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2019年8月

2019年8月28日 (水)

「二ホンGO!」その1/「人」は二人ではなく一人でした

  

今日は令和元年8月28日。

  

2010年5月20日放映の「みんなでニホンGO!

という番組を見ました。

9年以上前の番組ですが、いい勉強ができました。

書き留めて読み物化します。

  

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ドラマ「3年B組 金八先生」の名セリフが、

番組冒頭で紹介されました。

  

金八:人は人によって支えられ、

  人の間で人間として磨かれていく

  

「人」という漢字は、2人の人間が支えあってできたという

人、二人説」が、この番組から広がりました。

しかし、本当の「人」の成り立ちは違います。

(当時)京都大学大学院の阿辻哲次教授によると、

「人」は、立っている人を横から見た姿からできたそうです。

甲骨文字の「人」です。☟

Rimg2074  

人を横から見た下のような姿が漢字となりました。☟

Rimg2075  

「人」は二人ではなく一人だったのです。

  

この番組の面白いのは、「人、二人説」のルーツを

探っていくところです。

  

ドラマ「3年B組 金八先生」の脚本家、

小山内美江子さんに会いに行きます。☟

Rimg2076_2 

小山内さんは昭和5年生まれの方。

うちの父親の一つ上ですね。

人、二人説」の出所を尋ねると、

小山内さんが女学校時代に、校長先生が行った全校修身の

時間に、何度か話されたのが元だそうです。

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人、二人説」は全校修身の校長先生の話でした。☟

Rimg2089_2

  

番組はさらに探ります。

校長先生はなぜその話をしたかです。

  

ここで明治大学の齋藤孝教授の話。

 

齋藤:戦前の教育では「知識」と「人格」を

  分けて考えなかったんですね。

  それを同時に修行して修養して伸ばしていく

  考え方が主流だったんです。

  その点で一番影響力があったのは、

  新渡戸稲造先生だと思いますね。

Rimg2090

Rimg2091

  (中略 上の写真を参考)

  当時の教育界に影響力は絶大だったと思いますね。

   

齋藤教授の意見に従って、番組スタッフは、

新渡戸稲造の故郷である盛岡市に向かいます。

 

ここで思いました。

この番組は、2010年。

東日本大震災の前年です。

まだ盛岡市は、岩手県は大震災に見舞われていないんだよなと。

1年後の地震をだれが予想できよう。

 

   

新渡戸稲造は、旧5千円札に載った方です。

Rimg2086_2  

現在の5千円札はどなただったかすぐに浮かびますか?

  

  

  

  

  

樋口一葉です。

  

それでは、2024年からは誰でしょう?

  

  

  

  

  

津田梅子です。

 

  

盛岡市でわかったことは、次の記事で書きます。

 

 

 

「びぼうぶろぐ」って名前がいいです/また同志に出会う

今日は令和元年8月28日。

  

先日、いいブログに出合いました。

いずれ?詳しく紹介したいです。

忘れないようにここに入口を作成しておきます。

びぼうぶろぐ。

「備忘録」と「ブログ」を合体させた

このブログタイトルが楽しい。

きっと、筆者の頭の中で「備忘録」「ブログ」は

いつもコロコロ転がっている言葉だったと思います。

何かしている時にふっと頭の中でぶつかって合体した

タイトル名ではないでしょうか。

 

 

サブタイトルも注目しました。

 

基本的に自分の備忘録のためですが、

同時にどなたかのお役に立てればと思いながら書いています。

 

賛成です。私もこの考え方が強いです。

そして「びぼうぶろぐ。」の内容は、テレビ番組見たり、

本を読んだりした後に、

 

今回の話は書き記しておきたいので書いておきます

  

という気持ちで書き記しています。

その書いている量が膨大です。

番組や本から引用しつつも、

自分の考え・感想をその間に入れて、

次から次に書いている印象があります。

いいですねえ。

先日も、共感できるサイトに出合って記事にしました。☟

ここでも道草 「記憶に留めておきたいからという思い」に共感(2019年8月19日投稿

  

