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2018年1月

2018年1月24日 (水)

浜松に行ってきました その2/犬くぐり道

 

今日は1月24日。

  

前投稿の続きで、1月21日に浜松に行った時のことを書きます。

  

今回行くことにしたきっかけは、この「直虎紀行」です↓

ここでも道草 「直虎紀行」/堀川城跡 山村修理の辞世の句(2018年1月21日投稿)

  

「直虎紀行」で紹介された場所を中心に見てきました。

 

自動車を駐車したのは、「浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」の

駐車場です。

ずっと以前、姫街道ついて調べていた時に、

ここに来たことがありました。

その時には、気賀の中で、この資料館しか見ていませんでしたが、

今回は資料館ではなく、その周辺を探索しました。

 

駐車場のすぐ近くに「犬くぐり道」の説明板がありました。

事前の調べで、このことは知っていたので、さっそく見に行きました。

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説明板の文章です。

  

犬くぐり道

気賀関所を通行するためには、この町の人々でさえ

通行手形が必要でした。

しかも、夕方六時には門が閉められ、

朝は六時にならないと開けられなかったため、

大変不便でした。

そこで犬くぐりと呼ばれる抜け道が作られ、

犬が通る道として黙認されたのだそうです。

この道は、正明寺の付近から気賀の町並みの

北側の山の裾を通り、東は清水の北のはずれまで通じていました。

犬くぐりは正明寺の境内にありました。

むしろを垂らした門があり、

犬ならばくぐることができるけれども

人は立ったまま通ることができないので、

むしろの下をくぐって通ったそうです。

(参考・・白柳秀湖「関所のぬけ道」)

細江町教育委員会 細江町観光協会

  

面白い道です。

次のサイトが参考になりました。

豊橋心霊散歩 【民話】静岡県浜松市 犬くぐり道【史跡】

どうやらこのサイトの方も、今年になって出かけて行ったようです。

 

説明板にはない話が載っていました。

引用します。

  

話では、 関所があまりにも融通が利かなかったため、

そこに住む村人たちが殿様にお願いしにいったところ、

法令には逆らえないが・・・、、 粗末な道に粗末なむしろで、

この犬くぐりを作って 「犬なら通っていいぞ」 と言ったそうです。

村人たちはこれを殿様の慈悲と受け取ったそうです。

日々の暮らしに問題ない範囲として、妥協点とも言えるのですが、

あまりにもひどいような気がします。

この犬くぐり道、 使用するのは殆ど村人たちだけで、

武士はまったく使用しない。 旅人はほとんど使用しない。

もしも旅人が使っているところを見つけたら、

村人たちは旅人を関所破りとして関所に突き出していたそうです。

  

「あまりにひどい」とは思えませんでした。

知恵のように思えました。

殿様もきっと一生懸命考えたことでしょう。

この地図に「犬くぐり道」の撮影場所が示されています。

Photo

この地図は、次のサイトの中の「場所はここ」をクリックしたら出てきた地図です。

(私が「獄門畷」と打ち込みました)

大澤寺 七百人もの処刑となると・・・堀川城残党 獄門畷

  

  

寒い日でした。

晩7時くらいから雪が舞い始め、うっすら積もっていました。

明朝は雪化粧かな? おやすみなさい。

2018年1月22日 (月)

浜松に行ってきました/「WC」の元になった英語とは?

今日は1月22日。

  

前投稿の続き。今回は昨日好奇心で行動したことを書きます。 

 

浜松市の「あらたまの湯

そこでの写真です。

Rimg1761 

トイレのことは「WC」で表現されますが、

「WC」は何の略なのかあまり意識していませんでした。

「多目的WC」のことを英語でこう書いてありました。

  

Multipurpose water closet

 

 

「Multipurpose」が「多目的な」

そしてwater closet」(水の小部屋?)

「水洗トイレ」を意味する英語というわけです。

う~ん、このことを私は昔は知ってた?

自問してみて、やっぱり私は今初めて知ったと思いました。

さんざん目にしてきた「WC」ですが、

「あらたまの湯」の表示を見て、やっと元になる英語を意識しました。

  

 

ただ「water closet」が本当に英語か?となるとあやしい。 

YAOYOLOG トイレの「WC」とはどういう意味?なんの略?

↑このサイトでは、「water closet」は和製英語としています。

日刊ニュージーランドライフ トイレのWCって何の略?そもそも英語?

