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2026年4月

2026年4月30日 (木)

駐車場の近くで咲いていたカラスヒシャク

   

今日は令和8年4月30日。

  

4月28日、勤務を終えて変える時に、

用務員さんに声をかけられました。

「面白い植物があるよ」

私がいつも自動車をとめている近く。

Img_6517

マムシグサに似ているけど、ひゅるひゅるひげが出ているのが特徴。

これと同じような形で、より大型の植物は山で見かけます。

山にあるのはウラシマソウというそうです。

Img_8204 季節の花300 ウラシマソウ

  

今回の植物はなんだろう?

調べました。

カラスヒシャク(カラスビシャク)。

    

カラスがつくのは、役に立たないものの意味。

ひゅるひゅるしたひげは役に立たないのでしょう。

でも漢方薬として重宝されている面もあるそうです。

売ることでお金を得る可能性があることから、

カラスヒシャクの別名は「ヘソクリ」

漢方薬として役立つのは、球根の部分。

この球根を「半夏(ハンゲ)」と言うそうです。

  

ウラシマソウとカラスヒシャクは一緒に覚えておきましょう。

山で見る大きなのがウラシマソウ、

街でも雑草のように育っていて、小さいのがカラスヒシャク。

最近、見たよな、ウラシマソウ。

  

  

2026年4月29日 (水)

羽化したばかりのギンヤンマのメス

   

今日は令和8年4月29日。

  

1週間前の4月22日の朝、教室に入ったら、

窓際にトンボがいました。

2匹いるはずのヤゴが1匹になっていたので、

ヤゴが羽化したのでしょう。

ただ、いくら探しても、ヤゴの抜け殻が見つかりませんでした。

不思議です。

その日に撮った映像と写真で動画を作りました。


YouTube: 2026年4月22日 ギンヤンマの翅が美しい

  

オスはギンヤンマの名前のいわれになった、

腹部後方に青色の模様がありますが、

このギンヤンマはないので、メスと考えられます。

    

Img_6357

ものがあり、この黄色の部分を動かして飛ぶんだろうなと思いました。

翅の構造も興味があり、少し調べましたが、

今晩はここまで。  

2026年4月27日 (月)

「大関和物語」⑤ 6年ぶりに復習「ゼンメルワイス」

    

今日は令和8年4月27日。

  

4月25日の記事の続きで、本「明治のナイチンゲール

大関和物語」(田中ひかる著/中央公論新社)より

引用していきます。

  

手洗いが衛生の基本であるということが認識されるようになった歴

史は浅い。オーストリアのウィーン総合病院に勤めていた医師セン

メルヴェイス・イグナーツが手洗いの重要性を提唱したのは、

一八四〇年代のことである。

センメルヴェイスは、出産後の母親の命を奪う産褥熱(さんじょく

ねつ)の原因が、赤ん坊を取り上げる際の医師の不潔な手にあると

考え、病棟の医師たちに手洗いを励行する。その結果、産褥熱の死

亡率は劇的に減った。しかし、当時はまだ科学的な裏付けがなく、

彼の主張はなかなか受け入れられなかった。さらに、自分たちの手

が不潔だと指摘されたことに腹を立てた医師たちからの激しい反発

に遭う。負けじと各地の病院をまわり、手洗いの重要性を訴えるセ

ンメルヴェイスは危険人物と見なされるようになる。最終的には、

精神病院へ強制入院させられ、失意のなか四七歳で亡くなった。死

因は精神病院で衛兵から受けた暴力だと言われている。フランスの

細菌学者ルイ・パスツールが、細菌と病気の関係を突き止め、セン

メルヴェイスの主張に科学的根拠を与えるのは、彼の死後二〇年を

経た一八八〇年代半ばであり、和が看護婦になった頃のことである。

つまり、ナイチンゲールが著書において手洗いの重要性を説いたこ

とは、かなり先進的だったと言える。ナイチンゲールにせよ和にせ

よ、現場の看護婦たちは経験的に手洗いの重要性を感じ取っていた

のだろう。(178〜179p)

  

ナイチンゲールが活躍したのはクリミア戦争。

1853年〜1856年の戦争。

その後、1859年にナイチンゲールは「看護の覚書」を出版。

その本の翻訳本「看護の栞」が日本で出版されたのは、

1913年。

大関和さんは、もっと早くこの本を読んでいることになるので、

英語本を読んだのでしょう。

これでいろいろ辻褄が合います。

  

手洗いを推奨した医者については、以前本を読み、記事にしました。

ここでも道草 「ゼンメルワイスの闘い」① 産褥熱/今でこそ「感染防護の父」ですが・・(2020年3月12日投稿)