いい番組を見たり、いい本を読んだりした場合、

そのままにしておけなくて、書き留めたいと思う人は、

世の中にたくさんいるのです。

同志にまた出会えたとうれしく思って、

その出会いを書き残しました。

2019年8月27日 (火)

「石狩平野」を楽しむ/「黝んだ」「二進も三進も」「経木」

 

今日は令和元年8月27日。

  

本「石狩平野」(船山馨著/河出書房)を

読み始めました。 

ここでも道草 北海道開拓の小説「石狩平野」「石狩川」(2019年8月22日投稿)

1967年発行の本。

今どきの本とは違います。

字が小さく、1ページに字がギッシリ。

そして漢字が難しい。

  

読みだしてすぐに読めない漢字が登場。

皆さん、読めますか? ☟

  

低い家並みの背後にうねっている黝んだ丘陵を眺めて、

北の開拓地の遅い春に不安げな眼もある。(4p)

  

んだ」は読めませんでした。

調べたら、「くろずんだ」でした。

 

予想がついたのもありました。☟

  

このまま小樽にいたのでは、二進も三進もゆかなくなるのは

目に見えていたが、そうかといって、・・・・ (11p)

 

そうか、「にっちもさっちも」はこういう風に漢字を

書くのだと感心しながら読みました。

以前見た覚えはうっすらありますが、

少なくとも最近は見たことがありません。

  

 

三本木でいつもの通り餅を仕入れると、

鶴代はおばあさんからべつに綺麗な経木を貰って、

かたちがよくての多そうなのを五個えらんで、

丁寧に包んだ。  (12p)

  

この文章も厄介です。

」は「あんこ」のことでしょう。

前後の文章から、思い出しました。

経木」がわかりません。

調べました。

読み方は「きょうぎ」

どんなものかは写真がいいでしょう。☟

156z_s2

156z_s3designsyop 岩手雫石のマダ(シナ)経木45号   

木の薄皮で作った包装材です。

これを「経木」と言うのですね。

  

 

近年はビニール袋の普及により使用量が激減。

しかし最近、通気性や殺菌性に優れていること、

使用後は焼却や堆肥化バイオマス利用ができ

環境に優しいとして再び脚光を浴びている。

引用:Wikipedia

 

これから目にすることが増えるかな。

 

  

50年前の本は、今時の本とは大違いです。

教養があったんだろうなあ、昔の人は。

あせらずに読んで、この記事のように発見を楽しみたい。

2019年8月26日 (月)

新聞からの引用/UDフォント その2

 

今日は令和元年8月26日。

  

前投稿に引き続き、8月7日の朝日新聞夕刊1面の

記事から引用します。

  

この春に文部科学省の検定を終え、2020年度から

小学校で使われる教科書にも、UDフォントが登場する。

啓林館(大阪市)は、出版する全4教科で採用した。

担当者は、障碍者への合理的配慮を求める

障害者差別解消法が16年に施行されたことや、

障害がある子とない子がともに学ぶインクルーシブ教育の

広がりなどを理由として挙げる。

教育出版(東京)も算数や社会などで使う。

(中略)

 

UDフォントは一般生活でも活用されている。

ライオンは2010年にパッケージデザインの

UD基準を策定し、現在の多くの商品でUDフォントを使う。

例えば解熱鎮痛薬のバファリンAは、

ロゴ以外は全てUDフォントだ。

担当者は「法定記載事項や注意表示などの表示が増える一方、

スペースは限られている。少しでも見やすくなるように、

と考えた」と話す。

(中略)

 

東急バス(東京)は17年夏から、停留所などを伝える

車内の液晶画面に使うようになった。

担当者は「全ての人に分かりやすく、正確な情報を伝えるため」

と狙いを語る。

(後略)

