« 2019年5月 | メイン | 2019年7月 »

2019年6月

2019年6月25日 (火)

日めくりより/ビールの話 リリース前跳び

今日は令和元年6月25日。  

 

日めくりシリーズ、もう2枚おつきあいを。

日めくり「雑学王」(TRY-X)より。

畑違いのビール会社が、「ギネスブック」を作った理由は?

Epson026_2  

ビールを飲みながら話したい記録は、ネット上にたくさんあります。

ユニークな記録が続々誕生 最近のギネス世界記録(2018年11月)

このサイトでも見ることができる、

日本人の生山ヒジキさんの縄跳びがすごいなあ。

30秒“リリース前跳び”最多回数」の動画を

ここに持って来たいけど、方法が分からず。

写真のみ。

Photo_2

2

3  

前跳びをしている最中に、左手の縄の持ち手を放す!

そして再び持ち手を持って前跳びを続ける。

その回数がギネス記録のようです。

ぜひ動画を見てください。

日めくりより/お酒の話

 

今日は令和元年6月25日。  

 

ちょっと続いていますが、もう3枚おつきあいを。

日めくり「雑学王」(TRY-X)より。

燗酒はいつ始まったか?

Epson028  

「燗酒」の「燗」に、熱すぎず、冷たすぎずの

意味があるのがいいですね。

あまりお酒を飲まないので、疑問が浮かびます。

「熱燗(あつかん)」と言うのがあるけど、

燗酒の中では熱い方なのかな?

調べました。

そしたら、「熱燗」以外にも、

温度によっていろいろな名前があることを知りました。

お酒大好きな人には、当たり前でしょうけども、

私はそうなんだと、楽しみました。

ピクシブ百科事典 熱燗とは

ここから表を転載します。

Photo  

さらに引用します。

江戸時代初期までは直火で徳利や銚子を熱していたが、

徐々に錫製の銚釐(チロリ)と呼ばれる

小さなバケツ状の燗専用の容器が使用されるようになる。

近畿ではそのまま銚釐が定着したが、

関東では急須型の「燗徳利(かんとっくり)」が登場し、

熱燗をそのまま注げるという利点から定着していった。

 

 

こんな文章を読むと、どんなものか見たくなるじゃありませんか。

画像を探しました。

これがチロリ

Noucrl2 ORICON STYLE

 

これが燗徳利

Teast_gift31_1 

Teast_gift31_3 テーブルウェアーイースト 

 

酒飲みの人たちは、このような道具を使って、

おいしく飲んでいるのですね。

 

 

2019年6月24日 (月)

日めくりより/船の名前に「丸」がつくワケ

 

今日は令和元年6月24日。

  

日めくり「雑学王」(TRY-X)より。

船の名前に「丸」がつくワケは?

Epson020 

2002年11月2日放映の「世界ふしぎ発見!

もののけで読む源氏物語」では、一番最後の

おまる」説でした。

ビデオテープで録画してありました。

昨年度、授業で紹介しました。

聞き書きします。

  

Photo_2

ミステリーハンター:(前略)もののけからクエスチョンです。

  目に見えないもののけを恐れた平安時代の貴族たちは、

  特に子どもが、もののけに襲われやすいと考えました。

  そこで、大人になるまでは、名前の最後にある「もの」の

  名前をつけて呼びました。

  人間がそのある「もの」を嫌うことから、

  鬼やもののけもそれを嫌って、

  やって来ないだろうと信じたのですが、

  では、名前の最後につけた鬼が嫌う「もの」とは、

  いったい何でしょうか?

Photo_3

正解が「おまる」でした。

それでは正解の映像も聞き書きします。

ミステリーハンター:当時の宮中の生活には、

  なくてはならないものだったんですよ。(中略)

  あ、ありました。これなんだかわかりますか?

