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2019年7月

2019年7月26日 (金)

ベスビオ山噴火10月説を裏づける新発見!

今日は令和元年7月25日。

  

6月29日放映の「世界ふしぎ発見!新発見!

ポンペイ最後の日の真実」を見ました。 

書き留めたいことはたくさんあるけど、

絞ります。

ベスビオ山が噴火して、ポンペイの町が壊滅したのは、

西暦79年8月24日と言われてきました。

その根拠になっているのは、この番組でも紹介されていましたが、

小プリニウスの記述です。

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噴火当日に現場に向かったおじの大プリニウスの命日が

8月24日と書かれていたので、噴火したのも

8月24日だとされてきました。

  

ポンペイは現在も発掘中であって、

新発見のものは、2018年10月に、この家で発掘されました。☟

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石うすでは、壁に塗る石膏が作られている最中でした。☟

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これから石膏を塗るはずだった壁に、

文字が書かれていることが発見されたのです。

これです。☟

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発掘された工事中の家の壁に、文字が書かれていたのです。

「10月17日」のことが書いてあったのです。

8月の夏に噴火があったのではなくて、

10月の秋に噴火があったと考えられるのです。

裏づけるものも発掘で出てきています。

 

熱を受けて炭化したザクロ。☟

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イチジク。☟

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クルミ。☟

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これらは秋の産物なのです。

Rimg1953  

  

それでは、なぜ小プリニウスは「8月」と書いたのか。

実は小プリニウスが書いた原本は残されていないそうです。

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書き写したものを、また誰かが書き写して

伝えられた書なのだそうです。

したがって、どこかで日づけが間違えられる

可能性があるというわけです。

  

 

ベスビオ山噴火10月説は、池上彰さんの番組で、

他の証拠で推理されていました。

ここでも道草 ポンペイ5/ベスビオ山噴火の日が8月から10月になる(2019年7月16日投稿)

☝ 池上さんの番組は2014年の番組でした。

4年後の発見が、さらに10月噴火説を裏づけました。

 

以前の番組(そして記事)とつながったのがうれしい。

 

世界ふしぎ発見!新発見!ポンペイ最後の日の真実」の

読み物化終了。これだけ。

少しでも読み物化しておけば、ブログ上で再会する可能性は残ります。

いずれ読み物化しようと思って、結局やらなければ、

ブログ上で出合いは皆無。

絞った読み物化はこれからは必要。

2019年7月25日 (木)

韓国の「鉄道の日」/カイヅカイブキの由来は?

今日は令和元年7月25日。

  

7月17日のCBCニュース「チャント!」の一場面。

最近の日韓の不仲についてのニュースでした。

Rimg1941

Rimg1942  

次のような動きがあるそうです。☟

Rimg1939

Rimg1940  

韓国の今までの「鉄道の日」の9月18日は

どういう日なのか調べました。

朝日新聞Digital  

ここから引用します。

  

韓国では日本より約27年遅い1899年9月18日、

当時の大韓帝国のもとで初の鉄道となる京仁線の

鷺梁津~済物浦が開通。

日本の植民地統治下の1937年に9月18日が記念日とされ

独立後も引き継がれてきた。

これに対し「日本が記念日にしたのは、

鉄道を植民地収奪の手段として重要視したため」と、

かねて批判があったという。

 

 

日本が韓国を併合したのは1910年(明治43年)

1899年(明治32年)の鉄道建設は、

日本の統治下ではありません。

どちらかと言うと、

日本の影響力が落ちた時期だと思います。

大韓帝国が造り、開通させた鉄道です。

その鉄道が開通した「9月18日」を「鉄道の日」にしたのが、

日本統治下の1937年(昭和12年)だったというわけです。

ニュースのフリップは、誤解を招くものだと思いました。

一見、日本統治下に鉄道が開通したように思えてしまいます。

    

  

 

  

カイヅカイブキについて。

この名前が気になります。

「カイヅカ」? 「イブキ」?

GKZ植物事典 カイヅカイブキ

☝ このサイトによると、

「カイヅカ」は大阪府貝塚市、

「イブキ」は伊吹山に因むと言いきっています。

なぜその名がついたのかは疑問です。

貝塚市の「市の木」はカイヅカイブキですが、

制定されたのは平成になってからです。

貝塚市HPには次のようか書いてありました。

 

市内には(尊光寺の)他にも寺の境内や個人宅に

見事なカイヅカイブキがあります。

カイヅカイブキの語源は「かいづか」という地名が

かかわっているのではないかと言われています。

もしかしたら、貝塚市と何かしら因縁があるかも知れませんね。

Sonkoujikaidukaibuki

尊光寺のカイヅカイブキ 

貝塚市HP(上とは別ページ)

 

貝塚市は因むとは言いきっていませんでした。

どうなんでしょうね。

  

  

ニュースをきっかけに勉強しました。

2019年7月24日 (水)

GRANDFATHER'S CLOCK

今日は令和元年7月24日。

  

日めくり「雑学王」(TRY-X)より。

「大きな古時計」が刻む時間、日本10年長くなった?