Epson093  

 

驚いたのは、バファリンAを作っているのが

ライオンだということ。

家にあるバファリンAを見てしまいました。

「ライオン株式会社」とちゃんと書いてありました。

もちろん、UDフォントも確認しました。

  

UDフォントに関心が高まった記事でした。

やっぱり新聞も勉強になります。

新聞からの引用/UDフォント その1

 

今日は令和元年8月26日。

  

最近はほとんど新聞を読みません。

新聞を見るのは、しばってリサイクルごみで出す時です。

しばっている時に気になった記事を、

ここに書き留めておきたいと思います。 

8月7日朝日新聞夕刊の1面です。

  

カット見出し ☟

Epson092 

主見出し ☟

読み書き困難な子向け 学力向上にも効果

  

前文(リード) ☟

字を読みやすくすることで誤読を減らそうと開発された、

ユニバーサルデザイン(UD)のフォント(書体)を

教育現場で活用する動きが広まっている。

読み書きに困難がある子どもに効果的なだけでなく、

学力向上にもつながると期待されている。(山下智子)

  

本文 ☟

「今までの教科書やプリント類と比べたら、革命的に読みやすい」

奈良市の高校3年の松谷知直さん(17)は、

「UDデジタル教科書体」で印字された学校のプリントを見て、

こう話した。

書体メーカーののモリサワ(大阪市)が、

デジタル教科書向けに開発したUDフォントだ。

松谷さんは読み書きに困難があり、一般的な明朝体は

「文字の輪郭が青く光って、

文字が踊りだして飛んでいく」ように見える。

小学5年の頃から、太さが均一なゴシック体の方が

読みやすいことに気づいたが、

学校ではなかなか理解してもらえなかった。

母の真由美さん(45)は「学校生活において

『読める』はスタートライン。書体を変えるだけで、

そこに立てる子がいることを知ってほしい」と言う。

 

UDフォントは形がわかりやすいように、

文字の中の空間を広くとったり、

濁点を大きくしたりしていることが特徴。

モリサワが「高齢者に読みやすい字」を求めて

開発を始めたのは十数年前。

その後、弱視や、ディスレクシアなど読み書きに

困難がある子どもの学習を助ける書体も

目指すようになった。

  

弱視の専門家による研究なども踏まえて開発した

UDデジタル教科書体の場合は、

手書きに近い教科書体の長所を生かしつつ、

文字の太さの強弱を抑えたり、

「す」などにあるルールを大きくしたりした。

文字の先端がとがっているとストレスを

感じることもある発達障害の子に配慮し、

はらいやはねの先端は丸めた。

Epson091_2  

(中略)

(奈良県生駒市の)市教委の城野聖一課長(54)は

「わかりやすさは、意欲や学力の向上にもつながる」と話す。

市は今年度から、市内の20小中学校のパソコン全台に

「UDデジタル教科書体」を含む43書体のUDフォントを

入れた。

本文後半は次の記事にうちます。

  

いつぐらいだったか、明朝体は読みにくいと感じました。

そして、自分が作成する文書は、

「AR丸ゴシック体」なる書体で、うつようにしていました。

年をとって、明朝体を自然と避けてきたのでしょうか。

 

教科書体とゴシック体の補って新しい書体を作成するなんて、

いいアイデアだと思います。 

施設で見せてもらった介護用浴槽

  

今日は令和元年8月26日。

  

父親はだんだん体が動かなくなり、

風呂に入った時に、

湯船の壁を乗り越えて入ったり、出たりするのが、

すごく難しくなりました。

父親を説得して、湯船には入らず、

シャワーで済ませることにしました。

  

父親は、「施設では湯船に入っているのになあ」

「だから湯船に入るのは大丈夫」と言ってきます。

そりゃあ、施設は介護用のいい風呂なのだろうと

思いました。

施設に父親を迎えに行ったついでに、

どのような湯船に入っているのか

のぞかせてもらいました。

 

