20190810報告2 川上音二郎の碑/徳川慶喜の墓
今日は令和元年8月12日。
天王寺五重塔跡付近は、谷中霊園と言われる墓地です。
そこには有名人の墓があるそうです。
☝ これはお墓ではなく、「川上音二郎の碑」と
あります。
10年ほど前には、この碑の前に説明があったようです。
このサイトでわかります。☟
一部引用します。
川上 音二郎(1864~1911)
新派俳優。
壮士劇の率先者。(中略)
妻定奴近代日本最初の女優で、内助の功あり。
銅像は戦時中金属の供出で取り外され、台座のみ残る。
谷中過去帳より
あれは台座だったのですね。
台座の上にはどのような銅像があったのか
おおいに気になります。
調べたら、次のサイトにありました。☟
この写真が載っていました。☟
銅像だったのですね。
ここにも戦争の痕跡がありました。
徳川慶喜のお墓を見てきました。☟
この奥にあります。
奥左手が徳川慶喜のお墓。右奥手が正室の徳川美賀子のお墓。☟
次のサイトに興味深いことが書いてありました。☟
慶喜のお墓の後ろに側室(中根幸、新村信)のお墓もあります。
徳川慶喜は十男十一女の子沢山ですが、
多くの子供の母親が新村信と中根幸の二人です。
中根幸は、中根芳三郎の娘として生まれ、
成田信十郎の養女となって側室となりました。
新村信は、旗本松平勘十郎の娘に生まれ、
新村猛雄の養女となって側室となりました。
広辞苑の編者新村出は、新村信の義理の弟になります。
二人とも多くの子供たちを生んでいますが、
生前の役職は側女中で、子供を生んだからといっても、
女中以上の扱いを受けることはなく、
子供たちからも「幸」とか「信」とか呼び捨てにされたといいます。
そういう世の中だったというか、
江戸時代の徳川家のなごりなのでしょうか?
今度行く機会があったら、
慶喜のお墓の後ろまでよく見てこよう。
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