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2021年7月

2021年7月30日 (金)

「慎治」を読みました

     

今日は令和3年7月30日。

   

この本を読みました。

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「慎治」(今野敏著/中公文庫)

  

同級生にいじめられ、殴られたり、万引きをさせられたりしていた

主人公中学2年の慎治。もう自殺するしかないと思いつめる。

ところが万引きしたところを、担任の古池に見られたことから、

数日間で事態は劇的に変化します。

  

この本は、テレビのニュースで、ある本屋の店員さんが

「勇気の大事さがわかる本」としてお薦めでした。

さっとメモして、図書館で予約した本です。

1997年に出版された本でした。

店員さん、ずっとこの本のこと忘れなかったんだなあと思いました。

   

引用します。

  

(古池)「おまえは、自殺を考えているなどと言う。冗談じゃないよ。

 俺のクラスから自殺者なんかが出たらよけいに面倒なことになる。俺、

 そういう面倒なことが嫌いなんだ。だから、おまえと話し合うことに

 した。問題の解決の第一歩は、おまえが小乃木たちのいじめははねの

 けることだが、どうもそれは簡単にはできないようだ」

(慎治)「できません」

 「あっさり言うなよ。それじゃ、俺が困るんだ」 

 「僕だって困ってるんですよ」

 「おまえが、小乃木を怖がってこのままじっとしていたら、おまえの

 犯行現場のビデオが売り出されちまう。そうなれば、おまえはもっと

 困ることになる」

 「どうすればいいんですか?」

 「だから、俺はおまえの目先を変える手伝いをすることにした」

 「目先を変える?」

 「いじめにあうと、その世界がすべてのような気分になる。もう逃げ

 場がないと感じるようになるんだ。それが大きな問題なんだ。だから、

 別の世界もある、いつかは、いじめから解放されるということを思い

 出させなければならない。それで、俺の世界を見せてやることにした」

 「すみません」

 「謝ることはない」

 古池は言った。「まあ、しょうがないよ。教師になっちまったんだか

 らな・・・・」

 (93~94p)

   

この中学教師が取った手段は勉強になります。

直接、いじめた側いじめられた側を指導するのではない方法。

なかなかこの手段はとれない。

  

でも似た発想は以前にも見聞きした覚えがあります。

テリー伊藤さんが、いじめにあっている人に、

「読書ができたらいいのに」と言っていました。

これも簡単に目先を変える手段だと思います。

  

古池の目先を変える方法は功を奏してきました。☟

 

慎治は、将太たちのことがそれほど気にならなくなってきた。自分

はまだ何かに夢中になれるのだということを知った。

そのことは彼にとって大きかった。

これから腕を磨けば、人に負けないモデラ―になれるだろう。いろ

いろなモデラ―と知り合いになる機会もあるかもしれない。

慎治の前に新しい世界が開けていた。学校の生活など、いくつかあ

る世界のひとつに過ぎない。

今までは学校の生活がすべてだと思い込んでいた。そのせいで自分

を追い詰めていたのだ。

モデリングの世界は、慎治にとって大切なものになりつつあった。

奥が深く、学ぶことがたくさんありそうだった。

将太たちの問題は、学校というひとつの社会での出来事でしかない。

慎治は、別の世界に足を踏み入れた。そのために、将太のことがこ

れまでに比べて相対的に小さな問題になりつつあったのだ。

つい二日前までは、真剣に死ぬことを考えていた。遺書を書こうと

していたのだ。

死にたいという気持ちは本当だった。だがそれは、将太に対するあ

てつけであり、自分の死によって相手を傷つけたいという気持ちだ

った。

そして、逃げたいのに逃げる方法がわからないことからくるやけっ

ぱちな気持ちだった。

今は違う。将太などのために死ぬのはばからしいという気持ちにな

っている。そして、死ななくても逃げることはできるということを

知ったのだ。

逃げることは悪いことじゃないと古池が言っていた。

言われたときはどういう意味かわからなかった。今はわかる。逃げ

ることも大切なのだ。

(207~208p) 

   

他の世界を知ることで、相対的に小さな問題になっていく

というのは、なるほどと思います。

この本は、ガンダムやサバイバルゲームのオタクの本であって、

読んでいてついて行けないところもありましたが、

言いたいことを本質はこの部分だと思いました。

   

  

ニュースでこの本のことを知ってよかったです。

あの店員さんのお薦めで、ここに一人「慎治」を

手に取って読んだ人がいるよと伝えたい。

でもどの本屋なのか全く不明。 

番画〈339〉〈341〉:死にかけました 「ウルトラQ」が放送していた

   

今日は令和3年7月30日。

   

番画です。

   

〈339〉フィッシャーズ

ガチで死にかけました。

   

〈340〉フィッシャーズ

死にかけた後日また死にかけました。
YouTube: 死にかけた後日また死にかけました。

  

〇タクシーに乗って死にかけた話の連発。

 死ななくてよかったです。

 こういう話を聞くと、死への扉は、油断すると

 すぐ近くで開いている可能性もあると思ってしまう。

 まだ死にたくないと強く思っているけど、

 そんな気持ちにお構いなしだろうな。

  

   

〈341〉「ウルトラQ 4Kリマスター版 18 虹の卵」

  (2021年7月26日放映)

  

