「燃える海山」④/北海道空襲 室蘭艦砲射撃
今日は令和元年11月19日。
前投稿に引き続いて、「燃える海山 新十津川物語8」
(川村たかし著/偕成社)より引用していきます。
※ここでも道草 昭和20年6月19日~10月15日の出来事(2011年6月25日投稿)
☝ まずはここから引用します。
7月14日-15日 北海道空襲。死者約2000人(室蘭艦砲射撃の死者数を含む)。
この空襲に関する「燃える海山」の記述を引用します。
1カ月前の7月14日、北部軍管区司令部は、B29、20機と
艦載機300機が、くりかえしくりかえし7時間ものあいだ、
函館、室蘭、帯広、釧路を攻撃した、と発表した。
根室では350機の集中攻撃を受けて、町は延えん19時間も
燃えつづけた。3500戸のうち2500戸を焼いた火は、
家いえにある石炭に引火して、昼も夜も炎を吹きあげた。
この日は、青函連絡船もしつこい攻撃を受け、12せきのうち
11せきがしずめられた。今朝男(けさお)が通信士として
のっていた第四青函丸は、6キロの沖で8機の敵機につかまり、
蛇行したままにげまわったものの、とうとう沈没した。
アメリカ機は、船がしずんでからも漂流する人間をねらい撃ってきた。
今朝男はなんども水中にもぐって、やっとのことで助かった。
つぎの15日には、ただ1せきのこった第一青函丸も、
青森県三厩(みんまや)灯台1キロのところで、グラマン19機に
おそわれてしずんだ。2日にわたる攻撃で、北海道と本州をむすぶ
船便はまったく絶たれたことになる。
おなじ15日、和彦の高射砲隊がいる室蘭市の輪西(わにし)は、
午前9時半からきっかり1時間、顔もあげられないほどの
艦砲射撃に見まわれた。日本製鋼、日本製鉄は炎えんと黒煙をあげ、
死者は500人をこえた。子どもがかくれた防空壕が直撃され、
30人が即死した。
(218~219p)
繰り返しますが、地元の豊橋空襲(昭和20年6月19日‐20日)と、
豊川海軍工廠空襲は、それなりに調べて知っています。
でも全国で空襲はあって、悲劇が起こっていました。
今回の読書で、北海道の空襲のことを少し知ることができました。
すこし調べました。
室蘭艦砲射撃慰霊碑(北海道室蘭市中島本町2-8)
碑文を引用します。
慰霊碑
第二次世界大戦も終局に近い昭和二十年七月十四日十五日
の両日にわたる艦砲射撃のために中島社宅在住の人達
百九十二名の尊い人命が失われた
当会では終戦後毎年この人々の冥福を祈ると共にこのよう
な過ちを再び繰り返さないために慰霊祭をおこなって来た
がこの度この碑を建立し犠牲者の冥福を祈るものである
昭和三十四年三月二十一日 中島社宅民和会
それぞれの地域に忘れちゃいけない歴史があります。
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