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2020年1月

2020年1月28日 (火)

「脳科学者の母が、認知症になる」⑧ 根本的な感情の作る「その人らしさ」

  

今日は令和2年1月28日。

  

前記事に引き続き、

脳科学者の母が、認知症になる

(恩蔵絢子著/河出書房新社)より引用していきます。

  

私は、認知機能の作る「その人らしさ」と、もっと根本的な感

情の作る「その人らしさ」と、二つのその人らしさがあるので

はないだろうか、と考えた。

(159p)

  

脳科学者らしい視点だと思いました。

なるほどです。

   

  

さらに話は深まっていきます。

  

物事を論理的に理解する能力や理性をなくして、感情や本能だ

けになるなんて、動物と一緒なのではないか?認知症の人たち

が、いくら最後まで残っている力を使って精一杯問題に対処し

ようとするからと言って、感情や本能だけになっては、人間ら

しさがあるなんて言えないのではないか?と考える人もいるか

もしれない。

一体、身体や感情の何が希望であるのか、ここから考えてみよ

う。

(169p)

  

ここから「感情」についての論が始まりますが、一部のみ引用。

  

我々は、恐怖を適切に感じるからこそ、痛い目に遭う機会を減

らすことができる。不安や、それ以外のうまく言語化できない

ような微妙な感情が動くからこそ、自分にストップがかけられ、

理性的な振る舞いができる。

「感情的になるな」「絶対に良いこと、絶対に悪いことは何か、

理性で分析してこそ、適切な行動ができるのだ」などと言われ

た時代は長く、私自身、そう思い込んできたのだが、ここ数十

年の脳科学研究により、これらは必ずしも正しくないことが明

らかになった。脳科学の今の常識はむしろ、「感情がないと理

性的には行動できない」となっている。

本当は、理性だけでは、何が良いのか悪いのか、どうしても決

着がつかないことが人生の中ではたくさんあって、だからこそ、

私たちは感情を頼りに行動する必要がある。

(179p)

 

理性ではどうしたらいいのか決定できない状況というのは、我

々の人生にもたくさんある。たとえば、どちらの学校に行くべ

きなのか、誰を恋人に選ぶべきなのか。実際に選んで先に進ん

でみなければ、本当にそれで良かったのか決定できない問題ば

かりである。あれこれとそれなりに条件を比較することはでき

るけれども、結局は「感情」に頼って選び取るしかない。

感情は、理性だけではとても対応できないような、不確実な状

況で、なんとか人間を動かしてくれるシステム、意思決定をさ

せてくれるシステムなのである。

(181~182p)

  

どんなに物事の理解力が衰えても、彼らの感情的判断は、尊重

するべきなのかもしれない。

アルツハイマー病であっても、感情的反応は健康的な人と同じ

であり、それはやはり、生物として進化してくる上で膨大な時

間をかけて獲得してきた、生存に役に立つ「正しい」判断なの

であり、なかなか失われないものなのだ。

(189p)

  

感情による判断(反応)は、意外にも正しいようです。

  

つづく

「脳科学者の母が、認知症になる」⑦ 幸せに暮らすために、脳は努力をする 最期まで

  

今日は令和2年1月28日。

  

前記事に引き続き、

脳科学者の母が、認知症になる

(恩蔵絢子著/河出書房新社)より引用していきます。

  

  

アルツハイマー病で起こる認知的問題で、本人や家族が恐れて

いることの一つは、「友人や家族の顔を見ても、それが人だと

わからない」という現象だろう。

アルツハイマー病が進行すると、名前が思い出せない。そして、

その段階も超えて、顔を見ても誰だかわからないし、親しみさ

え湧かない、という状態になることはある。

起こるとするならば、それはどのようにして起こるか?