〇新聞を読んでいて、「ウルトラQ」の感想文を見かけた。

 え、今放送されているの?と思った。

 毎週番組チェックして録画している身ですが、

 「ウルトラQ」を見逃していた。

 さっそく探したところ、毎週月曜日の午後11時15分に

 NHKBSプレミアムで放映されていた。

 7月26日からは録画セットした。

 すでに18回。17回分見逃したことになる。

 「ウルトラQ]は全28回だそうなので、これで我慢しよう。

〇リマスター版がどういう仕組みかわからないが、

 映像は鮮明だ。

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〇1966年放送だから、55年の月日が流れている。

 私は5歳。「ウルトラマン」はよく覚えているが、

 「ウルトラQ]はうっすらとした記憶だ。

 なんか怖いイメージが残っている

 5歳の時にどんな映像を見たのか、追体験してみたい。

2021年7月29日 (木)

番画〈338〉:「白い灰の記憶 大石又七が歩んだ道」⑦

  

今日は令和3年7月29日。

   

前記事の続きです。

〈338〉「ETV特集 白い灰の記憶 大石又七が歩んだ道」

  (2021年7月24日放映)

この番画をほぼ聞き書きしてます。

   

 

〇水爆「ブラボー」の実験から、67年。

 今、世界の核兵器は1万3000発以上。

 新型の小型核兵器は標的をピンポイントで攻撃できるという。

 いわゆる「使える核兵器」だ。

 私たちは危機の只中にいる。

 大石さんは警鐘を鳴らし続けた。

 市田さんが大石さんから託されたものがある。

 大石さんの話を聞いた小学生や中学生、高校生から送られた

 感想文。

〇イン:どれくらいあるんでしょう?

 市田:どれくらいあるんでしょう?

  80年代からずっとなので、かなりありますね。

  子供たちが大石さんを歓迎した時のカードとかもあります。

  これは高橋しのぶさんがいるグループのものです。

  送られて来たものは捨てないで全部取っておいて、

  大石さんにとってご自分が発信する本を書くとか、

  お話すること以上に、こうやって戻って来たものが、

  宝物だったんだと思うんです。

  感想文がうちにあるから、子どもに持っていかせるから、

  何とか本にするなり、世間に発表してほしいって言われて。

  遺言じゃないし、冗談じゃないよとその時は思ったんですけど、

  受け取ってみると、やっぱり私がちゃんと

  読み込まないといけないと思って。

  (感想文を見ながら)

  「何が大石さんに活動させているのか?」とか

  「大石さんは第五福竜丸に活動させられているような気がする」って

  この人は書いていますね。

  「同じ船に乗っていなかったから、つらさなんてわからないけど、

  大石さんたちにあったことなどは、理解というか、

  記憶していくことはできると思う。忘れないで他の人に伝えることが

  できると思う」

  自分だったら何ができるかを考えている。すごいなあ。

  

  

〇(感想文を読む齋藤あずささん)

〇齋藤:「私たちが大石さんやその他の方々の気持ちを

  十分に理解することは無理だと思います。

  でも理解しようと努力することはできます。

  私たちは少しでもわかるように努力します」

 イン:こうやって書いておられますけど、こういう気持ちでしたか?

 齋藤:そうですね、簡単に理解できるということはないだろうと

  思って。

〇(神奈川学園の校内の様子)

〇大石さんに宛てて手紙を書いた当時中学2年の生徒は、

 母校の教師になった。

 今度は教え子と一緒に何度も大石さんの話を聞いた。

 齋藤あずささん。

 社会科の教師を選んだのは、大石さんの影響があったからだと言う。

 (1995年 大石さんの教室に招いた記念写真)

 クラスに招いて話を聞いた後も、大石さんとはずっと

 手紙のやり取りが続いた。

〇齋藤:当時いろんな言葉をいただいたと思うんですけど、

  ひとつは、女子高の中学2年生の女子である私たちに、

  話をしてくださるところで、これまでの歴史では、

  男が破壊して、それを女が守り、そういうことが繰り返されてきた

  ということをお話してくださっていて、

  これから生きる、次の命を育んでいく女性の皆さんにぜひ

  覚えていてほしいと、そういうことを言われていました。

  強く印象に残っていますし。

  平和というものが、ただボウとしているだけでは続いていかないのだよ

  ということを何度もお話してくださった。

  自分自身はどうやって実現していくのかを考え続けて、

  進路を選択して教員としても考え続けて、

  そこは自分にとって大石さんとの約束というか、

  大石さんにいただいた宿題のように思いながら、

  過ごしている状態です。

  

〇(佳子さんへのインタビュー)

〇イン:やっぱり海なんですね。

 佳子:そうですね、山には行かない。

〇2019年、骨折した大石さんは、三浦半島の高齢者施設で、

 暮らすことになった。

〇佳子:施設にどうしても入らなくてはならなくなった時に、

  せめて海が見えるところにしてあげようよと言って、

  頑張って探しました。

〇最晩年も施設の近くで大石さんは語った。2019年12月。

 これが最後の講演になった。

〇大石:ばかの一つ覚え、一生懸命やるってことはいいことかなと

  いま考えています。

〇市田:ある朝、大石さんから電話がかかってきました。

  朝の4時半か5時だったんですけど、

  何が起きたのかと思ったら、

  「あの人が長崎に行くらしい」

  あの人って誰?

  わからないなんておかしいだろうって、怒っているんですね。

  何で手紙を(ローマ教皇)に出さないといけないと思ったの?