↑このサイトでは、以前のポットントイレと水洗トイレを区別するために、

water closet」という英語ができたけど、もう古い言い方なのだそうです。

共通して言えるのは、現在、海外では「WC」は使われていないそうです。

(ドイツでは日本同様使われていると、上記の「YAOYOLOG」には書いてありました)

 

  

ちなみに現時点で英語でどう表現するか?

「YAOYOLOG」にはこう書いてありました。

 

「トイレ」の語源である「トイレット(toilet)」は、

便器そのものを意味する為、あまり使用されず、

お風呂と一緒に設置させることが多い為、

「bathroom(バスルーム)」や、

休憩室との意味の「rest room(レストルーム)」と言うのが一般的だそうです。

  

「日刊ニュージーランドライフ」によると、

ニュージーランドでは「Loo(ルー)」と呼ばれることがよくあるそうです。

 

 

 

 

登山に行くと、女性が「花を摘んできます」と言って姿を消す時があります。

女性が用を足すときに言う言葉。

男性版もあるそうです。

「キジを撃ちに行ってきます」と言うそうです。

使ったことないなあ。  

  

登山はやめて、父親と浜松の温泉に行く

今日は1月22日。

  

1月20日に授業参観がありました。

翌日の1月21日は、雪の大川入山に登る予定でした。

実際に20日の晩、21日の朝は3時起きで準備をしていました。

新しい和かんをザックの左右につけて、悦に入っていました。

  

しかし、気が変わりました。

20日の晩の娘の言葉がひっかかっていました。

私の86歳の父親が、娘に「生きていてもしょうがない・・・」などと

ネガティブな発言をしたと聞いていました。

昨年から父親は、物忘れ度が急速に高くなり、明らかに認知症です。

現在、どうにかしたいと役場に相談し、いろいろ動いてます。

父親自身も、そのことに気がついていて、

自分への自信が失いかけています。

足腰も衰えて、歩くのも杖がなければ危なっかしいです。

弱気になっています。

元気を出させたいです。

  

そんな父親のネガティブな発言が気になって、

1日、一人で雪山を歩くことは難しい。

そこで、父親と温泉に入りうまいものを食べたいと思いました。

少し歩いて高台に登って、いい景色を見せたいと思いました。

計画を変更。

  

子どもの世話が済んだら、次は親の世話。

そう言うそうですが、実感です。

まだまだ子どもも心配ですが、今は父親が最優先です。

 

  

どこに行くかを考えました。

その時に浮かんだのが、前投稿の「直虎紀行」でした。

ここでも道草 「直虎紀行」/堀川城跡 山村修理の辞世の句(2018年1月21日投稿)

  

出かけるなら、かねてから行きたかったところもついでに見てこよう。

好奇心のウズウズは止められません。

浜松に決定。

その付近で景色のいい場所はないか、

いい温泉はないかと探しました。

ありました。

天気は快晴。暖かい。

朝、起きてきた父親にいきなり提案して、出かけました。

  

 

「少し歩いて高台に登って、いい景色を見せたい」

行ったのは、浜松市の細江公園です。

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すぐ横には、以前宴があった「国民宿舎奥浜名湖」があります↓

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駐車場から少し歩いたら、2階建ての展望台がありました↓

今の父親には、ちょうどいい歩行距離でした。

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展望台の1階からでも、十分見晴らしがよかったです。

私だけ2階に登って、景色を写しました。

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気賀の街々、そして奥浜名湖が見渡せて、いい展望台でした。

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父親も喜んでおりました。

  

「温泉に入りうまいものを食べたい」と思って出向いたのは、

あらたまの湯です。

パンフレットの写真です。

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ゆっくりできました。

70歳以上だと割引してもらえるのに、

年齢を証明するものを持参していませんでした。

明らかに70歳以上に見える父親でしたが、

割り引いてくださいと言えませんでした。

そこがささやかに後悔。

父親が食べたのはうな丼でした。

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帰りに新東名浜松SAに寄って、

浜松餃子を家への土産で買いました。

その代金は父親が払ってくれました。  

   

好奇心で出向いた場所の報告はまた後で。  

2018年1月21日 (日)

「直虎紀行」/堀川城跡 山村修理の辞世の句

 

今日は1月21日。

  

昨年8月27日に放映された「おんな城主 直虎 34 隠し港の龍雲丸」より。

  

