2019年8月15日 (木)

「巨大カルデラの謎に迫る」その1/薩摩硫黄島の位置

今日は令和元年8月15日。

  

8月3日に放映された「潜れ!さかなクン~火の島 

薩摩硫黄島の海へ~」を見ました。 

そう言えば、以前にも薩摩硫黄島の番組を録画したぞと

思い出し、探しました。

ありました。

2018年5月30日放映の「滝沢秀明の火山探検紀行

巨大カルデラの謎に迫る」でした。

さっそく見ました。

2番組とも面白かったです。

すっかり、薩摩硫黄島、鬼界カルデラに興味津々です。

巨大カルデラの謎に迫る」の一部を読み物化してみようと

思います。

では薩摩硫黄島がどこにあるか示します。  

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薩摩硫黄島には、硫黄岳という活火山があります。

硫黄岳が島の半分を占めているように思えました。

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☝ 火山ガスがあちこちから吹き出ている頂上付近です。

 

この硫黄岳は、頂上から150m下までマグマが

上がってきているそうです。☟

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こんな恐ろしい火山ですが、番組で登山道が映りました。☟

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けっこう立派な道です。

なぜ?と思いました。

こんな恐ろしい火山に登る人がいるの?

そもそも、こんな恐ろしい火山がある狭い島に、

人が住んでいるのが不思議でした。

その疑問は、番組を見ていくうちにわかりました。

  

つづく

 

美の巨人たち「難破船」(ターナー作)

今日は令和元年8月15日。

  

2018年5月26日放映の「美の巨人たち ターナー作『難破船』」を

見ました。

ターナーについては、今までの4回記事にしてきました。

今回のラストにリンクを並べておきたいです。

  

〇ターナーは晩年次のような作品を書いた。☟

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後年、この作品の影響を受けて、モネがあの有名な作品を

描いたと言われている。☟

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ターナーは風景画に優れていました。

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ターナーは「ノラム城 日の出」のような

省略された輪郭線のはっきりしない風景画を描いたが、

リアルな風景画も多く書いている。

今回取り上げる作品は、そんなリアルな風景画。

難破船」☟

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〇ターナーが「難破船」を描くことになったのはなぜか。

 番組では、次のように迫っていた。

〇ターナーはイギリスの理髪店の子どもとして生まれた。

 人とのコミュニケーションが苦手で、

 ひたすら絵を描いて、それを店頭に飾っていた。

 絵では誰にも負けたくない気持ちがあった。

〇ターナーは、一生家庭を持たず、絵のために生きた人だった。

 

〇1805年、 イギリス(大英帝国)とフランスの間で

 トラファルガーの海戦が行われた。

 イギリスは、ナポレオンの海軍を破る。

 イギリスの人たちの海への関心が高まった。

〇1802年、ターナーはドーバー海峡で嵐に遭い、

 転覆寸前の体験をする。

〇ターナーは、海の美しさを表現(静の海)してきたが、

 この転覆寸前の体験から嵐の表現(動の海)をするようになった。

 

〇ターナーは、人とのコミュニケーションをとるのが苦手だったので、

 ターナーの作品にはほとんど人物が描かれていなかった。

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〇それなのに、なぜ、「難破船」では人物を描いたのか。

〇当時多くの人に読まれた「難破船」という詩の

 影響を受けたと思われる。

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聞き書きします。

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ブラウンさん:「難破船」に人々の姿が描かれている理由の  

  一つとして、ターナーがこの本に影響を受けたということが

  考えられます。

  自然の力を描くには、人間のドラマを絵画に取り入れることが

  有効な手段だということに気がついたのです。

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ナレーター:そしてターナーが描いたのは、恐怖に震え、

  みじめに叫びちらす女。あまりの状況に現実に目をそむける男。

  今にも波に飲み込まれてしまいそうな船もあれば、

  命運つきたのか、すでに無人となってしまった救命ボートも。

  死への絶望と、生への渇望。

  極限状態であらわになるさまざまな人間の弱さが、

  見事に描き分けられています。

ブラウンさん:ターナーは、作品の中で弱者と強者といった

  二項対立の技法をよく用いますが、

  この「難破船」では「人間」対「海」という二つの対立を描くことで、

  海の力の大きさを誇張したのです。

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ナレーター:すべては、海の本当の姿を表現するため。

  これまでほぼ描かなかった人間を、

  恐ろしい風景と対比することで、

  自然の圧倒的な力を浮かび上がらせたのです。

  