Photo  

  実は当時の御所には、トイレがなかったんです。

  光源氏や美しい姫君も、おまるで用を足していたんです。

  というわけで、正解は「おまる」でした。

Photo_4

ナレーター:子どもの名前や船の名前には、

  最後に「丸」がつけられた。

  これはもともと悪霊を除(よ)けるための

  まじないである。

  

ちなみにミステリーハンターは、瀬戸カトリーヌさん。

今も現役(だと思う)。

出演回数は第9位だそうです。※参考:rank-best

  

  

  

  

日めくりより/なぜ「ボケ」と呼ばれるか

 

今日は令和元年6月24日。

 

週の始まり。いい一週間にしたい。

  

日めくり「雑学王」(TRY-X)より。

きれいなボケの花が「ボケ」呼ばわりされるのは? 

Epson025  

2013年にボケの花の写真を撮って、記事にしています。

さらには、そこボケの名前の由来を書いています。

内容は一緒です。

ここでも道草 H25 3月の花々16 ユキヤナギ・ボケ(2013年3月25日投稿)

 

こうなると、ボケの実を見てみたいです。

ここでアップの写真を見ることができました。

TOKYO TIME TRAVEL 今年は、木瓜の実が1.2kgほど取れたので、木瓜酒を造った

木瓜酒を造っています。

どんな味なのだろう?

うちの父親の認知症に、

ボケ×ボケ(ボケでボケを打ち消す!)で効果ないだろうか?

昨晩も、11年前に亡くなった奥さんの死にビックリしていました。

「そうか、死んじゃったか」

冥土の母親も冷や冷やしているだろうなあ。

心配かけます。

2019年6月23日 (日)

日めくりより/箸の歴史 箸と棒コンビ

今日は令和元年6月23日。

  

日めくり「雑学王」(TRY-X)より。

なぜ、日本人は2本1組の箸を使うようになった?

Epson028

「聖徳太子だった」と断定されると、本当か?と思ってしまいます。

何かの事始めに、聖徳太子が関わっていることが

多いような気がします。

今、調査中です。

  

箸に関することわざはいろいろあります。

 

箸にも棒にもかからない」は有名です。

意味は、あまりにもひどすぎて、どうにもこうにも手がつけられないこと。

また、何のとりえもないたとえ。出典:故事ことわざ辞典

  

箸と棒コンビのことわざがもう一つありました。

箸に当たり棒に当たる 

さっきは「かからなかった」けど、

今度は「当たっちゃった」よ。

どういう意味か調べました。

意味は、腹を立てて、方々の見さかいもなく

関係ないものまであたりちらす。八つ当たりをする。

出典:ことわざデータバンク

 

なるほど。

   

今晩はここまで。

2019年6月22日 (土)

日めくりより/砂時計の中は真空?

 

今日は令和元年6月22日。

  

日めくり「雑学王」(TRY-X)より。

砂時計の砂はどうやって入れる?

Epson029  

これって本当だろうか?

そうなると、あのくびれは一定にしないといけないわけで、

非常に難しいと思います。

  

少なくとも、ここは違います↓

金子硝子工芸 

Photo_4  

後から砂を入れて、分数を測り、余分な砂を出すやり方です。

でも、このサイトには、次のように書いてあります。

 

ひょうたん型の砂時計は、同じ葛飾区内で

砂時計職人をやっている弟と日本でただ2人だけです。

  

だから特別な作り方なのかもしれません。

 

「砂時計 真空」で調べると、次のようなサイトもありました。

BIGROBEなんでも相談室 砂時計の故障

 

回答を引用します。

  

通常、砂時計には乾燥空気(窒素などの場合もある)と

乾燥した砂が封入されています。

真空の方が良いのですが、

コストが掛かるために通常はそこまでしません

(真空にしたものもあります、当然砂は落ちますよ)。

密封が完全ならば、それ以上湿気ることはありませんが、

実際にはそこまで丁寧な作りにはなっていないため、

空気を抜いてガラスを密封した部分などに

ピンホールが生じて湿気が侵入してしったのだと思います。 

  

2008年の回答です。

この回答を見ると、真空の砂時計はあるけど、

滅多にないようです。

10年以上たって、技術が向上して

今では真空が当たり前なのかな?

疑問が残ります。

 

 

ちなみに、世界一の巨大砂時計の中は真空ではないそうです。

Photo_5 仁摩サンドミュージアム 

砂が全部落ちるのに1年かかるそうです。

真空ではない理由は、次のところに書いてありました。

巨大砂時計とはどんなものか?