この時の「直虎紀行」を読み物にします。

ナレーターの言葉を聞き書きします。

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浜名湖の北。田園風景が広がるこの地に、

堀川城がありました。

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永禄12年。遠江(とおとうみ)制圧遠江制圧を狙う徳川家康は、

この城を攻めます。

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抵抗する今川方の土豪たちは村人たちとともに、城に立てこもります。

しかし、わずか1日で落城。多くの命が失われました。

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村人たちを先導していた土豪の一人、山村修理(しゅり)は、城から脱出。

小高い丘の上から燃え落ちる城を見て、自害したと伝わっています。

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堀川城の北に、地元の人たちに大切に守られてきた供養塔があります。

捕虜となった人々がのちに処刑された場所です。

ここには多くの首がさらされ、獄門畷(なわて)と呼ばれました。

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当時の住民の半数が犠牲になったともいわれる堀川城の戦い。

今も人々の心に忘れられない記憶として刻まれているのです。

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徳川家康が気賀にあった堀川城を攻めたことは全く知らないことでした。

おんな城主 直虎」を見たことで知りました。

無残な戦いだったようです。

とても興味をもちました。

  

 

山村修理の辞世の句が次のサイトで紹介されていました。

戦国武将列伝Ω 山村修理と竹田高正の堀川城の話と~堀江城での中安兵部も

  

「安穏に、くらせる人は、幸せよ」

  

死ぬ時の素直な気持ちだったと思います。

無念な死だったと想像します。

 

「なぜ日本人は落合博満が嫌いか?」その3/プロ入団までのキャリア

今日は1月21日。

  

前投稿に続いて「なぜ日本人は落合博満が嫌いか?」

(テリー伊藤著/角川oenテーマ21)より引用します。

  

弱みを見せまいとする落合監督は指示されない・・・・ 

  

それでも、落合は自分の信じた道を突き進む。

「あいつがいなくなった」とか

「あいつさえいてくれたらなあ」という未練などまったく持たない。

そんな情緒的なことを言う男ではない。

「彼らの役目は終わった。いま、うちのチームには必要としない。

周りが彼らを過大評価しているだけだ」

戦力ダウンについて報道陣に聞かれても、そう言ってのける。

「落合監督。じゃあ、どうやって戦力強化するんですか?」

「何の強化もいらないんじゃない」

だれが考えても、強化がいらないはずはないのに、そう答えてみせる。

しかし、その言葉だけ聞くと、「また落合は」と誤解されてしまうが、

その後、真意をこう語っている。

(72p) 

  

え、その後、真意を語っているの?

そう思って続きを読んでみました。

  

「去年はウッズと中村紀の2人で149点取ったけれど、

彼ら2人の守備でどれだけ失点したか。

得点は減るのは事実だが、守備のマイナスが解消される。

それこそが最大なる強化だ」

ファーストのウッズ、サードの中村、センターの森野将彦。

08年の中日は、この3つが「守備の弱点」として

落合監督の頭痛の種だった。

「この守備陣では、点を余計に取られることはわかっていた。

5点、6点を取られても打線でひっくり返す野球をするしかなかったが、

その打線が機能しなかった」

本来、サードに置くべき森野をあえて外野に回したのは、

打線を重視したからだったが、

その3つの穴のおかげで「守り負け」した試合が数々あった。

中村が抜けたことで森野をサードに戻し、

守備のいい選手をセンターに配置できる。

ブランコはウッズより数段、守備がいい。

つまり、守備の穴はなくなる。

それを見越して「強化はいらない」という言葉を使ったのだ。

「いやあ、今年も守備がボロボロで、

おまけに打って返すはずの打線もさっぱりで、

まいっちゃったよ」

お笑い芸人なら、そう言ってファンに弱音を吐くところだろうが、

落合監督は静かにこう言った。

「点を与えず、どうやって1点をとるかという簡単な野球に戻すだけ」

(73p) 

 

落合監督の頭の良さというか、選手をしっかり見ているというか、

驚きです。

「その後」に説明したのはわかります。

勝負ですから、手の内を見せないのでしょう。

でも3選手を失っても、次が考えられる落合監督なのでしょう。

  

  

