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2019年11月

2019年11月21日 (木)

アメリカが経済制裁中のイラン

 

今日は令和元年11月21日。

  

今日の朝日新聞から引用します。

  

イランデモ 死者100人超か 

ガソリン値上げ 若者「生活苦しい」

ガソリン価格の値上げを機に、イランでは異例の反政府デモが

15日から続いている。死者は100人を超える可能性がある。

イランと敵対する米国の制裁によって経済が疲弊し、

若者を中心に社会不安につながりつつある。

  

 

死者が200人に上るとの情報もあるそうです。

死者が出るというのは深刻です。

経済制裁が行われると、このような事態が

起こってしまうのですね。

政治というのは、うまくいかないなあと思います。

どこかに犠牲が出てしまいます。

  

   

イランに関して、11月19日朝日新聞記事です。☟

Epson120  

デモ封じのために、インターネット遮断。

すごい政策です。

よけいに反発を招くのではと心配していました。

  

  

全ての情報を見ることはできません。

その中で、昨日と今日、目にとまったイランのこと、

そして経済制裁をしているアメリカのことを見ていこうと思います。  

 

11月24日に木星と金星が最接近

今日は令和元年11月21日。

  

さっき、ふと南西の空を見たら、輝く星が2つ、

縦に並んで見えました。

ドキドキしました。

あれは何だと思って、さっそく調べたら、

木星と金星でした。

Img_0624

11月24日に最も接近するそうです。

ちょっと天気が心配です。

今晩、今なら見ることができます。

   

  

11月28日は、役者が3人。

月と木星と金星が南西の空でそろって見ることができるそうです。

astroarts

ここから引用します。

  

11月28日の夕方、南西の低空で月齢2の細い月と木星が接近し、

その左に金星も並んで見える。肉眼や双眼鏡で接近の様子を

観察してみよう。左上にやや離れたところには土星も見える。

日の入り30分後の高度が約10度と低いので、

あらかじめ見晴らしの良い場所を見つけておこう。

写真にも収めてみたい。翌日には少し太くなった月と金星が並ぶ。

  

1週間後の木曜日の夕方、撮影に挑戦しようと思います。

うまく撮れたら、ブログに載せます。

日立建機とTADANOの重機

今日は令和元年11月21日。

  

ここでも道草 20191030報告 吉祥山(2019年11月3日投稿)

この記事で、メーカーによる重機の色が違うことを載せました。

再掲します。

Photo建機・重機の色が黄色・オレンジ色の理由とは?

  

それ以後出合った重機です。

Img_0607

Img_0607_2 

これは日立の重機でした。

上の表にはありません。

一見して川崎重工の色に近いのかなと思いました。

会社名は日立建機でいいと思いますが。

  

  

青い重機を見かけたので、逆光にもめげずに撮影しました。

Img_0619

Img_0619_2  

コベルコ建機の重機かと思いましたが、

悲しいかな重機メーカー名の部分を撮影していません。

後日あらためて撮影に行きます。

  

  

Rimg2204 この重機のメーカーはTADANOです。

TADANO HPを見ると、青と白を組み合わせた重機が

多いようです。

  

今のところ言えているのは、重機の色は大きく分けて2系統。

黄色・橙色・茶色系統。

そして青系統です。

  

最近の観察報告です。

2019年11月20日 (水)

1988年東ベルリン公演/東ドイツが許可したロックシンガー

今日は令和元年11月20日。

  

前投稿に引き続き、11月6日放映の

BS世界のドキュメンタリー/ロックが崩した冷戦の壁」より。

  

ベルリンの壁が取り払われたのが、30年前の1989年。

その前年の1988年7月19日に、東ベルリンで大観衆を集めて

コンサートを行ったアメリカ人ロックシンガーが紹介されました。

東ドイツが開催をOKしたのです。

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Rimg2227  

ブルース・スプリングスティーンです。

   