引用します。

  

この砂時計は、

ピラミッドを形どった総ガラス張の建物に入っています。

そのため、太陽光線で砂時計の中の空気が暖められたりします。

すると、密閉したガラスの中の空気が膨張して、

中の圧力が変化します。夜になればその反対です。

中の空気の圧力を一定にするために、

コンピュータが昼夜休みなく活躍している、ハイテク砂時計です。

砂時計の中を真空にすればと思いますが、

真空にすると砂に静電気が起きて流れなくなるのです。

 

 

砂時計の中は真空?

今のところ納得できていません。

だれか教えてください。

 

Time1485384_1920 pixabay

「収容所から来た遺書」10/辺見じゅんさんが描こうとした理由

 

今日は令和元年6月22日。

 

前投稿に引き続き、 

収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(辺見じゅん著/文藝春秋)より

引用します。

  

ここでも道草 「収容所から来た遺書」5/1998年「驚きももの木20世紀」(2019年6月21日投稿)

↑ ここで書いたことですが、山本幡男さんの遺書を

暗記するように依頼されたのは6人でした。

でも上の本には、もう1人いました。

日下(くさか)齢夫さんです。

  

アムール句会の日下齢夫は、佐藤から「字の書かれたものは、

日本に帰還するときにナホトカで全部没収されるから

頭のなかに入れておくのが安全確実だよ」と、

ノートを受け取るときにいわれた。

居住バラックの蚕棚では危険なので、

ラーゲリの図書室にいき、本を借りて読むふりをしながら、

「妻よ!」を筆写した。

そしてフハイカ(綿外套)の綿のなかにその写しを隠した。

作業から戻ると周囲に人の気配がないとき、

こっそり取り出して寝台に寝っころがって見ながら暗記した。

帰国はなん年いやなん十年先のことかわからず、

気が遠くなるような任務だったが、蚕棚で眠る前に

頭のなかで復誦するのが習慣になった。

覚えにくい箇所には赤い選を引いたり、〇印をつけた。

(230p)

  

日下齢夫は、フハイカの綿のなかに入れて隠しもっていた

「妻よ!」の写しを、ラーゲリを出発する前に小さく折り畳み、

それを芯にして念入りに糸を巻きつけた。

持っていた糸をすべてをなん十回となく巻いて糸巻に

し終ると、ようやく安堵した。

糸巻と針はだれもが持っていたし、たとえ検査されても

怪しまれる危険はないはずだ。

絶好の隠し場所をよくぞ考えついたと自讃した。

検査にも糸巻は簡単にとおった。

糸巻にした遺書をもって(興安丸の)タラップを登りつめた。

(246p)

  

日下さんの書いた写しを、2002年2月24日放映

知ってるつもり!?」で、辺見じゅんさんが持参していました。

その時の写真です。

Rimg2091

Rimg2093

Rimg2094

Rimg2095

Rimg2096  

その日下さんが、興安丸船上で作った俳句。

  

寒鯛(カンダイ)に十年の箸をとりにけり      梅城

   

梅城こと日下齢夫の句である。寒鯛も十年ぶりだったし、

箸をとるのも十年ぶりだった。

糸巻の芯にした山本の遺書は無事だったので、

心ゆくまで故国の味を堪能した。

手製の木彫りのスプーンではなく、

日本の箸を手にしたときはさすがに感無量だった。

(250p)

  

  

収容所(ラーゲリ)から来た遺書」のあとがきによると、

昭和61年の夏に読売新聞と角川書店が主催した

「昭和の遺書」募集で、辺見じゅんさんは選者として

山本幡男さんの遺書に出合ったそうです。

(それが、持参した日下さんの写し)

そして山本さんのことを調べているうちに、

山本さんの生涯を描きたくなったそうです。引用します。

  

非力をかえりみず偉大なる凡人の生涯、それもシベリアの地で

逝った一人の男の肖像を描きたいと思ったのは、

その不屈の精神と生命力に感動したからに他ならない。

過酷な状況に置かれてもなお人間らしく生きるとはどういうことかを、

取材しながら教えられた思いでいっぱいである。

それと共に山本氏の志を御遺族に伝えようとされた人々の友情を、

何よりも尊く、美しく思ったからである。

(268p)