自分が正しいと思ったことは、どんな軋轢が生まれようとも主張する人間。

周囲との折り合いや前例なんか気にせず、信念を貫く人間。

常に有言実行、保険もかけず、退路も断って、勝利を目指す人間。

そういう人間がいないことが日本の活力を低下させているのだ。

そういう人間が、この国には必要なのだ。

つまり、いま、日本人にいちばん必要なのは「落合力」なのである。

(111p)  

「俺って、世間の人にどう思われているのだろう」とか

「好感度が下がらなように気をつけよう」などという姿勢が、

見ている人に悟られてしまうようなタレントには魅力がない。

そんなことは気にもとめていないように見える人ほど魅力的なのだ。

たとえば、所ジョージや高田純次のように、

自由で身構えていないタレントのほうが、

媚びるタレントよりも支持される。

だから、落合監督も、あのままでいい。

媚びず、はしゃがず、人目も気にせず。

それでこそ、落合監督なのである。

マスコミに嫌われたら、それを自分のパワーにする。

ファンにブーイングを浴びたら、またそれをパワーにする。

「なにくそ」というパワーこそが「落合力」の源泉なのである。

(125p)

  

この本で私が一番見習いたいのはここかもしれない。

少しぐらい批判されても、くよくよしない。止まらない。

「なにくそ」と思って、さらに動く。

実は今はその実践中。

懇談会できついことを言われて、少々くじけていました。

でも冬休みで充電。動き出しました。

成果が出てきています。

そして、この本。

「なにくそ」と素直に思って、さらに加速しそう。

タイムリーな本でした。

    

  

落合博満のプロに入団するまでのキャリアを、

この本で初めて知りました。

その部分を最後に引用します。たっぷり書き留めたい。

  

だいたいからして、この人は、さかのぼってプロに入団するまでの

キャリアを見ても、実にタフに生きている。

東洋大学の野球部をやめて、学校も1年で中退。

ふつうの野球選手なら、そこでキャリアは終わっているはずだ。

「あいつは王さんにも負けないほどの素質があったけど、

先輩にいじめられて途中でやめちゃったんだよ。

もしあのままつづけていたら絶対にプロで成功していたはずだ」

そんなふうに「逃がした魚は大きかった」的な伝説というのは、

日本中の野球場に数えきれないほど転がっている。

(中略)

落合は、そういう「幻の天才バッター」で終わっていたとしても、

何の不思議もないところにいた。

大学をやめて実家の秋田に帰り、

ボウリング場でアルバイトをしていた落合は、

そこでボウリングに目覚め、本気でプロボウラーになろうとしていた。

たまたまプロテストを受けられなくなってしまったから、

プロボウラーにならなかっただけで、

もし無事に受験していたら、

まちがいなくずっとそこで生きていたことだろう。

その後、東芝府中に「臨時工」として就職し、

野球部に入った落合は、ここで再びバットを手にすることができた。

だが、そこは川崎市の名門チーム「東芝」とは似て非なるチームで、

非常にマイナーなノンプロ球団だった。

しかし、そのチームを落合のバットで初の都市対抗野球出場まで

もっていった。

この活躍が、日中はトランジスタラジオの基盤をコツコツ組み立て、

夕方から野球の練習をしていた臨時工員を25歳にして

プロ野球選手に出世させたのだ。

その東芝府中野球部もリストラのあおりで、いまはもうない。

落合物語の哀愁である。

「でも勝負の世界なんだから、実力がある者は、いずれちゃんと

そうやって頭角を現すものだよ」

そんなことを本気で思っている人は、

おそらくプロアマ含めて野球界には1人もいない。

実力があってもつぶれる選手はいくらでもいるし、

実力があってもつぶされる選手はいくらでもいる。

こうした落合博満という野球人の序章を見ると、

その後の落合があるほうが不思議なくらいなのだ。

この序章で、どこにいても生きていける力を磨いていったことが、

「落合力」の骨格となっていったことは想像に難くない。

アマチュア時代から名門チームで華やかな野球をしていた

エリート選手には到底、身につけることのできないマイナーのオーラ。

それがメジャーなステージでも不気味に輝いていた落合の源流にある。

そして、それこそが「落合力」として、

いま、まさに輝きを増しているのだ。

(141~143p)  

 

 

ビックリのキャリアでした。

人生、何がプラスになるかわからないんだ。

自分の今までのキャリアは、

自分の生きっぷりをどのような形にしたのだろう。

これからの私の人生をどこに連れていってくれるだろう。

なかなか自分では見えないし、予想できない。

その時その時は精一杯やってきたつもり。

後悔したくない。

これからも精一杯。

  

  

 

ブックオフで立ち読みして面白そうだと思い、

そこで買い惜しんで、図書館で借りた本。

出会えてよかった。2010年の本。

たっぷり引用しました。

また機会があったら読み直そう。

収穫あり。いまから図書館に返却に行きます。

午後6時に閉館してしまう!