それは、脳の萎縮が海馬に留まらず、大脳皮質にまで大きく及

んだときであると考えられる。繰り返し述べてきたように、大

脳皮質は、記憶の貯蔵庫と考えられている。

(138p)

    

そうなんだ。

覚悟をしておかなくてはいけないと思います。

  

  

本当にアルツハイマー病になったらどんな気持ちになるのかが

明らかにされていないからこそ、事前のイメージにより、「そ

んな状態になったら生きていても仕方がない」「それだったら

殺してくれ」と安楽死を希望してしまう人たちが出てきたので

ある。

そのような人の一人にマルゴという名前で知られている人がい

る。しかし、マルゴは実際に病気が進行していくと、自分がか

つてそのような意思表示をしたことを忘れて、毎日施設で提供

されるピーナッツバターサンドイッチを幸せそうに食べていた

という。彼女は、記憶力、理解力を失っても、幸せに暮らして

いた。

このように、他人が想像するアルツハイマー病、また、まだ病

気になる前に想像するアルツハイマー病と、今現在アルツハイ

マー病である人の実感は違う可能性がある。少なくとも、アル

ツハイマー病の人には、幸せを感じる能力が残っている。

(142p)

  

ここにも大きな問いがあります。

アルツハイマー病になってしまったら、

記憶がなくなり、自律性が失われ、周囲に迷惑をかけてしまう。

自分が自分でなくなってしまう。

それでは辛すぎないか?いっそ死んだ方がいいのではないか。

アルツハイマー病が進行したら幸せを感じられないのか。

  

著者は、幸せが感じられると言っています。

  

特に、海馬以外の脳部位が比較的正常に働いているアルツハイ

マー病「初期」の人々は、感情的な危機に立たされていると言

える。自分の症状にまだ慣れておらず、たくさん戸惑うことが

ある中で、人の反応は正確に読み取ってしまうからだ。記憶以

外は正常だからこそ、いたたまれない。耐えられない。この時

期に自殺願望を持つことが多く、オランダでは安楽死の意思を

示す人たちが多く出るのだという。

しかし、重要なのは、その時に想像する悲観的未来と、実際の

未来は違って、「人は適応する」ということだ。人間は、自分

の状態を必死で理解しようとし、間違いを受け流す方法、でき

ることをやろうとする方法など、なんとか対処方法を見出して

いく。同様に、家族も、その人の状態に慣れ、その人を守る方

法、自分が動揺しない方法など、対処方法がわかっていく。だ

から、事態は改善されていく。まだまだ、幸せは残っているの

である。

(148p)

 

萎縮が海馬だけに留まらず、大脳皮質のさまざまな領域に広が

ってなお、残っている脳部位を使って、人間は、自分の置かれ

ている状態に最後まで適応しようとする。家族のこと、友達の

ことを忘れてしまってもなおだ。死ぬまで残るこの適応の能力

を、また実際にどうやって最後まで生きたかというその全てを、

「自分」あるいは「その人らしさ」と言ってはいけないか?

他人から見れば、その状態は惨めかもしれない。

現在の自分も、未来のさまざまな認知能力を失った自分を想像

して、やはり惨めだと思うかもしれない。

しかし、どれほど脳が委縮しても、何がわからなくなっても、

幸せに暮らすために、脳は努力をするもので、その過程は十分、

尊重されるべき「その人」なのではないだろうか?

(149~150p)

   

 

「残っている脳部位を使って、人間は、自分の置かれ

ている状態に最後まで適応しようとする」

「幸せに暮らすために、脳は努力をする」

 

特に印象に残った言葉です。

このことを信じて、

私は父親を介護していきたいと思いました。

そして自分の脳も信頼しようと思いました。

「脳科学者の母が、認知症になる」⑥ 介護という状況自体が権力関係を作り出す

  

今日は令和2年1月28日。

  

前記事に引き続き、

脳科学者の母が、認知症になる

(恩蔵絢子著/河出書房新社)より引用していきます。

  