「大関和物語」では「センメルヴェイス」でしたが、

6年前に読んだ本では「ゼンメルワイス」でした。

なので同じ人か?と思ってしまいました。

外国人の名前は難しい。

  

明治二七年八月、日清戦争が始まる。日本赤十字社は広島、松山、名

古屋など各地の陸軍予備病院に看護婦を派遣した。先述のとおり、日

赤は戦時救護を目的に設立されており、日清戦争が最初の本格的な活

動であった。

このとき、戊辰戦争の会津鶴ヶ城籠城戦を戦った新島八重は、日赤の

篤志看護婦として広島陸軍予備病院に赴任している。八重は夫新島襄

の亡きあと、日赤の正社員となっていた。彼女は看護婦たちに、「敵

なればとて、傷を受くる者、仁愛の心をもって助けよ」という陸軍大

将大山巌の訓示を伝えている。同病院へは、宇品港(現広島港)をと

おして日清両国の傷病兵が連日一〇〇人以上運び込まれ、看護婦たち

が不眠不休の看護を行った。戦場ではないため、戦いに巻き込まれる

ことはなかったが、四人の看護婦が伝染病により殉職している。八重

は半年間の命懸けの看護が認められ、ほかの篤志看護婦らとともに、

皇族以外の女性として初めて叙勲を受ける。賊軍扱いされた旧会津藩

士やその家族たちにとって、八重の叙勲には特別な意味があった。

新島八重、そして皇族の小松宮妃頼子といった上流階級の女性たちが

篤志看護婦として活動したことにより、看護婦に対する賤業視が一気

に払拭される。そして、看護婦といえば従来の「看病婦」ではなく、

トレインド・ナースを意味するようになり、一転して憧れの職業とな

った。また、戦場から持ち込まれた伝染病が国内に蔓延したことから、

看護婦の需要が高まり、全国で次々と派出看護婦会が設立された。

日清戦争は開戦翌年の明治二八年には終結したが、この年、全国のコ

レラ患者はおよそ五万五〇〇〇人。うち四万人が死亡。腸チフス患者

は三万七〇〇〇人。うち八〇〇〇人が死亡した。この数字は、日清戦

争における日本兵の戦死者およそ一万三五〇〇人を大きく上まわって

いる(『医制百年史』)。戦死者も、その九割が脚気や赤痢などの病

死であった。(192〜193p)

  

新島八重さんの、大河ドラマでは十分に語られなかった功績が

わかりました。看護婦を見る目も変えることができたのですね。

日清戦争の戦死者のうちの病死の多さ。

明治28年の伝染病での患者の死亡率の異常な高さ。

今以上に病気が怖い時代だったと思います。

  

2026年4月25日 (土)

丸山散歩/折れた枝の観察を続けます

    

今日は令和8年4月25日。

  

丸山のことを書きます。

ここでも道草 枝の折れたサクラの観察/次回は見捨てられた枝を剪定予定(2026年4月8日投稿)

  

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この春はあちこちでアケビを見ています。

縁があるようです。

 

この春、最初に藤(フジ)の花を見たのも、丸山の麓でした。

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近年、木に巻き付いてすごいことになっているフジの蔓を

見てきただけに、複雑な思いでフジの花を見ました。

  

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丸山、登山口の写真です。

サクラの開花期は短いです。

もう緑の葉っぱ優先の景色になりました。

  

頂上のサクラの折れた枝。

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以前来た時に気がついたことです。

折れた枝は、すぐに枝分かれしますが、

向かって左側の方の枝には、栄養や水が行っていないようです。

赤線で切断することで、枝全体の重さが軽くなり、

さらに風を受けた時に、揺れが減ると予想され、

下の写真の折れたところへの負担が減ると考えました。

Img_6133

この折れた部分が、この後どうなっていくのか注目です。

    

【4月23日撮影】

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登山口です。

    

マークした場所です。

Img_6364

折れた枝は・・・

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まだちゃんとぶら下がっていました。
  

この日、剪定して落とした枝を拾ってきました。

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小さな冬芽が出来始めていました。

夏ぐらいから冬芽は作られるとのこと。

秋ぐらいに、この枝は折れてしまい、栄養や水分がいかなくなったと

予想します。

  

最後に4月23日の丸山全景。

Img_6370

  

4月8日に花盛りだった丸山でしたが、たった2週間ほどで変貌しました。
  

「大関和物語」④ 日本看護史の貴重な貴重な写真を見つけた

  