Epson069  

歌いやすいように90年が100年になったのは、

面白い話です。

実際もと歌を聴いてみたくなりました。

ここで聴けました。☟


YouTube: GRANDFATHER'S CLOCK-1876 - Performed by Tom Roush

「90歳」の歌詞の部分を写真にします。

Photo

Photo_2  

次のサイトには、ヘンリー・クレイ・ワーク

聞いた話が、もう少し詳しく載っています。

大きな古時計|Grandfather's Clock

  

「大きな古時計|Grandfather's Clock」は、

持ち主であるおじいさんの死と同時に止まってしまった

ジョージ・ホテルの古時計の実話をもとにした童謡です。

ジョージ・ホテルのロビーには、時を正確に刻む

大きな木製の時計がありました。

その時計は、ホテルの経営者であった二人の兄弟のうち、

兄が亡くなった時から狂い始め、

弟が亡くなった時刻を指して、

時を刻むのを全くやめてしまいました。

アメリカの作曲家Henry Clay Work

(ヘンリー・クレイ・ワーク)が、

このジョージ・ホテルに滞在した時に、

この話を聞いて作曲したものです。

Clock2143830_1920 pixabay

 

おじいさんは、兄弟だったのですね。

ちなみに訳詞の保富康牛さんの名前はどう読めばいいのでしょうか?

調べました。

「ほとみこうご」さんです。

名前を見たことあるなあと思ったら、

知っている曲の歌詞をたくさん作っておられました。

「宇宙海賊キャプテンハーロック」

「サザエさん」

「ドカベン」等。

2019年7月23日 (火)

「英雄たちの選択 人見絹枝」その8/チャンスをつかむ可能性が高い人

 

今日は令和元年7月23日。

  

前投稿に引き続き、2016年6月2日放映の「英雄たちの選択 

目指せ!”なでしこ”たちの祭典 

日本初の女子メダリスト 人見絹枝の決断」より。

  

脳科学者中野信子さんの発言を聞き書きします。

  

中野:けっこう真面目に実験している人もいて、 

  例えば宝くじの当たり率を調べると、

  自分が運がいいと思っている人と、

  運が悪いと思っている人の当たり率というのは、

  変わらないんです。

  つまり、ランダムで決まるものは平等なんですけど、

  チャンスをつかむ能力に関してはどうかという実験を

  やってみると、自分が運がいいと思っている人の方が、

  チャンスをつかむ可能性が高いんです。

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  運がいいと思っている人の性格傾向はどういう傾向化というと、

  経験への開放性が高い人、外向性が高い人です。

Rimg2281  

  彼女(人見絹枝)は、すごくそういう人でしたね。

  

残りの人生、いろいろなチャンスはつかみたいですね。

経験への開放性が高い人、外向性が高い人」

何歳になっても心掛けたいです。

  

 

中野:おそらく(人見絹枝が800mを)走り切ることが

  できたのは、精神力というのは無視できないと思います。

  人間の身体は、試合の時だけ、競技の時だけでなく、

  何十年も使わなければならない身体なので、

  全力を出し切らないように、脳がブレーキをかけています。

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  この時の彼女は、全力を出し切るように

  自分で自分を仕向けてしまっていて・・

Rimg2283

磯田道史:リミッターみたいなのがはずれるんですね。

中野:そう、半ば自殺行為ようなことをして走っているような、

  極限状態ですよね。

Rimg2284

  その極限状態で得た銀メダルだったなと考えると、

  切ないような気分になりますね。

 

人が全力を出せない理由が、なるほどと思いました。

人見絹枝さんは、全力を出しすぎてしまったのかもしれません。

病魔に打ち勝つ力まで、

陸上にエネルギーを使ってしまったように思えます。

 

 

以上で「英雄たちの選択 目指せ!”なでしこ”たちの祭典 

日本初の女子メダリスト 人見絹枝の決断」の読み物化完了。

大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」で、

人見絹枝さんの話をしてくれたおかげで、

いい勉強ができました。

 