役割については、ミルグラム実験と呼ばれるもので、強制され

たり、あまりにもこだわったりすると、非道な結果を引き起こ

すことがあると示されている。その現実的な例として、第二次

世界大戦中、アウシュビッツ強制収容所の所長を務めた、アド

ルフ・アイヒマンがいる。彼は、権力者からその役割を任され、

数百万のユダヤ人を殺害してなお、着実に任務を果たしたこと

を誇った。彼がもともと極悪な人物であったのかといえば、そ

うではなく、ごく普通の、凡庸な人物だった、と哲学者ハンナ・

アーレントが分析している。普通の人物でも、自分に与えられ

た「役割」を背負いすぎて、本当に非道なところまで行ってし

まうことがあるのである。

(136p)

  

  

これが認知症の介護とどのように関係するかというのが、

下の文章です。

  

「できる人」「できない人」、「面倒を見る人」「見られる人」

という意味で、介護という状況自体が権力関係を作り出す可能性

がある。「介護者」「被介護者」という役割を担ううち、介護者

には「やってあげている」という意識が、被介護者には「やって

もらっている」という意識が、いつのまにか作り上げられて、「

私がやってあげているのだから逆らうな」「私が悪いのだから逆

らってはいけない」となってしまうことがあるかもしれない。

これは、病気になってしまった人の主体性の感覚、自由を奪うこ

とである。そして、介護者の自由も奪うことである。「なんで私

がやってあげなければならないの?私には私の生活があるべきな

のに、あなたのせいで奪われている」という気持ちになるからで

ある。

だから、互いを守るために、きっと何もかも大まじめに「私がや

ってあげなくては」と引き受けようとしない方がいいのである。

互いに一生懸命になってしまうことによる害というものもあるの

だ。負担にならないあ範囲で自分にできることをすればいい。そ

れを強調しておきたい。

(136~137p) 

  

陥りやすいことだと思います。

私自身もその危険もあるけど、他の人たちにも声かけをしていきたい。

「脳科学者の母が、認知症になる」⑤ 脳は徹底的に効率化を図るもの

  

今日は令和2年1月28日。

  

昨日の記事に引き続き、

脳科学者の母が、認知症になる

(恩蔵絢子著/河出書房新社)より引用していきます。

  

  

脳の中では、他人と自分を同一視するのが基本ではあるのだが、

人間は発達するに従って、本当に他人のことを理解するために、

徐々に他人と自分との切り離していかなければならない。

この切り離しは、家族など、親しい間柄であればあるほど、難

しいのだと思われる。

脳の中には、たとえば、人が痛みを与えられているのを見ただ

けで、自分が実際に痛みを受けているように活動する部位があ

る。自分の体には直接痛みは受けていなくても、他人が痛がっ

ていると、本当に「痛い!」という反応が自分の中に起こる。

これがいわゆる「共感」の脳活動だ。

この「共感」の脳活動の度合いは、痛みを受けているのが誰か

ということで変わる場合があることが知られている。自分にず

っと優しかった人が、痛みを与えられているところを見れば、

自分に冷たかった人が痛みを与えられているのを見るよりも、

私たちの脳は、ずっと強く共感して「痛たたた!」という活動

をする。

同じように、自分のパートナーや、自分の子どもに何かが起こ

ったときは、赤の他人に対するよりもずっと強い共感を持つこ

とは、想像に難くないだろう。夫婦や親子は脳の中でがっちり

と一体になっていると考えられ、それゆえに、切り離しが必要

になったときには、難しいことがあると思われる。

アルツハイマー病になった後、もともとの関係性が親しければ

親しいほど、その人と自分との切り離しがうかくいかず、「こ

の人には伝わるはずだ」「自分が思っている通りに受け取って

くれるはずだ」と仮定し続けてしまう。

私は、母が自分の意図や感情を汲んでくれることはどうしても

当然だと思ってしまう。だからこそ伝わらなかったときのショ

ックが強いのである。

(129~130p)

   

