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2021年3月

2021年3月28日 (日)

「この国の不寛容の果てに」⑧ 「べてるの家」の名前の由来

   

今日は令和3年3月28日。

  

3月24日の記事の続きで、

「この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代」

(雨宮処凜編著/大月書店)より。

  

向谷地生良(むかいやちいくよし)さんと

雨宮処凛さんとの対談。

  

向谷地:従来の精神科医療の考え方では、統合失調症などの患者さ

んに対しては、投薬治療して段階的にリハビリを施して、自立・回

復をめざす。そういうひとつのイメージがあったわけです。でも私

は、お医者さんには悪いけど、病院の中での回復っていうのに違和

感があった。当事者運動とか当事者活動の影響を受けてきたことも

あって、病院に就職してすぐ思ったのは「医学の医は”囲い込み”の

囲、看護の看は”管理”の管、福祉の福は”服従”の服」だなって。こ

の構造が精神科の中に根を張っている。そういう中での回復とか治

療なんてありうるだろうか、と。

だから、なるべく精神科から離れたところで、患者さんといろんな

ことをしてみたいっていう思いがあったんです。

(86~87%)

   

向谷地さんは、地域で患者さんと一緒に住んで、

良い方向にもっていこうとしました。

向谷地さんらが活動している「浦河べてるの家」の

名前の由来に関する話。☟

 

向谷地:その由来は、ドイツのビューレフェルト市という、オラン

ダに近い工業都市の中にある、ベーテル(ヘブライ語で「神の家」)

という小さな町の名前です。いまから170年くらい前、その町に

ある小さな教会が、てんかんの青年たちを受け入れて共同生活を始

めた。当時、てんかんの人たちも社会から理解されず、非常に困難

な立場にあったようです。そこに、いろいろな障害を持つ人たちが

集まるようになって、働く場所や暮らす場所、病院などが徐々にで

きて、町に発展したんだだそうです。(中略)

ナチスの時代になって、ドイツは障害者や難病患者は国の発展の阻

害要因だと考えて、安楽死計画を実行しました。とりわけ精神障害

者をターゲットに、選別して安楽死させる政策が始まって、当然ベ

ーテルの障害者たちも対象になったんですが、町の人々があの手こ

の手で抵抗して彼らを守ったそうです。たとえば、詳細なチェック

リストに基づいて対象者を選別する段階で、この人はこれができま

す、あれもできます、と証言したりして。そういう逸話のある町な

んです。

雨宮:T4作戦といわれた障害者絶滅政策ですね。てんかんの患者

も対象だったんですか。

向谷地:精神障害、知的障害、病弱者など全部ですよね。それが実

行された先にユダヤ人の大量虐殺があったわけですが、最初は精神

障害者の安楽死政策から始まったと言われています。それに抵抗し

た町がベーテルで、たまたまその話を聞いた宮島牧師が、「べてる」

と名付けようとおっしゃったんです。

(86~87%)  

  

「べてるの家」については以前勉強をしました。

ここでも道草 縁を大切にして「べてるの家」について調べ始めました(2018年3月21日投稿)

ここでも道草 本「治りませんように」からの引用(2018年4月9日投稿)

これを機会に読みなおしてみました。

「べてるの家」の「べてる」は、

ドイツの町の名前が由来だったのですね。

日本語としては不思議な音色だと思っていましたが、

由来を聞いて納得です。

  

2021年3月26日 (金)

老化現象ではなく、薬の副作用でした

   

令和3年3月26日。

  

今飲んでいる薬の副作用の話。

  

いつ頃か、夜中にむくっと起きて

歩き回るようになりました。

お菓子をむしゃむしゃ食べることもしていました。

それなのにそのことを覚えていない。

家族は気味悪がり、心配しました。

  

実はこれ、心療内科でもらっている薬の副作用でした。

即刻、その薬は中止。ほかの薬に変えられました。

そしたら、歩き回ることはすぐに止まりました。

  

そうか薬の副作用か・・・

としたら、手先のしびれも薬の副作用かもと思うようになりました。

ここでも道草 ただの老化現象であってほしい (2021年2月14日投稿)

試しにお医者さんに聞いてみました。

薬の副作用の可能性があるということで、

薬を調節してくれました。

 