 大石:やっぱり広島、長崎だけが日本で被曝したわけじゃない。

  日本ならやっぱりビキニを入れてくれなきゃ。

  第3の被曝と言われた場所だもんね。

  どうしてもあの方(ローマ教皇)には第3の被曝のことを

  頭においていろいろな話をしてもらいたいなと。

 市田;そんな人くるんだ、へ~と思っていたのだけど、

  本当に本当に、私、仏教徒ですし。

  大石さんは、発信力のある人に、伝えなきゃあと。

 大石:俺だって仏教徒だよ。

 市田:ねえ。(笑)

 

※ローマ教皇への手紙については以前に記事にしました。

  ここでも道草 新聞記事/もう一つの核の悲劇「第五福竜丸被曝」

2019年11月26日の記事でした。

  

〇2021年1月核兵器禁止条約発効(2017年国連で採択)

〇大石さんたち被曝者の願いを形にした、核兵器禁止条約。

 50か国以上が参加して、今年1月に発効。

 しかし、核保有国もアメリカの核の傘にたよる日本も

 参加しないままだ。

 大石さんと長女の佳子さんが、最後に会話を交わしたのは、

 翌月2月11日。

〇佳子:「出せ出せ」って言うから、「今はコロナだし、

  今は外に出ることはできないから、今は出せない」って言ったら、

  「出られないならもういい。はやく帰れ!」って

  ものすごく怒りまくって、「おまえはいつもそう言う。はやく帰れ!」

  それが最後の言葉なんですけど、

  まあ父らしいわねというところではあるんですけど。

  とにかくはやく外に出て、伝えたいという気持ちが

  すごく強かったと思いますね。

  まだ伝えきれていない。

  自分がいつ死んじゃうかもしれないから、

  死んじゃう前にまだまだみんなに言いたいことがあるっていう

  そういう気持ちがあふれ出ちゃたんですかね。

  80過ぎてもね、こんなふうに皆さんに気にかけていただいて、

  心配していただいて、そんな人生がおくれたというのは、

  やっぱり素敵な人生だったのではないかなと。

  前半は辛かったけど、後半はとっても豊かな人生だったと

  思います。

〇3月7日。大石又七さんは、87歳で生涯を閉じた。

 今、市田さんは、ビキニ事件と大石さんの言葉を語り伝えている。

〇(展示館での市田さんの語り)

 市田:振り返ると、西の方の空から、きのこの形なんかじゃない、

  雲のかたまりがわ~と押し寄せてきた、

  そして大石さんの言葉によると、低気圧の時みたいだった。

  一面黒雲に覆われて、雨が降ってきました。

  熱い空気のかたまりが、が~と吸い上げられていって、

  上空で冷やされて、そして水滴になって落ちてくる。

  雨はあがったけど、濡れているところに白いものが降ってくるから

  くっつくでしょ。目に入るとチクチクするし、

  何度も聞いたんですね、「大石さん 怖くなかったんですか」って。

  そしたら「こわかれなかった」つまり怖いかどうかわかんないから。

   

  残念ながら、大石さんは今年の3月に亡くなられましたけど、

  私は少なくとも大石さんの願いや声を聴いて

  そばで聞いていた人間の一人として、このことを皆さんに伝えて、

  皆さんにも一緒に考えてほしいなと思います。

  この船は今ここに固定されて室内に置かれて、

  2度と再び海をはしることはありませんが、

  第五福竜丸は核のない未来に向かって今も航海中ですというのが、

  私たちの合言葉です。どうぞ皆さんもこの航海にご一緒ください。

  (メモする学生に再び合言葉を言う市田さん)

 市田:核のない未来に向かって今も航海中です。

  

   

 

以上です。

写真は使いませんでしたが、

久々番組をほとんど聞き書きしました。

やり切った!

夏休みとはいえ3日間かかりました。

聞き書きすることで、聞き流してしまっていたことまで聞けます。

1時間の番組がより分厚いものになります。 

大石又七さんのことがまた理解できました。

記憶にも残りました。    

2021年7月28日 (水)

番画〈338〉:「白い灰の記憶 大石又七が歩んだ道」⑥

   

今日は令和3年7月28日。

   

前記事の続きです。

〈338〉「ETV特集 白い灰の記憶 大石又七が歩んだ道」

  (2021年7月24日放映)

この番画をほぼ聞き書きしてます。

   

  

〇ビキニ事件から半世紀余りが過ぎた2011年。

 東日本大震災によって、福島第一原発がメルトダウン。

 深刻な放射能汚染が広がり、人々は避難を余儀なくされた。

 福島の事故から2か月後、大石さんは、

 作家大江健三郎さんと対談。

 長年抱いてきた疑問を投げかけた。

 

〇第五福竜丸展示館での対談。

〇大石:それでね、ひとつね、先生にお伺いしたいのは、

  いつも疑問に思っていてわからないと思っていたこと、

  太平洋戦争を互いに経験、戦争の中で育ってきました。

  軍国教育というのを受けましたよね。

  戦争が終わりました。

  その時に指導していた人たちが、責任をとらない。

  あれは責任あるよなということを私たちは見てきました。

  その人たちが責任をとらないで、

  終わってからまた国の中のいい位置に座っている。

   

  今度の福島の原発の問題でもね、

  あれだけの大きな問題が持ち上がった、

  しかしそれを導入した者、あるいは推進してきた者、

  そうした人たちは一切顔を出さないで、

  それで責任をとらないで。

  一般の国民としてそれをどう受け止めてどう理解すればいいのかなと

  非常に私は疑問に思っているんですね。

  そういう人たちは何で世の中でいい位置に居座って、

  大きな顔をしている。

  どうにも私には我慢ならない。

 大江:私も我慢できないと思います。

  これは責任をとるべきじゃないかという

  たとえば海を汚して小さく見積もってもその集落の

  1万人の漁師を苦しめるほど大きな、

  人ではどうしても償うことができないことを犯してしまった人がですね、

  責任はとらないんです。

  私たちの国の人間の習慣なんかじゃないか。

  それは昔から続いているんじゃないかと思うんです。

  それは日本人の曖昧さと昔から言っているんですけどね。

  これは正しく筋を通すべきじゃないか、

  それをあいまいにして置くことで、その人の安全にすむし、

  相手もあまり追い詰めないという考え方が

  この国にはあると。

  それではね、どうしても行き詰ってしまう時がくるに違いないと

  私は考えているんですよ。

   