今日は令和8年4月25日。

  

前記事の続きで、本「明治のナイチンゲール

大関和物語」(田中ひかる著/中央公論新社)より

引用していきます。

  

トレインド・ナースの誕生

明治二一(一八八八)年一〇月二六日、桜井看護学校の六人は、第

一医院の看護学生二二人とともに一年間の実習課程を終え、修了試

験にも合格することができた。同年二月には慈恵看護婦教育所が、

六月には京都看病婦学校が最初の卒業生を出していることから、こ

の年は日本におけるトレインド・ナース誕生の年といえる。

(中略)

修了式を終え、アグネス、マリア、楫子、和たち六人の学生が寄宿

舎へ帰ると、庭で写真屋が待ち構えていた。マリアと楫子の計らい

である。二人は、アグネスと学生たちに花束を贈ると、写真に収ま

るようにうながした。

まずアグネスを中心に和と雅が座る。和の隣には梅が寄り添う。雅

の隣に民が座り、後ろに子尾が立つ。民と子尾はたびたび雅から厳

しいことを言われ、その場では反感を覚えつつも雅を尊敬してやま

なかった。おっとりとした里以は、写真屋にうながされるままにア

グネスの後ろに立つ。このとき撮影された桜井看護学校卒業生たち

の写真は、日本の看護史の貴重な一枚として今に伝わる。

(114〜115p)

  

この本のここを読んだ時から、この写真をネットで探したいと

思っていました。

果たしてネット上にあるかどうか。

調べました。

簡単に見つけることができました。

エキスパートナース 朝ドラ『風、薫る』のモデル、大関和と鈴木雅―看護の道を切り開いた2人の歩み

このサイトにありました。

Img_8174

写真の下には次の説明がありました。

桜井女学校附属看護婦養成所第1期生の卒業記念写真。

前列右から2人目が大関和、4人目が鈴木雅(医療法人知命堂病院提供)

本の文章によると、前列右から広瀬梅、大関和(ちか)、アグネス、

鈴木雅(まさ)、小池民(たみ)。後列右が池田子尾(ねお)、

桜井里以(りい)。

1888年(明治21年)の写真。

138年前の写真。貴重な写真を見つけることができました。

  

二人の看護婦は緊張のあまり、普段より饒舌である。馬車に揺られな

がら、過去の防疫の際に起きた出来事や事件などについて語り合って

いる。こうした話題のとき筆頭に挙げられるのが、十数年前、千葉の

鴨川で起きた事件である。全国的にコレラが流行し、防疫対策のみな

らず、米価高騰に対する不満も重なって各地で暴動が起こるなか、防

疫に奔走した四〇代の医師が、数十人の住民から竹槍で滅多刺しにさ

れ、川に遺棄されたのだ。避病院への隔離は患者の「生き胆を抜くた

め」という噂を信じ、さらに、医師が井戸を消毒している姿を見て

「毒を混入している」と思い込んだ住民たちは、コレラの流行を終息

させるためには、彼を始末するほかないと考え、集団で襲ったのであ

る。(176〜177p)

  

この事件について知りたくなりました。

調べてみると、この住民から殺された医者は、

沼野玄昌のようです。

館山市立博物館 コレラ事件

このサイトで事件のあらましを書いた文章を引用します。

  

明治10年(1877)はコレラが流行した年で、県内でも300人を大

幅に超える死亡者があった。9月には鴨川町でコレラ患者がでたた

め、小湊の医師沼野玄昌が死者の火葬や井戸の消毒などの防疫活動

を行っている。11月にも鴨川でコレラ患者が発生し隔離のために

出向いたところ、玄昌が井戸に毒を入れ患者の生き胆を抜くという

噂が流れ、それを妄信した住民が押し寄せ、玄昌を襲い殺害すると

いう事件がおこった。

玄昌は佐倉順天堂で佐藤舜海から4年にわたって西洋医学を学び、

慶応3年(1867)には幕府医学所で種痘法の技術を身に付けて、

伝染病対策に取り組んでいた人物であった。事件の背景には、

コレラという新しい伝染病への恐怖と不安に加え、明治維新によ

る価値観の転換を迫られていた人々の動揺があったとされている。

玄昌がもつ近代医学の発展普及への熱意に、人々の理解はまだ追

いついていけなかったのである。

  

この殉職した沼野玄昌について、作家の吉村昭さんが

小説「コロリ」で書いていました。

さすが、吉村昭さんといった感じ。

歴史に埋もれていってしまいそうな出来事を

文章で残す仕事をされているなあと思いました。

2026年4月24日 (金)