まったく同じではありませんが、こんな湯船(浴槽)でした。☟

Pansyi2 SAKAImed パーソナルケア浴槽パンジー i

 

お湯が半分までは入っていて、

椅子は、下がって、被介護者をお湯に入れることができます。

写真手前の湯船の壁も上がるので、お湯があふれません。

なるほどです。

うまく考えられています。

  

残念ながら、我が家の風呂には、

このような施設はないので、

これからもシャワーですね。

今は、週2日。

  

  

「とげぬき地蔵」はなぜ「とげぬき」?

  

今日は令和元年8月26日。

  

昨日は、家の庭の草取りをしました。

そしたら、右手中指に棘が刺さりました。

なかなか立派な棘です。

草取りは素手でやることが多く、

「軍手をはめてやってよ」と奥さんに言われますが、

昨日も素手でやっていたため、棘が刺さりました。

  

思えば、棘が刺さるなんて

うんと久々だなあと思いました。

立派なとげなので、

押し出せるかなと思って

指で押してみましたが、うまく出ません。

老眼で、照準が合いません。

私より老眼が進んでいない奥さんが、

的確に棘を指で押し出してくれました。

 

私にとって棘が刺さるのは久々でしたが、

昔は、もっと頻繁にあったことと思います。

実際、私も、子どもの時のほうが

よく刺さっていました。

親に針で棘を取ってもらったりした覚えがあります。

時々チクッと痛みがあって、

ドキドキして取ってもらっていました。

 

  

とげぬき地蔵」というのはどういうものなのだろう?

やっぱり昔のほうが棘が刺さることが頻繁にあった証拠かなと

思って調べてみました。

  

主婦・サラリーマン・年金世代の知りたいこと!の強~~~い味方! とげぬき地蔵の由来と飲むお守り御影!の飲み方・貼り方とは?

 

江戸時代中頃の正徳5年(1715年)に

毛利家の女中さんが誤って針を飲み込んでしまい、

高岩寺の地蔵尊の御影(おみかげ)のお札を

飲んでからそのお札を吐き出して洗ってみたところ、

お地蔵様に針が刺さっていたことから

「とげぬき地蔵」と呼ばれるようになりました。

  

手に刺さった棘よりも、もっと一大事でした。

ただ、このようないわれのある地蔵なので、

御影を飲むことが行われているようです。

次のサイトから引用します。

グランディール とげぬき地蔵の飲むお札御影のご利益と使い方、値段は?

2a0ec2d7bf000d3ae9dc376668045a1b  

高岩寺の「御影」の包みの中に

4㎝X1.5㎝の御影が5枚入っています。

痛みがある場合にこれを1まいずつ使用するのです。

ではどのように使用するのかというと

これを治したい箇所にあてて軽くなでながら、

南無地蔵願王尊(なむじぞうがんのうそん)」

の唱え言葉を数回となえて、御影を水で飲み込むのです。

そのままでも丸めてもたたんでもいいそうですが、

くれぐれもちぎらないように注意が必要です。

やはりありがたいお地蔵様のお姿ですので、

そこは丸めたり、たたんだりしてもちぎったりしないように

注意しましょう。

  

 

実際に飲んでみたくなりました。

世の中、やりたくなることにあふれています。

2019年8月25日 (日)

次回も楽しみな「いだてん」 ムッソリーニ首相登場

今日は令和元年8月25日。

  

今晩、NHK大河ドラマ「いだてん 32 独裁者」を

見ました。元気をもらえるドラマです。

来週もまた楽しみな内容です。

次回予告の写真です。☟

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Rimg2075  

1940年のオリンピック誘致に立候補した東京。

ライバルはイタリアのローマ。

嘉納治五郎を中心とする誘致実行委員会は、

イタリアの首相ムッソリーニに直談判して、

オリンピックを「譲ってもらおう」ということに。

次回はその直談判が描かれます。

  