〇対談の様子を、学芸員の市田真理さんに聞いているシーン。

〇インタビュアー(イン):大江健三郎さんの対談の時は、

  市田さんも見ていたのですか。

 市田:見てましたけど、カメラに入らないように。

  その辺で小さくなっていたような。

  ただ声は聞こえていましたから、すごく印象的だったんですけど、

  最後の方で大石さんが責任について問われて、

  あの戦争も、ビキニ事件も、原発の事故も、

  誰か責任をとるべき人がいるんじゃないか、て言ったのが、

  すごく印象的だったので、飛び出して行って見たかったです。 

  それをテレビで後から見て、大石さんのこだわりがそこにあるなと

  思いましたね。

  「又七の海」でも責任について口にされていて、

  何かそれについて著名な知識人に、

  自分が確かめられる言葉が欲しかったのかな。

  すごい質問だと思いました。

  

〇2001年から第五福竜丸展示館で働く市田真理さん。

 大石さんの言葉を広く伝えたいという思いを募らせていた。

 ところがこの対談の翌年、大石さんは脳出血で倒れた。

 リハビリを8カ月重ねて、大石さんは講演活動に復帰。

 後遺症で自由に語れない大石さんの話を補う形で、

 市田さんと大石さんのコラボ講演が始まった。

 

〇(講演会の様子)

 生徒:日本には原水爆の恐ろしさを伝えたゴジラという

  映画があるんですけど、ゴジラよりも大石さんは

  どういった方法で世界にこういった原水爆の恐ろしさや

  日本の平和に対する思いを伝えるべきだと思いますか。

 大石:いろんな最高の勉強をした指導者たちがみんな

  戸惑っているのに、私にその答えはなかなか難しいです。

  ただね難しく考える必要はないと思うんです。

  幼稚園の子供でもわかることだと思うのです。

  相手が怖いものを持てばこっちも持たなければやられてしまう。

  だから相手が持ったらこっちももつという競争を

  アメリカと北朝鮮で今やってますね。

 市田:今、大石さんがおっしゃった向こうが持っているんだから、

  自分が持っていい。核兵器は1回使ってしまったら、

  大変なことになるから、持っているけど使わないだろうというのを

  難しい言葉で「核抑止」という理屈なんです。

  私もおかしいと思います。

  持たなきゃいいじゃんと思うんですね。

  その方がすっきりするんじゃない。

  自分はこんなに持っているのに、あの人には持っちゃダメというのも、

  不公平な話だと思います。

  今、アメリカはトランプ大統領で、その前はオバマさんが大統領でした。

  チェコのプラハというところで、「核のない世界を」と言っただけで、

  ノーベル平和賞をもらっちゃたんですよ。

  悪いけど私はもっと前から言っています。

  大石さんはもっと前から言っています。

 

〇大石さんが市田さんについて語るシーン。

 大石:この古い60年も前の事件のことを、きちっと

  今の若い人たちに通じるように話してくれるのは、

  市田さんしかいないんじゃないかと私も思っているし、

  私は本当にありがたいと思って感謝してます。

 市田:感謝されたから御茶をあげる。

  (大石さんはお茶を飲んで)

 大石:そういうことです。

  

〇インタビューに答える市田さん。

〇市田:こんなに真剣に怒る人、怒り続けている大人を私は

  見たことがないなあというのが、私が大石さんを尊敬する

  きっかけなので、体が不自由になっても、とにかく真剣に、

  答えようとするし、信じようとしているし、

  死ぬまで戦い続けますって、言葉の綾ではなくて、

  本当にこの人、戦い続けていくんだろうなと思わされる

  迫力がありました。

  上から目線では話さない。

  大上段に構えて教えてやる、聞けよではなくて、

  そこはすごく、やさしいとはちょっと違うんですけど、

  すごく丁寧な方だったと思います。

  

  

ここまでで60分の番組の46分間。

明日には聞き書きを終えることができるでしょう。

今晩はここまで。

   

つづく  

番画〈338〉:「白い灰の記憶 大石又七が歩んだ道」⑤

   

今日は令和3年7月28日。

   

前記事の続きです。

〈338〉「ETV特集 白い灰の記憶 大石又七が歩んだ道」

  (2021年7月24日放映)

この番画をほぼ聞き書きしてます。

   

〇語り始めた大石さんは、59歳で肝臓がん、

 その後も肺の腫瘍などの病気にみまわれた。

 それでも語ることをやめなかった。

 

〇佳子:今度は自分がやりたいと思って動いてきた人生ですね。

  そこからは。

  講演活動もやらなくても別にいいけど、

  自分でやろうと思って動き出した結果だし、

  そこでいろんな方たちとお会いして、

  いろんなことに気づかされて、

  その中で事件のことを調べて、勉強っていうと変だけど、

  一生懸命調べたりとか、人の話を聞いたりとか、

  そういうことをするようになって、

  知識を深めていったところがある。

  人とのかかわりあいの中で、父自体が変わっていったというのも

  言われますね。

  やわらかくなった。

  すごい厳しい人だったんですよ。

  厳しいというのは、人に対してバンバン言うとか、

  そういう厳しさと言うのではなくて、

  さわれないような鋭い部分っていうのが、

  そっからはもう立ち入れないよねみたいな、

  そういうピリピリしたものがあって 

  家に帰ってきても、うちって落ち着けれるような場所ではなくて。

  人とのかかわりあいの中で、やわらかくなってきた。

   