「英雄たちの選択 人見絹枝」その7/オリンピック後の人見絹枝の3年間

  

今日は令和元年7月23日。

  

歴史秘話ヒストリア」でも、人見絹枝さんを扱っていました。

2012年7月4日放映の「歴史秘話ヒストリア

“なでしこジャパン”はここから始まった!〜人見絹枝〜」です。 

運よく録画してないかなあと思って調べましたが、

当時の自分は関心がなかったのか、あるいは見逃したかで、

録画してありませんでした。残念。

 

でも番組を読み化してあるサイトがありました。

すごくありがたいです。

gooテレビ番組 歴史秘話ヒストリア

 

ここには、今まで見てきた番組では語られなかったことも

紹介されていました。

引用していきたいです。

  

アムステルダムオリンピック女子800メートルは

死のレースと呼ばれ、絹枝以外にも意識を失う女性が続出した。

オリンピック委員会は次の大会から

女子陸上を正式種目と認めたが、800メートルの結果を重く見て

中・長距離の採用を見送った。

800メートルが復活したのはローマオリンピックで、

マラソンはロサンゼルスオリンピックとなる。

  

アムステルダムオリンピックは1928年。

ローマオリンピックは1960年。

ロサンゼルスオリンピックは1984年。

そうだったのですね。その後を知ることができました。

少し前に疑問に思った

「なぜ女子のハードル走の距離は短いか」の疑問も

女子には無理という男性の発想なのでしょう。

ここでも道草 今回の道草の終点は、依田郁子さんの映像(2019年7月15日投稿)

  

 

「gooテレビ番組」からさらに引用します。

アムステルダムオリンピック以後、

亡くなるまでの3年間のことが詳しく描かれていました。

  

絹枝はアムステルダムから帰国した直後、

ミリアに次の大会で姿を見ることは出来ないと手紙を送った。

すると、ミリアから励ましを受け、

選手活動を続けることを決意した。

絹枝はチームで参加することを決め、

日本女子スポーツ連盟を動かして

全国から有望な少女たちを集めて6人チームを結成。

しかし、派遣費用は現在のお金で4000万円以上していたため、

絹枝たちは企業を回ったりアムステルダムオリンピックの

映画の入場料で寄付金を募ったが、返って借金を持ってしまった。

そこで、絹枝は全国の女学校に寄付金を募った。

遠征の資金が集まり、大阪駅から日本代表女子チームが

プラハに向けて出発した。絹枝たちがプラハへ到着すると、

ミリヤと再会。9月6日に第3回女子オリンピックが開催され、

絹枝は体調を崩したが走り幅跳び1位など活躍。

日本女子チームは400メートルリレー決勝に進み、

4位入賞を果たした。

日本女子チームが帰国の途につくと、道中絹枝が倒れ肺結核と診断。

1931年8月に24歳の若さで亡くなった。

生前の絹枝は女子チームとして参加した

プラハ大会の方が思い入れがあり、

本覚寺には日の丸のワッペンとメダルが残されている。

  

全国の女学校を回り、

講演を1年に200回こなしたりもしたそうです。

オリンピック後の3年間は、すごく大変だったのでしょう。

英雄たちの選択」の写真です。☟

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人見絹枝さんの母校には、亡くなった直後につくられた

デスマスクが保管されていました。

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24歳。早すぎるよなあ。

まだ現役の年です。どんな新記録が誕生していたか。

つづく

「英雄たちの選択 人見絹枝」その6/女子チームを率いて参加した第3回万国女子オリンピック

 

今日は令和元年7月23日。

 

前日に引き続き、2016年6月2日放映の「英雄たちの選択 

目指せ!”なでしこ”たちの祭典 

日本初の女子メダリスト 人見絹枝の決断」より。

  

大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」を見た時に

疑問に思っていたことが、「英雄たちの選択」で

解決しました。

アムステルダムオリンピックで予選で敗退した直後に、

人見絹枝が、800mに出させて下さいと監督に直訴し、

結果、800mに参加して銀メダルを取ります。

そんなに急に出たいと言って参加できるものなのか、

疑問に思っていました。

英雄たちの選択」では、人見絹枝のセリフとして、

次のように表現している。

 

「唯一の女子代表の私は、すべての種目にエントリーしている。」

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全てにエントリーしているけど、出場するのは100mに絞って

練習してきたのです。

だから800mにも参加する資格があったのです。

 

  

