「収容所から来た遺書」4/1953年長期抑留者帰還第一次
今日は令和元年6月20日。
前投稿に引き続き、
「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(辺見じゅん著/文藝春秋)より
引用します。
あるとき、山本(幡男)が虎林(こりん)での初年兵時代の
話をしたことがあった。(中略)
1945(昭和20)年1月、山本は部隊長室に呼び出された。
「山本二等兵は、ハルビン特務機関への配属となった。
明朝、出発せよ」
部隊長は命令したあと、山本が満鉄調査部にいたことを知っていて、
「おめでとう、竜が雲を得たようなものだな」
と励ましてくれた。山本が去ったその翌日、
虎林の部隊は南方戦線へ移動となった。
輸送船で送られる途中、敵機の爆弾で撃沈されて
五百名の将兵は戦死してしまった。
そんな話をすると、山本は眼鏡の奥の眼をうるませていった。
「ぼくひとりだけ・・・・生き残ってしまったのですよ」
(111~112p)
虎林は、現在の地図では、ここです。↓
「新妻ですぞ、なんと新妻からの手紙です」
のぞき込んだ男が声を高くしてまわりの者に伝えた。
「新妻だ」の言葉は、ひとしきり同じバラックの
仲間たちの口にのぼるようになった。
その男はもちろん他の人びとにとっても、
七年の歳月を隔ててなお新妻は「新妻」のままなのだ。
その手紙を書いた妻は、またたく間に同じ部屋の人びとの
共通の「新妻」になっていた。
(149p)
スターリンの死は、わずかだったが確かにラーゲリ内に
明るい雰囲気を運んだ。
日本からの小包が、とつぜん許可になった。
日本の味といえば、ラーゲリを訪れた富山県出身の
高良(こうら)とみが、郷里の留守家族たちから頼まれたといって
帰国後に一度だけ東京から山本海苔を送ってきたことがあった。
富山県出身者たちは自分たちだけで故国の味を
楽しんでは済まないといって、
みんなに少しずつ分けた。
すぐに口に入れる者はなく、みな掌のうえに乗せて眺めたり、
匂いを嗅いだり、触ったりして楽しんだ。
そのときの海苔の味が忘れられず、長谷川は句会のときなど、
「血に沃度(ようど)が急にふえたような気がしたねえ」
と、なん度も山本(幡男)たちと話したものだった。
(160p)
沃度(ようど)=ヨウ素。海藻から摂取できる物質。
日本から送られてくる小包は、
人びとにもうひとつの新しい情報をもたらした。
収容所のソ連人たちは日頃、日本は不況で国民は
貧困に苦しんでいるといっていた。
しかし、送られてきた品々から祖国が想像以上に
復興している様子が感じられて話題になった。
(161p)
五か月間もナホトカのラーゲリに留められていた
小高や黒田たちは、別のラーゲリからきた人びとと合流して、
(1953年)12月1日に京都の舞鶴港に上陸した。
この時の稊団長は長谷川宇一だった。
長谷川以下811名の帰還者は、長期抑留者帰還第一次と呼ばれている。
このなかには、一般邦人391名の他に、女性9名、子供1名、
病人27名がまじっており、そのうちの約300名は樺太にいた
民間人だった。
帰還船「興安丸」での二昼夜の航海中から長谷川たちは、
8年間に及ぶシベリアでの疲労もかえりみず抑留者たちの
名簿作りを始めた。
すべては記憶にたよっての作業だったが、
1612名の残留者名簿と500名を超える志望者リストを
作成した。
長谷川たちは舞鶴に着くと間もなく、残された同胞の
帰還運動にとりかかり、国会へ請願に行くなど活発に
活動をし始める。
シベリアの俘虜のうち60万人近くがそれまでに
帰国していたが、組織だった引揚運動が起きたのは、
このときからである。
長期抑留帰還第一次の人びとは、それぞれ手分けして
残留した仲間たちの留守宅を訪ね歩き、その消息を伝えた。
(173p)
たくさん引用してきました。
シベリアではこんな状態だったんだ。
こんなことが起きていたのか。
そんなことを思って読みました。
シベリア抑留のことは、映像で以前見た覚えがありますが、
記憶がうっすらです。残念。
きっとその時のアウトプットが十分ではなかったのでしょう。
全てを知ることはもちろん無理ですが、
これらのことを知らずに、シベリア抑留の上っ面しか
教えてこなかったなあ。
まだ引用は続く。
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