  

   

  

本当にたくさん引用しました。

山本幡男さんのことを書き留めておきたいという気持ちで、

けっこう集中して文章をうちました。

 

本も映像も20年ほど前に入手したものばかりでした。

でも20年も経って、少し風化し始めた今頃に、

こうやってブログで大騒ぎ?するのは価値があるかもしれません。

断続的に誰かが大騒ぎして、それで出来事をつないでいく。

将来誰かが興味を持って、ここに来てくれたらいいなと思います。

「収容所から来た遺書」9/「必ずこの遺書を私の家庭に伝へ給へ」

 

今日は令和元年6月22日。

 

前投稿に引き続き、 

収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(辺見じゅん著/文藝春秋)より

引用します。

 

その日遅く作業から帰って病室に駆けつけた新見此助に、

山本は走り書きを渡した。

「死ノウト思ツテモ死ネナイ スベテハ天命デス 

 遺書ハ万一ノ場合ノコト 小生勿論生キントシテ

 闘争シテヰル 希ミハ有ルノデスカラ決シテ

 100%悲観セズヤツテユキマセウ」

赤鉛筆で書かれた字は乱れてあちこちに飛び、

新見には判読するのがようやくだった。

山本(幡男)がこの世に遺した、最後の凄まじい気力によって

書かれたものだった。山本の顔を見ると、小さく頷いてみせた。

新見は涙がこぼれそうになったが、ぐっとこらえた。

そしてベッドの裾に回って、

骨と皮ばかりになった山本の足をさすった。

 

それから十日間、山本はときおり苦痛の呻き声を発するだけで、

朝も夜も、うつらうつらしていた。

1954(昭和29)年8月25日午後1時30分、

収容所の日本人は作業にでていたため、山本はだれにもみとられず、

ハバロフスクのラーゲリの病室で息を引きとった。

45歳の生涯だった。

死亡時刻は病院側から伝えられた。

山本が案じていた長男の東京大学合格の知らせが届いたのは、

亡くなったすぐあとだった。

すでに、シベリアの秋は深まっている。

夕方、坂本省吾が作業を終えて衛門を入ろうとすると、

衛兵所の脇に新見此助が魂の抜けたような表情で、

ひとりつくねんと立っていた。

「山本さんが・・・・山本さんが死んだけんね・・・・」

それだけいうと、涙と鼻汁と顔をくしゃくしゃにさせた。

山本の死はまたたく間にラーゲリ中をかけ抜けた。

(220~221p)

  

山本(幡男)が亡くなったあと、潮崎はむっつりと黙り込み、

だれとも口をきかなかった。

佐藤からノートに書かれた山本の遺書を見せられた。

その遺書を読み終えると、山本の家族に会って遺書を渡すためにも

自分は生きて帰らねばならぬと心に決めた。

粗末なソ連製のノートの最初の一枚目には、

次のように記されている。

                〈山本幡男 謹白

敬愛する佐藤健雄先輩はじめ、この収容所において

親しき交りを得たる良き人々よ!

この遺書はひま有る毎に暗誦、復誦されて、

一字、一句も漏らさざるやう貴下の心肝(こころぎも/しんかん)に

銘じ給へ。

心ある人々よ、必ずこの遺書を私の家庭に伝へ給へ。 七月二日〉

(224p)

  

瀬崎が山本(幡男)の願いをなんとか実現させたいと思ったのは、

子供達への遺書を読んだときだった。

日本人として自分が死に臨んだときには、

このような立派な遺書を書きたいとしみじみ思った。

これは山本個人の遺書ではない、

ラーゲリで空しく死んだ人びと全員が

祖国の日本人すべてに宛てた遺書なのだ、と思った。

(225p)

  

北海道生まれの佐々木は親分肌で、

不思議と山本とはウマが合った。

「俺は一の能力しかなくても十の能力があるように見せられる。

 北溟子は十の能力を一しか見せん」というのが口癖で、

山本に一目置いていた。

佐々木のような男まで魅きつけてしまう山本の幅の広さと人脈に、

佐藤はあらためて瞠目(どうもく)した。

(226p)

  