そしたら何と・・・

手先の感覚が戻ってきたのです。

財布の中で、小銭を自由にいじくれるようになりました。

指先のしびれも副作用だったのです。

老化現象でも、ALSでもありませんでした。

お騒がせしてすみません。

  

  

薬、恐るべきです。

きっといい効果も出ているはずですが、

副作用も出ていました。

上手に薬と付き合っていきたいです。

  

2021年3月25日 (木)

正式名称がわかる/こざかい葵風館

     

今日は令和3年3月25日。

   

この記事の続きです。☟

ここでも道草 「小坂井地域交流会館(仮称)」は将来の私の居場所になるかも(2021年1月28日投稿)

  

仮称だった交流会館の名前が、先日わかりました。

読み方は今日知りました。

今日撮影した写真を並べます。

  

Rimg1965

Rimg1966

「こざかい葵風館」とありました。

何と読むのだろうと疑問に思っていたら、

正解がありました。☟

Rimg1968

「葵風館(きふうかん)」でした。

「葵」を「き」と読むのは意外でした。

しかし「一揆」の「揆」も「き」と読むので、

「葵」も「き」と読むのでしょう。

  

「小坂井」の地名が残るのもうれしいです。

  

きっと私にとって、大事な場所になると予想される所。

この名前にも、きっと馴染みになると思います。

  

Rimg1967

Rimg1969

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5月開館と聞きました。

楽しみです。

番画:「アングルモア元寇合戦記」⑧~⑫

   

今日は令和3年3月25日。

  

番画です。

  

〈151〉~〈155〉「アングルモア元寇合戦記 第8話~第12話」

  (アマゾンプライムビデオで視聴)

  

〇全12話全部見たことになる。

1

公式サイト

  

ここでも道草 番画:「アンゴルモア元寇合戦記」①②(2021年3月17日投稿)

 ☝ ここで書いたように、教科書の「(元が)対馬をおそった」の

 部分の歴史の勉強ができた。

 悲劇は起きていた。

 これはあくまで想像の話であろう。

 実際はどうだったのだろうと興味を持った。

 IRONNA モンゴル・朝鮮軍が日本で行った“殺戮”

 ☝ ここを読むと、元軍は対馬で兵士だけでなく

 島民も多く殺したようだ。子どもは奴隷として拉致。

 女性は手に穴を開けて数珠つなぎにしたそうだ。

 そのあたりのことは、「アンゴルモア元寇合戦記」でも

 描かれていた。

 戦争である。

 生ぬるい事態ではなかったようである。

〇続編がある。

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気になる。どうしようか。 

2021年3月24日 (水)

「この国の不寛容の果てに」⑦ 輪になって話そう

   

今日は令和3年3月24日。

  

前記事に引き続き、

「この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代」

(雨宮処凜編著/大月書店)より。

     

森川すいめいさんと雨宮処凛(かりん)さんとの対談。

   

森川:とにかく対話しましょう、短絡的なショートカットをしない

で、面倒でもお互いの意見を聞きあいましょう、と。そのほうが、

結果的には効果的に社会を運営できるということなんだと思います。

雨宮:そういう対話の作法というのを、現代に日本で生活している

と体得する機会がないですよね。言いたいことを全部出しあって解

決するというのは、アイヌの「チャランケ」みたいだなと思いまし

た。

森川:似ていますね。先住民の研究をしている人の話では、そうい

う話しあいの場ではたいてい輪になって話すといいます。輪になる

ことでヒエラルキーがなくなり、どこに座っていても自分自身とし

てその場にいることができる。そうした話しあいが3日間くらい続

くこともあるらしいのですが、最終的に結論が出なくなるまで続け

るというルールもあるらしいです。先住民の人たちは、それがいい

ことだと知っていたんですね。多数決で決めるのではなく、みんな

が自分の言いたいことを言うことで変化のプロセスを経験し、それ

ぞれ個人の中でプロセスが進み、結果としてそれが共同体を良い方

向に導くんだということを。

(80%)

  

これからの職場でも生きる文章です。

輪になって言いたいことを最後まで言い合う。

少人数ならできるでしょう。

心がけたいです。

  

森川さんと雨宮さんとの対談で、たくさんのことが勉強できました。

「この国の不寛容の果てに」⑥ ✖「自己犠牲思考」

   

今日は令和3年3月24日。

   