〇2004年

 ビキニ事件からちょうど50年経った2004年。

 大石さんは水爆実験が行われたマーシャル諸島を訪れた。

 自分と同じように、死の灰で被曝した現地の人々と、

 交流するのが目的だった。

 水爆「ブラボー」が爆発した時、82人が暮らしていた

 ロンゲラップ島。

 人々は降り注いだ死の灰の中に、2日間置き去りにされた。

 アメリカは、人々を避難させた後も、治療を行わず、

 血液や尿を採取して、放射線の影響を調べた。

 やがて、島に戻った人々に、甲状腺の腫瘍や、がんが続出する。

 女性には流産や異常な出産が相次いだ。

 不安をつのらせた人々は、1985年に故郷を離れた。

  

〇マーシャル諸島の首都マジュロ。

 (2004年に大石さんが訪問した時の映像)

 大石さんは模型の船を持参していた。

 ビキニ事件を伝えたいと作り続けてきた第五福竜丸。

 これで8隻目だ。

 故郷を離れて暮らすロンゲラップ島の人々が、

 この日、久しぶりに集まっていた。

 (模型船を手渡す大石さん)

大石:これは私が作ったものです。どうぞ置いてください。

 

〇ビキニ事件当時村長だったジョン・アンジャインさんが

 模型船を受け取る。

〇(第五福竜丸をラッキー・ドラゴンと表現する大石さん)

  

〇ジョンさんの息子レコジさんは1歳で死の灰を浴びた。

 15歳の時に甲状腺の異常が見つかり、アメリカで手術を受けた。

 4年後、白血病で再びアメリカに運ばれる。

 その3か月後、レコジさんは19歳で亡くなった。

 アメリカのメディアは「人類の水爆死 第1号」と書き立て、

 ようやくマーシャルの核被害が知られるようになった。

 アメリカは自分たちをモルモットのように扱った。

 ジョンさんはそう考えてきた。

 

〇ジョンさんと大石さんとの会話

 ジョン:水爆の犠牲者についてアメリカはまだ

  すべてを報告していません。

  ロンゲラップの被曝者について言えば、

  レコジのまえに2人が亡くなっています。

  レコジだけが犠牲者ではないのです。

  大石さんの主張は正しいことですし、

  一人で戦う姿に敬意を表します。 

  (ジョンさんは2004年に亡くなったと字幕)

  強い人ですね。

 大石:私の息子も、最悪の状況、奇形児で生まれている。

  ジョンさんの息子さんのことを見ていて、

  言葉がない。(嗚咽)

  

〇大石さんの語り

 大石:ビキニの人たちの被害というのは、なおざりにされてきている。

  月日だけはどんどん流れていくという虚しさと、

  人と人との争いのために弱いところ、無関係なところが

  被害を受けているという。

  人間が持っている理解できないでいるような部分を、

  しんみりと感じましたね。

  何とかできないかなと思いながらも、何もできないもどかしさを

  感じましたね。

  

   

つづく   

番画〈338〉:「白い灰の記憶 大石又七が歩んだ道」④

      

今日は令和3年7月28日。

   

前記事の続きです。

〈338〉「ETV特集 白い灰の記憶 大石又七が歩んだ道」

  (2021年7月24日放映)

この番画をほぼ聞き書きしてます。

   

〇再び「NHKスペシャル 又七の海」の映像。

 大石さんが語っている。

 

〇大石:責任をとってもらいたい。そこまで言いませんけどね、

  責任はあるのかないのか知りたいよね。

  もしかしたら責任ないのかもしれない。

  でも責任があるのかないのか、その答えぐらいは、

  聞かせてもらいたいと思いますけど。

  この問題というのは、やった側に責任があるのか、

  ないのかという、そういうことすら何も問題の答えが

  何も出ていないで来ちゃっていますからね。

  どちらかって言うと無視されているという状態でしょ。

  だから非常に不満ですよね。

   (沈黙)

  何のための犠牲なのか、その辺のことも聞かせてもらいたい。

  誰かのためになったのかしら、その犠牲ッというものが。

  誰かのためになっているのか。

  本当の無駄の犠牲だったのか。

  なんかわけの分からない、うやむやで消されてしまうような、

  そんなふうに感じますけどね。

  

〇長女佳子さんの語り。

〇佳子:なんか理不尽なものと、事件に対する、

  一緒に乗っていた人たちの悔しい思いと、

  同僚たちが早く亡くなっていく悔しさと無念さと怒りと、

  いろんなものがたぶん父には混じっていたと思いますね。

  やっぱり話をすることで、自分のいろんな気持ちていうのを

  吐きだす、吐きだすって言葉じゃいけないのかな、

  気持ちを少しでも表に出すことができるようになって、

  そのなかでやっぱり言葉にすることで、

  自分の考えをまとめていくというか、

  その事件をあらためてとらえなおすってことが

  できるようになったと思うし。

   

〇大石さんが自らの体験を公にするようになった直接のきっかけは、

 ある中学校からの依頼だった。

 代表の生徒が電話で、ぜひ体験した本人から聞きたいと、

 渋る大石さんを口説き落とした。

 