「大関和物語」③ 大山捨松と新島八重/俥夫の階層「朦朧」 

  

今日は令和8年4月24日。

  

前記事の続きで、本「明治のナイチンゲール

大関和物語」(田中ひかる著/中央公論新社)より

引用していきます。

  

この時期に看護学校が相次いで設立された背景には、江戸時代と変

わらぬコレラ、天然痘、赤痢といった伝染病の流行があった。桜井

看護学校開校の前年には、全国的にコレラが大流行し、東京府は

「伝染病予防法」に基づき、本所、駒込、大久保、広尾に、コレラ

患者を隔離する「避病院」を設置している。

このうち、いち早く常設となる駒込病院には、同年中に二四六〇人

が入院し、うち一八五九人が死亡した。また、男女の「看病人」も

感染し、八月、九月の二カ月の間に、四病院合わせて三〇人以上が

命を落としている。府民の中には、東京なまりも手伝って、避病院

を「死病院」と思い込んでいる者さえいた。伝染病を抑え、看病人

までもが亡くなるという悲劇を繰り返さないためにも、専門的な訓

練を受けた「看護婦」が必要とされたのである。

和が看護学校に入るにあたり、哲は予想どおり「せっかく鹿鳴館の

仕事に就けたというのに、看護婦に身をやつすとは」と言って反対

した。「男女七歳にして席を同じうせず」を地で生きてきた哲にと

って、見知らぬ男に付き添って看護をするなど、下賤極まりない行

為であった。しかし和が、会津藩出身の大山捨松と新島八重が看護

学校の設立に関わった話を聞かせると、もう何も言わなかった。

戊辰戦争後、苦難の道のりを歩まねばならなかった会津の女たちに、

元黒羽藩家老の妻として、思うところがあったのだろう。

(69〜70p)

  

ドラマ「風、薫る」でも登場した「避病院」

「ひ病院ってなんだ?」と最初思っていました。

後で「ひ」は「避」だとわかりました。

確かにドラマでも「死病院」と言われていました。

新島八重が登場したことにも驚きでした。

そうか、新島八重は、大河ドラマ「八重の桜」で知った人。

「八重の桜」では、看護婦誕生に関わったことは、

あまり扱っていなかったように思えます。

それをいうなら大山捨松の功績もよくわかっていませんでした。

今回の連続テレビ小説は、2人の女性の勉強のきっかけになります。

  

ある晩、和と雅の二人で食堂の床に座り込み、ランプの火屋を磨いて

いると、雅がおもむろに「『博愛社』が『日本赤十字社』と名前を改

めたことを知っていますか」と問う。

「はい。新聞で読みました」

一〇年前、新政府の方針に反発した九州の不平士族たちが起こした

西南の役では、反乱軍側、政府軍側ともに多数の傷病者が出た。そ

の状況を憂えた元老院議官の佐野常民(つねたみ)が中心となって

設立したのが、博愛社である。

常民は、幕末に佐賀藩を代表してパリ万博へ派遣された際、戦傷病

者の保護を目的に創設された赤十字の展示を見学し、創設者である

アンリ・デュナンの「傷ついた兵士はもはや兵士ではない、人間で

ある。人間同士として尊い生命を救わなければならない」という言

葉に感銘を受け、日本にも赤十字のような組織が必要だと考えたのだ。

博愛社は赤十字の精神に基づき、西南の役で敵味方の区別なく兵士

たちの救護活動に当たった。一年前、戦時における傷病者および捕

虜の待遇改善について定めたジュネーブ条約に日本が加盟したため、

社名を日本赤十字社(日赤)と改称すると同時に、上流階級の女性

たちから成る「篤志看護婦人会」を発足。本社と同じ麹町にあった

「博愛病院」も「日本赤十字社病院」と改められ、渋谷では新病院

の建設が着工した。間もなく、看護婦の養成も始まる。

(85〜86p)

  

西南戦争と日本の赤十字社が関連があると記憶がありましたが、

この文章で復習ができました。

  

  

気まずい夕食を終え、部屋に戻った和は、外出の準備をして寄宿舎を

出た。向かう先は、植村正久がいる麹町の一番町教会である。ちょう

ど通りかかった空の俥に乗る。夜に多い「朦朧(もうろう)」のよう

だ。人力車夫にもいくつか階層があり、最下層の「朦朧」と呼ばれる

車夫たちは、貸し俥屋から安い俥を借りて営業する。安い俥は古く傷

んでいるため、それが目立たない夜間に走ることが多い。和は、俥の

良し悪しなどどうでもよかった。幸いだったのは、車夫が一番町教会

の場所を知っていたことだ。俥は上り下りの多い道を颯爽(さっそう)

