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2019年7月

2019年7月22日 (月)

「英雄たちの選択 人見絹枝」その2/姪御が語る人見絹枝

  

今日は令和元年7月22日。

 

前投稿に引き続き、2016年6月2日放映の「英雄たちの選択 

目指せ!”なでしこ”たちの祭典 

日本初の女子メダリスト 人見絹枝の決断」より。

  

英雄たちの選択」に「姪御(めいご)」さんが登場しました。

その時歴史が動いた」で、銀メダルを家の中から

見つけ出した人として紹介された姪御さんだと思います。

ナレーターが「人見の姉の娘」と紹介していました。

※参考:ここでも道草 「その時歴史が動いた・人見絹枝」その1/メダルは2000年に発見された(2019年7月20日投稿)

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西美知子さんと言います。

 

ナレーター:幼い頃から、人見絹枝の様子を聞かされてきた。

西:とにかく、”おてんば”いうのは、おばあさんから聞いたけどね。

  水車踏んだり、川を飛び越えたり。

ナレーター:体格にも恵まれた人見。

  10代で身長は169cm。足のサイズ27cm。

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  日本人女性の平均身長が150cmという時代。

  人見は目をひく存在だった。

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西:農家では、女の人は背が高いということは、

  いいことではなかったんですよ。

  むしろ、気がひけるというか、

  小腰(こごし)をかがめて歩いてたというのを聞いた。

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  絹枝はそうじゃない。

  性格的にもそういうふうに考える人じゃなくって、

  もっと気丈で堂々と背を伸ばして生活していたと思う。

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  この庭球が出発点です。スポーツのね。

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ナレーター:1920年。高等女学校に入学した人見は、

  袴でもできると女学生の間で流行したテニスに熱中した。

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大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」でも、

人見絹枝の初登場は、庭球コートでした。

 

  

今どきの中学生に「庭球」が通じないことが昨年度知りました。

テニス部のことを「庭球部」と呼んだら、

不可解な顔をされて気がつきました。

30代半ばの先生にも通じませんでした。

びっくり。

「庭球」は死語になりつつあるのでしょうか?

「庭球 死語」で検索したら次のサイトに行きつきました。

死語になったスポーツ用語

庭球にも触れていましたが、

ここで新しい言葉を知りました。引用します。

 

問・戦時中、球を打つと書いて「打球」と言われたスポーツは何? 

  

わかりますか?

「庭球」は知っていましたが、

「打球」は知りませんでした。

正解は・・・・

ゴルフです。

Golf1284012_1920 pixabay

つづく

「英雄たちの選択 人見絹枝」その1/銀メダルのもう片面

  

今日は令和元年7月22日。

  

腰痛がひどいので、奥さんに付き添ってもらい、

整形外科に行きました。

今回の腰痛は、一人では病院に行けませんでした。

お医者さんに診てもらいました。

心配した仙腸関節部分の痛みではなく、

第5腰椎の分離症と診断されました。

分離症はずっと患っているものです。

また来たか! 

だましだまし、死ぬまでお付き合いする症状です。

  

お医者さんから次のようなことを言われました。

うつ病のように精神を病んでいると、

通常ではそこまで痛いと思わないような症状でも

痛いと感じてしまうと。

なるほど。

そうかもしれません。

気持ちが前向きだと、傷口の治りもいいと聞いたことがあります。

逆に、気が弱っていると、症状は悪くなるわけです。

お医者さんの言葉が印象に残りました。

でも、今日の腰痛は本物でしたよ。

  

  

 

見ました。

2016年6月2日放映の「英雄たちの選択 目指せ!

”なでしこ”たちの祭典 日本初の女子メダリスト 人見絹枝の決断」を。

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またブログに書き留めたいことがありました。

今晩は、腰痛のことなど忘れるぐらいに集中して

この番組の読み物化をしていきたいです。

  

何と、番組冒頭で、人見絹枝さんの銀メダルの

裏側を見せてくれました。貴重です!

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聞き書きします。

磯田道史さんと渡邉佐和子アナの会話です。

  

渡邉:「第9回 オリンピック アムステルダム 1928」

  と書かれているんですね。

  その左には、勝利の女神のようなものが描かれています。

  そして、メダルのもう片面は、

  選手たちをモチーフにしているようですが、

  全員男性なんですね。

磯田:そうなんです。この図柄は、当時のオリンピックの考え方を

  象徴的に現わしているんですね。

  技や強さを競うのは男性。

  女性は勝者を讃える者としてしか出てこない。

  つまり女性は競技に参加できなかったんですね。

  これをこじ開けたのが、人見絹枝たち、だったわけです。

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なるほど、なるほどです。

磯田先生はさすが深い。

冒頭だけでいい勉強になりました。

このメダルの両面で、いい社会科の授業ができそうです。

  

つづく

  

  

今日は腰痛を治したい/便秘は克服できた?

