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2019年6月20日 (木)

「収容所から来た遺書」2/「白樺のこやし」

  

今日は令和元年6月20日。

  

私の場合、本は再読しないかもしれませんが、

ブログは再読する可能性が高いです。

再読したい文章は、ここにせっせと書き残します。

 

収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(辺見じゅん著/文藝春秋)より

引用します。

「ウラルの首都」と呼ばれるスベルドロフスク市は、

モスクワから1818キロ離れた、ウラル山脈の石炭と

鉄鋼を産する大工業都市である。

帝政ロシア時代には、エカチェリンブルグと呼ばれて栄え、

ロシア革命時に廃された皇帝ニコライ二世一家が幽閉され、

処刑された地としても知られている。

(17p) 

Epson027  

俘虜(ふりょ)たちがもっとも苦しめられたのは、

作業のノルマだった。

俘虜ひとりあたりの1日のノルマを収容所側が決め、

それを上回った者には、食糧の支給をふやし、

ノルマに達しない者には、それに応じて支給量が減らされた。

しかし、ノルマが厳しいため、それを越える者はいなかった。

1日黒パン200グラムとか、150グラムしか

支給してもらえない者も多く、そのため体力はますます衰え

さらに作業量が減るという悪循環がくり返される。

体力のない者は栄養失調で、夜中にだれにも気づかれず

ひっそりと死んでいった。

死ぬと、体中にまつわりついていたシラミが

いっせいに逃げ出すのですぐにわかった。

(22p)

  

死者は、白樺の木の根元に穴を掘って埋められたので、

「白樺の肥やし」といわれた。

(48p)

  

1949年(昭和24年)の夏、「地獄谷」にいた

山本や新森たち戦犯とされた日本人二十数名は、

ハバロフスク市内にあるソ連邦矯正収容所第六分所へ

移された。

到着したばかりの一行が目にしたのは、

焼け焦げた木材や朽ちかけた空缶の散乱する

ゴミ捨て場のような空き地だった。

第六分所は火事で焼けたままに長いこと

放置されていたのだ。

第六分所が火事に見舞われたのは、

山本がスべルドロフスクの俘虜収容所にいた

1947年12月27日の早朝であった。

第六分所は、戦争中に戦車を生産していた

カガノビッチ工場の寄宿舎を俘虜収容所に急改造したもので、

粗末な木造の平屋建てだった。

修養されていたのは、、ドイツ人2名を含む400名の

日本人俘虜たちで、そのなかには満蒙開拓団から

現地召集をうけた十六、七歳の少年兵も十数名まじっていた。

その朝、北隅の乾燥室から出火すると、

折からの北風に煽(あお)られて一気に燃え広がった。

収容所には出入り口が二か所あったが、

すでに北側の出口は火炎に包まれていた。

収容者たちは南側の出入口へと殺到したが、

そこには数日前に寒風が吹き込むのを防ぐために

観音開きのドアが釘で打ちつけられている。

人びとは狭い入口から飛び出そうと押し合っているうちに

充満した煙にのまれた。

翌朝ドア付近の焼け跡に、122名の死体がイナゴを

積みあげたように折り重なって発見されたという。

(62~63p)

日本から遠く離れた場所での、突然の無残な死。

無念だったはず。 

  

野本は周囲を見回した。(中略)

近くに人のいないのを確かめて、「シベリアの青い空」

という随筆と北溟子(ほくめいし)という筆者名が

目に入った。さほど関心もなかったが、

久しぶりに読む日本語が懐かしかった。

読み進むうちに、ささくれだった心が洗われていくような

心地になっていた。なによりも野本の心をつよく惹いたのは、

シベリアの青空の美しさを讃えている作者の

やわらかな感受性であった。

敗戦から5年間というもの、ラーゲリ(収容所)を転々とする

日々だった野本は、民主運動に痛めつけられて、

肋膜炎で死にかけたこともある。

他人の死は数えきれないほど見てきた。

「死」の痛みにさえ鈍くなっていた。

ましてやシベリアの空が美しいなどと考えもしなかった。

第一、空をしみじみ眺めてみるような心の余裕などがなかった。

不思議な人物もいるものだという驚きとともに、

「そうか、シベリアにも青空があったのか」という、

思いがけないものでも見つけたようなほろ苦い気持が広がった。

読み終えたあと、厳しいラーゲリ生活の中で、

青空に詩的な幻想を馳せるだけの心のゆとりを見せる

山本北溟子(山本幡男)という人物へ、にわかに興味が湧いた。

(77~78p)

  

普請場に燕大きく来りけり 栗仙

  

森田のこの句が山本(幡男)によって選ばれたときには、

「栗仙君のこの句はいいね。作業場にも、

ああもう夏がやってきたなという作者の思いが、

燕大きくによってでてますよ」

シベリアでは、燕(ツバメ)が夏を運んでくる。

長く厳しい冬のあと、一挙に訪れる夏は、

すべてのものが生き生きとしてくる。

燕がまるで「生命」を運んでくる使者のようだった。

ロシア人は溌溂として初々しい娘のことを

ラストチカ(燕)とよんでいた。

(82p) 

  

日本の場合は春に来るツバメ。

シベリアは夏なのですね。

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