と走り抜け、一五分ほどで教会まで運んでくれた。教会の扉の鍵は、

いつも開いている。和は迷わず中へ入った。すると、いつもと同じ牧

師服に身を包み、復活祭の準備をしていた正久が、こちらをふり返る。

「大関さん、あなたはいつも唐突にやってきますね」(109p)

  

人力車の階層「朦朧」が気になりました。

朦朧の意味は「ぼんやりとかすんで、はっきり見えないさま」

(コトバンクより)でした。う〜ん。

他にどんな階層があったのかな。

くるま屋日本橋 俥夫の社会と暮らし

ここに階層がありました。

①おかかえ

②やど

③ばん

④もうろう

4階層のようです。

「ばん」の説明で「もうろう」と呼ばれた理由が分かったような。

引用します。

  

●ばん

人力車はみだりに路上で駐車したり、空車を引いてうろうろしてはい

けないことになっており、公設または私設駐車場に梶棒をおろして客

待ちをすることになっていました。番は人力車駐車場を拠点として組

織されている株(権利)俥夫の集団で、この番に入っていない俥夫を

もうろう俥夫と言って区別していました。

  

株(権利)を持っていないあいまいさを表現している「朦朧」のように

思えました。

「大関和物語」② 短命だった鹿鳴館/喫茶店を始めた鄭永慶

   

今日は令和8年4月23日。

  

前記事の続きで、本「明治のナイチンゲール

大関和物語」(田中ひかる著/中央公論新社)より

引用していきます。

  

和に英語を学ぶことを勧めた鄭永慶のその後である。

和が鹿鳴館で働くために鄭家を辞して間もなく、妻寿子が男児を出産

した。しかし二年後、寿子は二十二歳の若さで病没。寿子の実家のた

っての願いで、妹が後妻に入るが、男児を二人出産したあと、寿子と

同じ二十二歳で亡くなってしまう。この間に、鄭家の広大な屋敷が火

災で焼失した。

失意の永慶を支えたのが、庶民や学生が本物の西洋文化を味わいなが

ら交流を図るサロンを作るという夢であった。永慶の言う「本物の西

洋文化」とは、コーヒーのことである。

永慶は大蔵省を辞めると、借金をして屋敷跡地に壮麗な洋館を建てて、

『可否茶館(かひーちゃかん)』と名付けて営業を始めた。これが日

本で最初の喫茶店と言われている。二階の喫茶室では、コーヒーのほ

かにパンやカステラ、パン・ペルデュなどが供された。一階には玉突

台、クリケット、トランプなどで遊べる遊戯室があり、誰もがいつで

も手紙が書けるように硯と便箋、封筒なども常備された。このほか、

更衣室、シャワー室、内外の新聞や雑誌、和漢洋書、書画を集めた図

書室もあり、中庭をはさんだ茶亭では、囲碁や将棋、詩吟や歌会も行

うことができた。

『可否茶館』について永慶は、弟にこう語っている。

「いまにごらんよ、あんなろくでもない鹿鳴館が栄えるもんか。いか

に大きな社交殿堂といっても、国民のために何の役にたつというんだ。

なんでもかんでも、うわべばかりの毛唐の真似をしても、ほんとうの

西洋文化のよさを識ってはいないのだ。(中略)あの鹿鳴館でランチ

騒ぎをしている大半の連中は、テンデ、西欧の文明文化なんてものは

わかっていないじゃないか。僕が建てた『可否茶館』のほうが、どの

くらい世の中の人の憩いの場所になるかしれんよ」

(『珈琲 ものがたり』)

永慶の予見どおり、鹿鳴館は間もなく終焉を迎える。欧化政策を行い

ながら、不平等条約の改正交渉を進めていた井上馨であったが、領事

裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復を認める代わりに、外国人の内

地雑居と外国人判事任用を認めるという改正案が明らかになると、

政府内外から批判が相次いだ。

馨は本格的な改正までの一時的な案と考えていたのだが、国粋主義が

台頭しつつあるなか、押し通すことはできなかった。明治二十(一八

八七)年、馨は外務大臣を辞任。役目を終えた鹿鳴館は、宮内省に払

い下げられ、第二次世界大戦中の昭和一五(一九四〇)年に解体され

る。

一方、永慶の『可否茶館』も短命に終わった。玉突きもできれば、新

聞、雑誌、和漢洋書が好きなだけ読めるとあって、特に帝国大学生が

大勢集まり、サロンの様相を呈したものの、コーヒーを飲まずに遊ん

で帰るだけの学生も少なからずおり、経営が行きづまった。

永慶は起死回生の策として相場に手を出すも失敗。父永寧名義の土地

を担保に借金を重ね、結局返せなくなってしまった。自殺を考えたが

思いとどまり、「西村鶴吉」という偽名を使い、アメリカへ密航する。

シアトルで皿洗いなどをしながら生活していたが、明治二八(一八九

五)年に三十七歳で客死した。『可否茶館』の開業から七年後、密航

から三年後のことであった。(65〜67p)

