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2015年4月

2015年4月18日 (土)

「下からあいさつ」を実行する新年度

  

今日は4月18日。

  

新年度。

ずっとやってみたいと思ったことを実行に移すことにしました。

  

「下からあいさつ」です。

  

ここで書きました。

ここでも道草 下から挨拶をするのが有効だと思う(2014年12月7日投稿)

  

しゃがんだりして、低い位置から登校してくる子どもたちに

あいさつをする「下からあいさつ」

私は、昨年の11月くらいに始めて、継続してやってきました。

もうじき半年になります。

その結果気がついたことなどをランダムに書いてみます。

  

〇立ってあいさつをすると、集団に向かってあいさつをしている感覚だが、

 下からあいさつは、顔を合わせる可能性が増えて、ひとりひとりとあいさつを

 している感覚になる。あいさつをする方も、返す方もそうなる。

〇できたら全員に声をかけたくなる。

 声の大きさも大事ですが、それ以上に、

 たくさんあいさつをすることをめざすようになる。回数が増える。 

〇あいさつをされた子が、自分にあいさつをしてもらったんだと気がつく。

〇誰があいさつを返してくれたのか、誰がしてくれなかったか、

 誰がしてくれるようになったか、誰をあいさつができるようにしたいか、

 誰があいさつをしていないようでも実は口が動いていたかなど、

 個が見えてきて、個をどうしたらいいかと対応を考えられる。

〇低学年の子、うつむいて歩いている子と顔を合わせることができる。

〇雨の日、傘をさしている子でも、顔を合わせる可能性が高まる。

〇あいさつの基本は1対1。相手をきちんと認めてあいさつをするべき。

 今までのやり方は大ざっぱすぎて、そうなっていない。

 元気さえよければいいという大雑把な評価になってしまう。

 あいさつの心地よさを味わうには、たくさんの人数の中でも、

 1対1のあいさつを実行すべき。顔を合わせやすい「下からあいさつ」は有効。

〇顔を合わせるから、いろいろな表情に会える。笑顔、暗い顔、いつもと違う顔。

 その子の”今日”がわかる。

〇あいさつをかける側の表情も、顔を合わせるのだから重要になってくる。

 どのような顔をしてどのようなあいさつをしたら、

 相手からいいあいさつが返ってくるか考えるようになる。

〇こちらが絶対にあいさつを返してくれる人とお墨付きをもらえば、

 向こうから進んであいさつをもらえる。継続が大事ということ。

  

  

以上です。今のところこんなんことに気がつきました。

新年度。生活委員会の顧問に再びなったので(4年目)、

「下からあいさつ」を生活委員と一緒にやりたいと思います。

この土日で、具体的な案をつくって、週明けに提案します。

「風化」以前に「知らない」/「薬を振る」を聞くぞ

  

今日は4月18日。

  

先週の「サンデーモーニング」で、

ペリリュー島両陛下訪問のニュースをやっていました。

コメンテーターの大宅映子さんが言った言葉が、

今も印象に残っています。

  

(戦争の)「風化」といわれるけど、「風化」以前に「知らない」と思います。

「ペリリュー」のことをどれだけの人が知っていたか。

私は知らなかった。

  

このようなことを言っていました。

私も昨年の夏までペリリュー島での戦いのことを知りませんでした。

そして、両陛下の訪問のニュースで、

アンガウル島の戦いのことを初めて知りました。

まず知ること。そして伝えること。

このブログは勉強して発信する場所。少しは風化防止に貢献したい。  

  

    

  

話は変わって・・・・

来週の楽しみをひとつ紹介します。

コレステロール過多のために4週間に1度病院に行っています。

病院に行った後には、薬局に行きます。

薬ももらうためです。

いつもはそれだけです。

でも来週は、薬局の薬剤師さんに次のことを聞いてみたいです。

  

「薬を振る」

  