〇絵の右側に、難破した人たちを救助する漁船を描いた。

 絶望の淵で輝きを放つ希望の象徴である。

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〇漁船に、海洋国家イギリスを重ねたと、番組では推理していた。

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いろいろ知ってから絵を鑑賞すると、

味わい深くなります。

 

今までのターナーに関する記事です。☟

ここでも道草 美の巨人「戦艦テメレール」(2013年9月18日投稿)

ここでも道草 「日曜美術館 ターナー」1.「坊ちゃん」の中のターナー(2013年12月23日投稿)

ここでも道草 「日曜美術館 ターナー」2.雨や霧も貴重な条件(2013年12月26日投稿)

ここでも道草 「日曜美術館 ターナー」3.機関車の前にうさぎ!(2013年12月27日投稿)

6年ぶりにターナーのことを書いたのをいい機会に、

これらを読んで、たぐっておきたいです。

 

 

2019年8月14日 (水)

20190810報告9 文房具店"yuruliku"

 

今日は令和元年8月14日。

  

湯島聖堂を出て、お目当ての文房具店に向かいました。

ここでも道草 この文房具店に行ってみたい/お茶の(2019年8月9日投稿)

開店は昼の12時。

「東進ビル」の地下1階という住所をたよりに探しました。

「東進ビル」はすぐに見つかりました。11時55分。

地下1階に下りていくコンクリートの階段がありましたが、

店名がどこにもなく躊躇しました。

そしたら、眼鏡をかけたお兄さんが、

小さな看板を持って階段を上がってきました。

その看板に店名がありました。

「今からですよね」

「はい、そうです」

「テレビ番組を見て、面白そうだと思って、

愛知からやってきました」

「ありがとうございます」

そんな会話をしました。

  

あの折れ線グラフのペンケースは、

やはり高価でした。

私が思っていた以上で6000円超えでした。

実際に触っただけで、買いませんでした。

小さなお店でしたが、どんなものがあるか

ワクワクして商品を見ました。

こういうのが、文房具店の魅力ですよね。

気に入った封筒とクリアファイルがあったので

買ってきました。

原稿用紙のデザインの封筒は、さっそく誰かに送りたいです。

 

地下1階のお店に下りていく階段です。☟

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いただいた名刺です。☟

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営業日は土・日曜日12:00~19:00です。

  

  

以上で、20190809~20190810報告完了。

テレビ番組を見ただけで終わらず、

テレビ番組をきっかけに動きました。

20190810報告8 湯島聖堂 博覧会 楷書

  

今日は令和元年8月14日。

  

全生庵を出て、電車移動。

お茶の水駅にたどりつきました。

目的地は、テレビ番組で紹介された文房具店です。

ここでも道草 この文房具店に行ってみたい/お茶の水(2019年8月9日投稿)

 

でもそのお店の開店時間前だったので、

教科書でも有名な湯島聖堂に初めて行きました。

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説明で置かれていた絵のなかで、

明治5年に開催された博覧会の絵に注目しました。

大成殿前の空間で、600件余りの物品が展示され、

中央には名古屋城の金の鯱(しゃちほこ)が、

ガラスケース内に収められていて人気があったそうです。

E1a5db912f348f5a78daf54317e23667 My Encyclopedia 湯島聖堂博覧会と京都博覧会

たくさんの観覧者が訪れたそうです。

この時の博覧会は、当時の広告や入場券には

「文部省博物館」と明記されており、

これが日本の「博物館」の始まりとされています。

同じ年に東京国立博物館ができているが、

創設は湯島聖堂で行われた時だとされています。

Wikipedia 東京国立博物館

今日、大成殿前は閑散としていましたが、

博覧会の絵を見て、そのにぎやかだった時の状況を

想像していました。

  

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☝ ここにも、谷中と同じ様式の築地塀がありました。

  

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☝ 大きな孔子の銅像

  

この木に注目。☟

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孔子の銅像の前にある大きな木です。

名前は「(カイ)」

Img_0478  

興味深いことが書かれていました。

一部引用します。

  

楷は曲阜にある孔子の墓所に植えられている名木で、

初め子貢が(孔子の墓所に)植えたと伝えられ、

今日まで植えつがれてきている。

枝や葉が整然としているので、

書道でいう楷書の語源ともなったといわれている。

  

そうか、楷書の「楷」は、この樹木が起源の可能性があるんだ、

と思いながら、眺めていました。

いいものに出合えました。

 

2019年8月13日 (火)

20190810報告7 全生庵 幽霊画展

  

今日は令和元年8月13日。  

  

谷中の全生庵です。☟

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住職がおられるということは、

ここはお寺・・・・ですよね。

なぜ「全生庵」という寺名なのか?