1956(昭和31)年12月24日の朝、

興安丸はナホトカ港の岩壁に横づけになり、タラップが降ろされた。

乗船が開始されると、ひとりずつタラップを登った。

山岸研にはタラップが長い距離に感じられた。

舷側(げんそく)と岸壁のあいだには見えない国境がある。

いま、その国境を越えるかと思うと、足がふるえた。

歩いてわずか1分にもみたないタラップを、一歩一歩踏みしめた。

途中でふたたび呼び戻されるのではないかという不安と、

もう大丈夫なのだという思いとで歩(ほ)を運んだ。

(244p)

  

 

この興安丸は、1956(昭和31)年12月26日に舞鶴に到着します。

あの終戦(1945年8月15日)から、11年4カ月あまり。

このブログを書き始めて12年。

その期間を、極寒のシベリアで衣食住足りない状況で働いていたわけです。

想像を絶します。

  

つづく。

「収容所から来た遺書」8/山本幡男の遺書「妻よ!」「子供達へ」

 

今日は令和元年6月22日。

 

前投稿に引き続き、 

収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(辺見じゅん著/文藝春秋)より

引用します。

  

山本(幡男)はこの母に、自分が可愛いと思われるなら、

いつまでも元気で四人の孫たちの成長のために

妻に協力して欲しいと懇願したあと、

妻のモジミに夫としての最後の語りかけをした。

 

〈妻よ!よくやった。実によくやった。

 夢にだに思はなかったくらゐ、

 君はこの十年間よく辛抱して闘ひつづけて来た。

 これはもう決して過言ではなく、殊勲甲だ。超人的な仕事だ。

 失礼だが、とてもこんなにまではできまいと思ってゐた私が

 恥しくなって来た。

 四人の子供と母とを養って来ただけでなく、大学、高等学校、

 中学校、小学校とそれぞれ教育していったその辛苦。

 郷里から松江、松江から大宮へと、孟母の三遷の如く、

 お前はよくまあ転々と生活再建のために、子供の教育のために

 運命を切り拓いてきたものだ!

 その君を幸福にしてやるために生まれ代ったやうな

 立派な夫になるために、

 帰国の日をどれだけ私は待ち焦がれてきたことか!

 一目でいい、君に会って胸一ぱいの感謝の言葉をかけたかった!

 万葉の烈女にもまさる君の奮闘を讃へたかった!

 ああ、しかし到頭君と死に別れてゆくべき日が来た。

 私は、だが、君の意志と力とに信頼して、死後の家庭のことは、

 さほどまでに心配してはゐない。

 今まで通り子供等をよく育てて呉れといふ一語に尽きる。

 子供等は私の身代わりだ。

 子供等は親よりもどんどん偉くなってゆくだろう。

 君は不幸つづきだったが、之からは幸福な日も来るだろう。

 子供等を楽しみに、辛抱してはたらいて呉れ。

 知人、友人等は決して一家のことを見捨てないであらう。

 君と子供らの将来の幸福を思へば私は満足して死ねる。

 雄々しく生きて、生き抜いて、私の素志を刻苦奮闘と意志のたくましさ、

 旺盛なる生活力に感激し、感謝し、信頼し、

 実によき妻をもったといふ喜びに溢れてゐる。さよなら。〉

(212~213p)  

  

妻への信頼と感謝にみちた言葉のあとに、

山本(幡男)は、子供たちへの遺言を書いた。

  

〈子供達へ。

 山本顕一 厚生 誠之 はるか 君たちに会へずに

 死ぬことが一番悲しい。

 成長した姿が、写真ではなく、実際に一目みたかった。

 お母さんよりも、モジミよりも、私の夢には君たちの姿が

 多く現れた。それも幼かった日の姿で・・・・

 あゝ何という可愛い子供の時代!