この話を読んで思い当たることがあります。

一緒に住んでいる大学生の息子のこと。

結構無茶なことをします。

夜遅く出発して長野県まで自動車で出かけたりします。

気が気じゃなくて、お守りを渡したりして事故らないことを祈り、

無事に帰ってきたらホッとします。

もし、これがどこか遠くの大学に入学して、

そちらに住んでいれば、ここまで心配しないように思えます。

一緒に住んでいるが故に心配になっていると思うのです。

「共感」の度合いが強くなっていると思います。

父親とも長年同居しているので、

父親の変化は当初はショックであり、

早急にどうにかしなければと動いた覚えがあります。

一緒に住んで、顔を突き合わせている家族というのは、

自然と「共感」は強くなり、うれしいこともつらいことも

一緒に感じられるのでしょう。

  

  

そもそも脳は、徹底的に効率化を図るものである。

それはこんな実験から説明することができる。

美術館に行って、彫像を見て帰ってくる。このとき、ただ見て

帰ってきた人と、みた上で最後に写真を撮って帰ってきた人と、

どちらの方が後々までその彫像のことを細部にわたって覚えて

いるか、ということを調べた実験がある。

結果は、前者の、ただ見て写真を撮らずに帰った人の方が、彫

像のことを後々まで詳細に記憶していた。写真を撮ると、写真

に残っているから、わざわざ自分の中に残しておく必要はない、

と脳は記憶を手放してしまうのだ。

人の話を録音したり、メモしたり、ということも、写真を撮る

のと同様で、録音機やノートという、脳が記憶の外部装置とし

て使える物があることになるので、脳は記憶を手放してしまう。

(133p)

  

これは実感としてそう思います。

私はこうやって書き留めていますが、その分、

脳はきっとこれは覚えなくていいなと思っている可能性があります。

そうならないためにも、読み直しが必要なのです。

読み直すことで、脳が「これは必要な情報」と

認識してくれるでしょう。

  

  

う~ん、脳の話はやっぱり面白いなあ。

  

まだつづく。

  

2020年1月27日 (月)

「脳科学者の母が、認知症になる」④ 脳は記憶を編集し続ける

  

今日は令和2年1月27日。

  

前記事に引き続き、

脳科学者の母が、認知症になる

(恩蔵絢子著/河出書房新社)より引用していきます。

  

「今これをやっているのは私だ」「これは私がやったのだ」と

いう感覚は、脳科学では、「主体性の感覚」と呼ぶ。これは、

人間の幸福に重大な影響をもたらすことが知られている。

主体性の感覚を奪われた人は、たとえば鬱病になりやすい。人

間は何にでも自分の作用を見たがるところがあり、自分が絶対

にコントロールできないランダムな事象、たとえば、宝くじの

ようなものにすら、「自分でよく考えて番号を選べば当てられ

る」と思い込んでいる。たとえ錯覚であっても、物事が自分の

おかげで良くなった、自分の影響を与えられた、と感じること

で、自分の意味を確認する。「自分で物事が決められている」

という実感は大切なのである。それが全く得られないと、自分

は無力だと落ち込んでいってしまうことになる。

(89p)

  

アルツハイマー型認知症の患者の主体性は奪われやすいのです。

父親は、ショートスティやデイサービスに行くことを、

「仕事」と認識しています。

家族のために働きに行っていると思っているのです。

「もう俺は身体が辛いから、そろそろお前が行けよ」

と父親から声をかけられることもあります。

父親なりに、出かけることに主体性を持たせているのだと

思いました。

  

 

全ての人の中に、忘れがたい大事な記憶があるだろう。そうい

う「絶対に忘れない」という自信がある、いつでも鮮明に蘇る

記憶でも、実は新しい経験と共に、また再び思い出すと共に、

変化を受けていると言われている。(中略)

全部覚えている方が良い、記憶は正確である方が良い、と思う

人もいるかもしれない。しかし、脳のサイズが有限だからこそ、

膨大な量の情報の中から少しでも有用なことを抽出しようと、

脳は記憶を編集し続けるのだ。

記憶内容が変わることは、脳が私たちがうまく暮らすために工

夫した結果なのである。

(99~100p)  

  

過去の記憶は都合よく変わっているもんなあ。

自分のために編集されているのだと思いました。

  

  

  

