番画〈338〉:「白い灰の記憶 大石又七が歩んだ道」⑦
今日は令和3年7月29日。
前記事の続きです。
〈338〉「ETV特集 白い灰の記憶 大石又七が歩んだ道」
(2021年7月24日放映)
この番画をほぼ聞き書きしてます。
〇水爆「ブラボー」の実験から、67年。
今、世界の核兵器は1万3000発以上。
新型の小型核兵器は標的をピンポイントで攻撃できるという。
いわゆる「使える核兵器」だ。
私たちは危機の只中にいる。
大石さんは警鐘を鳴らし続けた。
市田さんが大石さんから託されたものがある。
大石さんの話を聞いた小学生や中学生、高校生から送られた
感想文。
〇イン:どれくらいあるんでしょう?
市田:どれくらいあるんでしょう?
80年代からずっとなので、かなりありますね。
子供たちが大石さんを歓迎した時のカードとかもあります。
これは高橋しのぶさんがいるグループのものです。
送られて来たものは捨てないで全部取っておいて、
大石さんにとってご自分が発信する本を書くとか、
お話すること以上に、こうやって戻って来たものが、
宝物だったんだと思うんです。
感想文がうちにあるから、子どもに持っていかせるから、
何とか本にするなり、世間に発表してほしいって言われて。
遺言じゃないし、冗談じゃないよとその時は思ったんですけど、
受け取ってみると、やっぱり私がちゃんと
読み込まないといけないと思って。
(感想文を見ながら)
「何が大石さんに活動させているのか?」とか
「大石さんは第五福竜丸に活動させられているような気がする」って
この人は書いていますね。
「同じ船に乗っていなかったから、つらさなんてわからないけど、
大石さんたちにあったことなどは、理解というか、
記憶していくことはできると思う。忘れないで他の人に伝えることが
できると思う」
自分だったら何ができるかを考えている。すごいなあ。
〇(感想文を読む齋藤あずささん)
〇齋藤:「私たちが大石さんやその他の方々の気持ちを
十分に理解することは無理だと思います。
でも理解しようと努力することはできます。
私たちは少しでもわかるように努力します」
イン:こうやって書いておられますけど、こういう気持ちでしたか?
齋藤:そうですね、簡単に理解できるということはないだろうと
思って。
〇(神奈川学園の校内の様子)
〇大石さんに宛てて手紙を書いた当時中学2年の生徒は、
母校の教師になった。
今度は教え子と一緒に何度も大石さんの話を聞いた。
齋藤あずささん。
社会科の教師を選んだのは、大石さんの影響があったからだと言う。
(1995年 大石さんの教室に招いた記念写真)
クラスに招いて話を聞いた後も、大石さんとはずっと
手紙のやり取りが続いた。
〇齋藤:当時いろんな言葉をいただいたと思うんですけど、
ひとつは、女子高の中学2年生の女子である私たちに、
話をしてくださるところで、これまでの歴史では、
男が破壊して、それを女が守り、そういうことが繰り返されてきた
ということをお話してくださっていて、
これから生きる、次の命を育んでいく女性の皆さんにぜひ
覚えていてほしいと、そういうことを言われていました。
強く印象に残っていますし。
平和というものが、ただボウとしているだけでは続いていかないのだよ
ということを何度もお話してくださった。
自分自身はどうやって実現していくのかを考え続けて、
進路を選択して教員としても考え続けて、
そこは自分にとって大石さんとの約束というか、
大石さんにいただいた宿題のように思いながら、
過ごしている状態です。
〇(佳子さんへのインタビュー)
〇イン:やっぱり海なんですね。
佳子:そうですね、山には行かない。
〇2019年、骨折した大石さんは、三浦半島の高齢者施設で、
暮らすことになった。
〇佳子:施設にどうしても入らなくてはならなくなった時に、
せめて海が見えるところにしてあげようよと言って、
頑張って探しました。
〇最晩年も施設の近くで大石さんは語った。2019年12月。
これが最後の講演になった。
〇大石:ばかの一つ覚え、一生懸命やるってことはいいことかなと
いま考えています。
〇市田:ある朝、大石さんから電話がかかってきました。
朝の4時半か5時だったんですけど、
何が起きたのかと思ったら、
「あの人が長崎に行くらしい」
あの人って誰?