2018年1月20日 (土)

「なぜ日本人は落合博満が嫌いか?」その2/育つ者は見逃さず

 

今日は1月20日。

  

前投稿に続いて「なぜ日本人は落合博満が嫌いか?」

テリー伊藤著/角川oenテーマ21)より引用します。

  

ブルペンはふつう6~7人で投げるのだが、

落合監督はブルペンを広げて10人が並んで投げられるようにしました。

順番待ちせずに、投げたいときに投げられる・・・・・

 

そして、それ以上に落合監督が狙っていることがある。

ピッチャー同士の対抗意識だ。

「あいつも投げてる。こいつも投げてる。その隣で自分も投げる。

いくら『自分のピッチングに集中してますから気になりません』

と口では言っても、いやおうなしに目に入るよ、

他のピッチャー連中のボールが。

この狭い間隔で、隣に投げてるヤツの息づかいまで

ハッキリ聞こえてくるから。

これがいいんだよ。

みんなして周りのピッチャーを意識して、

負けてたまるかっていう気持ちで投げてくれりゃあいいんだ」

これは、貧しかったころの日本のあちこちで見られた風景に

近いものがある。雑多な大部屋のダイナミズム。

そこで押し合い圧し合い(おしあいへしあい)、

揉まれて強い子になり、たくましい大人に育っていくという

古き良き大家族システムである。

親からして好き勝手な暮らしをしている核家族で

子どもは個室を与えられ、ぬくぬくと育てられて弱体化した日本人に、

ぜひこのブルペンを見せてあげたい。

(49~50p)

 

6~7人を10人にする、その裏には考えがある。

こういうのがすごいんだよなあ。

少し環境を変えることで、指導に有効な手段は、

私の身近にあると思うのです。それに気がつくかどうか?

マンネリに浸っていてはできない。

  

  

「去る者は追わず、育つ者は見逃さず」

そもそも2009年は「中日はBクラス」と

予想していた専門家が多かった。

なぜなら、エース川上憲伸、4番のタイロン・ウッズ、

2007年日本シリーズMVP男の中村紀洋、

この3人が一挙に抜けてしまったからだ。

かといって3人の穴を埋めるような補強をしているかといえば、

これまた「補強はしません」。

この戦力では、さすがの落合監督もBクラスに

沈んでしまうだろうという予想のほうが順当に見えた。

「就任6年目で、今年がいちばん厳しいシーズンになりそうですね」

そう記者団に聞かれた落合監督は、またもや強気な言葉を返して見せた。

「いや、いちばんおもしろいシーズンになるんじゃないかな」

そして、実際、おもしろいように、

彼らの穴を十分に埋める新たな選手がチームの中から台頭してきた。

入団4年目の吉見一起がリーグ最多の16勝を挙げ、

3年目のチェン・ウェインは防御率リーグトップに輝いた。

ホームラン35本、77打点のウッズの穴は、4番に据えたブランコが

39本110打点をたたき出して十分に埋めた。

6億円のウッズを放出して、3000万円でドミニカから連れてきた

「未知数」の外国人が、この働き。

なんと20倍の経済効率である。

落合監督の目には、それが見えていた。

彼らを育て上げる自信が、たしかにあった。

だからこそ、「おもしろい」と言えたのである。

こんなふうに、落合監督の「強がりに聞こえる言葉」の奥には、

常に根拠がある。

ただ、あまりにも先見の明がありすぎるから、

彼以外のすべての人たちには強がりにしか聞こえない。

それで、「素直じゃない」とか「かわいげがない」

などと思われてしまうのだ。

あとになって思えば、落合監督の言っていたとおりなのに、

そこを日本人は評価しない。

(68~70p)   

  

「育つ者は見逃さず」

身に着けたい力です。

身近にいる子の何が伸びて、その子の自信になっていくのかと

見ているつもりですが、なかなか見えない。

  

  