前記事に引き続き、

「この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代」

(雨宮処凜編著/大月書店)より。

  

今日のニュースで、次のようなものがあった。

   

2021年3月23日 (火)

「この国の不寛容の果てに」⑤ 「オープンダイアローグ」

   

今日は令和3年3月23日。

  

前記事に引き続き、

「この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代」

(雨宮処凜編著/大月書店)より。

  

森川すいめいさんと雨宮処凛(かりん)さんとの対談。

   

森川:私が現在取り組んでいて、いちばん腑に落ちている精神医療

のアプローチが「オープンダイアローグ」というものです。日本語

では「開かれた対話」という意味ですが、患者さんと医師を含む数

人のグループで輪になって、ひたすらお互いの話を聞くというもの

です。フィンランドの精神医療で始まった取り組みですが、これが

功を奏すると、従来のような投薬や強制入院といった医療的介入を

劇的に減らすことができると言われていて、現在世界的に注目され

ている手法です。

(75%)

   

投薬治療を受けている身としては気になる文章です。

受容的に話を聞いてもらう体験がいいのです。

さらに続きます。

  

森川:これまでの精神科医療というのは、患者さん(相談者)に対

して医療者が権威的な立場にいて、一方的に診断を下し、治療法を

命令する立場にありました。オープンダイアローグでは、それをフ

ラットな関係性にするための工夫をしています。一対一のの対話で

はなく、3人以上にするのもそのひとつです。

当然のことですが、医者も個人としてそれほど豊富な人生経験を持

っているわけではありません。しかし、相談者と一対一で向き合う

と、どうしても知識や権威の圧倒的な差が生まれ、医師のいうこと

を相談者が「聞くか・聞かないか」という関係になってしまいがち

です。精神科医療でいえば、医師の言うことを聞かないなら身体的

な自由を奪う判断さえ、医師の胸先三寸でできてしまうわけです。

こういう関係におちいる危険を回避するために、オープンダイアロ

ーグでは、医療などの専門家はかならず2人以上で参加することが

大切にされています。そうすると、一方の専門家が言っていること

をもうひとりが否定したり、別の見方を示したりします。相談者と

専門家の間の力の差は消えるわけではありませんが、専門家が2人

いることで権力が相対化されて、結果として対等な関係に近づくん

ですね。

雨宮:なるほど。

森川:ひとりの医師の固定された視点ではなく、複数の視点で見る

ことで、相談者にとっても見える世界が広がります。相談者だけで

なく専門職側も同様です。さらに、専門家だけでなく、たとえば相

談者のご両親に入ってもらうとか、複数の人が参加することで、そ

れぞれの人生経験が重ねあわされて、立体的な世界が立ち上がって

くるんですね。

(76%)

   

私は心療内科では一対一です。

それが普通だと思っていました。

「オープンダイアローグ」という診断方法?も面白いなと思います。

もう少し具体的にどのようにやっているのか知りたくなりました。

「オープンダイアローグ」だと、時間的にも余裕が欲しいし、

医師も1人ではなく複数です。

どれくらいの頻度で行っているのだろう。

  

「この国の不寛容の果てに」④ 「聞ききる」

     

今日は令和3年3月23日。

  

21日の記事の続き。

「この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代」

(雨宮処凜編著/大月書店)より。

  

私にとって初めての電子書籍。

タブレットで読んでいますが、

字が大きくて老眼鏡なしで読めるのもいい。

心療内科の待合室でも読むことができました。

欠点は、気に入った文章に付箋を貼れないこと。

もう一度読みなおしながら、気に入った文章を引用します。

    

森川すいめいさんと雨宮処凛(かりん)さんとの対談。

  

森川:「やってはいけないこと」ばかり強調されて、規定のルートを

一歩でも踏み外したら人生が終わるかのような恐怖を刷り込まれると、

人は成長を止めて、強い声に従順に従うだけになってしまう。DVと

か児童虐待と同じです。そういう経験をした人は、強い声とか鋭利な

言説に対して、思考停止したように服従してしまうんです。

そうした頭ごなしの押し付けに服従せずにいられるためには、自分の

中での問い直しとか、世界が多様であることを知ることが必要です。

それも、人から教えられるのではなくて、自分自身で学んで体験的に

知る必要があるんだと思います。

(74%)