〇再び「NHKスペシャル 又七の海」の映像。

 北村和夫さんが大石さんの手記を朗読する。

〇北村:俺は時々思う。既成概念にどっぷり漬かって、

  固まってしまっている大人たちはもう、ダメ。

  真っ白で生まれてくるこれからの子供たちに、

  新しい未来を託すしかない。

  約束の日に、夢の島の展示館に行くと、

  男女3人ずつの生徒と、担任の先生も一緒に来ていた。

  中に一人、目の見えない高橋しのぶさんという女子生徒がいた。

  後で、展示されている船の中に入り、船室、ぎょそう、ブリッジなど、

  俺は指を差しながらいろいろと説明した。

  その子も、俺の後ろから手を引いてもらいながらついてきて、

  一生懸命、耳を傾けていた。

  俺はなぜかその子のことが気になった。

  あの子はきっと俺の言ったこと、半分もわからなかったのではないか。

  その時、ふと、あの子の手の中に入るくらいの船があれば、

  話の中の名前や形がわかるかもしれない。と思いついた。

  たいして深く考えたわけでもなく、俺は船を作りはじめた。

   

〇高橋しのぶさんへのインタビュー

 インタビュアー(イン):高橋さんが書いた感想文。

 高橋:なんかいろいろ書いたと思いますけど。

 イン:点字なんですけど、持ってきました。

 高橋:すごい、よくありましたね。何十年も前。

  

〇感想文を点字をなぞりながら読む高橋さん。

〇高橋:「私たちの船」

  大石さんに船の各部分について説明してもらった。

  私は模型船に手でさわっているだけだが、

  新米の私にベテランの乗組員の大石さんが、

  船の中をあちこち案内しながら

  いろいろと教えてくれて、

  これから航海に出ようとしているような、

  楽しい気持ちにちょっとなりかけた。

  その時この船は”死の灰”を浴びたんだってことを

  思い出した。

  心で受け取った小さな第五福竜丸は、

  学校だけじゃなくて、私の心にも置いて、

  大石さんの心を思い出すようにしたい。

  

〇高橋:よくとってありましたね。

  何十年前のきたない点字。(笑)

  大石さんの心の働きが模型船を作り出したんだと思うんです。

  誰に言われたわけではなくて。

  大石さんの心の中で作る。私のために作りたいという思いが、

  実際の行動を生み出して、行動してくださったことだと思うので、

  心が作った第五福竜丸を、大石さんがこれをつくった思いを、

  受け取るという思いで、この感想文を書いたと思います。

 

〇高橋しのぶさんは、特別支援学校の英語の教師になった。

 (英会話の授業風景)

 高橋さんの語り。

〇高橋:私には視覚障害があって、自分の力ではどうにもならない、

  そういった条件をもって、生きているっていう孤独感。

  中身は大石さんと私は違うんですけども、

  ちょっと共感できるものがあったかなと。

  人間はいっぱいいても、その中で自分と重ね合わせる人がいない

  というのは、孤独かな。

  だまっていればそれですむかもしれないけども、

  だまっていてはいけないって、言う思いがあって、

  それを実行できたっていう、強い方というか、

  心の中に強さをもった人だと思います。

   

  

つづく     

  

2021年7月27日 (火)

番画〈338〉:「白い灰の記憶 大石又七が歩んだ道」③

   

今日は令和3年7月27日。

   

前記事の続きです。

〈338〉「ETV特集 白い灰の記憶 大石又七が歩んだ道」

  (2021年7月24日放映)

この番画をほぼ聞き書きしてます。

   

〇佳子:ねえ、みんなから、白い目で見られて、

  お金だけもらったって、後ろ指刺されて、

  焼津にいられなくなって、雑踏の東京に紛れるように、

  出てきたわけですよね。

  いいこと何もないよ。自分ではどうしようもない、

  自分が選んだ人生ではなくて、どうしようもないかたちで、

  船のようにあっちに行きこっちに行き、

  ここまで来ちゃったような。

   

  うちでビキニ事件の話をしたことはないですね。

  (1959年 信子さんと結婚)

  やっぱりそういうのを知られると、結婚するのは大変。

  結婚できるとは思っていなかった。

  自分一人の問題ではなくて、つながっていってしまう。

  子供が生まれないんじゃないかとか、

  そういった問題を含んでいくことなので、

  やっぱり公にしたくなかった部分もあるし。

 

〇再び「NHKスペシャル 又七の海」の映像。

 北村和夫さんの朗読。

 

〇北村:うちの中は明るくにぎやかになった。

  そんな日々の中、お母ちゃんは身ごもった。

  みんな喜んでくれた。

  しかし、俺の頭の中には、忘れかけていた不安が急に

  よみがえってきた。

  被曝の影響は本当になくなったのだろうか。

  お産の日が近づき、店から1キロぐらいの所にある病院に

  入院した。朝早く、看護婦さんからの電話だ。

  すぐ来るように。

  あわててかけつけた。

  よかった。子どもは男だろうか、女の子だろうか。

  喜びの言葉を期待しながら、看護室のドアを開けた。

  だが、応対に出た看護婦さんの顔には笑顔はない。

  「お気の毒です」「死産です」

  ゆるみかかっていた顔が、動かなくなった。

  体の中を何か重いものが抜けていった。

  ベッドの前にそっと立ってだまっていたら、

  お母ちゃんはわかっていたのか静かに振り向いた。

  言葉の代わりに掛け布団をそっとひっぱてかけてやった。

  異常出産だった。

  何を考えているのか、ずっと泣いていたのだろう。

  「すまない」頭の中をあれやこれや、また悪い想像がうずまいた。

   

  死神はひとり、またひとりと仲間の命を奪いながら近づいてくる。

  「りせつりゅうしょう居士(こじ)」

  鈴木たかしさんのあの世での名前だ。

  俺にはまだその名前に馴染むことも、理解することも、

  納得することもできていない。

   

