「収容所から来た遺書」7/山本幡男の遺書「本文」「お母さま!」
今日は令和元年6月22日。
6月20日の投稿に引き続き、
「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(辺見じゅん著/文藝春秋)より
引用します。
遺書は全部で4通。ノート15頁にわたって綴られていた。
1通は「本文」とあり、他の3通は「お母さま!」「妻よ!」
「子供達へ」となっている。
〈山本幡男の遺家族のもの達よ!〉
遺書の「本文」は、この呼びかけから始まっていた。
〈到頭ハバロフスクの病院の一隅で遺書を書かねばならなくなった。
鉛筆をとるのも涙。
どうしてまともにこの書が綴れよう!
病床生活永くして2年3カ月にわたり、
衰弱甚だしきを以て、意の如く筆も運ばず、
思ったことの何分の一も書き表せないのが何より残念。
皆さんに対する私のこの限り無い、無量の愛情とあわれみのこころを
一体どうして筆で現すことができようか。
唯、無言の涙、抱擁、握手によって辛うじてその一部を
表し得るに過ぎないであらうが、
ここは日本を去る数千粁(キロメートル)、
どうしてそれが出来ようぞ。
唯一つ、何よりもあなた方にお願ひしたいのは、
私の死によって決して悲観することなく、落胆することなく
意気ますます旺盛に振起して、
病気せざるやう
怪我をしないやう
最新の注意を払って、丈夫に生き永らへて貰いたい、
といふことである。
健康第一。私は身を以てしみじみとこの事を感じました。
決して無理をしてはいけない。
少しでもおかしいと思ったら、
身体の具合を予め病気を防止すること。
帰国して皆さんを幾分でも幸福にさせたいと、
そればかりを念願に十年の歳月を辛抱して来たが、
それが実現できないのは残念、無念。
この上は唯皆さんの健康と幸福とをお祈りしながら
寂光浄土へ行くより他に仕方が無い。
私の希みは唯一つ、子供たちが立派に成長して、
社会のためにもなり、文化の進展にも役立ち、
そして一家の生活を少しづつでも幸福にしてゆくといふこと。
どうか皆さん幸福に暮らして下さい。
これこそが、私の最大の重要な遺言です。〉
山本はこの「本文」と冒頭に書かれた一文のあと、
「お母さま!」と、老いた母マサトへ、子として先立つ不孝と
期待に添えなかった思いをこめ、遺書を記していた。
読みながら、佐藤は涙があふれてくるのを山本(幡男)に
見せまいとこらえた。
〈お母さま!
何といふ私は親不孝だったでせう。
あれだけ小さい時からお母さんに(やはりお母さんとよびませう)
ご苦労をかけながら、お母さんの期待には何一つ副(そ)うことなく、
一家の生活がかつかつやっとといふ所で何時もお母さんに心配をかけ、
親不孝を重ねて来たこと私を何といふ罰当りでせう。
お母さんどうぞ存分この私を怒って叱り飛ばして下さい。
この度の私の重病も、私はむしろ親不孝の罰だ、
業(ごう)の報いだとさへ思ってゐる位です。
誰も恨むべきすべもありません。
皆自分の罪を自分で償うだけなのです。
だから、お母さん、私はここで死ぬることをさほど悲しく思ひませぬ。
唯一つ、晩年のお母さんにせめてわづかでも本当に親孝行したいーーー
と思ひ、楽しんでゐた私の希望が空しくなったことを残念、無念に
思ってゐるだけです。
お母さんがどれだけこの私を待って、待ってゐなさることか。
来る手紙毎にそのやさしいお心もちがひしひしと胸に沁みこんで、
居ても立ってもをれないほどの悲しみを胸に覚えたものです。
唯の一目でもいいから、お母さんに会って死にたかった。
お母さんと一言、二言交すだけで、
どれだけ私は満足したことでせう。
十年の永い月日を私と会ふ日を唯一の楽しみに生きてこられた
お母さんに、先立って逝く私の不幸を、
どうかお母さん許して下さい。
しかし、お母さん、私が亡くなっても決して悲観せず、
決して涙に溺れることなく、雄々しく生きて下さい。
だって貴女は別れて以来十年間あらゆる辛苦と闘って来たのです。
その勇気を以て、どうか孫たちの成長のためにもう十年間
闘っていただきたいのです。
その後は少しは楽にもなりませう。
私がこの幡男が本当に可愛いと思はれるなら、
どうか私の子供等の、即ちお母さんの孫たちの成人のために
倍旧(ばいきゅう)の努力を以て生きて戴きたいのです。
やさしい、不運な、かあいさうなお母さん。さやうなら。
どれだけお母さんに逢ひたかったことか!
しかい、感傷はもう禁物。強く強く、あくまでも強く、
モジミに協力して子供等を(貴女の孫たちを)成長させて下さい。
お願いします。〉
(208~210p)
つづく
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