ブルース・スプリングスティーンは、ボブ・ディランの

「自由の鍾/Chimes of Freedom」を歌いました。

※歌詞→廃墟の街のレコード店 自由の鍾 

前投稿で示したように、ビリー・ジョエルは、やはり

ボブ・ディランの「時代は変わる/The Times They Are A-Changing」を

歌いました。

※歌詞→時代は変わる ボブ・ディラン

ノーベル賞をもらったボブ・ディラン。

世代が少しずれた私には、まだそのすごさがわからない。

  

    

ブルース・スプリングスティーンのこのコンサートについては、

このサイトの説明が激しいです。☟

monotone-extra Bruce Springsteen /East Germany 1988

Dvdro10951  

すこし引用します。コンサート開催のいきさつに触れています。

  

その映像美で描かれるショウは、歴史ヌキには語れない。

そもそも、このコンサートを企画したのは、

自由ドイツ青年団(Freie Deutsche Jugend)。

14歳から25歳までの東ドイツ人の75%以上が

加入するという巨大組織だったのですが、このFDJが

スポーツやディスコ、コンサートといった若者文化を企画し、

政府当局の許可を得て開催するスタイルでした。

ところが、80年代半ばには当局が許可できない企画も登場し、

禁止されると暴動に発展するようにもなった。

このコンサートは、そのガス抜きとして企画されたもの。

東ドイツ当局は、ブルース・スプリングスティーンを

「不正と戦う労働者階級」として許可したのです。

 

  

歴史ですよ、これは。

ゾクゾクする歴史です。

私はこの時、教員4年目。

ブルース・スプリングスティーンは聴きまくっていましたね。

でも残念ながら、このコンサートのことは覚えていません。

コンサートの映像をもっと見たくなりました。

 

1987年モスクワ公演/僕の中で冷戦は終わったんだ

今日は令和元年11月20日。

  

11月6日放映の「BS世界のドキュメンタリー/

ロックが崩した冷戦の壁」を見ました。 

  

番組の冒頭に出てきたこの方。☟ 名前は紹介されなかったので、

誰だかわかりませんでした。

Rimg2205

皆さんはわかりますか?

この番組の内容からして、登場して当然の人でした。

最近、いやいやずっとご無沙汰のミュージシャンでした。

正解は、下を読んでいただければわかります。

  

  

  

  

ほんの一部、番組の聞き書きします。

45分番組の28分ぐらいからです。

  

ナレーター:1985年政権に就いたミハエル・ゴルバチョフは、

  若者の支持を得るには、ロックンロールの統制をゆるめる

  必要があると考えます。

Rimg2206

アレキサンダー・バーシュボゥ元駐ロシア米大使:ロックを

  規制することはもはや不可能で、開かれた体制を目指す

  彼(ゴルバチョフ)の政策には、逆効果だったのです。

(中略)

ゴルバチョフ:ロックは若者のためにあります。ロックは若者たちに

  未来を切り開く機会を与えます。それによって彼らは

  大きな解放感を味わえるのです。思慮深い人は皆、

  こう理解していました。「若者たちは単に浮かれ騒いでいる

  のではない」「ロックに魅了されているのだ」と。

Rimg2207

ナレーター:ゴルバチョフはアメリカ人のロックミュージシャンが、

  ソビエト国内で電子楽器を使用することを許可しました。

  一番乗りでやってきたのは、ビリー・ジョエルです。  

Rimg2208

ビリー・ジョエル:「ソビエトで公演してみないか」と打診があった。

  人々の反応が不安だったが、どこへ行っても「アメリカ万歳」と

  言われて驚いた。これがなぜ(アメリカで)報道されないのか

  疑問だった。

  向こうのテレビ番組に出演してディランの”時代は変わる”を

  歌った。変化しようとするソビエトにピッタリだった。

  ゴルバチョフの功績は、抑圧が長く続いたことに気づき、

  門戸を開いたことだ。冷戦は終結しなくても、緊張は

  緩和されると感じた。

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ナレーター:ビリー・ジョエルのモスクワ公演には、2万人の

