« 「この国の不寛容の果てに」② 70~80年代の障害者 | メイン | 番画:図書館の予約 私は4番目/「世界で一番受けたい授業 スマホ脳」 »

2021年3月21日 (日)

「この国の不寛容の果てに」③ 堂々と生きていていい

    

今日は令和3年3月21日。

   

前記事に引き続いて、

「この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代」

(雨宮処凜編著/大月書店)より。

   

熊谷晋一郎さんと雨宮処凜さんとの対談

   

熊谷:聞く耳を持たない善意ほど怖いものはないのです。「青い芝

の会」のスローガンのひとつに「われわれは愛と正義を否定する」

という有名な言葉があります。その言葉に、私たちはやはり鳥肌が

立つような感覚があるんですね。それは、まさに愛と正義で殺され

かねないという直感が働くからです。たとえば障害児が生まれたと

きに、「この子はどうせ不幸になってしまうから、殺してあげたほ

うが本人のためだ」といった理屈で親が子を殺してしまう事件が

60年代にはありました。そこには優生思想という根拠があり、当

時としてはそれが正義と愛に基づく行為だったのです。

雨宮:正義のためというお墨付きがあれば、人は大量殺人でもして

しまうということですね。

(34%)

  

相模原事件の植松被告も、正義のためというお墨付きがあったから、

19人の殺害に及んだと雨宮さんは言っています。

  

  

熊谷:私は経済については不勉強なので多くを語れないですが、ご

く原理的に語ると、いまの日本の経済状況はデフレだと言われてい

ますよね。だとすれば、足りないのは供給ではなくて需要のはずで

す。立岩真也さん(立命館大学教授)も同様のことを発言されてい

ますが、供給が足りていないならば、みんながもっと働いて商品を

生産する必要がある。けれども現在足りていないのは需要なわけで

すから、それはみんなが「我慢しすぎ」だということではないでし

ょうか。本来であればもっと需要があるべきところを、みんなが我

慢して買わないものだから、経済が回らなくなっている。

 非常に素朴かもしれませんが、そういうふうに考えると、いま問

題にされるべきは個々人の「生産性」ではないはずです。むしろ個

々人の「必要性」をもっと言わなくてはいけない。みんなが我慢し

て、本当は助けてほしいのに「助けて」と言えないし、本当はもっ

と生きたいのに「これ以上生きなくていい」と言わされている。本

来あるニーズが十分に市場化されていないことが、この間起きてい

る現象のストレートな解釈なのではないかと思うのです。

 障害者福祉の分野でも、この十数年、就労支援ということがさか

んに言われて、なんとか少しでも働かせようと強迫観念に駆り立て

られています。しかし、いまの社会全体眺めたとき、本当にそんな

に全員が無理して働かなくては回らない社会なのだろうか。もちろ

ん働くことに喜びや生きがいを感じられるのは確かですが、そうで

ない人まで無理して、必要性に蓋をしてまで働かなくてはならない

のは本末転倒ではないだろうか。そう思います。

(41%)

  

私も経済についてよくわかっていません。

「供給と需要」が「生産性と必要性」に変わったところから、

ムムッそうなのか?と思って読みました。

でも次に引用する文章も読んで、

言わんとしていることが見えてきました。

   

熊谷:必要性と生産性というのは、ひとりの人間に備わった2つの

側面ですが、どちらに価値が宿るかといえば、生産性ではなく必要

性だと思っています。なぜかといえば、生産性というのは誰かの必

要性を満たしたときにのみ、二次的に価値が発生するからです。誰

のニーズも満たさない生産性にはなんの価値もありません。だから、

二つを比較するなら明らかに必要性に優位があるのです。その順序

を間違えてはいけない。言い換えれば、つまり「堂々と生きていて

いい」ということなんですが。

(41%)

   

「生産性」を持たない人間はいなくてもいいといった

植松被告の説に反する考え方です。

もう少し引用します。

   

熊谷:私たちは堂々と自分のニーズを市場化していいのです。この

序列は景気の動向に関係なくそうだと言えるのですが、輪をかけて、

現在の経済の問題がデフレなのだとするば、もっと強く私たちは必

要性の重要さを言っていいはずです。もちろん、社会を運営してい

くには誰かが働く必要があるわけですが、デフレなのに皆が自分の

必要性を押し殺し、ここまで社会の全員が労働に駆り立てられる社

会というのは、果たして本来のありかたなのだろうかと感じます。

社会の中の分配の原則を考えた場合、二種類の方向があって、たく

さん生産した人に多く分配するのを「貢献分配」、より必要を持っ

た人に多く分配するのを「必要原則」として、その二つの原則のミ

ックスが国の経済のありかたを決めると考えることができます。貢

献原則だけで社会を構成しようとすれば、優生思想に限りなく近づ

いていきます。私は、先ほど言ったように生産性よりも必要性に優

位があると思っているので、必要原則の価値をもっと言っていく必

要があると思っています。

(42%)

   

う~ん、難しいけど、ここに引用したくなった文章です。

「生産性」も大事だけど、「必要性」の方が優位。

「必要性」を他の言葉にできないかと思います。

「消費」ではどうだろう?

障害者が施設でサービスを受けるのも消費です。

そういう人もいなければ、経済は回っていきません。

だから「堂々と生きていていい」のです。

  

コメント

コメントを投稿

最近の写真

  • Img_8523
  • Img_8520
  • Img_8519
  • Img_8518
  • Img_8522
  • Img_8521
  • Img_8517
  • Img_8512
  • Img_8510
  • Img_8508
  • Img_8507
  • Img_8504

楽餓鬼

今日はにゃんの日

いま ここ 浜松

がん治療で悩むあなたに贈る言葉