今日は令和元年7月22日。

  

昨日、自動車で買い物に出かけた時に、

その乗り降りで、どうも腰を痛めたようです。

左側の腰と、左の足のつけ根が相当痛い。

この表裏の痛みは、かつて経験した痛み。

腰痛の中でも、厄介な仙腸関節の部分の腰痛です。

ここでも道草 今回の腰痛は辛い!/「仙骨」「腸骨」の語源(2017年10月25日投稿)

 

うつ病+便秘+腰痛となりました。

ただ、薬の副作用の便秘は克服しつつあります。

そもそもお医者さんが言うには、

4日便が出なければ便秘であって、

2日ほど便が出ないのは便秘ではないと言われました。

毎日快食快便の生活だったので、毎日”あれ”だけ出ていたものが

2日間も体の中にあることを思うことで、不調になったようです。

でも水分を多めにとったり、意識して体を動かしたりして、

毎日少しずつ出るようになってきました。

腸が薬に慣れてきたのでしょうか。

 

今日は腰痛を治したい。無理せず過ごす。

2019年7月21日 (日)

「その時歴史が動いた・人見絹枝」その7/努める者は何時か恵まれる

 

今日は令和元年7月21日。

  

前投稿に引き続き、2004年8月18日放映

その時歴史が動いた 奇跡の銀メダル 人見絹枝 

日本女子初メダル獲得の時」より。

  

オリンピック終了後、人見絹枝は、

女子スポーツの推進のために活動します。

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さらには、次期オリンピックでの

「女子選手団」参加の目標を立てて後進を育てていました。

今度は一人ではなく、選手団として

日の丸を掲げたいと思ったのです。☟

Rimg2449  
しかし、人見絹枝は、過労から肺炎を患い、

24歳の若さでこの世を去りました。

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それは奇しくも、人見絹枝がアムステルダムオリンピックで

銀メダルを取った時からちょうど3年目にあたる

昭和6年(1931年)8月2日でした。

  

人見絹枝が競技者を目指す後輩たちに残した言葉を紹介して

番組は終わりました。

その言葉です。☟

 

向上 進歩するには、苦しみがあります。

しかしその苦しみもいつかは実になって

表れるときがあるのです。

私のモットーは

唯これ一つです。

努(つと)める者は

何時(いつ)か恵まれる。 

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以上で、

その時歴史が動いた 奇跡の銀メダル 人見絹枝 

日本女子初メダル獲得の時」の読み物化完了。

15年前の番組でしたが、たくさんのことを知った

45分間でした。

次は「英雄たちの選択」版の人見絹枝物語を見たいです。

「その時歴史が動いた・人見絹枝」その6/800m決勝の詳細

 

今日は令和元年7月21日。

  

前投稿に引き続き、2004年8月18日放映

その時歴史が動いた 奇跡の銀メダル 人見絹枝 

日本女子初メダル獲得の時」より。

  

昭和3年(1928年)8月2日。

運命の日。今からほぼ91年前。

女子陸上800m決勝。

  

以下は聞き書き。人見絹枝の手記も載せていく。

  

手記:グランドに姿を現すと、

  満席の観衆から拍手がわき起こった。

  その熱気に

  心が圧倒されるようであった。

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ナレーター:じっと決勝の時を待つ人見選手。

  一人重圧と戦っていた人見に、うれしい知らせが届きます。

手記:フィールドでは、ちょうど三段跳びをやっているところだった。

  今、織田選手が一位、南部選手が二位につけているという。

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  私は大いに勇気づけられ

  自分もやれるだけやってみよう

  という闘志が体の底から湧いてくるのを、

  感じていた。

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ナレーター:いよいよ運命の決勝のスタートが近づきます。

  人見は1コース。優勝候補、ドイツのラトケは3コーㇲです。

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  スタートのピストルがあげられました。

手記:数万の観衆はシーンと静まりかえった。 

  どうしても勝つんだ。

  勝たなくてはならない。

※スタートのピストルの音。

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ナレーター:スタート。持ち前のスプリントを生かし、

  人見は、トップに躍り出ます。

  ラトケや他の選手を一歩も二歩もリードしました。

  (中略)