 君たちを幸福にするために、一日も早く帰国したいと思ってゐたが、

 到頭永久に別れねばならなくなったことは、

 何といっても残念だ。第一、君たちに対して

 まことに済まないと思ふ。

 さて、君たちは、之から人生の荒波と闘って生きてゆくのだが、

 君たちはどんあ辛い日があらうとも光輝ある日本民族の一人として

 生まれたことを感謝することを忘れてはならぬ。

 日本民族こそは将来、東洋、西洋の文化を融合する唯一の媒介者、

 東洋のすぐれたる道義の文化ーーー人道主義を以て

 世界文化再建に寄与し得る唯一の民族である。

 この歴史的使命を片時も忘れてはならぬ。

 また君達はどんなに辛い日があらうとも、人類の文化創造に参加し、

 人類の幸福を増進するといふ進歩的な思想を忘れてはならぬ。

 偏頗(へんぱ)で矯激(こうげき)な思想に迷ってはならぬ。

 どこまでも真面目な、人道に基く自由、博愛、幸福、正義の道を

 進んで呉れ。

 最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである。

 友だちと交際する場合にも、社会的に活動する場合にも、

 生活のあらゆる部面において、この言葉を忘れてはならぬぞ。

 人の世話にはつとめてならず、人に対する世話は進んでせよ。

 但し、無意味な虚栄はよせ。

 人間は結局自分一人の他に頼るべきものが無いーーーーという覚悟で、

 強い能力のある人間になれ。自分を鍛へて行け!

 精神も肉体も鍛へて、健康にすることだ。強くなれ。

 自覚ある立派な人間になれ。

 四人の子供達よ。

 お互いに団結し、協力せよ!

 特に顕一は、一番才能にめぐまれてゐるから、長男ではあるし、

 三人の弟妹をよく指導してくれよ。

 自分の才能に自惚(うぬぼ)れてはいけない。

 学と真理の道においては、徹頭徹尾敬虔(けいけん)でなくてはならぬ。

 立身出世さど、どうでもいい。

 自分で自分を偉くすれば、君達が博士や大臣を求めなくても、

 博士や大臣の方が君達の方へやってくることは必定(ひつじょう)だ。

 要は自己完成!

 しかし、浮世の生活のためには、致方なしで或る程度

 打算や功利もやむを得ない。

 度を越してはいかぬぞ。最後に勝つのは道義だぞ。

 君達が立派に成長してゆくであらうことを思ひつつ、

 私は満足して死んでゆく。

 どうか健康に幸福に生きてくれ。長生きしておくれ。

 最後に自作の戒名

 久遠院智光日慈信士

  

 一九五四年七月二日         山本幡男 〉

「このノートは、しばらく私が大切に預るからね」

佐藤がいうと、山本(幡男)が頷くようにし、

疲れたのか眼を閉じた。

寝返りも打てぬほどの激痛の山本が、

わずか一日のあいだに15頁もの遺書を書きあげた気力に

佐藤は胸うたれていた。

(214~216p)  

  

以上の4つの遺書が、6人の長期抑留者帰還者によって記憶され、

家族に伝えられました。

一字一句、同じように。

筆跡まで真似た人もいました。

思いのこもった遺言なので、6人は行動したのでしょう。

ドラマチックな話です。

つづく

「収容所から来た遺書」7/山本幡男の遺書「本文」「お母さま!」

 

今日は令和元年6月22日。

 

6月20日の投稿に引き続き、 

収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(辺見じゅん著/文藝春秋)より

引用します。

  

遺書は全部で4通。ノート15頁にわたって綴られていた。

1通は「本文」とあり、他の3通は「お母さま!」「妻よ!」

「子供達へ」となっている。

〈山本幡男の遺家族のもの達よ!〉

遺書の「本文」は、この呼びかけから始まっていた。

  

〈到頭ハバロフスクの病院の一隅で遺書を書かねばならなくなった。

 鉛筆をとるのも涙。

 どうしてまともにこの書が綴れよう!