アルツハイマー型認知症で、大きな問題になっているのは、そ

の人の役割を家族は肩代わりすることが増えて、自立した者同

士の関係でなく、依存関係にどうしてもなってしまうというこ

とだ。つまり、アルツハイマー病を患った本人(自己)と家族

(他者)との区別があいまいになってしまうのである。

(中略)

その人の仕事を家族が引き受けすぎて、互いの線引きができな

くなることは、互いにとって、精神的にも、体力的にも苦しこ

とは事実だ。

本人にとって、自分で自分の生活を営めなくなることは、非常

に自尊心を傷つけられる。また、家族にとっても、自分の時間

がとれなくなっていくこと、相手に合わせた生活になっていく

ことは、病気の本人と同じくらい、「自分で自分の人生を導い

ている」という感覚を感じにくくなる。

(中略)

アルツハイマー病では、家族以外のたくさんの人にかかわって

もらって、本人も含め家族一人ひとりが、自分自身の時間を作

ることは、とても大事だ。

(中略)

本人は「家族に自分のことを管理されている」という気持ちか

ら解放されるだろうし、家族の方も自分の人生をちゃんと進め

ている気持ちになれる。

(114~116p)

  

  

老々介護のように、2人だけで介護する・介護される状況は、

危険なんです。

  

  

まだつづく

「脳科学者の母が、認知症になる」③ 現在の認識が弱まるために昔との区別ができない

  

今日は令和2年1月27日。

  

前記事に引き続き、

脳科学者の母が、認知症になる

(恩蔵絢子著/河出書房新社)より引用していきます。

  

 

頭は集中して使えば使うほど活性化すると思われているかもし

れないが、実はそうではない。集中すればするほど活動する領

域はもちろんあるが、休めば休むほど活動する領域もあるので

ある。では、休んでいるときに一体脳が何をしているかという

と、主に記憶の整理だ。(中略)

眠っている間、休んでいる間だからこそ、経験の整理整頓がで

きるのである。集中することも大事だが、休憩も、脳は同じく

らい必要としている。

(55p)

  

これは知っているぞ。今まで勉強してきたことの復習。

  

  

アルツハイマー型認知症で委縮するのは「海馬」である。すな

わち、長期記憶の中では、宣言的記憶(言葉で語れる記憶)へ

の影響は深刻だ。しかし同じ長期記憶でも、大脳基底核や小脳

が司る、言葉でなく体で覚えた非宣言的記憶には影響がないは

ずで、覚えているはずだし、思い出せるはずなのである。

(78p)

   

身体で覚えたことは忘れない。

私だったら何がそれにあたるのだろう。

自転車に乗ること。

道草をすること(ブログを書くこと)。(これは無理か?)

  

  

昔のことが現在のことと混ざり合って区別が付かない、という

問題はどうだろう。

これは、海馬の委縮のために、母の中では、「今ここ」のこと

を覚えられず、「現在」についての認識が弱まっていて、だか

ら相対的に、「昔」の記憶が強烈になっているせいだ、と考え

ることができる。母にとっては、今よりは、昔の方が鮮やかで、

頼れるのである。

(85p)

    

父親と話していて、いきなり父親の父親の話が出ることがあります。

私にとって祖父であり、私は全く覚えがない祖父です。

私がものごころつく前に亡くなっています。

「おれの親父はどうなってる?」と聞いてきます。

「もうだいぶ前に死んじゃったよ」

「そうか、死んだか」

きっとその時には、父親は祖父の顔を思い浮かべているんだろうなと

思います。

  

  

健康な人の場合は、現在の物事も鮮やかに知覚され、認識され

ており、現在と昔との区別がされるのだが、アルツハイマー病

で海馬に問題が起こっている母には、現在の認識が弱まるため

に、昔との区別がうまくつかないことがあるのだと思われる。

むかし、私と兄が子供だった頃の母の記憶や、そのさらに昔の、

母自身が子供だった頃の記憶が現在にそのまま侵入してくる。

(88p)

 

