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2019年11月19日 (火)

「燃える海山」⑤/小笠原丸撃沈 樺太豊原市空襲

  

今日は令和元年11月19日。

  

前投稿に引き続いて、「燃える海山 新十津川物語8

(川村たかし著/偕成社)より引用していきます。

   

再びこの8年前の記事。

ここでも道草 昭和20年6月19日~10月15日の出来事(2011年6月25日投稿)

☝ ここからの引用。

  

8月22日  小笠原丸撃沈。

  

「燃える海山」には、小笠原丸撃沈の様子が描かれていました。

8年前にはたった1行でしたが、今回の読書で膨らみます。

  

おなじ(8月)22日の朝、北海道留萌の沖では、3せきの

疎開船がつぎつぎと魚雷攻撃を受けた。

まず午前4時22分、国籍不明の潜水艦が小笠原丸の左後方に

するりとうかびあがった。稚内でおよそ半数の避難民をおろした

小笠原丸は、小樽をめざしていそいでいるとちゅうだった。

潜水艦を見て、あわててくの字の回避運動にはいろうとしたとき、

魚雷が命中した。人がふっとび、マストが折れたかと思うまもなく

船はみるみるしずんでいった。

このようすは、留萌防空監視哨からも見えた。20せきの漁船を

だして救助にむかったが、助けあげたり海岸に泳ぎついたのは

62人で、あとの640人はかえらなかった。

(253p)

  

さらにここで勉強しました。☟

WEB歴史街道 三船殉難事件~忘れてはならない終戦後の悲劇

小笠原丸、第二新興丸、そして泰東丸(たいとうまる)の受難に

ついて書いてあり、最後にこう締めくくっています。

  

終戦後、1708人もの日本人が一方的に「殺戮」された事実は、

まず日本人として記憶に留めるべきことです。

そして、これは日本人に落ち度があったからではありません。

犠牲者の方々を悼むとともに、この悲劇からいま日本人が

学ぶべきことは多いと感じます。

  

   

  

同じ昭和20年8月22日に起こったもう一つの惨事を、

川村たかしさんは書いています。

  

樺太の中心都市であった豊原市の空襲です。

  

豊原の惨劇がはじまったのは、正午をすぎてまもなくである。

爆撃機1機と戦闘機2機が屋根をかすめるように飛来したかと

思うと、駅の上空にきて、黒いかたまりのようなものを、

つぎつぎにおとした。(中略)

耳をつんざくひびきがしたとき、機関車は直撃弾を受けて、

まっぷたつに折れた。カマのほうがそばの貨車につっこんで

燃えだした。横の倉庫が焼夷弾で炎をあげた。(中略)

2つの防空壕は直撃弾を受け、べつの壕の入り口では、

爆風で腹をひきさかれた子どもが、血にそまってたおれた。

にげまどう人びとに、ソ連機はなおもしつこく追いすがる。

女も老人もごろごろよこたわり、機銃掃射はパスパスと

広場の土を縫って走った。なおも小型爆弾が地べたをゆさぶる。

20分もたったろうか。ソ連機は大きく円をえがいて北の空に

消え去った。(中略)町全体ではほぼ100人が死に、

300人がけがをした。

(252p)

  

8年前の記事の昭和20年8月22日に、

次の項目を書き加えることにしました。

  

樺太豊原市空襲 死者100人余。

  

たった1行ですが、重たいです。

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