   

十分にいろいろな体験をしている身ですが、

思考停止で従順になっている自分に気がつきます。

もっと思いついたことをやれよと、自分に言い聞かせました。

  

  

森川:自殺の少ない地域を旅した経験を『その島のひとたちは、ひと

の話をきかない』(青土社)という本に書きました。その旅で気づい

たことですが、自殺が少ない地域の人たちは、とてもよくこちらの話

を聞いてくれるんです。だからといって、こちらの言う通りしてくれ

るわけではないのですが、途中でさえぎったり解釈したりせず、とに

かく聞いて理解しようとしてくれる。そのことが「尊重されている」

という感覚を生んで、自分が認められている、存在していていいのだ

という大きな安心感を与えてくれたんですね。そういう経験って、人

間の成長にとってとても大事なことだと思います。子どもが何かをし

たときに、頭ごなしに叱ったり決めつけたりせず、「どうして?」と

聞いて、本人の言い分を最後まで聞ききる。そうやって聞きとっても

らえる経験をすると、子どもは自分なりにその是非を判断したり、そ

こから学んだりする可能性が生まれます。

雨宮:森川さんのお話を聞くまで、「聞ききる」ことがそんなに大事

なことだと思っていなくて、自分でも会話の中で人の話をさえぎった

り、人からさえぎられるのも普通だと思っていました。むしろ、その

くらいのほうが話が盛り上がっている証拠だと思っていたくらいです。

それ以来、気をつけるようにしていますが、意外と難しいですね。

森川:何かを発言したり解釈したりすることが、その人の有能さを証

明するかのように思わされていますね。実際、解釈が上手になるとそ

れが当たることも増えてくるので、つい嬉しくなってやってしまう。

それは精神科医と患者さんの関係においても常に起こることです。そ

ういう意味で、先に紹介した自殺の少ない島の人たちは、話を聞いて

も解釈はしないんですね。いや、解釈をしたとしてもその解釈を唯一

としない。それはとても心地良かった。

(75%)

    

キーワードは「聞ききる」

教育でも役立つことが書いてありました。

問題児に出合ったとしても、私は「聞ききる」効果を信じて、

聞ききりたいと思いました。

2021年3月21日 (日)

番画:図書館の予約 私は4番目/「世界で一番受けたい授業 スマホ脳」

   

今日は令和3年3月21日。

  

番画です。

   

〈145〉「世界で一番受けたい授業 スマホ脳」

  (2021年3月13日放映)

  

〇1月19日に図書館に予約した

 「スマホ脳」(アンデシュ・ハンセン著/新潮新書)。

 今日現在で24人中4番目でした。

 ※参考:ここでも道草 図書館の予約 私は5番目(2021年2月24日投稿)

 やはりこの本を手にするのは4月かな。

〇この番組は、「スマホ脳」の著者もオンラインで登場した。

 本を手にする前に、新聞やテレビで情報が入ってくる本だ。

 2月24日の記事で書き写した「天声人語」の

 「表示はモノクロに」というのも理解できた。

〇いまだにスマホを手にしていない私。

 つい先日、奥さんと娘は新しいスマホに買い替えた。

 私がスマホを手にするのはいつか。

 スマホを手にしていないとどうなるか。

  

  

〈146〉~〈150〉「アングルモア元寇合戦記 第3話~第7話」

  (アマゾンプライムビデオで視聴)

  

〇元軍と対馬の人たちの戦い。一進一退。

「この国の不寛容の果てに」③ 堂々と生きていていい

    

今日は令和3年3月21日。

   

前記事に引き続いて、

「この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代」

(雨宮処凜編著/大月書店)より。

   

熊谷晋一郎さんと雨宮処凜さんとの対談

   

熊谷:聞く耳を持たない善意ほど怖いものはないのです。「青い芝

の会」のスローガンのひとつに「われわれは愛と正義を否定する」

という有名な言葉があります。その言葉に、私たちはやはり鳥肌が

立つような感覚があるんですね。それは、まさに愛と正義で殺され

かねないという直感が働くからです。たとえば障害児が生まれたと

きに、「この子はどうせ不幸になってしまうから、殺してあげたほ

うが本人のためだ」といった理屈で親が子を殺してしまう事件が

60年代にはありました。そこには優生思想という根拠があり、当

時としてはそれが正義と愛に基づく行為だったのです。

雨宮:正義のためというお墨付きがあれば、人は大量殺人でもして

しまうということですね。

(34%)