なるほどです。

非常にわかりやすいし、父親にあてはまります。 

12年前に亡くなった私の母親の話はほぼ毎日でます。

「お母さんはまだ帰ってこないのか」

「お母さんは調子が悪くて寝ているのか」

などと聞いてきます。

「お母さん」というのが、父親の奥さん。私の母親です。

  

  

つづく 

  

「脳科学者の母が、認知症になる」② 85歳以上では2人に1人はアルツハイマー病

  

今日は令和2年1月27日。

  

前記事に引き続き、

脳科学者の母が、認知症になる

(恩蔵絢子著/河出書房新社)より引用していきます。

   

アルツハイマー型認知症とは、ドイツの精神科医、神経病理学

者のアロイス・アルツハイマーにちなんで付けられた名前であ

る。1907年に彼によって初めての症例「アウグステ・Dと

いう名前の女性)が発表された。つまり、アルツハイマー病は

発見されてからまだ100年少々しか経っていない病気なので

ある。

(35p)

  

Epson224 (37p)

   

アルツハイマー病の一番のリスク・ファイターは年齢である。

年齢が上がれば上がるほど、誰でもなる可能性がある。85歳

以上では2人に1人がアルツハイマー病になると言われる。年

齢が上がると、異常なタンパク質の蓄積が増え、発症しやすく

なると考えられる。

(39p)

 

アルツハイマー病の基礎勉強。

  

  

海馬は、大脳皮質に蓄えられている記憶を呼び起こそうとする

時にも使われる(このプロセスを「リトリーブ」と呼ぶ)。海

馬が損傷しても、記憶は大脳皮質という別の場所に保存されて

いるのだから、記憶自体がきえてしまうことはないのかもしれ

いが、その記憶にうまくアクセスすることができなくなる。

れゆえに昔の記憶が「思い出せない」という現象も起こるこ

があるのだ。

(42~43p)

  

  

回想療法も、思い出を語り合い、他人とコミュニケーションを

取ることで、アルツハイマー病に伴う「孤独感」を減らすこと

ができる。また、大事な記憶を思い出すことによって、昔との

つながりがかんじられて「安心感」を味わったり、その記憶の

中で感じていた様々な感情が蘇ってきたりする。記憶力の改善

は期待できないが、残っている古い記憶を使って、ポジティブ

な感情を活性化できる可能性があるのが回想療法である。

(48p)

   

う~ん、イメージが浮かぶ。誰かと共通の思い出を語り合うことは、

心地いいものだと思います。

  

  

現段階で言えるのは、(中略)脳の前頭葉が損傷してしまえば、

人格が変わる可能性はある。しかし、そのようなことは、もし

も起こるとしても、アルツハイマー病では、大分進行してから

である。だから、少なくとも初期のアルツハイマー病患者、そ

して周囲の人たちが戸惑っているのは、本当にその人の人格が

変わってしまったからではなくて、まずは海馬の問題により、

ただ「できない」ことが増えるから、今までの「その人」では

ないように「感じられる」ということなのだ。

(49p)

  

その通りだと思います。

こうやって分析してくれると、客観的に見ることができて

ありがたいです。

  

  

つづく

  

「脳科学者の母が、認知症になる」① 人間にはコントロールできないことがあるのだ

  

今日は令和2年1月27日。

  

またすごい本に出合い、読み終えることができました。

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脳科学者の母が、認知症になる

(恩蔵絢子著/河出書房新社)です。

  

図書館に返す本です。たくさん書き留めるつもりです。

認知症について現時点で関心のない方はすっ飛ばしてください。

認知症に関心をもったときに、思い出してここを読んでみてください。

いや、この本を読んでみるといいと思います。

この本については、以前記事にしていました。

ここでも道草 「脳科学者の母が、認知症になる」/「認知症の第一人者が認知症になった」(2020年1月18日投稿)

☝ この時に読みたいと思い、実行しました。

  

  