この疑問については、HPに説明がありました。☟

全生庵HP 由来

勉強になりました。

  

 

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☝ 左は山岡鉄舟、右が三遊亭円朝の碑。

  

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☝ この階段を上がって、左手に行くと幽霊画展の

会場がありました。

 

「英雄たちの選択」で知った全生庵での幽霊画展に、

実際に行って、見ることができました。

ここでも道草 「英雄たちの選択 名人円朝」その1/8月いっぱい幽霊画展あり(2019年8月8日投稿)

ここでも道草 「英雄たちの選択 名人円朝」その2/初の「円朝作品」(2019年8月8日投稿)

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暑い中、街を散策した後だったので、

しっかり汗をかいていました。

しかし、幽霊画展の会場は、

大きなエアコンが必死に動いていてくれて、

とても快適でした。

一つ一つの絵画には、丁寧な説明が添えられていました。

説明が多いために、字が小さくなっていて、

老眼鏡が必要なものもありました。

それでも全部読みました。

幽霊画にも多種多様でした。

 

一番印象に残った幽霊は、胸より下は現生の空間にあって

霞んでいますが、胸より上は霊界にあって、くっきり描かれ、

こちらを恨めしそうに見ているのです。

う~ん、表現力が足りなくてすみません。

とにかくこの幽霊画が印象に残りました。

 

幽霊画のクリアファイルがあったので、

さっそく買いました。記念品です。

 

ぜひ、住職さんにお会いしたいと思いましたが、

ちょうど出かける時だったようで、

後姿はしっかり見ました。

 

すっかり汗がひいていました。

外が暑かったことを忘れるぐらいの時間、

過ごしました。

 

つづく  

 

 

 

20190810報告6 奈良とは表情が違う築地塀

 

今日は令和元年8月13日。

  

谷中ぎんざ商店街は、細い路地なので、

路地に入ってきたトラックは、搬出後は

向きを変えることなくひたすらバックでした。☟

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ご苦労様です。

  

Photo_2 谷中ぎんざ公式HP 谷中マップ

  

行列に並んでかき氷を食べるよりも、

私にとって興味があったのは、

「谷中マップ」中にある「築地塀(ついじべい)」です。

築地塀についてはかつて調べたことがあり、

少しずつ地道に固めていく作り方に魅せられました。

ここでも道草 国分寺・国分尼寺下見8/築地塀は「ついじべい」と読む(2010年5月18日)

ここでも道草 日帰りで奈良へ・・・築地塀!(2010年8月8日投稿)

ただ ☝ この記事で見たりした奈良の築地屏とは少し違いました。

2010年に平城宮跡で見た築地塀です。☟

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今回の谷中の築地塀です。☟

Img_0467  

平城宮跡の築地塀は、すべて土で固められています。

谷中の築地塀中には、瓦が埋め込まれているようです。

調べていくと、谷中の築地塀の持ち主と思われる

観音寺のHPに行きつきました。

谷中 観音寺 築地塀

 

引用します。

  

ついべいとはいわゆる土塀のことで、単についとも言います。

主に、石垣を台座として塀の中心となる部分に木の柱を立て、

柱を中心に木枠を組み、

そこに練り土(粘土質の土に油や藁などを混ぜた土)を入れて

棒で突き固める版築はんちく工法で作られたものを呼びます。

塀の上部には雨除けに瓦屋根が葺かれ、表面も漆喰で仕上げられました。

古くは土のみで作られましたが、強度を増すため、

雨水から守るため、染み込む雨水の水はけを良くする為に、

瓦を間に入れて作られるものも登場しました。

その場合も、表面に瓦が見えないように全体的に

漆喰で仕上げるものと、あえて瓦を見えるように瓦と瓦の間を

漆喰で仕上げるものなど、様々です。

ついは、もとはつきひじと呼ばれていたとされます。

字のごとく泥を積み上げて作ることからそう呼ばれており、

のちに築地と転じたため、

つきべいではなくついべいと発音するのですね。

  

  

築地塀の基本的なことから、瓦を入れるようになってきた

築地塀の歴史までを説明してくれた、とてもいい文章です。

観音寺の築地塀は、幕末につくられたそうです。

過去(2010年)の勉強と、簡単に関連付けできるのが、

ブログのいいところです。

20190813報告5 谷中ぎんざには7匹の猫がいる

 今日は令和元年8月13日。

  