その時歴史が動いた」を記事にまとめた時に、

オリンピック後の人見の夢が、女子チームを率いて

オリンピックに参加することだと書きました。

残念ながら、人見絹枝は24歳で亡くなり、

その夢は果たせませんでした。

しかし、女子チームを率いて国際大会に参加していました。

英雄たちの選択」で紹介されていました。

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ナレーター:人見絹枝のもとに、才能ある5人の少女たちが集まった。

  全員が10代の女学生たちであった。

  1930年9月6日。

  第3回万国女子オリンピックプラハ大会開幕。

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  人見絹枝を先頭に、6人の日本女子選手団が堂々と行進していた。

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  しかし、初めての世界大会で記録が振るわない選手たち。

  このままではいけない。

  人見絹枝は、自身の記録より、

  日本チームとして結果を残すことにこだわった。

  世界記録をもっていた200mを棄権し、

  チーム競技、400mリレーに賭けたのだ。

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  結果は見事4位入賞。人見絹枝の夢が実現した。

  

ずっと1人で戦って来た人見絹枝にとって、

第3回万国女子オリンピックは、

女子チームを率いての参加という夢を一つ実現した瞬間だったのです。

この大会のことは「この時歴史が動いた」では紹介されていなかったので、

ほっとしました。

  

つづく

シュークリームの日/気になったコンクリートの蓋の突起

  

今日は令和元年7月23日。

 

先日買ったシュークリームの袋に、

こんなシールが貼ってありました。

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毎月19日はシュークリームの日

そうだったんだ。

「19」が「ジューク」だから「シューク」に

なったようです。

  

またあのおいしいシュークリームが食べたいなあ。☟

ここでも道草 縁あっておいしいシュークリームを食べました(2019年5月12日投稿)

  

  

以前こんな写真を撮りました。

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小さな飲み屋さんなどの入った古い建物を、

重機が壊していました。

何ができるのだろうと思っていました。

  

  

数か月後に行ってみたら

コンビニができつつありました。

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ふと気になったものがありました。☟

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側溝は以前のままであり、

側溝のコンクリートの蓋の向こう側が、

コンビニの駐車場になるところです。

ここが気になりました。☟

Rimg1432a  

側溝の蓋の部分にあるこの突起。

駐車場ができても、側溝はそのままということは、

この突起は残るはずだよな。

そんなことを思って撮影しました。

  

  

1か月あまり後、再びその場所に行ってみました。

コンビニはオープンしていました。

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駐車場の端の側溝のところに行って蓋の突起を探しました。

あった!(左手側が駐車場)

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古い建物が壊されて、新しいコンビニができあがり、

周囲の雰囲気は変わりましたが、

足元のコンクリートの蓋の突起は

変わらず存在していました。

そんなことが楽しいなと思いました。

  

 

時々、突起は今はどうなっているかなと見ていきたいです。

しぶとく残りそうな気配があります。

2019年7月22日 (月)

「英雄たちの選択 人見絹枝」その5/人見絹枝の活躍 IOCを動かす

   

今日は令和元年7月22日。

 

前投稿に引き続き、2016年6月2日放映の「英雄たちの選択 

目指せ!”なでしこ”たちの祭典 

日本初の女子メダリスト 人見絹枝の決断」より。

  

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オリンピックの種目に女子陸上を加えるために、

アリス・ミリアが中心になって開催している万国女子オリンピック。

その第2回大会が、スウェーデンのイエーテボリで行われました。

1926年(大正15年)8月でした。

 

ナレーター:欧米を中心に10か国から、

  92人の女子選手が集まった。

  人見絹枝は東洋から参加したたった1人の選手だった。

  初めての海外での大会。

  外国人と競う未知の世界。

  この大舞台で、人見は驚くべき活躍を見せる。

  100ヤード走、3位。

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  円盤投げは2位。

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  立ち幅跳びと走り幅跳びでは、見事、金メダルを獲得。

  走り幅跳びでは世界新記録だった。

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  東洋から来たヒロインに、ヨーロッパの観客は沸いた。

  人見は総合優勝という快挙を達成し、

  オールラウンダー、万能選手として尊敬を集めた。

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女子でもできることを証明したいミリアにとって、

人見絹枝の活躍は貴重なものでした。

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国際オリンピック委員会(IOC)の委員たちを

説得します。

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委員たちはついに動きます。

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ナレーター:男たちもようやく重い腰を上げた。

  当時の議論の様子が残されている。

  2年後(1928年)のアムステルダムオリンピックでの

  女子陸上競技の採用をめぐり、欧米17か国の代表たちは

  意見を戦わせた。

  強硬な反対派はフィンランド代表。

フィンランド代表:私は、女子の参加には反対だ。

  女性が笑い者になるだけだ。

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◇◇代表:男性にとって、持久力は先祖から受け継いだものだが、

