「仏像ミステリー 運慶とは何者か?」その3/また行きたい瀧山寺
今日は1月17日。
前投稿に引き続き、昨年10月7日放映の番組
「NHKドキュメンタリー 仏像ミステリー 運慶とは何者か?」より。
テレビ番組を読み物に変換することをやっていきます。
この番組で、1月3日に行った岡崎市の瀧山寺(たきさんじ)も紹介されました。
※ここでも道草 瀧山寺に行きました その1 三門(2018年1月5日投稿)
※ここでも道草 瀧山寺に行きました その2 宝物殿(2018年1月5日投稿)
中学校の写真が写っています。
常盤中学校と思われます。
常盤中のHPを見ると、瀧山寺とつながりがあることが、
うかがえます。
番組に戻ります。
1月3日は、この本殿には行っていません。
次回は行ってみよう。
そして宝物殿の運慶作の3体の仏像です。
ナレーターとか住職の言葉を聞き書きしてみます。
ナレーター:運慶は、3体の仏像を、源頼朝の死後、
その依頼で造りました。
中央に立つのが、聖観音菩薩立像(せいかんのんぼさつりゅうぞう)。
ナレーター:(源頼朝の)等身大で、豊かな肉づき。
つややかな肌が美しい仏像です。
観音に厚い信仰を寄せていたと伝えられる頼朝。
その思いに応えるかのように、運慶は観音を華やかに表しました。
住職 山田亮盛さん:木彫でありながら、彫りがたいへん柔らかい。
特に中心部のところの腰に巻いている布なんか、
下に垂らした感じが、とても柔らかいというところが
見てとれるわけですね。自然に絡んでいっている。
そのあたりの、運慶の表現力の豊かさというか
技術の高さというのを感じます。
ナレーター:向かって左側に立つのが、帝釈天立像(たいしゃくてんりゅうぞう)です。
端正な顔立ちに、憂いを帯びた表情。
ナレーター:梵天立像(ぼんてんりゅうぞう)です。
4つある顔は、優れた能力の証と言われています。
いずれの仏像も、いつまでも見ていたくなるような、
不思議な魅力に満ちています。
梵天立像の絵は、「見仏記6 ぶらり旅篇」
(いとうせいこう・みうらじゅん著/角川文庫)の
表紙になっていました。
この本からの引用。
宝物殿には狛犬が置いてありましたが、そのことに触れた記述。
いかにも鎌倉時代の狛犬があった。
体を低い姿勢に保ち、獅子というより犬のリアリズムを
強調した像である。 (250p)
見る人が見ると「いかにも鎌倉時代」なのですね。
私にわからなかった。
さらに引用します。
運慶作と言われれば、確かに三尊は腰のひねりや
指の動きのしなやかさで、群を抜いていた。
しかも重要なのは、江戸期に全面を塗り直してあるために、
作られた当時の色合いで見られることである。
そこにあるのはわびさびのあらわれた仏像ではなく、
顔や体が艶めかしく白い、あるいは金一色であるような、
ただ動きとすればきわめて人間に近い仏だった。
衣はむろん細やかな柄で塗られていた。
梵天など、その衣を腰にひっかけ上半身を白い裸にしている。
無防備といえばあまりに無防備で、
仏と拝む人間との距離がひどく近いことがわかる。
例えば動物に乗って移動していない、降りたたずむ姿である。
言ってみればカジュアルな一面をあらわしていうように思える。
(250p)
梵天を調べると、確かに動物に乗った姿が多い。
東寺の梵天です。今日も、こんなん見ました
瀧山寺のは、カジュアルな梵天なのですね。
当時、運慶は息子の湛慶とともに、それらを作ったのだと伝わる。
東寺講堂の密教仏を修復などする過程で、
慶派は多くのことを平安仏から学んだのだった。
その上で彼らは瀧山寺の三尊のような仏像を成したのではないか。
事実、東寺のそばにあった工房で、
それらが作られたと宝物殿の説明書にはあった。
とすれば、あの東寺の梵天、帝釈天の双子が、
着色豊かに山中に残っているのである。
彩色のおかげでむしろ人めいた印象を濃くする仏像の前で、
我々は何度もため息をつき、
なぜこれがここにあるのかという歴史ロマン的なものにも思いをはせた。
遠くまで来ているからこそ、なおさらその思いは強かった。
(250~251p)
東寺との関係を知ることができました。
瀧山寺の仏像の双子を見に行きたいですね。
以上のような番組や本からの知識を踏まえて、
再び瀧山寺に行って、仏像を眺めていたいですね。
これにて今朝の仏像の勉強は終了。
1時間半以上かかってしまいました。
出勤まではお仕事、お仕事。焦る。
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