この言葉の意味というか行為を具体的に教えてもらいたいです。

さらに今でも使われている言葉なのかも教えてもらいたいです。

参考:ここでも道草 「ルビをふる」→→→「神輿を振る」映像(2015年4月2日投稿)

↑この記事で疑問に思いました。

  

「振る」の一つの意味に「煎じて出す」という意味があり、

その用例として出てきたのが「薬を振る」でした。

薬剤師に聞きたいと思っていました。それがもう少しで現実になります。

「ん」で終わる長い言葉

  

今日は4月18日。

  

この本がなかなかよかったです。

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 「クラスを『つなげる』ネタ大辞典」

(中村健一編著/黎明書店)

  

人間関係力を子どもたちに身につけさせたいと思っている時なので、

この本のタイトルに注目して買いました。

  

さっそくやってみたのが、表紙の中にもある

「『ん』で終わる長~い言葉を探せ!」(92p)を実施してみました。

  

少し引用すると・・・

  

「ん」で終わる一番長い言葉を見つけた人が勝ちという遊びです。

意外な子が優勝することも多く、友達から認められます。

(中略)

つなげる教師の次の一手

子どもたちは、こういう知的な遊びが大好きです。

特に指示しなくても、次の日には「先生、こんな言葉があった!」

と言いに来ます。(中略)

ペア(2人)で考える、班(4人)で考えるなどのルールにすれば、

子どもたちはもっと「つなげる」ことができます。(92p)

    

  

1ページに1ネタが紹介されていて、

「つなげる教師の次の一手」のコーナーがあり、参考になります。

さて、わがクラスでやってみての最高は、

「さるのせんせいとへびのかんごふさん」(17文字)でした。

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学級文庫にあったこの本のタイトルです。

  

  

  

2015年4月17日 (金)

ダンゴウオの本を見つけた!

  

今日は4月17日。

  

また間が空いてしまいました。出勤前に1本投稿。

昨日は久々の自転車通勤。今月3日目。今日も自転車で行けそうです。

雨の多い4月です。目標の月間10日以上の自転車通勤。可能かな?

  

地元の市の中央図書館で毎月30冊ほどの本を、

ボランティアの方たちが借りてきてくれます。

各学級で借りてきて欲しい本を書いて、ボランティアの人に渡します。

  

その時に私が利用するのが、

「教文館ナルニア国」のメルマガです。

ナルニア国メルマガ申込フォーム

児童書の新刊を紹介してくれます。

一度は昨年末に休刊してしまったのですが、 

3月末に復活していました。

  

そこでいろいろな本を選びました。

  

特に気になる本は、次の本です↓

  

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「ダンゴウオの海」

鍵井靖章 文・写真  フレーベル館

   

  

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「アイちゃんのいる教室 3年1組」

高倉正樹 文・写真  偕成社

  

  

「ダンゴウオ」「ダウン症」・・ともに関心があることです。

来週22日に、教室に届きます。楽しみです。

  

さあ、朝ごはん!

2015年4月13日 (月)

”Bicycle Race” 自転車好きの歌

  

今日は4月13日。

  

4月早々に見た番組「世紀を刻んだ歌2 ボヘミアン・ラプソディ殺人事件

(2月13日放映/2002年の再放送)を見たおかげで、

QUEENが聴きたくなりました。

レンタル店で借りてきたのが、「グレイテスト・ヒット」(1981年)です。

Cover   

いい曲ばかりですが、印象に残って、

朝の教室での仕事のBGMになっているのが、

”Bicycle Race”です。

Queen - Bicycle Race (Lyrics)
YouTube: Queen - Bicycle Race (Lyrics)

  

次のサイトから一部引用しました。↓

洋楽歌詞和訳なんてキアイとソウル "Bicycle Race"-Queen

  

曲の出だしはこんな歌詞です。

  

Bicycle bicycle bicycle
I want to ride my bicycle bicycle bicycle
I want to ride my bicycle
I want to ride my bike
I want to ride my bicycle
I want to ride it where I like
自転車だよ、自転車
とにかく自転車に乗りたいんだ
自転車に乗りたいんだ
自転車に乗りたい
自分の自転車に乗って
行きたいところに行くんだ

  

自転車に乗りたくてしょうがないといった歌詞です。

”Bicycle"の連呼は、ひたすら自転車に乗りたいという気持ちでした。

天気が悪く、いまだに4月の自転車通勤はまだ2日。

どうなっているの?最近の天気?