  

長く引用しました。興味深いことがいろいろありました。

まずは鹿鳴館。

明治16年スタートの鹿鳴館。

目的は不平等条約を改正すること。

しかし明治20年には改正に失敗。

明治23年には華族会館となって

当初の目的は失われます。

確かに思っていたより短命であったと思います。

  

鄭永慶(ていえいけい)

わかりやすい動画で勉強をしました。


YouTube: 【風薫る】島田健次郎(佐野晶哉)のモデルは鄭永慶?木下尚江?シマケンの正体とは #風薫る #朝ドラ #ドラマ考察

この動画は、ドラマ「風、薫る」に登場している島田健次郎の

モデルは、2人の人物、鄭永慶と木下尚江だと考える動画です。

動画の前半が鄭永慶の説明でした。

スクリーンショットを利用します。

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鄭永慶の写真です。

  

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大関和に英語の勉強を勧めた人物のようです。

そのおかげで、和は大山捨松と縁ができ、看護婦への道に進みます。

  

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4月13日は「喫茶店の日」となっています。

  

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しかし夢破れ、4年で「可否茶館」は閉店します。

不幸が続いた鄭永慶は、自殺を考えます。

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しかし旧知の人物の説得を受け、自殺を思いとどまり、

アメリカに出国します。

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シアトルはスターバックス発祥の地。

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このような人物でした。

  

退職してから、喫茶店を利用する機会が増えました。

喫茶店を始めた人物として鄭永慶は覚えておきたいなと思いました。

2026年4月23日 (木)

「大関和物語」① 明治時代と現代は大きく違う

   

今日は令和8年4月23日。

  

久々に本を読破しました。

電子本ではなく、図書館で借りた実物の本です。

「明治のナイチンゲール 大関和(ちか)物語」

(田中ひかる著/中央公論新社)

  

気になる文章を引用していきます。

  

プロローグの文章です。

  

今や看護師という職業なくして、医療の世界は一日も成り立たない。

それは、所定の学校で専門知識や技能を身につけ、国家試験に受か

って初めて就くことのできる専門職であり、人々の健康や命を守る

尊い職業として、広く認知されている。しかしかつては、「金のた

めに汚い仕事も厭(いと)わず、時には命まで差し出す賤業(せん

ぎょう)」と見なされていた。

家老の娘に生まれながら、この「賤業」に就き、生涯をかけて「看

護婦」の技能の向上と制度化に努めたのが、大関和(ちか)である。

和は離婚して二人の子を育てる母親でもあった。和とともに看護婦

となり、彼女を支え続けた鈴木雅(まさ)もまた、二人の子を持つ

「寡婦(かふ)」であった。

これは、近代日本において、看護婦という職業の礎(いしずえ)を

築いた二人のシングルマザーの物語である。(7p)

  

NHK連続テレビ小説「風、顔るる」の原作として紹介されている本。

興味を持ったので、さっそく借りて読み始めました。

最近、途中で読むのをやめちゃうことがあり、

読破しきれていない本が山積み。(現実世界でもネット世界でも)

今回は図書館で借りて2週間の期間に間に合うように、

他のことよりも優先して読書。

ドラマでも感じていましたが、看護師の歴史に浅さに驚きました。

   

明治政府は、発足後間もない明治三(一八七〇)年に発布した「新

律綱領」において、妾は妻と同等の二親等と定めている。翌年の内

務省指令も「臣民一般妾の称号苦しからず」とし、戸籍にも「妾」

の文字が記載された。つまり、法的にも「一夫多妻」が認められて

いたのだ。民法によって「一夫一婦制」が成立するのは、明治三十

一(一八九八)年のことである。

和が妾の存在に難色を示したため、両家で話し合いが持たれ、妾と

の関係を清算するという条件で、縁談がまとまった。(13p)

  