いま、お笑いの世界は「身の周り半径5メートルの笑い」が主流だ。

「きのう、こんなことがあってさ。もう、まいっちゃったよ」とか、

「ある、ある」というお笑い。そのほとんどが「ドジ話」だ。

自分がどんなにドジなことをしたかをおもしろおかしくしゃべって、

笑いをとる。

つまり、自分の弱みを世間にさらして、「こいつ、情けないヤツだな」

とか「バカだなあ」と思わせることによって、笑いを誘うのだ。

そして、それと対極にいるのが落合だ。

落合は、どんなときでも弱みを見せようとしないし、泣き言は言わない。

もし、落合が、お笑い芸人たちのようなマネをしたら、どうなるだろう。

「まいったなあ。川上はメジャーに行っちゃったし、ウッズもノリもいない。

これでどうやって勝てって言うの?」

そう弱音を吐く落合を見たら、きっと世間の人たちは

「かわいそうに」と同情したり、「落合も、俺たちと一緒で大変だな」と

共感したりするだろう。

自分の弱みを見せるお笑い芸人は支持され、

けっして弱みを見せまいとする落合は支持されない。

それがいまの日本であり、落合を取り巻く状況なのだ。

(70~71p)

 

まだこの続きがある。

それは次の投稿で。

「なぜ日本人は落合博満が嫌いか?」その1/嫌われることを恐れない!

今日は1月20日。

  

なぜ日本人は落合博満が嫌いか?」(テリー伊藤著/角川oenテーマ21)を

読みました。

面白い本でした。引用します。

  

とくにシーズン中や勝負が佳境に入ったときなどは、

ますます(落合監督は)「寡黙な勝負師」に徹するから、

マスコミやファンに落合の真意がさっぱりわからないという

欲求不満がたまっていくのだ。

やがて、シーズンオフになり、そして本人の「しゃべる条件」を

満たすときがくると、本を書き、テレビの特番に出ていく。

これでは、落合にシンパシーのある人は「待ってました」

とばかりに食いつくが、そうでない人は知らずじまい。

結局、落合が好きな人は、もっと好きになるかもしれないが、

嫌いな人には落合の言葉が届かないから、

落合を評価する人は一向に増えないのだ。

きっと落合本人も、そんな構図はとっくにわかっているはずだ。

それでも黙るのはなぜか。

それは、落合は嫌われることを恐れないからだ。

これは、日本人にとって、最も難しいことである。

たとえ、みんなに嫌われても、自分の信念や理想を貫いて生きること。

それを実行してきたのが落合博満という人間であり、

嫌われることを恐れて自己主張もできないのが日本の国民性なのだ。

落合だって、何も好き好んで人に嫌われようとしているわけではない。

人の顔色を気にすることなく、

自分の信念のもとに目標に向かって突き進んでいるだけだ。

しかし、日本人は「協調性が大事」とか

「みんなの意見をよく聞こう」といって

周りの様子をうかがってばかりで、

自分1人では何もできなくなっていったのだ。

(34~35p)

  

嫌われることを恐れない!

できてないよなあ。

それより信念がないのか。

自問自答。

  

  

「指導者とは、教えるのが仕事じゃない。見るのが仕事だ」

落合監督がそう言っている。

「見て、判断する」「見て、決断する」のが、

監督の仕事なのだ。

「70人全員にチャンスがある」

その言葉どおり、このキャンプで基本的に一軍・二軍の枠を撤廃していた。

全員が横一線で再スタートできる新た競争が始まっていた。

その全員を落合監督が見ていた。

(44p)

 

ここで言う「指導者」はイコール「教師」と言えないことがあります。

教師は「教えるのが仕事」でもあると思います。

でも「見るのが仕事」と意識するのも大事です。

杉渕先生の言う「1%を見る」の発想。

この記事を再読しました↓

ここでも道草 1%を見る(2007年11月30日投稿)

3学期になって「一人コメント」を毎日書いています。

  

  

野手は1時間も2時間もぶっつけでノックの嵐を浴び、

3時間も4時間もぶっ通しでバットを振る。

こんなこと、同じプロ野球選手であっても、

やったこともなければやろうとしない「非常識」なことだ。

でも、「やっているうちに平気でできるようになる」と

落合選手も選手たちも口をそろえる。

「キツイことには変わりがないけどね」と。

「選手たちは何しに沖縄にきてるの?野球の練習のためでしょ。

休みをとるためじゃないでしょ?

