶり。

この本の初版が出たのが1989年6月25日なので、

発刊されてから30年してやっと読みました。

  

このお話の主人公は、山本幡男さん。

「幡男」は、現在あまり見慣れない名前です。

本文の最初に登場した時には、

「幡男」には読み仮名がついていましたが、

後はなかったので、

何という名前だったかすぐに曖昧になります。

もう一度確認すると「はたお」と読みます。

また読み方は忘れるかもしれませんが、

漢字4字の「山本幡男」は忘れない名前になりそうです。

いやいや忘れてはならない名前だと思います。

  


1945年8月15日の終戦後、

満州にいた日本人はソ連へと連行されました。

その数なんと60万人。

彼らには極寒地での過酷な労働が強いられました。

そのうち7万人がシベリアで

亡くなったと言われています。

それでも多くの人たちが帰国できたのですが、

その中で、捕虜ではなく戦犯という判決を受けた

長期抑留者たちがいました。

最長で11年以上抑留されました。

山本幡男さんもそんな長期抑留者の一人でした。

  

この本では、山本幡男さんのことを中心に、彼らが過ごした

収容所(ラーゲリとよばれる)での日々が淡々と綴られています。

劣悪な衣食住環境の中、

死ぬまで働かされると思いながらの日々でした。

誰もが生きる望みを失うなか、

山本さんだけは決してあきらめませんでした。

俳句会を開いて、俳句を通して日本を思い出し、

いずれ日本に戻ることを信じて、日本語を磨きました。

俳句づくりは、多くの長期抑留者の過酷な生活の癒しになっていきました。

生きて日本に帰国する、あきらめないと宣言していた山本さん。

しかし、それは叶うことなく、

シベリアの地で病死してしまいます。

昭和29年の8月でした。

亡くなる直前、彼が日本の家族に宛てて書いた遺書。

ほかの抑留者たちは、

いったい何年後に帰国できるかわからないけれども、

いつか帰れる日が来たときに必ず、

山本氏の遺族に遺書を届けると誓います。

シベリアからは紙一枚持ち出すことも許されません。

帰国の日が来たときのため、

抑留者たちは山本さんの遺書を丸暗記しはじめるのです。

山本氏が最後の力を振り絞って書いた

何十枚にも渡る遺書を7人が手分けして暗記。

長期抑留者が日本に帰ったのは、昭和31年の暮れでした。

終戦から11年以上が経っていました。

帰国後、1人ずつから遺書が届けられ、

7通目の遺書が山本氏の未亡人のもとへ届いたのは

実に1987(昭和62)年のことでした。

  

  

この小説は、シベリア強制労働を、

とてもリアルに目の前に見せてくれました。

昭和20年8月15日に、戦争は全く終わっていなかったのです。

日本が戦後復興してだんだん華やかになっていくのと同時期に、

ソビエトではこのようなことがあったのですね。

 

次の記事から、たくさん引用していきたい。

もっと早く読んでおけば、授業で必ず扱った内容です。

2019年6月19日 (水)

日めくりより/「マスクメロン」の「マスク」の由来

今日は令和元年6月19日。

  

日めくり「雑学王」(TRY-X)より。

マスクメロンの象徴「網目」の正体は?

Epson026  

「網目」の正体よりも関心をもったのは、

「マスク」の由来です。

ムスク(麝香/じゃこう)とは?

聞いたことはあります。

「ジャコウネコ」の「ジャコウ」で聞いたことがあるし、

香水の名前でしょと思うくらいです。

きっと麝香の香りは、嗅いだことがあると思います。

でも具体的にどんな香りなのか、

全く鼻に記憶がありません。

何も香ってきません。

  

  

調べました。

 

コトバンク 世界大百科事典 第2版(平凡社)

ここからの引用。

  

【じゃこう 麝香】

ムスクともいう。中央アジア,チベット,雲南,アッサム,

南シベリアに広く生息するジャコウジカの雄の

包皮腺(香囊)に蓄積される有香物質。

古来代表的動物性香料として珍重された。

10歳程度の雄1匹から約50gの麝香が得られる。

チベット産の麝香が品質的に最も優れており,

トンキン(東京)市場で取引されるため

東京麝香として知られている。

雲南麝香も有名である。

乾燥した香囊中には暗褐色ないし

黒褐色の粉末として存在する。

  

「麝香」の「」に「鹿」の字があるのは、

ジャコウジカに由来するからなのですね。

ジャコウジカについては、このサイトが勉強になりました。

あなたの使っている香水の原料は意外な珍動物だった

このサイトによると、ジャコウジカはワシントン条約で

絶滅危惧種とされ、捕獲は禁止されているそうです。

現在の香水の麝香は、合成香料のはずとのこと。

  

マスクメロンの香りが、麝香の香りと考えていいのかな。

一度、麝香の香りを確かめたいですね。

  

 

 

 

「メロン」でたぐります

アンデスメロン、プリンスメロンについて

昨年調べました。

ここでも道草 7月5日放映「カンブリア宮殿」3.「王様トマト」「アンデスメロン」/べろメーター(2018年7月30日投稿)

ここでも道草 7月5日放映「カンブリア宮殿」5.メロンを手軽に食べられるようにするのが、我々の仕事だ(2018年8月2日投稿)