明日も天気が悪く、自転車で行けない可能性高し。

この歌の気持ちになりつつあります。

「行きたいところに行くんだ」という自由さはありません。

ひたすら勤務校を目指しています。

  

  

こんな歌詞もありました↓

Photo  

2行目

You say John I say Wayne

ジョンと言うなら、ウェイン

  

こんなところにジョン・ウェン登場。

1978年発表の曲。

ジョン・ウェンが亡くなったのは翌年の1979年。

アメリカの象徴である映画俳優の名前を歌詞に入れ込んできました。

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子どもの頃に、西部劇映画に夢中で、

ジョン・ウェンが死んだ時のテレビの追悼映画は見た覚えがあります。

ラストシーンは、家の扉を開けて出て行くジョン・ウェンの後ろ姿。

去っていく場面でした。

死んで去っていったジョン・ウェンと重なった場面でした。

あの映画、何だったんだろう?

  

  

脱線してしまいました。

この曲、純粋に自転車好きの気持ちを歌った曲だといいのですが、

イギリス英語"Bicycle"には、隠語で別の意味があります。

確かに、過激?なロック歌手が”自転車に乗りたい”なんて連呼するのは

違和感があります。

隠語の意味を知ると、ちょっと合点がいきます。

参考:知恵袋

  

  

まあ、子どもがいない朝・晩の教室でのBGMにしましょう。

  

  

2015年4月12日 (日)

4月12日 ナシの花撮影/2015年山が笑った日

  

今日は4月12日。

  

ちょくちょくテレビ番組を見ていましたが、ここへの記録がなかったので、

今回の投稿の末尾にまとめて書いておきます。

  

昨日は久々に墓参りに行きました。

父親と娘と3人で行きました。

その時に、梨(ナシ)の花を撮影に行きました。

  

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まだ間に合いました。

梨(ナシ)の花の白さがいいなあ。

  

  

お墓のある場所からの撮影↓

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Rimg1419  

山が笑っていると思いました。

2015年4月11日が山が笑った日として認定したいと思います。

  

過去の「山が笑った日」です。

 

平成17年 4月21日

平成18年 4月21日

平成19年 特定できず

平成20年 4月19日

平成21年 4月10日

平成22年 4月14日

平成23年 4月18日

平成24年 4月16日

平成25年 4月 8日

平成26年 4月10日

平成27年 4月11日

  

娘に他の季節はどういうの?

と質問されて即答できませんでした。

過去に2回書いています。

ここでも道草 「春山淡冶(たんや)にして笑うが如し」(2009年4月23日投稿)

ここでも道草 山の四季の表情を復習(2012年4月22日投稿)

もう一度書くぞ。

春・・・山笑う

夏・・・山滴る(したたる)

秋・・・山装う/山粧う(よそおう)

冬・・・山眠る

 

なかなか覚えられませんね。

 

  

  

〇4月5日視聴 大河ドラマ「花燃ゆ 14 さらば青春」(4月5日放映)

 吉田松陰 久坂玄瑞 高杉晋作

〇4月5日視聴 「世界ふしぎ発見 日本初 ピラミッド登頂 201段全段計測」

 (2015年3月14日放映)

 竹内 海南江 クフ王 ピラミッド 考古学者 河江肖剰(ゆきのり) 

〇4月9日視聴 「ニュースウオッチ9」「NEWS23」・・ペリリュー島慰霊ニュース

 (2015年4月9日放映)