  100m、150m、人見選手はトップのまま、

  速度を緩めません。

  その時、日本語の叫びが、人見の耳に飛び込んできました。

  「下がれ!下がれ!」

  フィールドで、三段跳びを争っていた織田選手が、

  オーバーペースに突っ走る人見に、思わずかけた一言でした。

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  この声に、人見は、我に返ります。

手記:このままでは、ラストでへばる。

  先頭にだれかほしいと思った瞬間、ドイツのラトケら三人が、

  ぐんぐんと押し出してきた。

  一周目が終わる頃、私はあっという間に、六位に落ちていた。

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ナレーター:人見は六位のまま、ラスト一周の鐘が鳴ります。

  あと400m。

手記:「人見いけ!」

  竹内監督の檄(げき)が聞こえた。  

  その時私は、奥歯を思い切り強くかみしめた。

  ストライドが少し伸びた。

  髪が風を切るのがわかった。

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ナレーター:スピードを上げた人見は、前を行く選手を

  ひとり、またひとりとかわしていきます。

  残り150m。人見はついに3位。

  2位まで4m。トップのラトケまであと15m。

手記:ここで追い上げねばと思うが、

  もう足がいうことをきかない。

  「ハッ」として、私は思いっきり自分の右頬をたたいた。

  その時、竹内監督からいわれた言葉が頭をよぎった。

  足が動かなくなったら腕を振れ。

  私は無我夢中で腕を振った。

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ナレーター:ゴールまで100m。

  懸命に腕を振る人見は、一気に2位の選手をとらえ、

  抜き去ります。

手記:私はトップのラトケに一歩一歩近づいていった。

  精魂の限りを尽くし、もがきもがいてラストを走った。

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ナレーター:あと5m。

  3m。

  そしてゴール。

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  人見絹枝、2位。

  世界記録をもつラトケにあと2mまで迫っていました。

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ナレーター:日の丸がアムステルダムの空にひるがえります。

  人見絹枝の胸には、日本人女子選手が初めて勝ち取った

  銀メダルが輝いていました。

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手記:私は人目をはばからずに泣いた。

  言いしれぬ感動と興奮とに身を包まれたからである。

  長い戦いがやっと終わったのだ。    

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以上、800mの詳細を書き留めました。 

「下がれ!下がれ!」と言ったのは、

競技中の織田選手だったのですね。

貴重な声でした。 

91年前なのに、動画のおかげで

ワクワクした気持ちでレースを見ることができました。

  

つづく

      

「その時歴史が動いた・人見絹枝」その5/これはきっと予選の写真だ

 

今日は令和元年7月21日。

  

前投稿に引き続き、2004年8月18日放映

その時歴史が動いた 奇跡の銀メダル 人見絹枝 

日本女子初メダル獲得の時」より。

  

昭和3年(1928年)8月1日。

女子陸上800m予選。

予選は3組で、それぞれの組で3位までが決勝進出ができます。

人見絹枝の組には、世界記録保持者で優勝候補の

ラトケがいました。

Rimg2426  

800m未体験の人見絹枝は、とにかくトップを走る選手の

後に追いすがる作戦でした。

それがラトケでした。

人見絹枝は最後までラトケの後を追い、

2位で入ることができました。

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この番組で、予選でラトケと走ったと知って、

一つ解決したことがあります。

この写真に関する疑問です。☟

Hitomikinue_at_ams 夢野旅人 

ラトケと人見絹枝がそろって写っている写真です。

子どものころから見ていた写真であり、

人見絹枝さんというと、この写真を思い浮かべていました。

ただ、この2人には、激しい争いをしているという様子が

感じとれませんでした。

おかしいなと思っていました。

  

この写真が予選の写真なら納得です。

ラトケは決勝に備えてセーブして走り、

人見絹枝は2位は確実状況のようで、必死ではありません。

これはきっと予選の写真です。

  

ずっと気になっていた疑問を、

勝手に解決して喜んでいます。

  

つづく

「その時歴史が動いた・人見絹枝」その4/100m敗退 800mへの参加

 

今日は令和元年7月21日。

  

前日に引き続き、2004年8月18日放映

その時歴史が動いた 奇跡の銀メダル 人見絹枝 

日本女子初メダル獲得の時」より。

  

人見絹枝に対する批難中傷がありました。

次のようなハガキが届きました。

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「男か女か」

「日本婦人の個性を破壊」

という言葉に目が行きます。

Rimg2418 それらの批難中傷に対して、新聞記者として

人見絹枝は、あの文章を書いたのです。

 

いくらでも罵(ののし)れ

私はそれを甘んじて受ける

しかし、私の後から生まれてくる

若い選手や日本女子競技界には

貴方等のような者に

指一つ触れさせない。

  