わからないなんておかしいだろうって、怒っているんですね。
何で手紙を(ローマ教皇)に出さないといけないと思ったの?
大石:やっぱり広島、長崎だけが日本で被曝したわけじゃない。
日本ならやっぱりビキニを入れてくれなきゃ。
第3の被曝と言われた場所だもんね。
どうしてもあの方(ローマ教皇)には第3の被曝のことを
頭においていろいろな話をしてもらいたいなと。
市田;そんな人くるんだ、へ~と思っていたのだけど、
本当に本当に、私、仏教徒ですし。
大石さんは、発信力のある人に、伝えなきゃあと。
大石:俺だって仏教徒だよ。
市田:ねえ。(笑)
※ローマ教皇への手紙については以前に記事にしました。
ここでも道草 新聞記事/もう一つの核の悲劇「第五福竜丸被曝」
2019年11月26日の記事でした。
〇2021年1月核兵器禁止条約発効(2017年国連で採択)
〇大石さんたち被曝者の願いを形にした、核兵器禁止条約。
50か国以上が参加して、今年1月に発効。
しかし、核保有国もアメリカの核の傘にたよる日本も
参加しないままだ。
大石さんと長女の佳子さんが、最後に会話を交わしたのは、
翌月2月11日。
〇佳子:「出せ出せ」って言うから、「今はコロナだし、
今は外に出ることはできないから、今は出せない」って言ったら、
「出られないならもういい。はやく帰れ!」って
ものすごく怒りまくって、「おまえはいつもそう言う。はやく帰れ!」
それが最後の言葉なんですけど、
まあ父らしいわねというところではあるんですけど。
とにかくはやく外に出て、伝えたいという気持ちが
すごく強かったと思いますね。
まだ伝えきれていない。
自分がいつ死んじゃうかもしれないから、
死んじゃう前にまだまだみんなに言いたいことがあるっていう
そういう気持ちがあふれ出ちゃたんですかね。
80過ぎてもね、こんなふうに皆さんに気にかけていただいて、
心配していただいて、そんな人生がおくれたというのは、
やっぱり素敵な人生だったのではないかなと。
前半は辛かったけど、後半はとっても豊かな人生だったと
思います。
〇3月7日。大石又七さんは、87歳で生涯を閉じた。
今、市田さんは、ビキニ事件と大石さんの言葉を語り伝えている。
〇(展示館での市田さんの語り)
市田:振り返ると、西の方の空から、きのこの形なんかじゃない、
雲のかたまりがわ~と押し寄せてきた、
そして大石さんの言葉によると、低気圧の時みたいだった。
一面黒雲に覆われて、雨が降ってきました。
熱い空気のかたまりが、が~と吸い上げられていって、
上空で冷やされて、そして水滴になって落ちてくる。
雨はあがったけど、濡れているところに白いものが降ってくるから
くっつくでしょ。目に入るとチクチクするし、
何度も聞いたんですね、「大石さん 怖くなかったんですか」って。
そしたら「こわかれなかった」つまり怖いかどうかわかんないから。
残念ながら、大石さんは今年の3月に亡くなられましたけど、
私は少なくとも大石さんの願いや声を聴いて
そばで聞いていた人間の一人として、このことを皆さんに伝えて、
皆さんにも一緒に考えてほしいなと思います。
この船は今ここに固定されて室内に置かれて、
2度と再び海をはしることはありませんが、
第五福竜丸は核のない未来に向かって今も航海中ですというのが、
私たちの合言葉です。どうぞ皆さんもこの航海にご一緒ください。
(メモする学生に再び合言葉を言う市田さん)
市田:核のない未来に向かって今も航海中です。
以上です。
写真は使いませんでしたが、
久々番組をほとんど聞き書きしました。
やり切った!
夏休みとはいえ3日間かかりました。
聞き書きすることで、聞き流してしまっていたことまで聞けます。
1時間の番組がより分厚いものになります。
大石又七さんのことがまた理解できました。
記憶にも残りました。
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