このキャンプ1回に球団がいくら使うか知ってる?

2億だよ、2億。

何のためにそんな大金出すの?

明るいうちに練習を切り上げるなんて、

お金をドブに捨てるのと同じじゃないの」

そんな落合監督の考え方にも選手たちは音を上げない。

なぜなら、「やった者だけが生き残る。やらなければ落ちていくだけ」

ということを全員が胸に刻んでキャンプに臨んでいるからだ。

(48p)

  

「何しに沖縄にきてるの?」で始まる落合監督の言葉は鋭い!

ズシンと印象に残りました。

教師だって「練習(研修)」に時間を割く意識がいると思います。

2018年1月19日 (金)

夏木陽介さん亡くなるのニュース

今日は1月19日。

 

今朝のニュースで、夏木陽介さんが亡くなったことを知りました。

1月14日のことだったそうです。

 

最近、夏木陽介さんのことを調べました。

映画「野盗風の中を走る」(1961年)について調べたからです。

主人公役を演じていたのが夏木陽介さんでした。

この映画が見たいと思って、レンタル店に行ったり、

ネットで調べていました。

その時に、夏木陽介さんのことも調べていました。

夏木さんが出ていたテレビ番組はたくさん見てきました。

夏木さんのブログを見たのは、この時が初めてでした。  

夏木陽介さんのブログの名前が、

夏木陽介、風の中を走る」でした。

もちろん主演した映画から取った名前でした。

夏木さんにとっても、思い入れのあった映画なのかなと想像します。

今朝、ブログは更新されていました。

Photo 夏木陽介、風の中を走る

友人代表の山川健一さんが、夏木さんの死を知らせる文章を寄せていました。

 

  

もしかしかしたら、夏木さんの追悼番組で、

夏木さんの出演した映画が放映されないだろうか。

不謹慎にも今そう考えています。

手に入らなかった「野盗風の中を走る」が放映されたら、

私は録画したいです。そしてじっくり見たい。

夏木さんは怒る?   そんなことないですよね。

 

※参考:ここでも道草 新しい絵本との出会い「泥かぶら」「くろねこのニャンデ」(2017年12月7日投稿)

・・・「野盗風の中を走る」が見たいと書いた記事

 

 

※関連記事を書きました。(2月8日記)

ここでも道草 毎日リクエスト(2018年2月7日投稿) 

2018年1月18日 (木)

焼き鳥屋跡地今昔/面白そうな「今昔写語」

今日は1月18日。

  

ドラマ「科捜研の女」が今晩久しぶりに放映されます。

昨年の12月14日以来。

「毎週木曜日」と言いながら、4回木曜日がスルーされました。

待ってました。

今日はまた1日頑張って、晩はゆっくり「科捜研の女」を楽しみたい。

  

  

1月3日に焼き鳥屋跡地のことを書きました。

ここでも道草 2018年の初日の出と焼き鳥屋跡地(2018年1月3日投稿)

以前通ってた焼き鳥屋さんが閉店して、他の建物ができたという内容。

最後に、今の跡地の写真を載せますと書きながら、

実行していませんでした。

ここに載せます。

2018年1月4日の写真です。

Rimg1633  

もう1枚載せます。

2017年1月4日(偶然1月4日!)の同じ場所の写真です。

Rimg2158  

焼き鳥屋さんが閉店して間もなくの写真です。

2枚の写真の右端にある電柱が、共通しています。

1年でこのように変わりました。

  

   

このように、昔の風景と今の風景を比較するサイトを発見しました。

ここです↓

今昔写語(こんじゃくふぉとがたり)

Photo_2

Photo  

またゆっくり見てみたいです。

2018年1月17日 (水)

「仏像ミステリー 運慶とは何者か?」その3/また行きたい瀧山寺

今日は1月17日。

  

前投稿に引き続き、昨年10月7日放映の番組

NHKドキュメンタリー  仏像ミステリー 運慶とは何者か?」より。

テレビ番組を読み物に変換することをやっていきます。

 

この番組で、1月3日に行った岡崎市の瀧山寺(たきさんじ)も紹介されました。 

ここでも道草 瀧山寺に行きました その1 三門(2018年1月5日投稿)

ここでも道草 瀧山寺に行きました その2 宝物殿(2018年1月5日投稿)

 