 病床生活永くして2年3カ月にわたり、

 衰弱甚だしきを以て、意の如く筆も運ばず、

 思ったことの何分の一も書き表せないのが何より残念。

 皆さんに対する私のこの限り無い、無量の愛情とあわれみのこころを

 一体どうして筆で現すことができようか。

 唯、無言の涙、抱擁、握手によって辛うじてその一部を

 表し得るに過ぎないであらうが、

 ここは日本を去る数千粁(キロメートル)、

 どうしてそれが出来ようぞ。

 唯一つ、何よりもあなた方にお願ひしたいのは、

 私の死によって決して悲観することなく、落胆することなく

 意気ますます旺盛に振起して、

 病気せざるやう

 怪我をしないやう

 最新の注意を払って、丈夫に生き永らへて貰いたい、

 といふことである。

 健康第一。私は身を以てしみじみとこの事を感じました。

 決して無理をしてはいけない。

 少しでもおかしいと思ったら、

 身体の具合を予め病気を防止すること。

 帰国して皆さんを幾分でも幸福にさせたいと、

 そればかりを念願に十年の歳月を辛抱して来たが、

 それが実現できないのは残念、無念。

 この上は唯皆さんの健康と幸福とをお祈りしながら

 寂光浄土へ行くより他に仕方が無い。

 私の希みは唯一つ、子供たちが立派に成長して、

 社会のためにもなり、文化の進展にも役立ち、

 そして一家の生活を少しづつでも幸福にしてゆくといふこと。

 どうか皆さん幸福に暮らして下さい。

 これこそが、私の最大の重要な遺言です。〉

 

山本はこの「本文」と冒頭に書かれた一文のあと、

「お母さま!」と、老いた母マサトへ、子として先立つ不孝と

期待に添えなかった思いをこめ、遺書を記していた。

読みながら、佐藤は涙があふれてくるのを山本(幡男)に

見せまいとこらえた。

  

  

〈お母さま!

 何といふ私は親不孝だったでせう。

 あれだけ小さい時からお母さんに(やはりお母さんとよびませう)

 ご苦労をかけながら、お母さんの期待には何一つ副(そ)うことなく、

 一家の生活がかつかつやっとといふ所で何時もお母さんに心配をかけ、

 親不孝を重ねて来たこと私を何といふ罰当りでせう。

 お母さんどうぞ存分この私を怒って叱り飛ばして下さい。

 この度の私の重病も、私はむしろ親不孝の罰だ、

 業(ごう)の報いだとさへ思ってゐる位です。

 誰も恨むべきすべもありません。

 皆自分の罪を自分で償うだけなのです。

 だから、お母さん、私はここで死ぬることをさほど悲しく思ひませぬ。

 唯一つ、晩年のお母さんにせめてわづかでも本当に親孝行したいーーー

 と思ひ、楽しんでゐた私の希望が空しくなったことを残念、無念に

 思ってゐるだけです。

 お母さんがどれだけこの私を待って、待ってゐなさることか。

 来る手紙毎にそのやさしいお心もちがひしひしと胸に沁みこんで、

 居ても立ってもをれないほどの悲しみを胸に覚えたものです。

 唯の一目でもいいから、お母さんに会って死にたかった。

 お母さんと一言、二言交すだけで、

 どれだけ私は満足したことでせう。

 十年の永い月日を私と会ふ日を唯一の楽しみに生きてこられた

 お母さんに、先立って逝く私の不幸を、

 どうかお母さん許して下さい。

 しかし、お母さん、私が亡くなっても決して悲観せず、

 決して涙に溺れることなく、雄々しく生きて下さい。

 だって貴女は別れて以来十年間あらゆる辛苦と闘って来たのです。

 その勇気を以て、どうか孫たちの成長のためにもう十年間

 闘っていただきたいのです。

 その後は少しは楽にもなりませう。

 私がこの幡男が本当に可愛いと思はれるなら、

 どうか私の子供等の、即ちお母さんの孫たちの成人のために

 倍旧(ばいきゅう)の努力を以て生きて戴きたいのです。

 やさしい、不運な、かあいさうなお母さん。さやうなら。

 どれだけお母さんに逢ひたかったことか!

 しかい、感傷はもう禁物。強く強く、あくまでも強く、

 モジミに協力して子供等を(貴女の孫たちを)成長させて下さい。

 お願いします。〉

 

(208~210p)

   

つづく

最近の写真

  • Img_5481
  • Img_5480
  • Img_5479
  • Img_5472
  • Img_5471
  • Img_5470
  • Img_5469
  • Img_5468
  • Img_5465
  • Img_5463
  • Img_5462
  • Img_5461

楽餓鬼

今日はにゃんの日

いま ここ 浜松

がん治療で悩むあなたに贈る言葉