  

結果はわかっています。☟

ここでも道草 「にっぽん!歴史鑑定 幻の東京オリンピックと嘉納治五郎」その1/開催地決定までの道のり(2019年3月16日投稿)

  

どう描かれるかが楽しみです。

  

今晩は父親と一緒に見ました。

父親も笑って見ていました。

父親にも元気を与えてくれました。

ありがたいです。

 

「タイムスクープハンター 改暦大騒動」を読み物化

今日は令和元年8月25日。

  

2015年1月1日放映の

タイムスクープハンター お正月パニック 改暦大騒動」を

見ました。見ることになったきっかけは、ここに書きました。☟

ここでも道草 日本は明治5年から(2019年8月23日投稿)

  

「タイムスクープハンター」の主人公

沢嶋雄一が、タイムワープで偶然訪れたのは、

明治6年1月1日でした。

Rimg2056_3

おそらく2回目の視聴です。

うっすらとしか覚えていなかったので、

今回は一部読み物化しておこうと思います。

  

Rimg2057_3 

明治6年1月1日は、特別な日でした。

 

☝ 明治政府は、明治5年11月9日に、来る12月3日より、

それまでの太陰暦から太陽暦を採用して、

12月3日を明治6年1月1日とするという布告を出しました。

(布告=明治19年(1886)以前に発布された法律、勅命、省令に

あたるものの称 引用:デジタル大辞泉

  

布告から3週間で新暦で、新しい年を迎えるとあって、

人々はおおいに戸惑ったそうです。

 

当時は「暦」という冊子を庶民が買い求めていたそうです。

Rimg2058_2 

☝  「暦」の原本は国が編纂し、許可された業者だけが印刷・販売できました。

明治6年の旧暦の「暦」も、明治5年11月9日の布告までには作られていました。

それなのに、明治5年12月3日を、明治6年1月1日にするという

布告が出てしまったために、印刷された「暦」は無駄になってしまいました。

大損害を被ったそうです。☟

Rimg2059  

明治政府が、西洋化をがむしゃらに急いでいた証拠です。

明治政府は、改暦を布告しましたが、詳しい説明をしませんでした。

そのことを心憂く思った福沢諭吉は、

太陽暦の解説書「改暦弁」を急きょ書いて販売しました。☟

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Rimg2061  

「改暦弁」はわかりやすく書かれていて人気となり、

ベストセラーになったそうです。

 

 

現在では当たり前の太陽暦。

太陰暦が太陽暦に変わると、どのようなことが困るのか?

想像つきますか?

太陰暦は月の満ち欠けに基づいた暦。☟

Rimg2062  

当時の人たちは、月の満ち欠けをとても大事にしていたようです。

「改暦による混乱」を見てください。☟

Rimg2063  

この混乱はなかなか現代の人には理解しにくい。

「真っ暗のなかで祭りをやれというのか」という

文句を言っていた人がいました。

当時は、満月の日に、満月の明かりの下でお祭りが行われるのが

当たり前だったのです。(夜、行われるお祭りの場合)

「みそか」とは「月の最終日」「月の30番目の日」のことで、

旧暦の場合は、月が出ない(月が見られない)日であるのが、

当たり前だったのです。

月の満ち欠けで、潮の満ちひきを見ていた漁師にとっては、

「暦」で見当をつけるのが当たり前だったのです。

  

  

さらに改暦にともなって明治政府は、

「暦」から「暦注」を排除しようとしました。☟

Rimg2064 

Rimg2065_2

近代化を急ぐ明治政府は、科学的根拠のない迷信の類いを、

排除しようとしたのです。

実際、後に発行された新暦の「暦」には暦注がありませんでした。

  

しかし、庶民パワーです。☟

Rimg2067_2 

暦注を記した違法な「暦」が発行されていたそうです。

発行者不明であることから「おばけ暦」と呼ばれたそうです。

 