  ファンが詰めかけました。立ち上がって一緒に歌うことを

  初めて許可されました。会場にいたKGBは、それまでの

  ように、観客を座らせようとはしませんでした。

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ビリー・ジョエル:警備員も一緒に飛び跳ねていた。観客を

  席に押さえつける仕事を忘れてね。彼らも変革を求めて

  いたんだ。

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  ソビエトの脅威は確かにあったが、アメリカの政治家に

  煽(あお)られて、我々は恐怖をかきたてられおびえていた。

  ソビエトの人々は戦争など望まず、アメリカ人に好意的だった。

  ソビエトを訪問した時に、僕の中で冷戦は終わったんだ。

  それまでの恐怖が、突然消えた。人生であれほど大きな

  分岐点になった出来事はない。

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Rimg2220  

この記事に最初に載せた写真は、ビリー・ジョエルでした!

この番組を見て、1987年のモスクワ公演は、歴史的な出来事

だったと思いました。

しかし、懐かしい。

ビリー・ジョエルの曲が聴きたくなりました。


YouTube: Piano Man【訳詞付】- Billy Joel


YouTube: Honesty【訳詞付】- Billy Joel


YouTube: My Life【訳詞付】- Billy Joel

  

ラストは景気よくこの曲で・・・


YouTube: Billy Joel - Uptown Girl (Official Video)

  

2019年11月19日 (火)

そそり立つ壁?恵那市の平岩トンネル

 

今日は令和元年11月19日。

  

17日は、親戚の叔父さん叔母さんを連れて、

岐阜県の恵那峡に行き、紅葉を見てきました。

その時に気になったトンネルがありました。

恵那市にある平岩トンネルです。

  

自動車で走っていて、目の前にそそり立つように山があり、

その山に向かって走っていくと、平岩トンネルがあるのです。

とにかくそそり立っているのです。

壁のように急斜面です。

きっとネット上では話題になっていると思って、

「恵那市 平岩トンネル そそり立つ」で検索しましたが、

なにも引っかかりませんでした。

 

百聞は一見に如かず、見てみますか。

まずはグーグルアースで向かいます。

グーグルアース 平岩トンネル

Photo_2

国道257号線を、黄色の矢印の向きに進みました。

黄色の線で表わしたのがトンネルです。

目の前に、山がそそり立つように見えました。

3Dではどうでしょう。こちらの方が、壁っぽいかな。

Photo_5

黄色の矢印の付近にストリートビューで下りてみます。

ストリートビュー 平岩トンネル

Photo_3  

そそり立っているように見えますか?

実際に行くとよくわかりますよ。

国土地理院の2万5千分の1の地形図で見てみましょう。

Photo_4  

トンネルの入り口がある斜面は、等高線が密だと思いませんか。

この地形図から予測するに、急なところは40度くらいあると思います。

(国土地理院のサイトで、始点・終点を指定すると、断面図を

 見ることができます。それを利用して予測しました)

スキーのジャンプ台が35度と言われています。

それに匹敵します。

なかなかの角度です。

よかったら見に行ってください。

そして感想を教えてください。

  

「燃える海山」⑥/「新十津川物語」は「本物志向」の物語

  

今日は令和元年11月19日。

  

前投稿に引き続いて、「燃える海山 新十津川物語8

(川村たかし著/偕成社)より引用していきます。

  

「あとがき」から引用します。

「あとがき」を書いたのは、那須正幹(まさもと)さん。

「ズッコケ三人組」シリーズの那須さんです。

  

新十津川物語全体を通じていえる、川村作品のものすごさは、

舞台の細部にいたるまで、徹底した取材と時代考証によって

構築されているところにあります。それが、ようかん1本の

商品名であれ、ひと口飲んだだけの酒の銘柄であれ、

ちゃんと当時実在したものでないと書かないという

〈くそまじめ〉さで筆をすすめていくのです。

歴史的事件などは多くの資料もそろっていますが、

こうした日常品の名まえ、あるいはさりげなく挿入されている

歌謡曲の流行期間というのは、じつに作家泣かせの事柄なのですが、

川村さんは執念と思える潔癖さで、そのひとつひとつを

調査しておられます。全十巻では四千枚を越えるだろうと

予想される、この新十津川物語は、川村さんの本物志向によって、

はじめて成立していることをわすれてはならないでしょう。

(307~308p)

