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2019年7月23日 (火)

「英雄たちの選択 人見絹枝」その7/オリンピック後の人見絹枝の3年間

  

今日は令和元年7月23日。

  

歴史秘話ヒストリア」でも、人見絹枝さんを扱っていました。

2012年7月4日放映の「歴史秘話ヒストリア

“なでしこジャパン”はここから始まった!〜人見絹枝〜」です。 

運よく録画してないかなあと思って調べましたが、

当時の自分は関心がなかったのか、あるいは見逃したかで、

録画してありませんでした。残念。

 

でも番組を読み化してあるサイトがありました。

すごくありがたいです。

gooテレビ番組 歴史秘話ヒストリア

 

ここには、今まで見てきた番組では語られなかったことも

紹介されていました。

引用していきたいです。

  

アムステルダムオリンピック女子800メートルは

死のレースと呼ばれ、絹枝以外にも意識を失う女性が続出した。

オリンピック委員会は次の大会から

女子陸上を正式種目と認めたが、800メートルの結果を重く見て

中・長距離の採用を見送った。

800メートルが復活したのはローマオリンピックで、

マラソンはロサンゼルスオリンピックとなる。

  

アムステルダムオリンピックは1928年。

ローマオリンピックは1960年。

ロサンゼルスオリンピックは1984年。

そうだったのですね。その後を知ることができました。

少し前に疑問に思った

「なぜ女子のハードル走の距離は短いか」の疑問も

女子には無理という男性の発想なのでしょう。

ここでも道草 今回の道草の終点は、依田郁子さんの映像(2019年7月15日投稿)

  

 

「gooテレビ番組」からさらに引用します。

アムステルダムオリンピック以後、

亡くなるまでの3年間のことが詳しく描かれていました。

  

絹枝はアムステルダムから帰国した直後、

ミリアに次の大会で姿を見ることは出来ないと手紙を送った。

すると、ミリアから励ましを受け、

選手活動を続けることを決意した。

絹枝はチームで参加することを決め、

日本女子スポーツ連盟を動かして

全国から有望な少女たちを集めて6人チームを結成。

しかし、派遣費用は現在のお金で4000万円以上していたため、

絹枝たちは企業を回ったりアムステルダムオリンピックの

映画の入場料で寄付金を募ったが、返って借金を持ってしまった。

そこで、絹枝は全国の女学校に寄付金を募った。

遠征の資金が集まり、大阪駅から日本代表女子チームが

プラハに向けて出発した。絹枝たちがプラハへ到着すると、

ミリヤと再会。9月6日に第3回女子オリンピックが開催され、

絹枝は体調を崩したが走り幅跳び1位など活躍。

日本女子チームは400メートルリレー決勝に進み、

4位入賞を果たした。

日本女子チームが帰国の途につくと、道中絹枝が倒れ肺結核と診断。

1931年8月に24歳の若さで亡くなった。

生前の絹枝は女子チームとして参加した

プラハ大会の方が思い入れがあり、

本覚寺には日の丸のワッペンとメダルが残されている。

  

全国の女学校を回り、

講演を1年に200回こなしたりもしたそうです。

オリンピック後の3年間は、すごく大変だったのでしょう。

英雄たちの選択」の写真です。☟

Rimg2275  

人見絹枝さんの母校には、亡くなった直後につくられた

デスマスクが保管されていました。

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24歳。早すぎるよなあ。

まだ現役の年です。どんな新記録が誕生していたか。

つづく

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