〇4月10日視聴 ドラマ「かぶき者慶次 ①」(2015年4月9日放映)

 前田慶次

〇4月11日視聴 「知恵泉 世界を変える発信力 ジャーナリスト 石橋湛山」

 (2014年10月14日放映)

〇4月11日視聴 「探Q!Aトリップ 豊橋」(2015年4月4日放映)

 市電 ウズラの卵 手筒花火 豊橋筆

ペリリュー島に関するニュース7/倉田さんの涙

  

今日は4月12日。

  

前投稿のつづき。

  

4月9日放映の「NEWS23」(CBCテレビ)の聞き書きです。

「NEWS23」でも倉田洋二さんが紹介されました。

  

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倉田洋二さん。アンガウル島からの数少ない生還者だ。

島での戦いは1ヶ月にも及び、最後には日本兵のほとんどが、

爆弾を抱えて突撃。

およそ1200人が亡くなった。

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だが倉田さんは、洞窟に残った。

  

(倉田さん)「左半身動けなかったもので、『お前残って自決しろ』と言われて

    手榴弾1発ですよ。」

  

洞窟に残され暮らしていた時に、目の当たりにしていた光景が、

今でも忘れられない。

  

(倉田さん)「焼けた木かと思って行ってみるとね、そうじゃないんです」

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   「ハエなんです。ハエが羽化する寸前なんです」「真っ黒く」

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   「その下には必ず戦友がいるんですよ」「真っ黒ですよね」

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(倉田さん)「遺骨をなんとかしてもらいたいですね」

   「陛下のため、国のためで、みんな死んでますからね。」

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今日(9日)倉田さんは、アンガウル島で亡くなったおよそ1200人の

戦死者名簿を持ち、両陛下と言葉を交わした。

  

(倉田さん)「言いたいことはたくさんあったんですけど、

    胸が詰まって言えませんでした。」

   「来ていただいてありがたいという意志だけ伝えました」

   「両陛下の言葉をですね、アンガウルで戦死した連中に伝えたいです」  

  

   

NHKのニュースでは、

「もう何十年も経っていますからね、涙も枯れてますから」

と言っていた倉田さん。

でも戦友の無残な死に方を思い出して、涙を流していました。

枯れるわけないですよね。たくさん泣いてこられたと想像します。

蛆虫として人肉を食し、戦友の体表で羽化するハエ。

ハエは残酷です。

死体だけでなく、弱っている体にもハエは卵を産むそうです。

  

  

天皇陛下がペリリュー島に行ったことが注目される理由が、

倉田さんの言葉の中にありました。

兵隊たちは、天皇陛下のため、国のために戦うと口にしていたということです。

命をかけた天皇陛下が慰霊に来たことは、やっぱり特別なのです。

  

7回に渡って書いてきました。

誕生日の日に、ペリリュー島のみならず、アンガウル島のことが

勉強できました。

ここにもしっかり記録したぞ。

ペリリュー島に関するニュース6/土田さんの忘れられない記憶

  

今日は4月12日。

  

前投稿のつづき。

  

4月9日放映の「NEWS23」(CBCテレビ)から聞き書きします。

  

あの凄惨な戦闘から70年が経った。

パラオ訪問中の天皇皇后両陛下は、太平洋戦争の激戦地、

ペリリュー島の地を踏まれた。

両陛下が訪れたのは、戦後日本政府が建てた「西太平洋戦没者の碑」

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日本から持ってきた白い菊の花束を供えると、

しばらくの間、深く拝礼された。

 

両陛下と言葉を交わした土田喜代一さん。

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海軍上等兵として、この島で戦い生き残った数少ない人物だ。

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両陛下からは、

「ペリリュー島を訪れるのは14回目ですね、どうぞお元気で」

と声をかけられたという。

 