一緒に暮らしている脳科学者は、医者よりも、至近距離で患者

に接することができる。医者が患者を診るように、第三者とし

て「病気」に向き合うのではなく、脳科学者であり、もともと

の母の性格をよく知っている娘だからこそ、気付く変化がある。

私は動揺しながらも、母の様子を観察して、どんな行動が現れ、

何が原因でそのような行動になるのか、脳科学の見地から考え

ることを試みた。

日々母にはどんな変化が起きているのか、それは脳の仕組みか

ら考えるとどういうことなのか、二年半の間、日記として記録

し、考えていった。

母を「症例」として見るのではなく、徹底的に母という「個」

に向き合うことによって、「認知症」という病の普遍に触れよ

うと試みた。

「脳にはどんな変化が起こっているのか」という視点から母の

行動を観察し続けていくと、やがて不可解に見える母の言動も、

脳の働きからすると自然なことに御眼てくるようになった。

(10p)

  

やがて私は、「母らしさ」とは、何かについて考えることにな

る。つまりこういう問いだ。

人は、以前で来たことができなくなったら、それは「その人ら

しさ」を失うことになるのだろうか?

その人の記憶こそが、はたして「その人らしさ」をつくってい

るのだろうか?

(11p)

 

このような難しい「問い」に対して、

恩蔵さんは答えを求め続けます。

その答えはとても深かったです。

  

  

母は、かつては1分だって落ち着いて座っている時間がないほ

ど活発で、社交的な人だった。趣味もいっぱい持っていた。そ

んな人がアルツハイマーになるのだから、病気は無慈悲だとい

うことだ。「そんなにだらだらしているといつかボケるからね

!」とか「ボケ防止に趣味をもとう!」とか、世間では自分が

なんとかすればアルツハイマーにならないと思われているよう

なところがあるけど、母のせいなどではなかった。人間にはコ

ントロールできなことがあるのだ。

(25p)

  

だれもがなる可能性のあるアルツハイマー型認知症。

  

  

アルツハイマー型認知症は、初期に、記憶を司る「海馬」の委

縮が起こり、新しいことが覚えにくくなることが特徴である。

それに対して、レビー小体型認知症は、初期に、大脳皮質の中

の「後頭葉」という、視覚を主に司る部位に問題が起こるので、

主要な症状が幻覚で出る。つまり視覚認識に異変が起こる認知

症なのだが、こちらは病気になってから何年も経ってから記憶

障害が現れないことがある。すなわち「認知症」だからといっ

て、必ずしも記憶障害を伴うわけではないのである。

(33p)

 

父親の場合、認知症ではあるが、ルビー小体型認知症の症状も

出てきていると言われています。

  

  

つづく

2020年1月26日 (日)

日めくりより/日本で最初にレコーディングした人物

  

今日は令和2年1月26日。

  

日めくり「雑学王」(TRY-X)より。

  

  

日本で最初にレコーディングした人物は誰?

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新冠町HP レ・コード館 レコードの歴史年表

☝ このサイトによると、

明治12年の3月28日のことだったようです。

1879年のこと。141年前のこと。

 

今では録音だけでなく、

簡単に録画もできてしまいます。

タブレット端末でちょちょいのちょいです。

そして録画したものを世界に発信できてしまいます。

 

  

新聞はまだ残っています。

でも141年前に、今の状況は予想できなかったことでしょう。

福地桜痴(源一郎)さん、今はすごいことになっています。

※参考:Wikipedia 福地源一郎

 

 

「アナログすぎる日本の授業形式」という「声」

今日は令和2年1月26日。

  

今日(1月26日)朝日新聞朝刊の「声」の記事です。

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日本の教育はやっぱりもっとIT化すべきだと思います。

アナログのいいところは維持しつつ、

1人1台のタブレット端末を使っての授業を

私はやってみたいです。

間に合わないかな。

 

無線ランの設置を強く願いします。

私のブログで「無線ラン」が初登場したのはいつなのか

検索してみました。

6年前でした。

ここでも道草 タブレットが役立つ状況 「NHK for school」(2020年1月13日投稿)

この時にも「教室の無線ラン化が必要です」と書いています。

来年度はどこまで進むのか。

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楽餓鬼

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いま ここ 浜松

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