ここでも道草 7月5日放映「カンブリア宮殿」6.アンデスメロンの誕生/生産量日本一の茨城県(2018年8月3日投稿)

8月3日の投稿で、プリンスメロンは、

日本産マクワウリとフランス産メロンをかけ合わせたと

書いています。

その時には忘れてましたが、

さらに1年前に私はマクワウリを食べていました。

ここでも道草 マクワウリを初めて食べてみました「これはメロンだ」(2017年8月2日投稿)

「これはメロンだ」と叫んでいたのに、忘れていました。

   

 

日めくりのおかげで、(記憶を)たぐれました。

6月17日からの生活のBGM「その線は水平線」

今日は令和元年6月19日。

  

この1ヶ月、生活のBGMはHYのアルバム「STORY~HY BEST」の

30曲中、ラストの10曲をくり返して聴いていました。

Hy_jk_s  

これで30曲すべてを聞き込みました。

公私ともにたいへんだったときに流れていましたね。

その中の1曲「三月の陽炎(かげろう)」の

 

♪ あなたを忘れたくないよ 思い出も消したくないよ

  全部全部覚えてて欲しい 例え繋がらなくても  ♪

 

この未練たっぷりの歌詞を、

中曽根泉さんが上手に歌っています。

今週の月曜日(6月17日)から、

生活のBGMはHYからくるりに変更しました。

このマキシアルバムです。

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くるり「その線は水平線」(全8曲)

  

「その線は水平線」は動画で見ることができます。


YouTube: くるり - その線は水平線

    

この曲にした理由は、

最近テレビ番組「又吉直樹のへウレーカ!」

4本立て続けに見たからです。

「又吉直樹のヘウレーカ!僕はどこから来たのですか?」

(昨年10月31日放映)

「又吉直樹のへウレーカ!紙一枚で何が折れますか?」

(5月22日放映)

「又吉直樹のへウレーカ!なぜ単位がいるのだろう?」

(5月29日放映)

「又吉直樹のへウレーカ!自分でくすぐっても笑わないのはなぜ?」

(6月5日放映)

  

知的好奇心をくすぐってくる、とても面白い番組です。

この番組で知ったことは、私の記憶装置であるこのブログに

書き留めておきたいのですが、時間がかかりそうです。

 

最近、よくテレビを見て、本を読んでいます。

世の中、やっぱり興味深いことがたくさんあることに

あらためて感じます。

これを知らずして死にたくなかったみたいな事にも出合います。

ブログのサブタイトルに書いたように、

「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」ですね。

  

この「又吉直樹のへウレーカ!」のテーマ曲が「その線は地平線」でした。

私の人生にとって、少々大きな転換期になりそうな今、

この曲は思い出に残りそうです。

 

2019年6月18日 (火)

「いだてん 23 大地」その4/午後8時14分

 

今日は令和元年6月18日。

  

前投稿に引き続き、6月16日放映の大河ドラマ

いだてん~東京オリムピック噺~23 大地」より。

  

今回の話は落語の「厩(うまや)火事」を知っていると

もっと楽しめます。

私は知りませんでした、この落語。

後で知って、なるほど!うまくストーリーに盛り込んだなあと、

感心しました。

関東大震災が描かれる前の16日午後8時14分に

次の映像が映ります。

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ここからドラマは、落語にもなっていました。

  

  

私は、初めて「厩火事」を次の映像で見ました。

面白かった。


YouTube: 古今亭志ん朝  厩火事

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枕(マクラ)だけ聞き書きします。

 

縁なんという言葉がありまして、

たいへんにこの、誰が考え出したものですかな、

実に都合のいい言葉がありまして、

何にでも縁があると言います。

袖すりおうも、多生の縁。

つまづく石も縁の端くれなんて、

いろんなものに縁がある。

中で一番深いのはこれがま、いわゆる

ご夫婦の縁ということになっておりますが、

本当に、考えてみるってえと、

赤の他人が、ねえ、もうなんかのきっかけでもって

知り合って、そして、この、一緒になる。

とも白髪(しらが)まで、なんてことになるですがね、

考えてみると、本当に不思議ですな。

これが、もう、1対1ということなんですからね、

だからたまには、この縁でなく向こうの縁もよかったなあなんと、

思たりすることもありますけれども。

ですから、やっぱり、何年もこう一緒に一つの屋根の下で

暮らしているってえと、それぞれやっぱり、この、

わがままが出てきたりなんかいたしまして、

その歯車がひとつかみ合わないってえことになってくると、

もう、いちいち何かにつけて引っかかってくる、ねえ、

けんかが絶えないということになります。

本当にもう、一度でいいから、もう、別れたいなあなんてことは、

まあ世の男性はみんな、一度は思ってる。

また、中には、ご婦人の中でもそういう方が

いらっしゃるなんてことをききましたけれども。

別れちゃえばいいんだと思うんですがね、

これが別れられないというのが、

縁なんだってことをうかがいました。

そうでなくて、勇気がないのかもしれない。

その辺のところが、まことに難しいもんですね。

 

続きはどうぞ動画で見てください。

そしてもしまだ

いだてん~東京オリムピック噺~23 大地」を見ていないなら、

再放送を見ましょう。録画しておきましょう。

6月22日の午後1時5分からかな。

よけいなお世話かな。

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