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中学校の写真が写っています。

常盤中学校と思われます。

Photo Yahoo!地図

常盤中のHPを見ると、瀧山寺とつながりがあることが、

うかがえます。

1・3年滝山寺清掃ボランティア(2017年1月)

瀧山寺節分会での土鈴販売(2016年1月)

 

番組に戻ります。

Rimg1690  

1月3日は、この本殿には行っていません。

次回は行ってみよう。

  

そして宝物殿の運慶作の3体の仏像です。

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ナレーターとか住職の言葉を聞き書きしてみます。

  

ナレーター:運慶は、3体の仏像を、源頼朝の死後、

  その依頼で造りました。

  中央に立つのが、聖観音菩薩立像(せいかんのんぼさつりゅうぞう)。

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ナレーター:(源頼朝の)等身大で、豊かな肉づき。

  つややかな肌が美しい仏像です。

  観音に厚い信仰を寄せていたと伝えられる頼朝。

  その思いに応えるかのように、運慶は観音を華やかに表しました。

住職 山田亮盛さん:木彫でありながら、彫りがたいへん柔らかい。

  特に中心部のところの腰に巻いている布なんか、

  下に垂らした感じが、とても柔らかいというところが

  見てとれるわけですね。自然に絡んでいっている。

  そのあたりの、運慶の表現力の豊かさというか

  技術の高さというのを感じます。

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ナレーター:向かって左側に立つのが、帝釈天立像(たいしゃくてんりゅうぞう)です。

  端正な顔立ちに、憂いを帯びた表情。

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Rimg1697  

ナレーター:梵天立像(ぼんてんりゅうぞう)です。

  4つある顔は、優れた能力の証と言われています。

  いずれの仏像も、いつまでも見ていたくなるような、

  不思議な魅力に満ちています。

 

梵天立像の絵は、「見仏記6 ぶらり旅篇

(いとうせいこう・みうらじゅん著/角川文庫)の

表紙になっていました。

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この本からの引用。

宝物殿には狛犬が置いてありましたが、そのことに触れた記述。

 

いかにも鎌倉時代の狛犬があった。

体を低い姿勢に保ち、獅子というより犬のリアリズムを

強調した像である。 (250p)

 

見る人が見ると「いかにも鎌倉時代」なのですね。

私にわからなかった。

  

さらに引用します。

  

運慶作と言われれば、確かに三尊は腰のひねりや

指の動きのしなやかさで、群を抜いていた。

しかも重要なのは、江戸期に全面を塗り直してあるために、

作られた当時の色合いで見られることである。

そこにあるのはわびさびのあらわれた仏像ではなく、

顔や体が艶めかしく白い、あるいは金一色であるような、

ただ動きとすればきわめて人間に近い仏だった。

 

衣はむろん細やかな柄で塗られていた。

梵天など、その衣を腰にひっかけ上半身を白い裸にしている。

無防備といえばあまりに無防備で、

仏と拝む人間との距離がひどく近いことがわかる。

例えば動物に乗って移動していない、降りたたずむ姿である。

言ってみればカジュアルな一面をあらわしていうように思える。

(250p)

 

梵天を調べると、確かに動物に乗った姿が多い。

Img_0

東寺の梵天です。今日も、こんなん見ました

瀧山寺のは、カジュアルな梵天なのですね。

  

当時、運慶は息子の湛慶とともに、それらを作ったのだと伝わる。

東寺講堂の密教仏を修復などする過程で、

慶派は多くのことを平安仏から学んだのだった。

その上で彼らは瀧山寺の三尊のような仏像を成したのではないか。

事実、東寺のそばにあった工房で、

それらが作られたと宝物殿の説明書にはあった。

とすれば、あの東寺の梵天、帝釈天の双子が、

着色豊かに山中に残っているのである。

彩色のおかげでむしろ人めいた印象を濃くする仏像の前で、

我々は何度もため息をつき、

なぜこれがここにあるのかという歴史ロマン的なものにも思いをはせた。

遠くまで来ているからこそ、なおさらその思いは強かった。

(250~251p)

  

東寺との関係を知ることができました。

瀧山寺の仏像の双子を見に行きたいですね。

  

以上のような番組や本からの知識を踏まえて、

再び瀧山寺に行って、仏像を眺めていたいですね。

  

  

これにて今朝の仏像の勉強は終了。

1時間半以上かかってしまいました。

出勤まではお仕事、お仕事。焦る。

  

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