これもビックリです。

一夫一婦制は1897年以降のこと。

妾(めかけ)という言葉は、昔のことを扱ったドラマで

「お妾さん」とか登場してましたが、う〜ん、

大河ドラマ「青天を衝け」で渋沢栄一のお妾さん大内くにさんが

登場しました。栄一との間に子どもも産みます。

明治31年より前だったのでしょうか。

  

 

当時の農村の生活を知る『石ころのはるかな道』の著者伊藤まつをは、

農家の嫁について、牛や馬以下の扱いでさんざん酷使され、「三度の

粗食さえ満たすことができ」ず、「体をこわして長くわずらう身となっ

たり、死んだりしていった」と述べている。「女工哀史」があるよう

に、農村の嫁にも「哀史」があった。

女工はわずかとは言え賃金がもらえ、辛い境遇を慰め励まし合う仲間

もいたが、農家の嫁たちは姑の手前、愚痴をもらすことさえはばから

れた。「わが働きでわが着物も買う、三度の飯も睨まれずに食う」

ことができる女工たちを「何んぼうええもんか」(『荷車の歌』)と

うらやむ嫁もいた。

苦しい生活の中で「間引き」はなかば公然と行われ、それは特に女児

が生まれた場合に多かった。子どもたちの男女比に、明らかに偏りの

見られる村もあった。間引きを密告され、九年の懲役を終えて地主へ

挨拶にきた小作の嫁が、監獄生活は農業の苦役がないばかりか、食事

も麦の割合が少なく、月経の手当てのための「ボロ」も支給されるた

め、農村の生活より楽だったと報告したという話が残っている。常に

妊娠、出産、授乳を繰り返していたため、今日に比べると月経の回数

はかなり少なかったとはいえ、「ボロ」さえ手に入らない生活をして

いたことがわかる。

貧しい小作の家に生まれた女は、産声を上げた途端に殺されるか、生

き延びたところで工場か遊郭へ売られる運命であった。売られずに、

同じ小作の家へ嫁いだところで、自分の産んだ子を間引き、その結果、

監獄につながれることさえあったのだ。(22〜23p)

  

「間引き」について調べていたら、間引き絵馬が各地にあることを

知りました。

ブログ 信仰心に触れる 徳満寺 子返しの図(間引き絵馬) 茨城県北相馬郡利根町

このサイトの写真を転載。

Img_8153

「子返し」は、授かったものを元に返すことでしょう。

間引きよりは柔らかい言葉ではありますが、やっぱり残酷です。

障子に映る母親の影は鬼です。

間引きを戒めるための絵馬のようですが、

母親も苦しい窮状の末の決断だったと思います。

  

続く

2026年4月22日 (水)

4月14日 「アオダモ」だと同定しました

   

今日は令和8年4月22日。

  

この記事の続きです。

ここでも道草 アオダモかマルバアオダモか?14日に同定(2026年4月12日投稿)

Sくんの庭にある木は何だったのか。

候補はアオダモか、マルバアオダモ。

葉っぱで見分けるサイトがここ。

枝や葉による樹木検索図鑑 アオダモ マルバアオダモ

今回は葉っぱで見分けます。

このサイトの写真を拡大して見てみます。

4月14日撮影。  

 

これがアオダモ。

Img_8124

これがマルバアオダモ。

Img_8124_2

  

  

そして次の写真がSくんの家にあった木の葉っぱ。

Img_8042

冬芽の形から、マルバアオダモよ思っていましたが、

この葉っぱの、刃先の形は、明らかにアオダモ。

予想を外したようです。

アオダモだと同定しました。

あの冬芽の形は楽しかったなあ。

  

昨日、Sくんの家に行きましたが、

すでに花は無くなっていました。

もっと花が長持ちする印象でしたが、

こんなに短い期間しか咲かないんだ。

花の写真を撮り損ねました。

また来年。

2026年4月21日 (火)

黄砂がやってくる!/黄砂を顕微鏡で見てみたい

    

今日は令和8年4月21日。

  

2007年4月21日がブログ「ここでも道草」を

始めた日。ブログの誕生日。19年が経ちました。

今日も書くぞ!  

  

今朝は雨降りでした。

低気圧が西に移動して天気が回復すると

黄砂が降ってくると天気予報で言っていました。

黄砂といえば、非常に小さいために、

人体に入って悪さをすると宣伝されています。

その大きさは、どれくらいか?

ウェザーニュースにあった図を転載します。

Img_8072

黄砂は10μm(マイクロメートル)としています。

4μmとしている資料もあります。

10μmとしても、1mmの100分の1です。

とっても小さいです。

  

黄砂はなぜこんなに小さいのか?