(土田さん)「おそらく(犠牲となった)1万名が非常に喜んでいると思いました。

    この日を忘れることはないだろうと思った70年の今日の日だと思います」

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1944年の9月、アメリカ軍が上陸。

圧倒的な戦力を前に、絶望的な戦いを強いられたという。

日本軍は、島内に500もの洞窟陣地を構築し、ゲリラ戦を展開。

土田さんには、どうしても忘れられない記憶がある。

  

(土田さん)「『よし 今から戦車攻撃』『希望者3名だ。希望者は手をあげろ』と

    言われ・・・」

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爆弾を抱えて、敵の戦車に突っ込む肉弾作戦の命令。

3人の希望者が募られ、すぐに2人が志願したが、もう1人が現れない。

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すると、友人が志願。

その後、爆音が響いた。

  

(土田さん)「やっぱり毎日思い出さんと、寝きれないかたちですね」

   「(友人が)戦車攻撃に行って死んだこと、思い出すと涙が出ますね」

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日本からはるか遠く離れた南の島で散った1万人あまりの命。

最後まで戦い生き残ったのは、土田さんを含む34人だった。

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戦闘終結後も、土田さんらは、アメリカ軍が終戦を知らせようとしても信じず、

2年近くも洞窟に潜んでいたという。

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(土田さん)「ペリリュー島というのは、こういう戦いの島であったということを、

    世の中に知らせることができて、私たちには非常にうれしいです。」 

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土田さんのおかげでもあります。

土田さんの発言が、私にペリリュー島での戦いの凄惨さを教えてくれました。

  

「NEWS23」でも、倉田洋二さんのことが紹介されていました。

次の投稿で書きます。

  

ペリリュー島に関するニュース5/父親の記憶がない遺族、戦車地雷

  

今日は4月12日。

  

前投稿のつづき。

  

下記の投稿で、田中恭子さんのことを書きました。

ここでも道草 ペリリュー島に関するニュース2/両陛下の9日の動き(2015年4月11日投稿)

その田中さんについては、4月9日の朝日新聞夕刊に記述がありました。

ペリリュー島の記事は、1面に大きく載っていましたので、

4分割してスキャナしました。

載せてみます。

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田中さんの記事は4つ目です。

「遺族」と言いますが、田中さんのように、

父親の記憶がない遺族もいるわけです。

その田中さんは父親の姿を追って、月日を重ねてきたようです。

自分は昨年やっと知ったペリリュー島の戦いは、

このような遺族を生み出していました。

  

  

土田喜代一さんは、「瓶の中の2匹のサソリ」発言をした人として、

とても印象に残っています。

ここでも道草 「ペリリュー」その2/瓶の中の2匹のサソリ/砲身の細い戦車(2015年8月19日投稿)

 

その土田さんが、また印象に残る話をしています。

 

「決して忘れることのできない光景」と話すのは、

地雷を手に米軍の戦車に向かっていった1等兵の姿だ。

周囲がおじけづく中、

「行って参ります!」と真っ先に手を挙げた。

「彼の勇気に命を救われたのです」

  

強烈な体験です。

そりゃあ、忘れられない体験です。

その場に居合わせたら、と考えると背筋が寒くなります。

しかし、こうやって土田さんが生き残ったから伝えられた話です。

きっと戦場では、勇気ある行動がたくさんあったと思いますが、

それを目撃した人も死んでいては、結果埋もれていってしまいます。

無念なことだと思います。

  

  

戦車地雷について調べました。

「九三式戦車地雷」がヒットしました。

「あんぱん」と呼ばれた地雷でした。

次のサイトが参考になりました。

鎮魂の旧大日本帝國陸海軍 旧軍関連収載品

このサイトを開いてスクロールしていくと、

たくさんの写真とともに紹介されています。

Wikipediaには、気になる記述がありました。

  