  

新十津川物語は、好奇心をくすぐり、

ブログにもたくさん引用したり、引用したことをきっかけに

調べたりしてきました。

たとえばこの記事。☟

ここでも道草 「雪虫の飛ぶ日」④/「宮田号」と「ノーリツ号」について(2019年10月29日投稿)

日本の自転車の歴史の勉強につながりました。

それは、突っついてもびくともしない、

川村さんの「本物志向」の物語のおかげだったのです。

  

  

全10巻の「新十津川物語」

残りあと2巻。

今年中に読めそうです。

「燃える海山」⑤/小笠原丸撃沈 樺太豊原市空襲

  

今日は令和元年11月19日。

  

前投稿に引き続いて、「燃える海山 新十津川物語8

(川村たかし著/偕成社)より引用していきます。

   

再びこの8年前の記事。

ここでも道草 昭和20年6月19日~10月15日の出来事(2011年6月25日投稿)

☝ ここからの引用。

  

8月22日  小笠原丸撃沈。

  

「燃える海山」には、小笠原丸撃沈の様子が描かれていました。

8年前にはたった1行でしたが、今回の読書で膨らみます。

  

おなじ(8月)22日の朝、北海道留萌の沖では、3せきの

疎開船がつぎつぎと魚雷攻撃を受けた。

まず午前4時22分、国籍不明の潜水艦が小笠原丸の左後方に

するりとうかびあがった。稚内でおよそ半数の避難民をおろした

小笠原丸は、小樽をめざしていそいでいるとちゅうだった。

潜水艦を見て、あわててくの字の回避運動にはいろうとしたとき、

魚雷が命中した。人がふっとび、マストが折れたかと思うまもなく

船はみるみるしずんでいった。

このようすは、留萌防空監視哨からも見えた。20せきの漁船を

だして救助にむかったが、助けあげたり海岸に泳ぎついたのは

62人で、あとの640人はかえらなかった。

(253p)

  

さらにここで勉強しました。☟

WEB歴史街道 三船殉難事件~忘れてはならない終戦後の悲劇

小笠原丸、第二新興丸、そして泰東丸(たいとうまる)の受難に

ついて書いてあり、最後にこう締めくくっています。

  

終戦後、1708人もの日本人が一方的に「殺戮」された事実は、

まず日本人として記憶に留めるべきことです。

そして、これは日本人に落ち度があったからではありません。

犠牲者の方々を悼むとともに、この悲劇からいま日本人が

学ぶべきことは多いと感じます。

  

   

  

同じ昭和20年8月22日に起こったもう一つの惨事を、

川村たかしさんは書いています。

  

樺太の中心都市であった豊原市の空襲です。

  

豊原の惨劇がはじまったのは、正午をすぎてまもなくである。

爆撃機1機と戦闘機2機が屋根をかすめるように飛来したかと

思うと、駅の上空にきて、黒いかたまりのようなものを、

つぎつぎにおとした。(中略)

耳をつんざくひびきがしたとき、機関車は直撃弾を受けて、

まっぷたつに折れた。カマのほうがそばの貨車につっこんで

燃えだした。横の倉庫が焼夷弾で炎をあげた。(中略)

2つの防空壕は直撃弾を受け、べつの壕の入り口では、

爆風で腹をひきさかれた子どもが、血にそまってたおれた。

にげまどう人びとに、ソ連機はなおもしつこく追いすがる。

女も老人もごろごろよこたわり、機銃掃射はパスパスと

広場の土を縫って走った。なおも小型爆弾が地べたをゆさぶる。

20分もたったろうか。ソ連機は大きく円をえがいて北の空に

消え去った。(中略)町全体ではほぼ100人が死に、

300人がけがをした。

(252p)

  

8年前の記事の昭和20年8月22日に、

次の項目を書き加えることにしました。

  

樺太豊原市空襲 死者100人余。

  

たった1行ですが、重たいです。

「燃える海山」④/北海道空襲 室蘭艦砲射撃

  

今日は令和元年11月19日。

  