 

今でもこういう表紙の「暦」、

売ってますよね。☟

91oo1spu0al amazon

おそらく、暦注が書いてあると思います。

(予想です)

ちゃんと生きのびています。

以上です。

いつか、この「タイムスクープハンター 

お正月パニック 改暦大騒動」を教材として使う時に、

少しは役立つかと思って、記事にしました。

これにて読み物化完了。

 

 

この番組、また始まらないかなあ。

Rimg2068

2019年8月24日 (土)

落花生の”豆”知識 落花生といったら千葉県

  

今日は令和元年8月24日。

  

前投稿に続いて落花生のお話。

  

床屋で、落花生の話題をしたら、ご主人から

「落花生と言ったら千葉県ですよ」と言われました。

そうだったけ?

社会科教師なのにピンと来ませんでした。

帰宅して奥さんに話したら、

「そりゃあ、落花生と言ったら千葉県」と言われました。

そうかあ。

ピンとこなかった私は、具体的にどうなのか調べました。

 

このサイトがいいです。☟

千葉県HP 落花生/旬鮮図鑑

  

引用します。

  

国内での落花生作付面積は、ピークであった昭和40年には

66,500ヘクタールありましたが、輸入などの影響で徐々に減少し、

平成29年には6,420ヘクタールとなりました。

現在、国内の落花生流通量は、全体の9割が外国産で、

国内産は約1割程度となっています。

国内産の約8割が千葉県で生産されています。

  

確かに千葉県は、日本国内では圧倒的に

生産量が多い都道府県でした。

さらにこのサイトによると、

沖縄では古くから落花生は栽培されていましたが、

日本(本州)で栽培が始まったのは明治時代からです。

(やっぱり明治と思いました、食革命が起きた時代ですね)

千葉県でも明治9年に初めて栽培されたそうです。

千葉県では明治・大正・昭和と落花生の栽培が継続されて、

特に昭和になって品種改良が積極的に行われました。

以下引用します。

  

昭和16年に戦時体制に入ると、

八街市の一部を除き、落花生栽培は禁止されました。

戦後、昭和21年から再び栽培が始まり、

特に栄養価の高い落花生は食品としての価値が急に高まり、

売れ行きが伸びました。

しかし、需要量を供給できなかったため、価格が暴騰し、

昭和23~24年頃に60キログラム当たり

20,000円以上になったため、八街市を中心とした

印旛郡台地での栽培が急激に増加し、

昭和27年には10,000ヘクタールを超え、

戦前の旭市に代わって、八街市が落花生の集散地として

多くの商人が誕生しました。

昭和27年には千葉県農業試験場において、

優良品種「千葉半立」が育成されます。

この「千葉半立」は栽培が比較的容易なこと、

収量が高く安定していることなどから、印旛郡だけでなく、

香取・山武・長生・君津等、千葉県の全県下にわたって

栽培されるようになりました。

また、県及び生産者の一体的な取り組みにより、

昭和36年度の作付面積は26,400ヘクタール、

生産量は61,000トンに達し、

畑作物の中で重要な位置を占めるようになりました。

その後、昭和40年頃を境に、高度経済成長期に入り、

他産業並みの農業所得が求められ、

落花生から野菜類への作付転換、農地の改廃等により、

作付面積は大幅に減少し、

昭和62年には11,500ヘクタールとなりました。

 

千葉県が他を圧倒したのは、戦後ですが、

それまでに落花生生産の礎はできていたようです。

  

このサイトのおかげで、「落花生といったら千葉県」のことが

具体的にわかってきました。

ただ「八街市」が読めませんでした。

やちまたし」と読むのですね。

Photo 八街市落花生site

前記事を書いた時に、「落花生の”豆”知識」という

タイトルが浮かんで、やったあと思いましたが、

本家では、とっくに使っていました。☝

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