昭和3年(1928年)5月20日。

オリンピック日本代表選考会100m決勝で、

人見絹枝は世界新記録を樹立します。

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日本中の期待が高まりました。

  

いよいよアムステルダムオリンピック開幕です。

女子の参加選手は、人見絹枝ただ一人。☟

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☝ 昭和3年(1928年)6月1日のことです。

  

この番組では、人見絹枝の手記がたびたび紹介されます。

出発の際の手記を載せます。

  

私はすべての私情を捨てた。

再びこの大阪に帰るまでは

親も社も親しい友のことも

すべてのことを忘れよう。

そして唯一つのこの戦いのために

自分の最後の努力を注ごう。

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アムステルダムオリンピック開幕は、

昭和3年(1928年)7月28日でした。

7月29日から陸上競技スタート。

日本男子陸上は3種目で敗退。

7月30日は女子陸上100m予選。

人見絹枝の番です。

その日の朝の朝食で、陸上競技総監督の

竹内広三郎が次のように言ったそうです。

  

人見さん、あなたが日の丸を

揚げてくれなかったら、

もう日本選手には、

日の丸も君が代も与えられない

どうか今日の100メートルは、

そのつもりで

ベストを尽くしてください。

  

いやあ、プレッシャーですね。

実際、人見絹枝は朝食を食べれずに競技に参加したそうです。

大河ドラマ「いだてん」でも総監督がプレッシャーを

かけるシーンがありました。

総監督は総監督で、プレッシャーをかけられていたのでしょう。

   

100m予選の時の写真です。☟

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びっくりです。

当時は、スタートブロックではなくて、

穴を掘っていたのですね。

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準決勝。2位までに入らなければ、決勝進出ができません。

予選の記録では、人見絹枝がトップでした。

しかし、結果は4位。決勝に進めませんでした。

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落胆した人見絹枝ですが、悩んだ挙句、

7月30日その日のうちに

800mへのエントリーを竹内広三郎総監督に申し出ます。

その時の様子を、織田幹雄は次のように書いています。

 

いまだ一度も走ったことのない

苦しい800メートルに出て

世界の強豪を相手に

走ろうというのだから、

その無謀さには、竹内さんならずとも、

反対せざるを得なかった。

しかし、人見さんの決意は固く

このままでは日本に帰れぬと

泣いて訴えたので、

出場を認めるほかなかった。

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つづく 

2019年7月20日 (土)

プリンスメロンとマクワウリ「あちらを立てればこちらが立たず」

今日は令和元年7月20日。

  

今までマクワウリのことを書いたことがあります。

ここでも道草 マクワウリを初めて食べてみました「これはメロンだ」(2017年8月2日投稿)

ここでも道草 7月5日放映「カンブリア宮殿」6.アンデスメロンの誕生/生産量日本一の茨城県(2018年8月3日投稿)

ここでも道草 日めくりより/「マスクメロン」の「マスク」の由来(2019年6月19日投稿)

  

マクワウリの名前の由来は、

岐阜県にある地名「真桑(まくわ)」です。

現在、岐阜県本巣市の中にあります。

真桑小学校のHPを見ていたら、次のような記述がありました。

  

真桑小学校HP まくわうりにまつわる歴史

  

昭和37年頃、マクワウリとヨーロッパ系メロンを交配し、

「プリンスメロン」が誕生しました。

プリンスメロンやネットメロンの普及により、

マクワウリの人気が下がっていきました。

  

なるほどなあと思います。

プリンスメロン等の誕生に貢献したけど、

その分、知名度が下がってしまったんだ。

世の中、すべて丸くおさまることは難しいです。

あちらを立てればこちらが立たず」ですね。

  

  

真桑小学校HPには、

マクワウリが読まれた俳句や川柳も紹介されています。

HPの写真を載せます。

Photo_2  

こうやって読まれるということは、

それだけ昔は、マクワウリが身近だった証拠だと思います。

 

「瓜二つ」の「瓜」もマウワウリらしいです。

もし、マクワウリが手に入ったら、

真ん中で切断して、切り口が本当にそっくりかどうか

試してみたいですね。

 

実は、近々「真桑」に行こうと思っています。

  

 

「その時歴史が動いた・人見絹枝」その3/寺尾正・寺尾文姉妹

 

今日は令和元年7月20日。

  

前投稿に引き続き、2004年8月18日放映

その時歴史が動いた 奇跡の銀メダル 人見絹枝 

日本女子初メダル獲得の時」より。

  