本地雷は対戦車用途を主眼とする。

開発は昭和4年(1929年)6月1日に始まった。

研究のための審査が行われ、結果はできるかぎり軽量化を目指すこととなった。

昭和8年(1933年)4月から本格的に研究がおこなわれ、

同年5月、伊良湖射場にて爆薬を使用し威力と薬量を算出した後略)

 ・・・・「九三式戦車地雷」(Wikipedia)

  

「伊良湖射場」は「陸軍技術本部伊良湖試験場」のことのようです。

その気になれば行くことができる場所です。

ここに訪問した人の報告があります↓

寄る辺ない軍事遺産の旅 陸軍技術本部伊良湖試験場

また行きたい場所が増えました。

試験場の中枢施設があった場所は、小中山児童公園となっているそうです。

Photo

レ点の場所が、小中山児童公園のある場所です。

 

  

土田さんは、4月9日の「NEWS23」でも、この体験について語っています。

次の投稿で書きます。

2015年4月11日 (土)

ペリリュー島に関するニュース4/初めて知ったアンガウル島の戦い、日本とパラオ

  

今日は4月11日。

  

前投稿のつづき。

  

4月9日放映の「ニュースウオッチ9」を見ました。

天皇皇后両陛下のペリリュー島訪問で、

きっと新情報が入手できると思っていました。

それは見事に当たりました。

ペリリュー島から10kmしか離れていないアンガウル島でも、

悲惨な戦いがあったことを初めて知りました。

日本軍1200名のうち生き残ったのは50名。

その中の一人、倉田洋二さんが取材されていました。

  

アンガウル島で、倉田さんは、

アメリカ軍が上陸してきた時に迎え撃つ、砲撃部隊でした。

「70発しか弾がなかったんで、大事に戦争しました。」

という倉田さんの発言は心に残りました。

70発が無くなった時のことを考えたら、大切に使わざるを得なかったのでしょう。

そしてそれは現実になります。

倉田さんは”玉砕”には参加せずに生き残ります。

  

生き延びていることが申し訳ないと思っている倉田さんは、

1200名の戦友の名前を調べ上げて名簿を作りました。

その名簿を見ながら、「中山」「白神」の事を語る倉田さん。

その人たちの人生はそこで終わってしまいました。

ちゃんとその人たちは存在していたよと伝えたくて、

倉田さんは戦友の話をするのだと思います。

後で「小野」についても語り、

ニュースでは3名の戦友の名前が紹介されました。

本当は全員の話をしたいのではないでしょうか。

  

   

  

パラオの日本統治の歴史が気になります。

調べました。

  

次のサイトが参考になりました。

ねずさんのひとりごと 日本とパラオ 歴史を超えた友情 

読みがいのあるサイトでした。

そこに日本統治について書いてありました。

引用します。

そのドイツが、第一次世界大戦で負けた後、

パリ講和会議において国際連盟が結成され、戦勝国である日本が、

ドイツ領であったパラオを含むミクロネシアの島々一帯の統治を

委ねられることになったのが、大正8(1919)年のことです。

パラオが、日本の「委任統治領」となったのです。

  

第一次世界大戦の結果、日本が統治することになったのです。

その統治のやり方がよかったことで、パラオは親日派なのだそうです。

このサイトを読むと、そのいきさつがよくわかります。

  

もしかしたら偏りのある内容かもしれませんが、

統治時代の日本人が行ったこと、

ペリリュー島で、住民を逃がして戦ったこと、

国旗にまつわる話などを読むにつれ、

日本人はパナマで頑張ったんだなと思わせられます。

誇りに思えます。

語られていることが真実であるといいなと思います。

    

サイトで紹介された映像もオススメです。

日本とパラオ ~歴史を越えた友情~
YouTube: 日本とパラオ ~歴史を越えた友情~

  

さらにこれも↓ ほぼ同じ内容ですが。

日の丸とパラオの国旗の由来
YouTube: 日の丸とパラオの国旗の由来

  

パラオの国旗です↓

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いい勉強ができました。

  

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