前投稿に引き続いて、「燃える海山 新十津川物語8

(川村たかし著/偕成社)より引用していきます。

   

ここでも道草 昭和20年6月19日~10月15日の出来事(2011年6月25日投稿)

☝ まずはここから引用します。

  

7月14日-15日  北海道空襲。死者約2000人(室蘭艦砲射撃の死者数を含む)。 

  

この空襲に関する「燃える海山」の記述を引用します。

  

1カ月前の7月14日、北部軍管区司令部は、B29、20機と

艦載機300機が、くりかえしくりかえし7時間ものあいだ、

函館、室蘭、帯広、釧路を攻撃した、と発表した。

 

根室では350機の集中攻撃を受けて、町は延えん19時間も

燃えつづけた。3500戸のうち2500戸を焼いた火は、

家いえにある石炭に引火して、昼も夜も炎を吹きあげた。

 

この日は、青函連絡船もしつこい攻撃を受け、12せきのうち

11せきがしずめられた。今朝男(けさお)が通信士として

のっていた第四青函丸は、6キロの沖で8機の敵機につかまり、

蛇行したままにげまわったものの、とうとう沈没した。

アメリカ機は、船がしずんでからも漂流する人間をねらい撃ってきた。

今朝男はなんども水中にもぐって、やっとのことで助かった。

  

つぎの15日には、ただ1せきのこった第一青函丸も、

青森県三厩(みんまや)灯台1キロのところで、グラマン19機に

おそわれてしずんだ。2日にわたる攻撃で、北海道と本州をむすぶ

船便はまったく絶たれたことになる。

  

おなじ15日、和彦の高射砲隊がいる室蘭市の輪西(わにし)は、

午前9時半からきっかり1時間、顔もあげられないほどの

艦砲射撃に見まわれた。日本製鋼、日本製鉄は炎えんと黒煙をあげ、

死者は500人をこえた。子どもがかくれた防空壕が直撃され、

30人が即死した。

(218~219p)

 

  

繰り返しますが、地元の豊橋空襲(昭和20年6月19日‐20日)と、

豊川海軍工廠空襲は、それなりに調べて知っています。

でも全国で空襲はあって、悲劇が起こっていました。

今回の読書で、北海道の空襲のことを少し知ることができました。

 

すこし調べました。

室蘭艦砲射撃慰霊碑(北海道室蘭市中島本町2-8)

Photo_00 総務省HP

碑文を引用します。

  

慰霊碑  

第二次世界大戦も終局に近い昭和二十年七月十四日十五日

の両日にわたる艦砲射撃のために中島社宅在住の人達

百九十二名の尊い人命が失われた

当会では終戦後毎年この人々の冥福を祈ると共にこのよう

な過ちを再び繰り返さないために慰霊祭をおこなって来た

がこの度この碑を建立し犠牲者の冥福を祈るものである

 

  昭和三十四年三月二十一日  中島社宅民和会

 

 

それぞれの地域に忘れちゃいけない歴史があります。

「燃える海山」③/「隊長はじめ全員が死んだ。」

  

今日は令和元年11月19日。

  

前投稿に引き続いて、「燃える海山 新十津川物語8

(川村たかし著/偕成社)より引用していきます。

  

広島に新型爆弾が投下されてから3日後の8月9日、

カラフトではふいにソ連軍が国境をこえた。

敷香(しずか)の町にながれこむ幌内川(ほろないがわ)の

上流国境地帯は、ミズゴケやハイマツのしげるやせた

ツンドラ地帯である。その広大な原野にいくつかの派出所が

あって、8人の警官が常駐していた。

ソ連兵が侵入してきたのは、午前7時半ごろである。

銃弾がかすめ飛ぶ中を、警察官は応戦しながら、家族をつれて

南方へとにげた。うまいぐあいに、うしろにびっしりと霧が

閉ざした。ソ連兵は追ってこなかったが、撃たれたものか

ふたりの巡査もすがたを見せなかった。これが最初の交戦だった。

とっくに電話線は切断されていた。

(178p)

  