先日、自転車屋さんに修理をお願いしてあった前輪。

修理完了で、昨日の朝、前輪をセットして、

半年ぶりに自転車に乗りました。

自転車ってやっぱりいいなあと実感した時でした。

  

さて、20190813報告の続き。

谷中の街中を歩きました。

Photo 谷中ぎんざ公式HP 谷中マップ

 

岡倉天心記念公園。☟

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公園の木陰と、水飲み場の水はありがたかった。

この日も暑い日でした。しばらく休憩。

歩き出したら、長い行列ができたお店がありました。

かき氷がおいしい店のようです。☟

Img_0455  

私は素通り。

  

谷中銀座商店街へ。

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☝ ここで気になったのが「蜜とミシン」☟

Img_0459a  

そば屋さんになぜ「蜜とミシン」なのだと思ったら、

そば屋さんとは別の店のようです。

HPもありました。→蜜とミシンHP

このHPには次のように書いてありました。

  

オリジナルのお洋服をお手頃の価格で。

谷中商店街にあるオーダーメイド専門のお店です。

 

疑問が解決です。

 

この店の、このマークは不思議でした。☟

Img_0460  

この店もHPがあります。→HAKKODO HP

 

おいしい発酵と出会う店」とありました・

”発酵”を表すマークなのでしょうか。

 

 

ムムム?

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Img_0461a  

「越後屋本店」の屋根の上に猫がいました。

本物ではありません。

調べました。

ちくわ お出かけ情報 谷中ぎんざの七福猫めぐり!

  

引用します。

  

谷中ぎんざには「谷中七福猫」と呼ばれる

木彫りの猫が7匹います。

なんでも東京芸術大学の彫刻科の生徒に制作を依頼したもので、

商店街のあちこちに隠れているのだとか。

  

谷中ぎんざについては、下調べなしで歩いたため、

後で気がつきました。

7匹の内、1匹だけ発見です。

あと6匹は、今度行った時ですね。

  

つづく

 

  

2019年8月12日 (月)

20190810報告4 不思議ではなくなったお店

  

今日は令和元年8月12日。

  

前投稿で、tokyobikeのガラス戸になぜ「酒」の字か

疑問に思ったことを書きました。

この疑問を、メールでtokyobikeさんに送りました。

ありがたいことに、tokyobikeさんから返事をいただきました。

疑問が解けました。

  

tokyobikeさんの建物は、もともとは創業300年を超える

歴史ある酒屋「伊勢五本店」であったものを

借りているそうです。

「酒」の字は、酒屋さんの時のままなのだそうです。

伊勢五本店」は他の場所に移転したそうです。

☝ このHPを見ると創業は宝永3年(1706年)でした。

  

 

次の疑問が生まれました。

「伊勢五」はなぜ「五」なんだ?

調べると・・・・

米屋の「伊勢五」というのがありました。

☝ このHPを見ると、次のように書いてありました。

  

当店は代々、文京区千石で米屋を営んでいます。

正確な創業年代は不明ですが、

享保年間(1716~1736)には商いをしていたと

いわれています。

伊勢五の名称は初代の今井(伊勢屋)五郎右衛門から

とったものです。

  

この文章から、酒屋の「伊勢五」と米屋の「伊勢五」は

違うお店です。

伊勢屋は屋号であって、

江戸時代には江戸市中に多いものとして

『火事 喧嘩 伊勢屋 稲荷に犬の糞』と呼ばれるほど

『伊勢屋』と名乗る店舗が多かった

そうです。(引用:Wikipedia

したがって、屋号が伊勢屋の「五」で始まる名前の持ち主が

創業した酒屋が「伊勢五」となったのでしょう。

 

そんな想像をしました。

この疑問の解決は、直接尋ねてみたいです。

もし、いつか谷中に行くことがあったら、

次のことをしたいです。

tokyobikeに行ってお礼を言って、何かいいものを買う。

それほど遠くない伊勢五本店に行って、

店の名前のいわれを尋ねる。

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つづく

  

20190810報告3 谷中で見かけた不思議なお店

  

今日は令和元年8月12日。

  

徳川慶喜のお墓を見た後、

全生庵の幽霊画展が始まる午前10時までには

少し時間があったので、谷中の街を散歩しました。

 

「慶喜」という名前のそば屋さん。☟

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「慶喜そば」とかいうメニューもあるのかな?

もしあったとしたら、どのような具が乗っているのかな? 

  

この店はよくわかりませんでした。☟

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Img_0449a  

ガラスには大きく「酒」と書いてあります。

Img_0449aa  

でも店内には自転車が何台かあります。

よく見ると・・・・・

Img_0449ab  

「tokyobike」とあります。

酒屋さんなのか、自転車屋さんなのか?