元々は砂漠の砂でしょ。砂はそんなに小さくないよ。

そう思っていました。

でも今回、調べていて、

この歳になってやっと納得しました。

今まで黄砂にあまり関心がなかった証拠でしょう。

言われてみたら、当然のことでした。

  

この動画が参考になりました。3年前の動画です。


YouTube: 海を渡ってやってくる黄色い影… 舞う黄砂に効能がある!?【久保田解説委員の天羅万象】(121)(2023年3月31日)

この動画の写真を利用します。

  

Img_8073_2

黄砂の出発点は、大陸の砂漠などです。

巻き上げられた黄砂は、西寄りの風によって日本まで飛んでくるのです。

その距離はとても遠いです。

したがって、粒子の大きな黄砂は、早めに落ちているのです。

あとで示しますが、砂嵐となって襲うのです。

落ちきれなかった軽くて小さな粒子の黄砂が日本まで来るのです。

日本が終点ではありません。

太平洋も越えるそうです。

これって言われてみたら当然のことです。

  

ウェザーニュースの写真をさらに使います。  

Img_8075_2

日本では11ヶ所で気象庁の職員が目視で、黄砂が来たかどうか

判断するそうです。

この11ヶ所の記録で、何月が多いかみます。

今が多いのです。

Img_8074_2

なぜ春が多いか?

これはずっと昔から知っている説があります。

冬は雪で砂漠が覆われ、夏は植物で砂漠が覆われるため、

砂が飛ばないという説です。

したがって、雪もなく植物もまだない春が、

黄砂のピークになるのです。

この説は今も有効なのでしょうか。

ここはGeminiに聞いてみました。

回答の一部です。

  

昔お聞きになったその説は、現在でも十分に通用します。非常に理に

かなっており、教室で子どもたちに自然のメカニズムを説明する際に

もぴったりの、本質を突いたわかりやすい解説です。

黄砂が3〜5月の春に集中する理由は、まさに「地面の状態」の変化

が大きく関わっており、ご記憶の通りです。現在の気象学などでも、

以下のように説明されています。

1. 冬:雪と凍結で砂が飛ばない

ご記憶の通り、冬の間、黄砂の発生源であるユーラシア大陸の内陸

部(ゴビ砂漠やタクラマカン砂漠、黄土高原など)は雪に覆われま

す。さらに、厳しい寒さによって地面の水分がカチカチに凍結する

ため、強い風が吹いても砂ぼこりが舞い上がることはありません。

2. 夏:植物と雨で砂が固定される(風向きも変わる)

こちらもご認識の通りです。夏になると大陸の乾燥地帯でもいくら

か雨が降るようになり、短い期間ですが草などの植物が育ちます。

植物の根が土壌をしっかりと抱き込み、表面が覆われるため、砂が

飛びにくくなります。また、夏は太平洋高気圧の影響で日本付近の

風向きが南風(海からの風)になるため、仮に砂が舞っても日本へ

は運ばれてきません。

3. 春:雪解けと強風が重なる

冬から春にかけて気温が上がると、雪が解け、凍っていた地面が緩

んで一気に乾燥します。この時、地面はサラサラの細かい砂や土

になり、非常に舞い上がりやすい状態になります。

そこに、春特有の気象条件が重なります。春は大陸を低気圧が頻繁

に通過し、強い上昇気流(春の嵐)を引き起こします。この風によ

って上空数千メートルまで巻き上げられた大量の細かい砂が、上空

を流れる「偏西風」に乗って日本へと飛んでくるのです。

  

以上です。

冬は地面の水も凍結するのですね。

夏は確かに南風が主流であって、黄砂は飛んできにくいです。

そして春は大陸で頻繁に低気圧が通過するのですね。

低気圧だから、砂は巻き上がるわけです。

新しいことも知りましたが、私の覚えていた説は、

今も有効であることを知りました。

いつの間にか時代遅れになっていて、

それすらにも気がつかない世代になってきたので、

このような確認は大事です。  

  

砂嵐の映像。


YouTube: 中国からまた黄砂が!?新疆で巨大な砂嵐の“壁”出現 東北・中国地方などに到達可能性|TBS NEWS DIG


YouTube: 【中国】巨大砂嵐発生 まるで”茶色い壁”(2021年7月28日放送「news every.」より)

  

黄砂が人体に悪影響を与えるのは、

黄砂の小さな粒が、もともと鉱物であるので、

ギザギザしているようです。

今日は黄砂をとらえて、顕微鏡で見てみたいです。

  

現在午後2時30分。これが午後3時の予報。

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黄砂を見ることができるかどうか。黄砂が

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