「収容所から来た遺書」8/山本幡男の遺書「妻よ!」「子供達へ」
今日は令和元年6月22日。
前投稿に引き続き、
「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(辺見じゅん著/文藝春秋)より
引用します。
山本(幡男)はこの母に、自分が可愛いと思われるなら、
いつまでも元気で四人の孫たちの成長のために
妻に協力して欲しいと懇願したあと、
妻のモジミに夫としての最後の語りかけをした。
〈妻よ!よくやった。実によくやった。
夢にだに思はなかったくらゐ、
君はこの十年間よく辛抱して闘ひつづけて来た。
これはもう決して過言ではなく、殊勲甲だ。超人的な仕事だ。
失礼だが、とてもこんなにまではできまいと思ってゐた私が
恥しくなって来た。
四人の子供と母とを養って来ただけでなく、大学、高等学校、
中学校、小学校とそれぞれ教育していったその辛苦。
郷里から松江、松江から大宮へと、孟母の三遷の如く、
お前はよくまあ転々と生活再建のために、子供の教育のために
運命を切り拓いてきたものだ!
その君を幸福にしてやるために生まれ代ったやうな
立派な夫になるために、
帰国の日をどれだけ私は待ち焦がれてきたことか!
一目でいい、君に会って胸一ぱいの感謝の言葉をかけたかった!
万葉の烈女にもまさる君の奮闘を讃へたかった!
ああ、しかし到頭君と死に別れてゆくべき日が来た。
私は、だが、君の意志と力とに信頼して、死後の家庭のことは、
さほどまでに心配してはゐない。
今まで通り子供等をよく育てて呉れといふ一語に尽きる。
子供等は私の身代わりだ。
子供等は親よりもどんどん偉くなってゆくだろう。
君は不幸つづきだったが、之からは幸福な日も来るだろう。
子供等を楽しみに、辛抱してはたらいて呉れ。
知人、友人等は決して一家のことを見捨てないであらう。
君と子供らの将来の幸福を思へば私は満足して死ねる。
雄々しく生きて、生き抜いて、私の素志を刻苦奮闘と意志のたくましさ、
旺盛なる生活力に感激し、感謝し、信頼し、
実によき妻をもったといふ喜びに溢れてゐる。さよなら。〉
(212~213p)
妻への信頼と感謝にみちた言葉のあとに、
山本(幡男)は、子供たちへの遺言を書いた。
〈子供達へ。
山本顕一 厚生 誠之 はるか 君たちに会へずに
死ぬことが一番悲しい。
成長した姿が、写真ではなく、実際に一目みたかった。
お母さんよりも、モジミよりも、私の夢には君たちの姿が
多く現れた。それも幼かった日の姿で・・・・
あゝ何という可愛い子供の時代!
君たちを幸福にするために、一日も早く帰国したいと思ってゐたが、
到頭永久に別れねばならなくなったことは、
何といっても残念だ。第一、君たちに対して
まことに済まないと思ふ。
さて、君たちは、之から人生の荒波と闘って生きてゆくのだが、
君たちはどんあ辛い日があらうとも光輝ある日本民族の一人として
生まれたことを感謝することを忘れてはならぬ。
日本民族こそは将来、東洋、西洋の文化を融合する唯一の媒介者、
東洋のすぐれたる道義の文化ーーー人道主義を以て
世界文化再建に寄与し得る唯一の民族である。
この歴史的使命を片時も忘れてはならぬ。
また君達はどんなに辛い日があらうとも、人類の文化創造に参加し、
人類の幸福を増進するといふ進歩的な思想を忘れてはならぬ。
偏頗(へんぱ)で矯激(こうげき)な思想に迷ってはならぬ。
どこまでも真面目な、人道に基く自由、博愛、幸福、正義の道を
進んで呉れ。
最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである。
友だちと交際する場合にも、社会的に活動する場合にも、
生活のあらゆる部面において、この言葉を忘れてはならぬぞ。
人の世話にはつとめてならず、人に対する世話は進んでせよ。
但し、無意味な虚栄はよせ。
人間は結局自分一人の他に頼るべきものが無いーーーーという覚悟で、
強い能力のある人間になれ。自分を鍛へて行け!
精神も肉体も鍛へて、健康にすることだ。強くなれ。
自覚ある立派な人間になれ。
四人の子供達よ。
お互いに団結し、協力せよ!
特に顕一は、一番才能にめぐまれてゐるから、長男ではあるし、
三人の弟妹をよく指導してくれよ。
自分の才能に自惚(うぬぼ)れてはいけない。
学と真理の道においては、徹頭徹尾敬虔(けいけん)でなくてはならぬ。
立身出世さど、どうでもいい。
自分で自分を偉くすれば、君達が博士や大臣を求めなくても、
博士や大臣の方が君達の方へやってくることは必定(ひつじょう)だ。
要は自己完成!
しかし、浮世の生活のためには、致方なしで或る程度
打算や功利もやむを得ない。
度を越してはいかぬぞ。最後に勝つのは道義だぞ。
君達が立派に成長してゆくであらうことを思ひつつ、
私は満足して死んでゆく。
どうか健康に幸福に生きてくれ。長生きしておくれ。
最後に自作の戒名
久遠院智光日慈信士
一九五四年七月二日 山本幡男 〉
「このノートは、しばらく私が大切に預るからね」
佐藤がいうと、山本(幡男)が頷くようにし、
疲れたのか眼を閉じた。
寝返りも打てぬほどの激痛の山本が、
わずか一日のあいだに15頁もの遺書を書きあげた気力に
佐藤は胸うたれていた。
(214~216p)
以上の4つの遺書が、6人の長期抑留者帰還者によって記憶され、
家族に伝えられました。
一字一句、同じように。
筆跡まで真似た人もいました。
思いのこもった遺言なので、6人は行動したのでしょう。
ドラマチックな話です。
つづく
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