  女性はそうはいかない。

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ナレーター:これにノルウェー代表が反論した。

ノルウェー代表:いや、男性にとって良いことは、

  人類のもう半分に当たる女性にも良いことではないのか。

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□□□代表:1回だけでも、女子種目をやってみてはどうか。

  その出来を見て、この先オリンピックで実施するか決めればいい。

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ナレーター:人見絹枝の(万国女子オリンピックでの)活躍。

  それは男性たちの懸念を振り払う見事なものだった。

  この成果に、女子陸上選手のオリンピック参加が決定的になった。  

   

   

アムステルダムオリンピックの種目に、女子陸上競技が加わったのには、

このようないきさつがあったのですね。

英雄たちの選択」でよくわかりました。

まだ書き留めたいことがありますが、今晩はあきらめました。

もう寝ます。

ありがたいことに、腰痛はおさまりました。

幸せです。

「英雄たちの選択 人見絹枝」その4/女性だけのオリンピックがあった

  

今日は令和元年7月22日。

 

前投稿に引き続き、2016年6月2日放映の「英雄たちの選択 

目指せ!”なでしこ”たちの祭典 

日本初の女子メダリスト 人見絹枝の決断」より。

  

聞き書きしていきます。

オリンピックの種目に女子陸上が加わるまでの話です。

      

ナレーター:1896年に始まった近代オリンピックは、

  あくまでも男性のものだった。

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  女性が参加できたのは、テニスやアーチェリーなど、

  男性が女性らしいと認めた競技のみ。

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  男たちは、陸上競技は女性には過酷すぎると参加を

  許さなかった。

  そこに異議を唱えたのは、女性の権利向上のために

  活動していたフランス人のアリス・ミリアであった。

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  ミリアは国際オリンピック委員会に

  陸上競技の女性参加を認めるように働きかけていた。

  

働きかけのひとつとして、ミリアは万国女子オリンピック

開いていました。

  

ナレーター:オリンピック史を研究する來田享子さん。

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  ミリアが万国女子オリンピックを開催した意図を語る。

來田:純粋に女性たちが、国際大会で競技する場がなかったんですね。

  とにかくそれを求めていた。

  さらに、スポーツというのは、女性には過激すぎるというふうに、

  男性たちに言われるが、いや、これは自分たちにもできると

  証明するかけひきのツールとして、

  ミニオリンピックの体(てい)をとることによって、

  IOC(国際オリンピック委員会)に見せる役割を

  もたせたかった。  

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ミリアが中心になって開催している万国女子オリンピック。

第2回は1926年(大正15年)8月にスウェーデンで開催されました。

そこに人見絹枝は参加しました。

そのことは次の記事で書きます。

 

 

万国女子オリンピックなるものがあったことは、

この番組で初めて知りました。

  

上に載せた写真の中で、

立ち高跳びをしているものがあります。

近代オリンピックが始まった頃にはどのような種目があったのか

この映像で興味をもちました。

また調べたいです。

今晩は、人見絹枝さん特集。

「英雄たちの選択 人見絹枝」その3/再び使われた映像 初登場の笑顔

  

今日は令和元年7月22日。

 

前投稿に引き続き、2016年6月2日放映の「英雄たちの選択 

目指せ!”なでしこ”たちの祭典 

日本初の女子メダリスト 人見絹枝の決断」より。

  

人見絹枝がスパイクを磨く映像。☟

Rimg2287  

人見絹枝が新聞社に就職して働いている映像。☟

Rimg2288  

この2つの映像には見覚えがありました。

2004年放映の「その時歴史は動いた」で

使われた映像でした。

2016年放映の「英雄たちの選択」で

再び使われたのです。

思えば、このことに気がつく人はそうはいないと思います。

私みたいに、連日「その時歴史は動いた」「英雄たちの選択」を

見たから、気がついたのです。

普通に見ている人たちには、12年間のブランクがあるから、

きっとこんな細かいことまで覚えていないと思います。

 

そうそう、「英雄たちの選択」でも、この笑顔の映像は

登場しました。☟

Rimg2268  

いい笑顔です。

いだてん紀行」「その時歴史が動いた」に引き続き

3回目の登場です。

英雄たちの選択」では、この笑顔もよかったです。☟

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スポーツマンらしい笑顔です。初登場。

つづく

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