  4月29日。とうとう肝臓がんで59歳の生涯を閉じてしまった。

  「もう、終わっちゃったことだけどな」

  「入院中に先生に聞いたことがあったってよ」

  会食の席で兄さんが話しかけてきた。

  「あの病気は、水爆”死の灰”に関係あるのかねと聞いてみただよ」

  「私の口からそのことは言えない、と先生はそう言ったってよ」

   

  山本ただし機関長も、59歳で結腸がん、胃がん、肝臓がんを

  併発して、みんなの後を追った。

  山本さんへの弔辞。

  「山本ただしさん。何を言っても山本さんは返事をしてくれない。

  おととし、一番若い松田ゆういちさんが亡くなった時、

  ぽつんと山本さんは言った。いろいろとずいぶん悩んだんだろう。

  誰にも言えないつらいこともたくさんあったんだろう。

  かわいそうにな。と、参列している自分の後ろで、

  小さな声で独り言のようにつぶやいた言葉が、

  はっきりと耳に残っている。

  こうした人の心をおもいやる山本さんが、

  自分の死を目の前にして何を考え、何を思ったことでしょう。

  夜は眠れないと、奥さんに言っていたそうですね。

  たくさん、たくさん考えたことでしょう。

  切腹を待つ武士の気持ちがわかる と奥さんに言ったそうだ。

  それなら私は聞きたい。

  だれが切腹をしろと言ったのか、

  何の罪で切腹をしなければならないのですか。

  言い尽くせぬままに、お別れいたさなければなりません。

  安らかに、安らかにお眠りください。大石又七」

  

   

聞き書きしていくことで、聞き漏らしていることに気がつきます。

時間はかかるけど、時間をかけただけのことはあります。

  

でも今晩はここまで。

  

  

明日につづく。

番画〈338〉:「白い灰の記憶 大石又七が歩んだ道」②

   

今日は令和3年7月27日。

   

前記事の続きです。

〈338〉「ETV特集 白い灰の記憶 大石又七が歩んだ道」

  (2021年7月24日放映)

この番画をほぼ聞き書きしてます。

   

〇死の灰を浴びたあの日から67年。

 大石さんは何に怒り、何に希望を見出してきたのか。

 第五福竜丸元乗組員 大石又七さんの人生を見つめる。

  

〇長女の佳子さんは、このマンションで体の自由がきかない

 晩年の大石さんと7年間暮らした。

 

〇アルバムを見せる佳子さん。

 笑っていないとヤクザみたいな顔だった。

 

〇中学校を中退し、焼津でカツオ船に乗ったころの大石さんの写真。

 まだ14歳の時の写真。

  

〇佳子:船に乗ること自体、自分は乗りたくて乗ったのではないし。

  父の父親、おじいさんが保証人になって、家が破産しちゃって、

  お金がなくて、で、父親も亡くなっちゃって、しょうがなくて、

  長男である自分が船に乗って。

  何で自分の人生はこんななのよと。

  船に乗ったはいいけど、今度は被爆しちゃって、

  また世間から叩かれちゃって。

  

〇事件から38年後 58歳の大石さんをとらえた映像。

 (クリーニング店のシャッターを開けるところ)

 東京でクリーニング店を営んでいた。

 この1年前、大石さんは、乗組員の中でただ一人、

 長い沈黙を破って、自らの半生を綴った手記を発表していた。

  

〇「死の灰を背負って 私の人生を変えた第五福竜丸」

 (大石又七著/新潮社)

  

〇ここから1992年に放映された「NHKスペシャル 又七の海」の

 映像がしばらく流れる。

 もしかしたら録画しているかもしれないと思ったが、

 録画していなかった。 

 一度見てみたいと思っていた番組を見ることができた。幸運。

 北村和夫さんによる「死の灰を背負って」の朗読。

  

〇北村:閃光が見えてから2時間くらい、ふと気がつくと、

  雨の中に白い粉のようなものが混じっている。

  「何だこりゃ」思っているうちに粉はだんだん量が多くなった。

  やがて雨は止み、その白い粉だけになった。

  みんなゴム長靴にゴムのズボン、上半身は白いシャツ1枚。

  船も人も風上に向かっての作業なので、

  粉は目、耳、鼻などに容赦なく入り、まとわりつく。

  目に入るとチクチクと痛くて、目を開けていられない。

  灰を被った時点では、だれも口には出さなかったが、

  作業中に眩暈がしたり、縄をあげ終わるころには、

  頭痛や吐き気。夜になると下痢をする者も何人かいた。

  1週間を過ぎた頃、甲板長の川島さんが、髪に櫛を入れていて、

  ふと毛がぬけてくるのに気がついた。

  「えぇ~」と手に手に自分の髪の毛を引っ張ってみた。

  「抜ける」ほとんどの者が大なり小なり、引っ張ると抜ける。

  久保山局長は白い灰に危険を感じていたのか、

  「水で体を洗え」と何度も言った。

  

〇北村:ピストルのお化けのような恰好をしたガイガーカウンターを

  俺たちの身体に近づけると、フライパンで豆でも炒るような

  高い連続音がして、あわてて先生方は後ろに飛びのいた。

  これでは映画にも出てきそうな放射能人間だ。

  爪を切られ、身体中の毛は剃り落された。

  俺たちの小便は、アメリカにも送られていると聞いた。

 

〇北村:9月23日。無線局長の久保山愛吉さんが亡くなりました。

  「お父ちゃん」奥さんと3人の子供たちの呼ぶ声が、

  張り詰めた病室の空気をひきさくように響いた。

  「これでいいのか」

  遺体は7時間もかかって解剖された。

  命を奪われたあげくに、八つ裂きにされる。

  「いやだ。俺はいやだよ」

  