人見絹枝と同じように、当時オリンピック候補として

名があがっていたのが、寺尾正(きみ)・寺尾文(ふみ)姉妹です。

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世界と戦える数少ない女子選手でした。

人見絹枝にとっては、ライバルであり友人でもありました。

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ナレーター:強さと美貌が相まって、やがて寺尾姉妹は

  マスコミに大きく取り上げられる人気者となります。

  雑誌の表紙を飾るなど、その扱いは、陸上選手の枠を

  超えるものになっていきました。

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  そのさなか、事件が起こります。

  オリンピックを半年後にひかえた昭和3年の正月、

  寺尾姉妹をモデルにした恋愛小説が発表されたのです。

  「娘が見世物にされた」

  小説を読んだ姉妹の父親は激怒します。そして、

  「年頃の娘をこれ以上、興味本位の視線に

   さらしておくことはできない」

  と、姉妹を強引に陸上競技から引退させたのです。

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Wikipediaを読んだだけでは見えてこなかったことが、

番組で紹介されていました。

こんなことがあったのですね。

父親がなぜ引退をさせたか共感できるようになりました。

 

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ナレーター:寺尾姉妹を失えば、自分ひとりで

  世界と戦わなくてはならない。

  人見はすぐさま姉妹の家を訪ね、

  考え直すように父親を説得しました。

  「2人には何の罪もありません。」

  「オリンピックで活躍すれば、女子陸上界に対する

  世間の見方も変わるはずです。」

  しかし、思いは届きませんでした。

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  人見はオリンピックをめざし、

  切磋琢磨してきた最大の仲間を失ったのです。

  

  

人見絹枝の発言を聞くと、当時の女子陸上は、

世間からはおもしろおかしく見られていたと想像できます。

今のように選手を尊重したり応援したりする雰囲気では

なかったのでしょう。

寺尾姉妹がオリンピックに出場できなかったのは

とても残念なことでした。

  

人見絹枝のことを調べていて、

寺尾姉妹の出来事を知ったのはよかったです。

その時代を表す出来事だと思います。

  

つづく

  

「その時歴史が動いた・人見絹枝」その2/人見絹枝デビュー

 

今日は令和元年7月20日。

  

前投稿に引き続き、2004年8月18日放映

その時歴史が動いた 奇跡の銀メダル 人見絹枝 

日本女子初メダル獲得の時」より。

  

近代オリンピックが始まったのは、

1896年(明治29年)です。

第1回は男子の種目しかありませんでした。

日本だけでなく、スポーツは男性がするものだという雰囲気が

世界にはあったのです。

第2回大会から女子の種目としてテニスが始まり、

第4回大会からアーチェリーなども女子種目に加わりました。

でもまだまだ限られた種目のみでした。

男子と同じ種目で競い合いたいという声は

だんだんと高まっていき、1926年(大正15年)8月に、

2年後に行われる第9回アムステルダムオリンピックから、

女子陸上競技が行われることが決定しました。

  

 

人見絹枝がデビューしたのは、大正12年でした。

Rimg2401_2  

☝ 初めて出た競技会で、人見絹枝はいきなり日本新記録を出します。

当時の平均を大きく上回る身長と、

抜群の運動神経で、人見絹枝はいろいろな種目で記録を更新します。

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☝ 大正14年には、三段跳びの世界新記録を樹立。

 

19歳になった人見絹枝は新聞社に入社。

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ナレーター:その新聞社は陸上選手育成に積極的で、

  スポーツ記者に選手を採用していました。

  人見にとっては、働きながら練習できる理想的な職場でした。

  

 

アムステルダムオリンピックの女子陸上種目は以下の通り。

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人見絹枝が得意とする走り幅跳び、三段跳びはありませんでした。

人見絹枝は、短距離走に照準を合わせて練習をするようになりました。

海外のやり方にならって、コーチを専属でつけての練習でした。

当時の女子陸上は、競技の前だけ練習をするのが普通でしたが、

人見絹枝は1年中練習を行いました。

結果は出てきました。

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☝ 昭和2年。100m、50mで世界タイ記録を出します。

そして200mでは世界新記録を出しました。☟

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人見絹枝は、一躍オリンピック金メダル候補として

世界の注目を浴びるようになりました。

Rimg2408_2  

出ました、この笑顔。

その時歴史が動いた」でも、この笑顔が登場です。

  

  

いよいよアムステルダムオリンピックとなるわけですが、

その前に、寺尾正・文姉妹に関する出来事がありました。

この姉妹に何が起こったのだろうと、

疑問に思っていました。

ここでも道草 「いだてん紀行」(2019年7月20日投稿)

想像を上回ることが、この姉妹に起こっていました。

 

次の記事で書きます。

  

つづく

  

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