調べました。

自転車屋さんでした。

HPもありました。☟

Photo_4 tokyobikeHP

 

お店の開店時間は12:00~18:00でした。

私が写真を撮った時は午前10時前。

昼過ぎに見たら、自転車屋さんだと迷わず思ったでしょう。

しかし、あの「酒」は?

店主の名字が「酒井」さんかな?

それとも「酒」という漢字ではなくて、

何か自転車に関係ある漢字なのかな?

それとも・・・・もと酒屋さんだったなごり?

確かめたい。

  

  

もう少し「tokyobike」について調べました。

CycloRider ファッショナブルなスポーツ自転車「tokyobike」を解説

 

高性能でレーサースタイルを売りにするスポーツ自転車が多い。

これは、レーサースタイルでイメージ戦略を行ったほうが

簡単なのもあるだろう。しかし、一部の自転車ブランドには、

ファッション性を売りにし、レーサースタイルを拒否することで

成功した自転車ブランドがある。それはtokyobikeだ。

(中略)

tokyobikeは一部場所で直営店を運営している。

筆者はかつてTokyobike Shop&Rentals 谷中に

訪れたことがある。ここではTokyobikeシリーズ

全車種の展示やアクセサリーの販売等を行っていたが、

通常の自転車店にあるようなショップ的な雰囲気はなく、

気軽に見ることができるアパレルショップの雰囲気だった。

アクセサリーも機能性重視の自転車部品は少なく、

木のベルやカラフルな鍵、普段着にも合うバッグや靴が置いてあり、

自転車店というよりもTokyobikeのコンセプトを見せるための

コンセプトストアと言ってもいいほどだった。 

  

  

なかなか面白そうな店だったのですね。

今回は五重塔跡・駐在所・全生庵目当てで谷中に行ったため、

次の機会では訪れたいと思いました。

  

  

Img_0450  

☝ 全生庵に近づいてきたら、この貼り紙をよく見るようになりました。

八月一日~三十一日 三遊亭圓朝まつり

ワクワクしてきました。

つづく

20190810報告2 川上音二郎の碑/徳川慶喜の墓

  

今日は令和元年8月12日。

  

天王寺五重塔跡付近は、谷中霊園と言われる墓地です。

そこには有名人の墓があるそうです。

 

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☝ これはお墓ではなく、「川上音二郎の碑」と

あります。

10年ほど前には、この碑の前に説明があったようです。

このサイトでわかります。☟

ゆきの食魔日記

一部引用します。

  

川上 音二郎(1864~1911)

新派俳優。

壮士劇の率先者。(中略)

妻定奴近代日本最初の女優で、内助の功あり。

銅像は戦時中金属の供出で取り外され、台座のみ残る。

谷中過去帳より

  

あれは台座だったのですね。

台座の上にはどのような銅像があったのか

おおいに気になります。

調べたら、次のサイトにありました。☟

馬込文学マラソン ある戦争遺跡

この写真が載っていました。☟

Photo シルクハットとステッキを手に堂々とした姿の

銅像だったのですね。

ここにも戦争の痕跡がありました。

  

  

Photo_3 谷中ぎんざ公式HP 谷中マップ

徳川慶喜のお墓を見てきました。☟

この奥にあります。

Img_0441  

奥左手が徳川慶喜のお墓。右奥手が正室の徳川美賀子のお墓。☟ 

Img_0445  

次のサイトに興味深いことが書いてありました。☟

気ままに江戸♪  散歩・味・読書の記録

  

慶喜のお墓の後ろに側室(中根幸、新村信)のお墓もあります。

徳川慶喜は十男十一女の子沢山ですが、

多くの子供の母親が新村信と中根幸の二人です。

中根幸は、中根芳三郎の娘として生まれ、

成田信十郎の養女となって側室となりました。

新村信は、旗本松平勘十郎の娘に生まれ、

新村猛雄の養女となって側室となりました。

広辞苑の編者新村出は、新村信の義理の弟になります。

二人とも多くの子供たちを生んでいますが、

生前の役職は側女中で、子供を生んだからといっても、

女中以上の扱いを受けることはなく、

子供たちからも「幸」とか「信」とか呼び捨てにされたといいます。

  

そういう世の中だったというか、

江戸時代の徳川家のなごりなのでしょうか?

今度行く機会があったら、

慶喜のお墓の後ろまでよく見てこよう。

  

 

 

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