  

相模原事件の植松被告も、正義のためというお墨付きがあったから、

19人の殺害に及んだと雨宮さんは言っています。

  

  

熊谷:私は経済については不勉強なので多くを語れないですが、ご

く原理的に語ると、いまの日本の経済状況はデフレだと言われてい

ますよね。だとすれば、足りないのは供給ではなくて需要のはずで

す。立岩真也さん(立命館大学教授)も同様のことを発言されてい

ますが、供給が足りていないならば、みんながもっと働いて商品を

生産する必要がある。けれども現在足りていないのは需要なわけで

すから、それはみんなが「我慢しすぎ」だということではないでし

ょうか。本来であればもっと需要があるべきところを、みんなが我

慢して買わないものだから、経済が回らなくなっている。

 非常に素朴かもしれませんが、そういうふうに考えると、いま問

題にされるべきは個々人の「生産性」ではないはずです。むしろ個

々人の「必要性」をもっと言わなくてはいけない。みんなが我慢し

て、本当は助けてほしいのに「助けて」と言えないし、本当はもっ

と生きたいのに「これ以上生きなくていい」と言わされている。本

来あるニーズが十分に市場化されていないことが、この間起きてい

る現象のストレートな解釈なのではないかと思うのです。

 障害者福祉の分野でも、この十数年、就労支援ということがさか

んに言われて、なんとか少しでも働かせようと強迫観念に駆り立て

られています。しかし、いまの社会全体眺めたとき、本当にそんな

に全員が無理して働かなくては回らない社会なのだろうか。もちろ

ん働くことに喜びや生きがいを感じられるのは確かですが、そうで

ない人まで無理して、必要性に蓋をしてまで働かなくてはならない

のは本末転倒ではないだろうか。そう思います。

(41%)

  

私も経済についてよくわかっていません。

「供給と需要」が「生産性と必要性」に変わったところから、

ムムッそうなのか?と思って読みました。

でも次に引用する文章も読んで、

言わんとしていることが見えてきました。

   

熊谷:必要性と生産性というのは、ひとりの人間に備わった2つの

側面ですが、どちらに価値が宿るかといえば、生産性ではなく必要

性だと思っています。なぜかといえば、生産性というのは誰かの必

要性を満たしたときにのみ、二次的に価値が発生するからです。誰

のニーズも満たさない生産性にはなんの価値もありません。だから、

二つを比較するなら明らかに必要性に優位があるのです。その順序

を間違えてはいけない。言い換えれば、つまり「堂々と生きていて

いい」ということなんですが。

(41%)

   

「生産性」を持たない人間はいなくてもいいといった

植松被告の説に反する考え方です。

もう少し引用します。

   

熊谷:私たちは堂々と自分のニーズを市場化していいのです。この

序列は景気の動向に関係なくそうだと言えるのですが、輪をかけて、

現在の経済の問題がデフレなのだとするば、もっと強く私たちは必

要性の重要さを言っていいはずです。もちろん、社会を運営してい

くには誰かが働く必要があるわけですが、デフレなのに皆が自分の

必要性を押し殺し、ここまで社会の全員が労働に駆り立てられる社

会というのは、果たして本来のありかたなのだろうかと感じます。

社会の中の分配の原則を考えた場合、二種類の方向があって、たく

さん生産した人に多く分配するのを「貢献分配」、より必要を持っ

た人に多く分配するのを「必要原則」として、その二つの原則のミ

ックスが国の経済のありかたを決めると考えることができます。貢

献原則だけで社会を構成しようとすれば、優生思想に限りなく近づ

いていきます。私は、先ほど言ったように生産性よりも必要性に優

位があると思っているので、必要原則の価値をもっと言っていく必

要があると思っています。

(42%)

   

う~ん、難しいけど、ここに引用したくなった文章です。

「生産性」も大事だけど、「必要性」の方が優位。

「必要性」を他の言葉にできないかと思います。

「消費」ではどうだろう?

障害者が施設でサービスを受けるのも消費です。

そういう人もいなければ、経済は回っていきません。

だから「堂々と生きていていい」のです。

  

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