8月8日にソ連は、日本に宣戦を布告。

その知らせを受けていない国境で、このようなことが

起こっていたのですね。

        ☟ ここが当時の国境

Epson118 (裏表紙裏の地図をコピー)

そして終戦の8月15日には次のようなことがありました。

長いけど引用します。

  

翌(8月)15日、ソ連軍はますます数をまし、戦車は50台、

砲十数門、兵は千数百人にふくれあがっていた。

古屯(ことん)兵舎には速射砲が二門あったが、

戦車砲を2,3発受けただけでしずかになってしまった。

あとに弾薬箱だけがのこった。

この部隊に、明治43年につくられたという、おそろしく古い

連隊砲が1門のこされていた。訓練用の見本で、カラフトにきてから

一発も実弾を発射したことがないという骨董品だった。

 

戦車が近づいてくるのを見た下村伍長らが、このやたら砲身の長い

大砲をひっぱりだしたときだった。

「敵戦車接近します。」

という声に、しっかりと陣地をさだめるゆとりもなく、

「ゼロ距離射撃、直接照準。」

下村伍長が大あわてで号令をかけた。

「撃てっ。」

水平にした砲身から、どっと砲弾がふいた。すると、おどろくべき

ことがおこった。速射砲も歩兵隊砲もまるで受けつけなかった戦車が、

かく座※してうごかなくなったのである。中からあわてた迷彩服の

ソ連兵がとびだしてきた。  

  

味方がワッと歓声をあげた。はじめての戦果だ。明治の大砲はなおも

火を吐きつづけた。3台め、4台めと戦車はうごかなくなり、

とびだした兵が空に飛ぶ。7台めは300メートルほど前方で

キャタピラが吹っとび、くるりと向きをかえてうごかなくなった。

5,6秒できめるのだが、ねらいはたしかだった。ほとんど一発で

命中させた。命中させると、土塀の裏にひっぱりこんで弾丸をこめる。

つぎの目標があらわれたとなると、路上にひきだしてぶっぱなした。

15台、16台・・・・。

  

この骨董品の連隊砲は、なんと32台の戦車をかく座したあと、

沈黙した。味方はふるいたった。何台もの戦車を破壊したのは大きかった。

しかし、敵は大部隊である。負傷兵は担架にくくりつけられたまま、

兵舎の庭にほうりだされたままだった。横山中隊長はじめ、つぎつぎと

戦死していく。小村大隊長はのこった60人ほどをあつめて、

森の中ににげた。夜になるのを待って斬りこむつもりだった。

しかし、あべこべにつっこんできた敵兵にあい、隊長はじめ全員が死んだ。

  

ソ連軍は、とうとう古屯川をわたりはじめた。ひざまでの水を

けとばしながら、自動小銃をめった撃ちにしながらおしわたってくるのは、

からだがすくむほどの迫力だった。日本軍も撃ちに撃った。

小銃の撃しんは赤く焼けた。こわいから撃っていたともいえる。

戦友の遺体を楯に撃っていた者も、いつのまにか息絶えていた。

  

夕方になって、ソ連兵の射撃がやんだ。かたっぱしから幹を

ひきさかれたシラカバが、むごいほど赤い夕日に焼けていた。

あちこちでうめき声がきこえる中を、わずかに生きのびた日本兵が、

ツンドラの上の水をすすりながらにげた。

軍馬がしょんぼり立っていても、ふりかえる者はなかった。

はるばる日本からはこばれてきた馬は、いまはじゃまでしかない。

  

これが、8月15日のことである。ポツダム宣言を受けいれて

日本が無条件降伏をした日、カラフト国境では、いま非常理な

戦闘が開始されたばかりだった。

(184~186p)

  

※【かく座】=擱座 戦車・車両などが破壊されて動けなくなること。

  引用:goo辞書

   

著者の川村さんは、取材をして実際にあったことを書いていると

思って読みました。自分だけが読んだだけでは、不十分。こういうことが

あったということは、私のブログの読者に知ってもらいたいと思い、

書き留めました。 

 

8月15日以降、兵士や非戦闘員の人たちがいっしょくたになって

ソ連と戦い、ソ連から逃げたかを、8巻後半は書いていました。

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