ペリリュー島に関するニュース5/父親の記憶がない遺族、戦車地雷
今日は4月12日。
前投稿のつづき。
下記の投稿で、田中恭子さんのことを書きました。
※ここでも道草 ペリリュー島に関するニュース2/両陛下の9日の動き(2015年4月11日投稿)
その田中さんについては、4月9日の朝日新聞夕刊に記述がありました。
ペリリュー島の記事は、1面に大きく載っていましたので、
4分割してスキャナしました。
載せてみます。
田中さんの記事は4つ目です。
「遺族」と言いますが、田中さんのように、
父親の記憶がない遺族もいるわけです。
その田中さんは父親の姿を追って、月日を重ねてきたようです。
自分は昨年やっと知ったペリリュー島の戦いは、
このような遺族を生み出していました。
土田喜代一さんは、「瓶の中の2匹のサソリ」発言をした人として、
とても印象に残っています。
※ここでも道草 「ペリリュー」その2/瓶の中の2匹のサソリ/砲身の細い戦車(2015年8月19日投稿)
その土田さんが、また印象に残る話をしています。
「決して忘れることのできない光景」と話すのは、
地雷を手に米軍の戦車に向かっていった1等兵の姿だ。
周囲がおじけづく中、
「行って参ります!」と真っ先に手を挙げた。
「彼の勇気に命を救われたのです」
強烈な体験です。
そりゃあ、忘れられない体験です。
その場に居合わせたら、と考えると背筋が寒くなります。
しかし、こうやって土田さんが生き残ったから伝えられた話です。
きっと戦場では、勇気ある行動がたくさんあったと思いますが、
それを目撃した人も死んでいては、結果埋もれていってしまいます。
無念なことだと思います。
戦車地雷について調べました。
「九三式戦車地雷」がヒットしました。
「あんぱん」と呼ばれた地雷でした。
次のサイトが参考になりました。
このサイトを開いてスクロールしていくと、
たくさんの写真とともに紹介されています。
Wikipediaには、気になる記述がありました。
本地雷は対戦車用途を主眼とする。
開発は昭和4年(1929年)6月1日に始まった。
研究のための審査が行われ、結果はできるかぎり軽量化を目指すこととなった。
昭和8年(1933年)4月から本格的に研究がおこなわれ、
同年5月、伊良湖射場にて爆薬を使用し威力と薬量を算出した。(後略)
・・・・「九三式戦車地雷」(Wikipedia)
「伊良湖射場」は「陸軍技術本部伊良湖試験場」のことのようです。
その気になれば行くことができる場所です。
ここに訪問した人の報告があります↓
また行きたい場所が増えました。
試験場の中枢施設があった場所は、小中山児童公園となっているそうです。
レ点の場所が、小中山児童公園のある場所です。
土田さんは、4月9日の「NEWS23」でも、この体験について語っています。
次の投稿で書きます。
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