〇被害は第五福竜丸だけではなかった。

 のべ900隻を超える船から、魚の汚染が見つかり、

 水産業は大きな打撃を受けた。

 ビキニ水爆の半年後には、アメリカに対抗して、

 ソビエトが核実験。(地上での実験)

 日本に降る雨の中からも、放射性物質が検出されると、

 放射能パニックが広がっていく。

 広島、長崎につづく、3度目の被曝。

 原水爆禁止の訴えは、国民の3人に1人が署名するほどの

 高まりを見せた。

 署名運動は翌年、原水爆禁止世界大会に発展。

 ビキニ事件は核兵器反対運動の原点となっていく。

 

〇一方、反米感情の高まりを恐れた日米の政府は、

 解決を急いだ。

 事件から10か月後。アメリカが7億2000万円の見舞金を

 日本に支払うことで合意。アメリカの責任は今後一切問わないという

 政治決着だった。

 大石さんたちには、1人あたり200万円の見舞金が

 支払われるようになった。

 事件から1年2カ月。

 (大石さんたちは)東京の病院を退院。故郷に戻った。

 しかし、多額の見舞金を受け取ったことで、

 大石さんたちはいわれのない、妬みや偏見にさらされる。

 「お金の一部を拝借したい」「見舞金は寄付すべきだ」

 大石さんたち乗組員は、被害者であるのにも関わらず、

 沈黙を余儀なくされていった。

 そして事件は急速に忘れられていく。

    

  

ここまで番組の13分30秒ほど。

まだ4分の1に至りません。

  

つづく

番画〈338〉:「白い灰の記憶 大石又七が歩んだ道」①

     

今日は令和3年7月27日。

   

番画です。

   

〈338〉「ETV特集 白い灰の記憶 大石又七が歩んだ道」

  (2021年7月24日放映)

   

〇充実した1時間番組だった。

 この番組をどうやってこのブログにまとめようか。

 やっぱり焦らずに少しずつ書き留めていこう。

 

〇大石又七さんの長女佳子さんが何枚も魚拓を紹介。

 大石さんは釣り好きであり、

 魚拓にした後、大石さんが魚をさばいて、刺身にした。

 (事件について)語っていなかった時は釣りばかりしていた。

  

〇佳子:年を重ねるにつれて、父自体が変わっていった。

  自分たちがこれから歩んでいく未来の問題として

  原爆とか原子力とかそういうものを考えていってほしいな。

  そういう期待。

  

〇20歳の時に第五福竜丸で人生を変える事件に遭遇していた。

 

〇大石:ピカッと光ったような光ではなかったね。

  遠くで何か光ったんだな。

  何か白いものが落ちてきたけど、

  きょろきょろしてましたよ。

  ”死の灰”とか何とかっていうこと

  頭にないからね。

  

〇1954年 太平洋のビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験。

 3月1日 水爆「ブラボー」

  

〇爆心から160km離れたところにいた大石さんたちに、

 ”死の灰”が降りそそいだ。

 乗組員が浴びた被ばく線量は、致死量の半分近くに達したと推定される。

 

〇静岡県焼津港に戻った大石さんたちは全員入院。

 「急性放射能症」と診断された。

 輸血などの治療が行われたが、半年後に1人が亡くなった。

 広島・長崎に次ぐ第3の被爆として、

 このビキニ事件は日本人に衝撃を与えた。 

  

〇大石:大きい事件が起こっても、時間がたてば消えていきますよね。

  (ビキニ事件は)過去の出来事ではなくて、

  現在ももっと大きく意味を広げて、大きくなってきている事件だと

  私は思っているんですよ。

  

〇大石又七さんは、2021年3月7日に87歳で亡くなりました。

  

〇50代の頃から大石さんは、忘却に抗うように、

 自らの体験を語り続けた。

 

〇大石:雪が降るわけでもないだろうに、

  なんでこんな白いものが降るんだろう。

  それがこの辺に(首・顔)、いっぱいつくわけですよね。

  雨と一緒になって。

  この辺についたやつをかんでみると固いんですよね。

  砂みたいにじゃりじゃりして。

  

〇大石:この第五福竜丸は当時23人乗っていました。

  私を含めて23人乗っていて。

  現在は(2004年)、その半分の12人が亡くなっているんです。

  それもただ普通の病気で亡くなったのではなくて、

  被爆の後遺症と思われる

  共通した病気でみんな亡くなっています。

  私は被爆のために仲間が半分死んだんだって 

  ずっと思い続けています。

 

〇第五福竜丸展示館 学芸員 市田真理さん

〇市田:すごいテンションで、高いテンションで

  怒り続けている気がします。

  語りたい、でも語れなかった仲間の分も

  自分は生き続けるんだ、語り続けるんだ。

  

〇久々に聞き書きを始めた。夏休みだからできることかも。

 この1時間番組を書き残しておきたい。

  

  

つづく

スイカの収穫4個

         

今日は令和3年7月27日。

    

学級園でのスイカの生長は、ありがたいことに好調です。

最初の収穫は7月22日でした。

一番大きく育った1個。

恐る恐る切断しましたが、

赤い断面も見て、大喜びをしました。

味も甘かったです。

同僚にもおすそ分けしました。

  

そして今日は4個収穫。

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出校日には、学級のみんなと食べたいですね。

  

スイカを自分たちで作る。

面白い体験ができたなと思っています。

最近の写真

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楽餓鬼

今日はにゃんの日

いま ここ 浜松

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